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あそびべのHARU・ここだけの日々
画家・榎並和春

はる 8350  山梨新報コラム  - 2024.03.23(ポケットの窓から)

はる 8350
 山梨新報コラム 3/22

72表現について
 クロッキーは速写といって5分か10分ぐらいで人体の動きを描きとどめることが主なテーマで顔や手や足などの細かい描写はほとんどしません。とはいっても自ずから付いてくるものですから、全く無視するというわけにはいきません。
 人間の眼は二眼レフであって左右の画像を頭の中で一つの画像に組み合わせて遠近感を感じさせるようになっている。そこが元々一眼レフの写真から絵を描くのと大きく違うところだな。どんなに正確に写し取ったとしても写真から起こした絵はどこか違和感があるのはそういう訳だ。
 もう一つは全体と部分の関係をいつも意識しているかどうかということだろうか。写真から絵を描く場合、写すということに主眼が置かれているわけで、今描かれている部分は部分でしかない。ところが実物を観て描く場合、常に全体を把握しながら部分を描かねばバランスが崩れてしまう。そこのところが大きく違うのではないかな。
 しかし、ここからが本題だけれど、どんなに上手く描写できたとしても、それだけでは表現にならない。表現ということになると、まるっきり違う能力を必要とするのではないか。描写できる能力と表現する能力は違うものでないかと最近思う。まったく美術教育を受けたことがない無垢な描写が心打ったりする。美大などを優秀な成績で出た人が絵を辞めてしまうのはそういうことも関係しているのではなかろうか。だからといってクロッキーやデッサンが必要ないといっているわけではない。前にも書いたけれど、凡夫の我々はデッサンを意識しなくなるまで何も考えずに描くしかない。
 人は常に何か考えてはいる。目に映ったことから走馬灯のように次から次と言葉の断片が流れて行く。まぁそれは考えているとは言わないけれどね。しかし、何か系統立てて考えようとすれば書きながら、メモを取りながら、描きながら考えるしかないように思うな。堂々巡りにならないためにはそういう方法しかない。,
 さらに表現という事になると、自分の源泉(オリジン)をたどって何かを掘り起こしてゆくしかない。誰かの注文で描く絵と、自分の意思で描く絵とは根本的にちがうのはそこのところだ。それが絵になるか、文章になるか、詩になるか、音楽になるのか表現された形は違うのだろうけれどね。最も根底にあるものは人間の存在の不安みたいなものか。
 絵が上手くなっても、楽器が上手に弾けるようになっても表現するものが何もないならそれはただの機械と同じだな。やがてAIに替わってしまうだろう。仏作って魂入れずってやつか。ただ奇麗なだけの、上手なだけの絵を描いても人の心を打つことはないのではないか。そんなふうに最近は思う。



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