
知人のI氏のブログから無断転載あしからず
https://ameblo.jp/e-no4765/entry-12814668983.html・・・・・・・・・・・
画家・榎並和春さんの7月19日のブログに記された榎並さんの言葉を何度も読み、考えている。
<墨でカタチを模索中。画面が墨で真っ黒になってきた。こういった何にでも成りうるニュートラルな混沌が好きだ。
宇宙の創生というのはあらゆる素粒子が飛び交う混沌から始まった。正義も不義も善も悪も好きも嫌いも意識も無意識も何もかもこの中にある。
集散を繰り返しながらやがて一つの形を形創る。混沌は混沌のままで充分美しいのだが、そのままでは何も生まれない。この世界に人が生まれたように一種の偶然、奇跡が必要だな。光あれ!>
ここにある「混沌」という言葉をめぐって考えているうちに、白川静先生の『孔子伝』の一節に思い至る。
<美に対しては醜でなければならぬ。それは美を含み、しかもついに醜でなければならぬ。
真の実在とはカオスであり、実在の亀裂を示すものであり、渾沌たるものである。>
新たに創り出されるもの(絵・文)は、今現在「美」とされるものに対しては、いまだ認められぬ「醜」なるものである。それは、過去の「美」を含み、なおかつ過去の「美」を乗り越えて、新たな「美」すなわち「醜」でなければならない。
この世にある「実在」は、過去の「美」を含み、しかもついに「醜」でなければならない。「実在」は「美」と「醜」の「混沌」たるものである。深々と刻まれた「亀裂」こそが、真の「実在」のあり様を僕らに見せてくれる。
「混沌」「亀裂」こそが、この世界の真の姿なのだと知る。