
2023「猫を抱く」F3部分
未完
山梨新報 6月コラム
デッサンは必要か?
最近はネットのSNSで情報発信することが多い。そういったネット上の話題で、これからの絵で生きたいと思っている人たちにとって、デッサンは必要か?というような話で盛り上がっていた。AIが描いた印象派風の絵など機械が描いたとは思えないとか、どこかの世界的な写真コンクールでAIの作ったポートレート写真が大賞をとったなど、従来の表現活動からは考えられないような話が頭から離れない。そうだな、これからイラストレーターとか漫画家とかデザイナーみたいに注文されて職業的に絵を描く仕事はかなりAIに代わってゆくだろう。例えば建築の表現世界では、もうすでにコンピューターなしではやってはいけないところまで来ている。既成の情報を最大限に生かすことが、コンピューターの得意とするところだから、その点ではすでに人の能力を超えている。写真が登場してきた時に肖像画家が存続を危ぶまれたように、消えてゆく職業も多いだろう。まぁ考え方次第だけれど、そういった意味ではパソコンさえ使えれば、趣味でアナログ的に絵を描く以外、デッサンは必要ないかもしれん。
しかしなぁ、私がいうのもおこがましいが、デッサンというのは絵を描く道具というだけではない。あらゆる造形表現活動の基礎になっているもので、例えば全体と部分の関係とか、物が占める空間とそれ以外の間とか、線と面の関係とか、もちろん明暗やボリューム表現などなど、デッサンから学ぶことは多い。そこを学ばないで形だけなぞっても最初はいいけれど長く続けることは出来ないのではないかな。
例えばこの「魔法使いの弟子」は通常のデッサンからは出てこない。何故なら何かを描写しようとして描かれたものではないからだ。左の人物の身体も普通ではありえないほどねじ曲がっているし、プロポーションはでたらめだ。ところが私はそれでもいいように思った。それを生かすかどうかを判断する感覚は自分のなかにある。コラージュなどもそうだが、どこにどんなものが来るのか決まっていない。そのことがかえって面白い効果を生む。自分の感覚が平凡であることをよく知っているので出来るだけ予定調和は避ける。そうやって無理やり道草することで自分の持っているもの以上の効果を得ることがよくある。積極的に無駄をする。画面がどろどろの滅茶苦茶になったとしても、いずれはある方向に向かって収束するということを私は経験上知っている。それはみんなデッサンから学んだものだ。正確にものを写し取るといったことだけではない、物を作ることの大切な感覚をデッサンから学んだ。だから私は未だにデッサンする。凡庸な絵描きはデッサンを忘れるためにデッサンする。