多くの人は見たものを見えたまま写真のように描くのが絵画だと思っている。まぁそれは否定しません。色々いっても絵が上手というのはそういうことでしょう。流行りの雑誌やネットのグループ展などをみてもそういう上手い絵がほとんどだな。別にひがんでいるいるわけではないですよ。ただ、海外の作家の作品をインスタやFBで観ることが多いけれど、こういった絵画はほとんど日本だけの傾向のような気がするな。日本だけ特殊なフィルターがかかっている。北斎、浮世絵、アニメションと突出しているからね、ガラパゴス的といえばそうかも。
写真を見て形をトレースするようになぞることは出来るけれど、それは絵を描いたとはいえない。写真を見て描いた絵に違和感を感じるのはその人の解釈、意識が抜けているからだ。例えば世の中には輪郭線というものは存在しない。我々は絵を描く時に仮の線として輪郭線をひく。そこにこうであろうという解釈が必要になる。明暗にしても同じことが言える。無段階のグラデーションには「私はこう見た」という解釈がない。ものを描くという事はこの解釈の連続なんだな。「こう解釈した」という報告の総体が絵画という事になる。街の似顔絵描きさんのブロマイドを見て何かむずむずするのはそういったわけだ。
最初に一本の線をひく。そうするとそこに天と地が現れる。どんどん線を重ねることによって、やがて線が面になって落書きが人の顔になったり、どこかで観た風景になったり、忘れていた物語だったりする。最初に意識したものではない。自分では気が付かなかったり忘れていたことがふっと思い出されたりする。分かっていることを描いてもつまらんだろう。心の中にあるものを見えるようにすることが絵を描くことではないのかな。そうやって考えると絵を描くという事はかなり恥ずかしい仕事であって、ただ見て観えたまま描くなどということはまだその取っ掛かりに過ぎないというきがする。
絵描きであるということは、あえてその恥をしのぶとい覚悟ができるかどうかだと思うな。