
はる 7573
2021「美術館の午後」F3 ⓔ混成技法
本人蔵
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山梨新報 1/28掲載 コラム
美術館の午後
「○○の午後」というタイトルは「牧神の午後への前奏曲」(ドビュッシー)からのパクリです。これをなぜ覚えているかといえば高校の卒業式でBGMとして使われたからだ。同級生の諸君覚えているかい?当時、学生運動が華々しい頃で時代は騒然としていた。私の通っていた高校もご多分にもれず、何となく落ち着かず学園祭が中止になったり、卒業式がまともにできるかどうか先生方は心配していたようだった。そんな時代の風潮を案じて、今までのような格式ばった式典ではなく、厳かな雰囲気で式が運ぶようにとこの曲を選んだのだと思う。とても印象に残ったので、それ以来この何とかの午後というタイトルを幾度となく使わせてもらった。
高校の芸術の選択は音楽だった。中学生の時にブラスバンド部だったことから、選択に迷いはなかったな。当時の音楽の先生は声楽専攻の先生だったので、もっぱら発声練習みたいなことに重点が置かれる授業だったきがする。あとバロック音楽もよく聴かせてもらった。バロックなど自分たちの今までの生活から程遠い音楽で、兎に角音楽についても芸術についても全く無知、無教養だったので何を聴いても沁み込むように心に響いた。
演奏家などは特にそうだろうけれど、小さい時から専門的な教育を受けて、高校生の頃にはもうすでにいっぱしの音楽家くらい知識や技術に精通していなければプロにはなれない。普通の底辺の進学校だったけれど、クラスは芸術の選択で分けたので、同じ組みには宝塚音楽学校を受けなおした同級生や芸大のヴァイオリン科を出て、その後パリのオーケストラの団員になった娘もいた。技術的な事だけを考えればそうかもしれない。
「美術館の午後」というのは暗示的だ。私などは最初から美術をやろうと思っていたわけではない。人の生き様は色々だ。やってみてそれが自分に合っていないと分かることも多い。私が絵描きになろうと思ったのは「人生の午後」に差し掛かった三十路の頃だ。それまで様々な仕事をやってみて、何一つまともに勤め上げることができなかった。親や兄弟はとうに投げていた。どうせだめなら、やりたいことをやって行こうと思ったのがその頃だ。作家は人生最後の仕事だといわれる。どうしようもない人間でも、それを題材にして表現すれば作家にはなれるという皮肉でもある。
「人生の黄昏時」になってきて思う事は、自分が一番やりたいことをやればいいということだな。人の評価などどうでもいい、それだけの矜持がなければ他人を納得させることはできない。それが分かったのは、古希も近い最近のことだけれどね。もう後はない。