
はる 6719
イタリア旅行記3
イタリア旅行記も今回で終わりにします。夏の疲れは秋口の今頃に出てくるようですね。旅行から帰ってくると、日常的な雑事が怒涛のごとく襲ってきて、暇人なりの忙しさが戻ってきた。本当にリラックス、リクリエイトするには旅はまたとないチャンスだったようです。
イタリアにはコンビニがない。どんな田舎町でもコンビニが一軒あればそれですべてのことが事足りてしまう。便利なようでいて、実際の話多くの個人商店がやって行けなくなって、メインストリートはゴーストタウンのようになってしまった。便利は不便を駆逐する。自然の摂理でいけばその通りなんだろうな。そうやって町が町として機能してゆかなくなったのが今の私たちの現状だ。
何をいまさら青臭いことをと思うかもしれないが、大多数が良しとしたもの、便利であるもの、儲かるものがすべてに優先する社会というのは世知辛。昔はもっと貧乏ではあったけれど、人間そのものがもう少し余裕があったように思うなぁ。野菜は八百屋、魚は魚屋、乾物屋に荒物屋に味噌屋に煙草屋。自動販売機さえない。市場では店主との掛け合い、話ができなきゃ何も買えない。
街並みも人もほとんど20年前とほとんど変わらなかった。たぶん何百年もかわらないだろう。変わらない事は変わることよりむつかしい。町のあちこちで修復がなされている。たとえ石造りの建物にしても放っておけば、やがて崩壊してゆく。自然なままに見えて実は見えないところで努力しているのだな。
その根底にあるものは「いいものはいつまでたってもいい」という自国の文化への愛着と自信と誇りなんだろうな。老いも若きも生まれ育った町で、同じ広場や公園でおしゃべりして共有の時間を過ごす。子供たちはお年寄りに自分たちの将来を見る。そう考えるは、ちょっとひいきしすぎだろうか。
町は人がいてそこで生活し、学校や広場、公共の病院や美術館があり人々が集まる商店街や市場があってカフェやバーがある。それらが有機的にバランスよく配置されて子供も若者も年寄りも分け隔てなく楽しく生きてゆけるのが理想だな。十年たったら町が全く変わってしまったというような、スクラップアンドビルドを繰り返し、大きな理想のない街づくりは、長い目で見ればとんでもなく無駄で理想や哲学がないように思う。
自を客観的にながめられるのは旅人の特権だな。文字通りロングバケーション、いい旅をした。人生もここらで再出発だな。行けるところまで・・。