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あそびべのHARU・ここだけの日々
画家・榎並和春

「不老不死」を手に入れたということになる。 - 2006.04.25(日記)
はる 1772
 朝からパートのお仕事でした。

 昨日NHKでサイボーグの話を特集していました。みました?ロボット系は私らの年代では憧れのまとでしたね。ちょうどアトムや鉄人28号何かがテレビの番組として出てきた頃で、それまではアニメといえばディズニー映画ぐらいしかなかったわけだから、火曜日の7:30というのは特別な時間だったね。

 工作少年だった私はロボットをどれだけ作ったか、数知れない。足を交互に動かすシステムを知りたくて、市販のおもちゃを分解したのは言うまでもない。

 で、まぁ話を戻すと。今までの機械は体の外にあった。例えば車も船も戦車や鉄砲も言ってみれば人の能力の一部分を特化したもので、よくなれた自分の車は自分の足の延長で、クレーン車を運転している様子を観察すれば、あれは運転手の手の代わりをしているのだと分かる。

 考えてみると、産業革命以後人は機械に自分の替わりをさせてきたわけだ。今もその延長上にある。

 ところがここからはその機械が、体の中に入ってくるということなんだな。今でも例えば義手とか義足、人口の骨とか心臓のペースメーカーとか色々と機械が体の中に入ってきてはいる。

 しかし、これからの話は少し今までの機械とは違う。頭脳がコンピュータと相互に情報を交換できるようになってきたということなんだな。これは何を意味するのか?

 実際に技術がそこまで行っているとは思っていなかったので、ある意味この番組はショックだったな。もうすでに人間の知覚とか単純な触覚、視覚はコンピュータと情報交換できるようだ。

 視力を失った人がカメラの目で観た映像をコンピュータを通して直接脳に情報を送って「見る」ということが可能になっていた。そのうちに我々は映画を目で見ないで直接脳に映像を送って「観る」ことになるかもしれない。

 随分前に人と機械の融合の話を書いたおぼえがあるけれど、実際に話がここまで具体的になってくると何だか恐ろしい。

 「私」という個人は、生まれてきて今までの経験の記憶の総体である。その「記憶」さえもコントロールできるようになれば、「私」という存在は意味がなくなってしまうだろう。

 そこでは深く言及することはなかったけれど、この「記憶」が自由にコントロールできるようになったら、人類は求めてやまない「不老不死」を手に入れたということになる。

 肉体はなくなったとしても記憶そのものを一台のチップにしてしまえば、私はコンピュータの中で永遠に生きられるからだ。まるで映画「マトリックス」のようだけれど、満更これは現実不可能なことではない。

 人類はやがてそういった選択をする可能性もある気がするな。



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