あそびべのHARU・ここだけの日々
画家・榎並和春

ポケットの窓から - 2016.08.31(ポケットの窓から)


黎明⑥
はる 5612
 大阪の学校を卒業した時の話の続き。何を考えていたのか二十歳過ぎの若造が考えていたことなど浅はかに違いない。それは今もあまり変わりはないかもしれないけれどね。。オイルショックで就職先がまるでなくなったらしい。私は新卒でありながら就職活動そのものもしたことがない。もっとも就職するつもりもなかった。ならばどうやって食って行くのか?そのことさえまともには考えていなかった。学生時代はバイトバイトに明け暮れていたので、何をやっても食って行くぐらいは出来ると安易に考えていたのだろう。実際仕事の質さえ問わなければ食うことぐらいは出来たのだから。

 やりたいことなどこれと言ってなかったな。しいて言えば定職を持たないで風来坊でいたかったということかな。そんなこといつまでも許されるわけないのだけれど、なんだろうなその頃の風俗にフーテンという言葉があったっけれど、今のニートとはニュアンスがちょっと違うな。ニートは仕事しないで引きこもって親に養ってもらっている若者を言うのだろう。フーテンは同じように定職持たないでふらふらしているのだけれど、誰かに養ってもらっているわけじゃない。それなりの仕事をしている。そうフーテンの寅さんのようにね。ちょっとこだわり持って生きている。そんな感じかな。スナフキンとか。永島慎二とか。

 そうそう京大の本屋さんで従業員募集してたので面接うけたこともあったな。あと貸本屋の貸本配達みたいなこともやった。特に焼き物をやりたかったわけじゃないけど、多少なりとも興味を惹かれたのが京焼の絵付けの仕事。京都の東山の東福寺近くの工房で職人さんを募集していた。何の技術も持っていなかったのでお金などもらえなくてもいいや。飯だけでも食えればと思って雇ってもらうことにした。本当は住み込みしてほしかったようだけど、私は学生の頃から京都の石清水八幡宮の近くの農家の離れを借りて住んでいたのでそこの暮らしを放棄することが嫌だった。それとすべて私生活までコントロールされるのが嫌だったというのがあったな。

 焼き物の絵付師の仕事は結構面白かった。自分に合っていたのかもしれない。お金にはならなかったけれど、下働きも兼ねて食えるだけの給金は貰っていた。それで何の文句もなかった。そのままそこに10年我慢してやり続ければそこそこの職人になったろうな。変な自信だけどね。結局そこには一年ちょっとしか居なかった。辞めるきっかけは親父が亡くなったからだ。一つは親父の仕事から逃げていたというところもあったからな。

 その話はまただな。

comment(3)

 
 
僕の入学は74年です。京都の町のどこかで、すれ違ったかもしれません。不思議です。

 
京都の焼き物屋に居たのは74~75年です。京大の生協だったと思いますが、面接したおっさんに説教されました。同じ頃すれ違ったかもしれませんね。。。

 
京都におられたのは、何年頃なんでしょうか? 同じ時期に京都に暮らしていたんでしょうか。

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