あそびべのHARU・ここだけの日々
画家・榎並和春

今日のアトリエ - 2015.09.22(ポケットの窓から)


はる 5188
 「どこにでもある」覚書 編集3

 最近の絵は随分と物を描くということから離れてしまった。ものを描写するという事が絵を描くという事だ とずっと思い込んでいた。リアルに上手に描けるということが、絵を描くことだとい う風に思い込んでいた。ものを描くという縛りから離れた絵画はただの造形物、オブジェということになる。その時に「いい、わるい」と判断する基準はどこにあるのだろう。よく言われるのは「好き嫌い」だろう、趣味の問題だろう?しかし、そんなあやふやな基準で判断しているのだろうか。

  個性的であるというのが近代の絵画、芸術作品の最大限の褒め言葉であったりするのだけれど、他と違うということがそんなに大事なものとは思えない。どこかで観たとか、盗作であるというのが何よりも嫌われ るのだけれど、パソコンを含めてこれだけコピー文化が隆盛を極めている時代で真にオリジナルであるというのは難しいのではないか。どこ かで観たことがある、誰かの作品の影響を受けていないなどということはありえないだろう。もともと文化という物はそんなものだ。

 アフリカやオーストラリアの原住民の絵や仮面や生活道具や意匠に惹かれるのは、それが我々の価値判断と違うところに根差しているからだ。少し違うけれど専門的な美術教育をうけていないアールブリットなどの作品にも同じようなところがある。

 現代の情報から離れた造形を観ると心底魂を揺さぶられのはなぜだろう。たぶん彼らは個性的であろうなどとは微塵も考えてはいな い。他と違う物を作りたいなどとは全く考えていない。そんなところには判断の基準を置いていない。彼らが目指している「いい」というのは何だろうか?何を判断の基準にしているのだろうか。

 市場経済的にみれば、個性的であろうということはとても大事な要素かもしれないが、人が幸せに生きて行くという根本的な原則の中では反対に邪魔になるような気がする。コンセプトとは真逆の全く無個性になる、自然と一体なる、自分が消えた時に「いい」となるのではないかな。無個性になる恍惚があるようにおもう。本物というのか、いいものというのか、変わらないものというのは、そういった個性などという物とは違う気がするな。どちらかと言えば「どこにでもある」といったある種の共通項のようなものがあるものの方が本物に近いのではないかな。

 


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