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あそびべのHARU・ここだけの日々
画家・榎並和春

ララバイ - 2015.07.09(作品)


はる 5115
 山口画廊 画廊通信 転載
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画廊通信 Vol.142    日常の奇跡


「大江健三郎、作家自身を語る」に、こんな一文があった──もし作家に、他の人間とは違う才能があるとすると、それは実につまらない偶発事から、自分がその時書こうとしている小説の、一番根本的なものを創り出す、そのきっかけを感じ取る能力だと思います。そのきっかけの有効性を信じて、不安があるにしてもそこへ向けてどんどん入り込んでしまう。そこからいろんな構想を広げて書いていく、その能力というものが作家の才能ではないでしょうか──文中の「作家」を「画家」に、「小説」を「絵」に置き換えれば、これはそのまま画家の制作を語る文章になるだろう。何を描いたらいいのか分らない、とはよく耳にする台詞だが、そもそもその人は何を描くべきかを考える前に、描くべき何かに気が付いてないのかも知れない。描くべきものはいつだって目の前に在るのに、ただ、それを感じ取れないでいるというのが、おそらくは事の真相なのだ。あるいは、たとえそれを感じ取る機会に恵まれたとしても、そのきっかけを信じて入り込む能動性=勇気を、持てないが故だろうか。

 今回で7回目の個展を迎える榎並さんの制作には、元より日常に端を発する題材が多く見受けられるのだが、近年その割合がいよいよ増えつつあるように思われる。試みに作品のタイトルを振り返ってみると、個展当初の2009〜10年頃は「おおいなるものへ」「聖なるもの」「喜捨」「聖火」「いのり」「まりあ」「守護」といった宗教的なテーマが顕著だったのに対し、ここ1〜2年は「通いなれた道」「いつものところ」「月曜日の朝」「帰り道」「新しい家族」「一輪の花」「あのネ」といったような、さして特別でもない日常の一コマを、温かな目線で捉えたものが多い。今回の案内状に掲載した「古い手紙」という新作も、正にその系統に属する作品だろう。独り立ち止って、手紙に目を落とす男、その顔は心なしか微笑んでいるようにも見える。彼方には小さな家が見えて、手紙の白と家の白壁が、印象的に呼応する。もしかすると男は遠く異郷にあって、手紙を読みながら遥かな故郷の家を、彷彿と思い描いているのかも知れない。背景は温かな赤、今の彼の心の色だろうか。どことも知れない場所、いつとも知れない時間、しかし何気ない日常の、いつどこにでもあるような時空。私達はこの絵に見入る時、こんな記憶にも残らないような日常の一コマを、かつて確かに体験したという感覚を持つだろう。そして、こんなあまりにも当り前のさり気ない日常にこそ、何か大切なものが滲み出している様を、豊かな静けさの内に見るだろう。朝のバス停のベンチ、夕暮れの帰り道、可憐な野の花を手にする女、あのネ…と母に抱き着く女の子、そんな榎並さんの描き出す世界を見ていると、少し大仰な言い方をさせてもらえば、以前のタイトルにあった「大いなるもの」も「聖なるもの」も、現に私達がこうして暮しを営んでいる、取るに足らない今・ここの日常にあって、いつでも触れ得るではないかという作家の声が、画面より知らず知らずに響いて来るようだ。そう考えると宗教性も日常性も、作家の中では同じ事なのだろう。たぶん、その目線は天から地へと降りても、作家の根幹は何一つ変ってはいないのだ。

 上記のような榎並さんのスタンスを、今回の案内状はいささか格好を付けて「日常に真理を見る」云々と書かせて頂いたが、それに関連したある印象的な出来事を以前この画廊通信に記した事があった。以下は5年前第2回展の時に書かせて頂いた、当欄からの抜粋である。

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 昨年の夏、初めての個展を開催させて頂いた折、会期も終了間近となったある夕暮れに、Kさんご夫妻がにこやかに見えられた。これで会期3度目のご来店である。正直に申し上げて、3回も見に来て頂いたという事はもしや……というあらぬ期待も内心なくはなかったが、何しろKさんには前回の展示会で他の作品をお世話になったばかり、更なるお薦めは出来かねる状況にあった。そんな訳で、この日も熱心にご覧頂くご夫妻を前に「どうですか?」というあの一言を、果して出すべきか出さざるべきか、私は人知れない葛藤を胸中に繰り広げていたのだが、やがて聞えて来たご主人の麗しい言葉で、図らずも私の境涯は一変した。いわく「もう一度見て良いと思ったら、買いたいと思ってたんです」、こんな時の恩寵のような一言は、どんな名言よりも私を感動させる。この日Kさんに、私は一枚の母子像をご成約頂いた。タイトルは「聖なるもの」、どことなく嬰児(みどりご)を抱く聖母を彷彿とさせる、深い祈りを湛えた作品である。よく覚えてないのだが、私はこの時「きっと画家は祈りの象徴として、この聖母を描いたのでしょうね」とか何とか、例の知ったような台詞を吐いたのだと思う。それに対する奥様の言葉を、私は今も鮮明に思い出す。「この絵は、聖母の姿というよりは、どこにでもある日常を描いているのだと思います。聖なるものは、母が子をかいなに抱くような、何気ない日々の暮らしの中にあるのだという事を、私はこの絵に教えてもらいました」私はこの時「やられた」と思った。おそらく、この仕事でしか味わえないと思われる醍醐味の一つは、この「やられた」という快感である。思えば私などよりも、遥かに絵を深く見られているお客様の言葉に、教えられ励まされつつ、曲がりなりにも私はここまで歩いて来られたような気がる。そう、確かに絵は語っていた、聖なるものは子をいだく母の手にこそ、宿るものである事を。

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 冒頭に引用した一文の中で、大江健三郎は「日常のつまらない偶発事から作品の根本的なものを見出す、そのきっかけを感じ取る能力こそ、小説家の才能なのだ」と語った後で、もう一つ重要な能力を挙げている。いわく「そのきっかけの有効性を信じて、不安があってもそこへ向けてどんどん入り込み、色んな構想を広げてゆく能力」、この言葉を「絵」に当てはめれば、一体どういう事になるのだろう──という事を考えた時、榎並さんはとうにその能力をそのまま自分の手法とされて、制作に当って来たという事実に思い到る。というよりは榎並さんの場合、何らかの「きっかけ」さえ無いのかも知れない。むしろ不安と共にそこへどんどん入り込み、それによって何らかの「きっかけ」を逆に見出すのである。これも前述した画廊通信からの抜粋になるが、その制作方法についての記述を、今一度ここに取り上げてみたい。

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 榎並さんは、これから作品を描こうとしている真っさらな画面を前にした時、さて如何なる絵がそこに描かれる事になるのか、自分でも全く分らないままに作業を始めると言う。画家のホームページに「制作過程」という項目があって、文字通り幾つかの制作過程を公開されているのだが、完成への経過を写真と共に追う事が出来るので、私のような絵を描けない者が見ても面白い。試みに作業の一部を書き出してみると──パネルに綿布を水張り→古布・インド綿等を貼り込む→カーマイン(赤系の色)ジェッソで地塗り→黄土をかける→その上に壁土を塗る→更にカーマインジェッソを重ねて→壁土に墨とベンガラを混合し、褐色にして塗り込む→その上に金泥をかける→墨にベンガラを混ぜて染み込ませる→壁土を溶いて泥状にしたものをかける→それをまた赤に還元し→更に金泥をかけて、何が出て来るかを待ち構える──といった具合である。ちなみにこの作業はまだまだ続いて、傍から見ているといつになっても絵が見えて来ないのだが、実はこれこそが、榎並さんにとっての「描く」という行為なのだ。画家は自らも語る通り、一連のいつ終るとも知れない作業を通して、何かの顕現を手探りで「待って」いるのである。既に見えている「答え」を探すのではなく、問いかけて、問いかけて、ひたすらに問い続ける行為の中から、いつか見えて来るであろう何かを待つ。やがてその果てしない作業は、いつしか時の厚みとなって画面に堆積し、あの風化したロマネスクの会堂を思わせるような、えも言われぬマチエールを造り出す。そして私達は見る事になるだろう、そこにゆくりなくも浮び上がった修道士を、放浪者を、旅芸人を、そし
て楽師達を。彼らは皆いつの間に画面に降り立ち、画家のもとを訪れた者達であり、換言すれば、誰が現れるのか、どこへ向うのかも分らないままに歩みゆく道程の中で、画家は図らずも彼らとその生きる地を、遂に手探りの内に見つけたのだ。榎並さんの制作は、時に「待つ」とは能動であり、何処へたどり着くかも分らぬ「歩み」に他ならない事を、無言の内に教えてくれるのである。

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 画家のお話によると近年の制作では、かなりの時間を費やしても今一つ絵が見えて来ない時など、布のコラージュや絵具の堆積した画面に水をかけてふやかし、やにわにバリバリと荒っぽく引き剝がしたあげく、そこからまた新たに出直しをされたりすると言う。決して最近巷を賑わす、高年性突発衝動による暴行ではない。しばしば創作上の思いがけない成果は、一か八かの思い切った破壊から生れ出るものである事を、優れた創作家ほど知る故なのだろう。そんな作業の中でふっと浮び上がった「きっかけ」を、画家は逃さない。かつてそのきっかけは、往々にして上述の修道士や旅芸人の形へと発展し、今でも彼等は画家の主要なモチーフではあるのだが、近年はそれらに併行しつつ「朝のバス停のベンチ、夕暮れの帰り道、可憐な野の花を手にする女、あのネ…と母に抱き着く女の子」云々といった、ごく日常的な形を取る事も多い。これは前述した通りで、きっと作家の内奥では、中世の放浪者も現代の定住者も、時空を超えて何つ変らない同じ者なのだろう。と言うよりは、ごく通常に定住する外面の陰で、独り内面を放浪し続ける者だけが、いつしか「芸術家」と呼ばれる種族になるのだ。ご自身のブログによく写真等をアップされているので、榎並さんの過ごす日々の風景は、私達にとっていつしか馴染みあるものになっているが、そこからそこはかとな浮び上がる人間は、やはり定住者のそれではない。制作をして、庭仕事に励み、読書や音楽に浸り、時に自身もチェロを奏でる。展示会を覗き、付近を散策し、空を見
上げ、想いを馳せる、場所は確かに日常の中ではあるけれど、心は縦横に時空を駆け巡る、その放浪の端々が制作する画面の中に、ある日奇跡のように舞い降りるのだろう。先の小説家の言う「日常から根本を見出す、そのきっかけを感じ取る能力」とは、正にその日常の来し方の中でこそ磨かれるのであれば、日常を放浪する者はより多くの出会いを感じ取り、絵の中へと顕現されるポテンシャルを育む。画家はいつも自身を旅する者である。

 世界をより良く見て、より良く聞けば、いつか世界は奇跡を語るのだろう。誰にとっても世界とは今・ここに他ならず、ならばそこかしこに奇跡は潜むだろうに、哀しいかな誰もがそれに気が付かない。ただ数少ない芸術家だけは、その微かに響く声を捉えるのだ。世界の語る奇跡を、今・ここに潜んだ目を瞠るような奇跡を、画家は確かな声として聞き、ある形として浮び上がらせる。思えばそんな芸術を通して、私達も日常の奇跡に触れ得ると言う事実こそ、正に至上の奇跡なのかも知れない。

    (15.07.08) 山口雄一郎




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