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あそびべのHARU・ここだけの日々
画家・榎並和春

本物は誰が見ても分かる。 - 2006.01.12(日記)
はる 1669
 今は週二日、全日制の美術の授業の他に、少ない時には2~3人、多くて10人前後の高校の定時制美術の授業も持っている。

 特に定時制の生徒と接していると、彼らが如何に傷ついてきたかというのが良くわかる。

 多くの場合、学校と言うのは普通に通学できて先生の言うことをそれなりに聞いてきた、どちらかといえば社会的に適応できた、or
できる人間を相手にして来ている。

 それ以外の人間ははっきり言って「落ちこぼれ」という烙印を押されてしまう。勿論能力的にすこしばかり?落ちる人間もいるのだけれど、多くの場合「学校という社会」からのはみ出したやっかい者として扱われることが多い。

 まぁ最近は厄介なはねかえり者というより、どちらかといえば学校と言う社会に不適合な「大人しい羊」が多い気がするな。

 公教育というシステムはある意味凄く効率のいい、今の社会に適合した人間を作るにはよく出来た機能だと思う。明治以後そうやって日本の基礎を築いてきたことは確かなことだ。

 しかし、反対にいえば適合できなかった人を効率よく選別するシステムでもあるわけで、そういった意味では学校の先生もそれを手助けしている職業ということもできるかな。

 はっきり言って切り捨てられてきた彼らは学校と言うシステムを嫌いながら憧れるという複雑な心理を持っている。まぁここが最後のまっとうな社会復帰への入り口であって、ここを止めたらもう後はない・・本当はそうでもないのだけれどね、そう思ってる人も多い。

 学校の先生は意外に勘違いしている。例えば美術なら自分は美術のエキスパートだ、だから彼ら(生徒)は頭を低くして教わるのは当然だと。偉い自分が教えるのだからよく聞けよみたいな、聞かないのは生徒が悪い。態度にはださないけれど、そう想ってやしないかな。

 力で抑えるのは、まぁ一番手っ取り早い方法で、自分に自信があればそれも一つの手かもしれない。けれどね、それでは本質的には何も変わらない。ただ押さえ込んだだけに過ぎない。 

 生徒はあんたの自慢話など聞きたくないのだ。ここのところが大事なんだけれど、だれもあんたの絵など知りたくもない。考えてみれば分かることだ。

 「分かる」ということかな。「理解できる」ということかな。本質的に人は「分かりたい」「知りたい」と思っている。それが押し付けではなく、内側から「分かった」「知った」という喜びが彼らをワクワクさせるのだ。これが私の言う、内側から手なずける方法なのだ。

 基本になるのはあなたの得意な分野をだれが聞いても分かるまでこなごなに分解することだ。やり方は一つではない。自分なりの方法を考えることだ。

 ここまで考えて表現という今の自分の仕事とも関係してくることがわかる。本物は誰が見ても「分かる」ことが大事なんだ。

 なんだか偉そうなことを書いた。聞き流してくれ。では。


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