あそびべのHARU・ここだけの日々
画家・榎並和春

今日のアトリエ - 2014.06.20(ポケットの窓から)

はる 4731
 新しいパネルに綿布を張込んでいるところ。。ここから長い仕事が始まる。

 ものを観て描写する、スケッチするというのであれば、見本になるものがそこにあるからね、終着点が見えている。物を見えたとおりに再現する、描写したいという欲求は誰にでもあって、それはそれで楽しいし、絵を描くという原点ではある。まぁほとんどの人がそれ以上のことは望んでいないのかもしれん。

 絵を描くという行為は極度に抽象的な作業で、いくらスーパーリアルに見える絵でもそっくりそのまま描いただけではこれがリアルには見えない。まだほとんど駆け出しの頃に、写真を使ってデッサンした時に感じた作り物のような違和感はずっと残る。何が違うのかといえば、描いた本人の「私はこう見えました。こう解釈しました」という取捨選択した、高度な抽象的な行為が入らなければそこに物がリアルに存在しているという風には見えないということなんだな。簡単に言えば絵になっていない。素人くさい絵だということになる。

 まぁ具象的な絵を一生追及して行く場合。この「私はこう見えました、こう解釈しました」ということが自己の表現となってゆくわけで、例えば日本の油彩の黎明期の作家なんかでも大いに悩んだところだと思われる。デッサンの達人だった藤島武二や安井曽太郎なども、結局は西欧風なリアルな表現にはゆかず、表現的には和風な即興的な筆のあそびのような絵になっている。物を観て解釈する表現の場合そこらへんが限界で、さらに新しい表現の可能性は少ないように思われるな。

 学生の頃によく考えたのは、ここにリンゴがあって、それを描いていて何になるのかということだ。まぁ描写の訓練にはなるけれど、上手いなぁと言われるかもしれないけれど、そんなことのために俺は一生かけるのか、何か違うそんな風にずっと思っていた。駆け出しながらも自分なりの表現というものを考えていた。

 普通絵を描こうと思った場合、油彩ならキャンバスを買って、油絵の具をかって、二三本のふでとオイルを買ってというふうに材料をそろえる。そこのところにあまり疑問を感じることはない。

 けれど、表現ということを考え出すと、そこのところから洗いなおさなければ次が出てこない。たとえば、絵というのは支持体(紙、麻布、綿布、色々)に色の粉(岩絵の具、顔料、土、など)をノリ(乾性油、膠、合成ノリ)である秩序で固めたものだ。

 ・・・・・風呂に入るので、中断。書けたらまた続きを書きます。


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