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あそびべのHARU・ここだけの日々
画家・榎並和春

あわい - 2014.04.19(ポケットの窓から)
はる 4670
 山口画廊のオーナーから画廊通信の原稿を送ってきた。毎回何が書かれているのか楽しみにしているのだが、いつもかなり持ち上げてもらって冷や汗ものだ。今回は特にあの鬼才ベーコンからの引用で、これまたひやひやものだけれど、これも一つの山口ワールドのフィクション、創作物語、話のタネ、私のことに関しては笑い話として読んでくれれば楽しいかなとも思う。
               山口画廊 / 山口雄一郎
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画廊通信 Vol.127 画家の歩き方

 ちょうど一年前の事になるが、東京国立近代美術館で「フランシス・ベーコン展」が催され、新聞や美術誌・テレビ等でも取り上げられて随分と話題になったが、例によって私は、遂に行けず仕舞いだった。何だか良く分らないけれど、あるいは別に好きな訳では無いのだけれど、何故かしら気になる作家というのが誰にでも在ると思うが、私にとってベーコンとは、ピカソと並んで正にそういう存在だった。だから是非作品を間近に観て、画集や写真では決して分らない事を、自分の眼で確かめてみたかったのだが、結局日々の慌ただしさにかまけて足を運べずに終ってしまった事、未だに後悔している。

 つい先日、あるお客様にベーコンのインタヴュー集をお借りする機会があり、興味津々で読ませて頂いたのだが、その作風から察するに、たぶん暗鬱な狂乱を生きたのだろう画家の、それは実にストレートな真摯とも云える証言であった。その人生は、確かに絶望と狂気を伴うものであったのかも知れない、しかし表現という行為に向き合った時だけは、誠に正直な偽りの無い姿勢をベー
コンは貫いたのだろう。共感できる部分多々あったが、その一部をここに抜粋させて頂きたい。

 ≪絵を描く際に「偶然」は最も重要な側面で、創造力の 源泉になっていると思います。例えば、無意識でカン ヴァスに付けた筆の跡から、非常に深みのある示唆を 受けて、描きたかったイメージが明確になる事があります。あるいは、作品がありふれたものになってしまい、怒りと絶望から絵をバラバラにしてしまった時、突然そこに直観的なイメージが浮ぶ事もあります。 そう考えてみると、私の仕事が旨くいくのは、いったい自分が何をやっているのか、意識のレベルでは分らなくなった瞬間からなのでしょう。だからいい絵が描けた時は、それは自分が描いたのではなく、たまたま「授かった」ものだと、私には思えるのです。

 自分の絵の事が、分らないのです。どうやってあのようなフォルムが生まれるのか、本当に分りません。何だか他人の作品のような気がして、それがどうやって出来たのかも分らないし、カンヴァス上の筆の跡が、何故あんなフォルムになったのかも理解出来ません。どういう作品にしたいのかは自覚しているのですが、そのためにはどうすれば良いのかを知らないのです。 ピカソだって、あのキュビスムの作品をどうしたら描けるのか、分らなかったのではないでしょうか。

 私の制作過程の半分は、すらすら出来る事を中断する作業です。制作に取りかかった途端、筆がひとりで動いて調子よく作業が進む日もあるのですが、そういう状況が挫折や絶望から何かが生じる時と比べて、必ずしも良いと言えるかどうかは分りません。むしろ作業が旨くいかない時の方が、調子のいい時より失敗を恐れないし、開き直る事が出来るからです。だから、絶望は役に立つと言えるでしょう。絶望していると、一か八かでより過激な描き方が出来るし、それによって突発的な偶然が、予期しない何かをもたらしてくれるかも知れません。偶然から湧き上がるイメージは、より純粋で生き生きとしているのです。≫

 このような言葉を聞いていると、ベーコンの語る「偶然」という概念は、即ち「偶然から何かを見出す直観」に他ならない事が分る。研ぎ澄まされた直観があるからこそ、偶然から予期しない何かを引き出す事が出来るのだろう。私は常々、芸術家とはそのような人達なのだと考えている。日々を生きるため、私達が否応なく理性的な思考を強いられ、本来それと同じように重要であった筈の直観という能力を、いつの間に曇らせ鈍らせている間に、芸術家はその直観を磨き上げて研ぎ澄ます。だからそれは、ゆくりなくも訪れる何かを、曇りなき内奥の鏡となって映し出すのだ。おそらくは直観とは、私達には気付く事の出来ない何かを捕え、明瞭に映し出す鏡に他ならない。換言すれば、それは外から訪れる何らかの微細な送信を、確かに受信する能力とも言えるのではないか。美術に限らず、音楽であれ文学であれ、何かを創造する作業に携わる人は、おしなべてその直観という高度な受信機を、我知らず心に秘めている。逆に言うのなら、一つの芸術を成せるか否かの多くは、その受信機能に掛かっているとさえ、言えるのではないだろうか。そ
れはたぶん芸術家にとって、表現の技術や方法論を云々するよりも、遥かに根源的な問題なのだと思う。

 前項にベーコンの言葉を取り上げたのは、そこに榎並和春という画家の制作姿勢が、そのまま語られているように感じたからである。事実、先述の抜粋には、きっとご本人も驚かれるのではないかと思えるほど、榎並さんの言葉と似通ったものがある。榎並さんはかねてよりご自身でホームページを立ち上げられており、特にブログでは時事評から芸術論に到るまで、飾らないユニークな
発言を連日掲載され、中でも原発問題に到っては歯に衣着せぬ舌鋒鋭い持論を展開されて、堂々と例の電力会社及び癒着行政を糾弾されているものだから、いずれ刺客を放たれて暗殺されてしまうのではないかと危惧しているのだが、まあそれはさておき、ブログの中に自らの制作を語った一節があるので、試みに抜粋してみたい。

 ≪制作に当っては何も決めないで、やたらと絵具を垂らしたり壁土を塗り込んだりするので、かなり下地が分厚くなったりします。ここから想像力を働かせる事になるのですが、何処に行くのかは絵に聞いてもらう他ありません。私自身は、この下地を見て大体旨く行くかどうかが分ります。それでも途中、何度も壁にぶち当たるのですが、最初の予感を心の支えにして、これでしか有り得ないという形を見つけに行く訳です。 時には水をくぐらせて剝がしたり、それをまた修復しながら進んだり……という作業を振り返ってみると、これは「絵を描く」と言うよりは、壁の中から「絵を掘り出す」と言った方が、近いのかも知れませんね。

 何かしら描いている内に、テーマが浮んで来る。そうやって、ああ、自分はこんな事を考えていたのか……と知る事になる。テーマは後から付いて来る、それまでは何処に着地するのか、本人でさえ知らない事が多い。自分の分り得る範疇でものを作っている内は、ある意味素人であり、決して自分を超えたものにはならないだろう。本物というものは、知らず識らずに自分を超えた何者かによって描かれたり、作られたものではないだろうか。旨くいったと思える作品は、自分が描いたにもかかわらず、自分の意志というか、作為といったものが、ほとんど抜け落ちているものだ。≫

 片やフランシス・ベーコンという破滅型・背徳の無神論者、片や榎並和春という肯定型・時に宗教的なるものにも近接する芸術家、この全く相容れる所の無いであろう二人が、こと「制作」という一点に関しては、どちらの発言なのか分らないほどに奇妙な一致を見せる。未知なるものへ向けて、手探りで歩み往く事 ── おそらくはそれが二人にとっての「表現」という行為に他ならない。一般に芸術表現と言われるものは、まず作家の中に確たる完成予想図があり、それを具現化して何らかの形にしたものだと思われる方が多いのではないだろうか。それはあたかも、設計図通りに建物を造る「建築」という作業の如くである。完成形という確固とした目的地が
あって、そこへ向けて一直線に伸びた明瞭な道、それは安定した穏やかな道で、一切の破綻はそこから排除されている。ところがこの世には、極めて稀にではあるけれど、あえて危険な悪路を好きこのんで選ぶ人種がある。

 「芸術家」と呼ばれる人達だ。真の芸術家かどうかは、その歩いている道を見れば分る。もし舗装された安全な道を歩いていたとしたら、その人は優れた「建築家」ではあるかも知れないが、決して「芸術家」ではない。一方、着くべき目的地も分らない、その道が何処へ向うのかさえ判然としない、足下を見れば舗装もされていない泥濘の道で、その先にはたぶん、得体の知れない破綻が待ち構えている。そんな悪路をあえて選択したあげく、旨く歩けなくては勝手に絶望し、途中で思わぬ何かに出逢っては元気を取り戻し、あっちへよろよろ、こっちへそろそろ、誠に能率の悪い歩行を、飽かず弛まず続けている人が居たとしたら、その人は間違いなく「芸術家」
である。以前にも引いた事のある私の大好きな一節なのだが、今一度この場を借りて掲載させて頂きたく思う。以下、小林秀雄「モオツァルト」から。

≪芸術や思想の世界では、目的や企図は、科学の世界に 於ける仮定のように有益なものでも有効なものでもな い。それは当人の目を眩(くら)ます。或る事を成就したいという野心や虚栄、いや真率な希望さえ、実際に成就した実際の仕事について、人を盲目にするものである。大切なのは目的地ではない、現に歩いているその歩き方である。≫

 この一節を読む度に、私は榎並さんの来し方を思う。榎並さんは正に、自分の「歩き方」を貫いて来た人だ。道なき道を往く──などと言うと、それは遥かな荒野を歩むかのイメージがあるが、榎並さんにとっての道はそんな大仰なものではない、道なき道はありふれた日常の中にこそ伸びている。むろん生活を共にした事がないので、詳しい日常は分らないけれど、起床して軽い朝食の後、アトリエに入ってしばし制作に専念し、気分転換に読書をしたり畑を耕したり、時にチェロを弾いたり雑用がてら散歩に出たり、またアトリエに戻って作品に手を加えたり──という日常の中に、道は細く長く曲がりくねりながら、時には消えかかったりしながらも、何処へ
向うでもなく伸びている。日々の中を、日々を糧としながら、日々と共に、ひたすら止まる事なく歩き続ける、それが榎並和春という画家の貫いて来た「歩き方」だ。

 日常とは、平凡なものかも知れない。しかし榎並さんは、平凡なものにこそ非凡を見つける人だ。もはや日々の暮しと一体になった制作の中で、それはほんの小さな筆の痕跡から、コラージュされた布の紋様から、掻き落された壁土の中から、あるいは消し去られたフォルムの中から、ある時ふっと、あたかも最初からそこに在ったかの如く立ち現れる。それは非凡が何かの「形」と成って、思いもかけずに降り立った瞬間だ。ベーコンならそれを「偶然」と呼ぶだろう。榎並さんならその現象を、「絵を掘り出す」と言うだろう。いずれにせよそれは、画家の直観が見出したものに他ならない。やがてそれは明確な形を取って、ある時は旅芸人となり、あるいは道
化師となり、楽師となり修道士となり、時に何か大いなるものを孕みながら、榎並さん独自の世界を形成する。詰まるところ彼らは、榎並さんの「歩き方」が生み出した者達だ。そして私達も彼らと共に、当の作家ですら思いもしなかった時空へと、いつしか歩み入るのである。  (14.04.18)


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