はる 4300
裏庭の納屋はいつの間にかアイビーに覆われて廃屋のようになってしまった。アイビーという生物は一見植物のようにみえるのだけれど、少し時間を縮めてみると明らかに動物のように意志を持っているように思える。切っても切っても触手を伸ばしてわが身の増殖をはかろうとする、その物凄い生命力は見ていると鳥肌が立つほどの気持ち悪さを感じる。ぼろ隠しにはとても都合がいいけれど、管理を怠るとあっという間に覆い尽くされてしまう。
西欧の石造りの建物が半分つたにからまった風景は我々から見るとお洒落な、ハイカラな風景に見えるけれど、そういう風に自然に見えるように維持管理するのは結構大変だということがわかる。何も手付かずで放っておけばこれまたあっという間に建物全体がつたに覆われてオバケ屋敷のようになってしまうだろう。
住宅というものは確かに建築物なのだが、建物だけが優れていればいいというものではない。よく著名な建築家が腕によりをかけて素晴らしい建物を建て、施主もそれを自慢しているような建築物を見かけるけれど、お洒落な建築雑誌などにこれ見よがしに掲載されていたりするけれど、そんなものは建築家の自己満足の代物でしかない。
個人の住宅などは仕上がって施主に渡された時から本当は始まる。その建物や庭をどういう風に使いこなして、自分たちに合わせて変化させてゆくのか、常に変って行くというのが本来の姿ではないかな。10年経って、20年経って、そんな住人の姿を想像させるような住宅が好きだ。
建築と絵画はいっけん関係がないように思えるけれど、実のところ大いに関係がある。絵画や彫刻やオブジェにしても生活の中でどういう場を与えられるのか、極普通の人が極あたりまえに絵画やその他の芸術作品に触れる機会がなければ、その必要性がなければ広まっては行かない。作品は作品だけで単独に存在するのではなく、日々の生活の中でどこに飾られるのか、心の糧として拠り所として、はたまた単にインテリアとしてでもそこに何かしらの個人の心の問題として関わってくる。
結局は個人の嗜好の問題になってくるのだけれど、核になっていることは、自分とどう関わって来るのか、来たのか、そのことで自分を知るということかな。