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あそびべのHARU・ここだけの日々
画家・榎並和春

祝4000 - 2012.06.08(ポケットの窓から)

祝4000
はる 4000
 上の絵は知り合いがプレゼントしてくれた似顔絵です。賛は老子の「上善若水 上善は水のごとし」だそうです。そうありたいとは思っていますが・・。どうもありがとう。

 ところで、山口画廊の画廊通信を今回も転載します。なにもコメントを付け加える必要はありません。山口さんの感動的なエッセイをどうぞ。
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画廊通信 Vol.104                 訪れるもの


 冒頭から私事になるけれど、私は中学の頃からクラシック音楽が好きで、今でもヘッドフォンを被ってよく聴いている。暗い人間と言われそうだが、誰に何を言われようと、一人酒を飲みながら、超一流の音楽を超一級の演奏で聴く時ほど、人生の愉悦を感じる時はない。これに匹敵する歓びは絵が売れた時ぐらいで、後は大概あくせくと金に追われながら、灰色の人生を送っている訳だから、最近ふとそんな現状を顧みて、私にとって「音楽」とは「逃避」に他ならないように思えて来た。
 そんな事はどうでもいいのだが、40年近くもそうやってクラシック音楽を聴いておきながら、私はモーツァルトという作曲家にほとんど興味がなかった。中には好きな曲もあったけれど、深く追求するに値する音楽とは、どうも思えなかったのである。確かにあの流れるようなメロディーは、天才の為せる業(わざ)かも知れない。しかしまあ、何と軽く深みのない、ハプスブルグ家の舞踏会みたいな音楽だろう、ベートーヴェン・ブルックナー・ブラームスといった巨人達に比べると、まるでお子ちゃまの音楽ではないか、と言ってしまえば言い過ぎだが、それに近い事は思っていたのである。

 だいたい、みんなが「いい」「いい」と言うのが気にくわない。
画廊に見えるお客様にもクラシックファンは多いが、皆さん口を揃えたように「モーツァルトは素晴らしい」「モーツァルトは別格だ」とおっしゃる。それに加えてマスコミでは、トマトや牛までがモーツァルトを聴かせると育ちが違うなどと、臍で茶を沸かすような珍説を言いふらす。じゃ何か、モーツァルトの分らない私はトマトや牛にも劣るのか、こうなったら金輪際聴いてやるものかと、いよいよ決心を固くしていたのだが、最近さすがに不安になって来たのか、あるいは人間が丸くなって来たのか知らないが、ぼちぼちCDを買って来たりして、車の中で聴いたりするようになった。すると面白
いもので、あれほど何十年も興味を持てなかったのに、「おっ、いいねえ」などと、素直に思ったりする事が増えて来たのである。そして先日、あの忘れもしない決定的瞬間が、私に訪れたのだった。

 先々月の末頃、どうした訳か、夕方まで一人の来客も無い日があった。ただボケッと座っている訳にもいかないので、夕方まで手紙を書いたり電話をしたり溜っていた雑用を片付けたりと、やるべき事は全てやり終え、それでもしつこく誰も来てくれないので、気分転換にパソコンでユーチューブを開けてみた。ちょうど興味も出て来たところだし、「mozart symphony」と入れて検索してみる。その後どういった経緯で辿り着いたのかは忘れたが、私はあるライヴ演奏の映像を見つけてプレイしてみた。曲目は「交響曲第40番」、モーツァルトの数多い交響曲の中で、最もポピュラーな一曲である。指揮はニコラウス・アーノンクール、オーケストラはヨーロッパ室内管弦楽団、あまり関心のない指揮者と聴いた事もない楽団だったので、数ある中でどうしてその演奏を選んだのか、今となっては自分でも定かではないのだが、往々にして忘れ難い出会いとは、思いもかけない所で起るものなのだろう。

 一聴して厳しくもしなやかな、鋭い切れ味を持った音楽である。
快い緊張の糸がピンと張り詰めて、強弱・緩急の対比が鮮やかに際立つ。モーツァルトの持つ天性の簡潔な音運びを、精鋭の若きヴィルトゥオーゾ達は、実にキビキビと颯爽と描き上げて往く。それにしても何とみずみずしい、曇りの無い音楽だろう。そこにはアーノンクールという指揮者の真摯な主導と、それを受けるオーケストラのひたむきな演奏が相まって、音楽の純粋な歓びがいきいきと満ち溢れていた。

 交響曲が第4楽章に入った時、ふいに涙が溢れた。そ
の理由は、今もって分らない。客の来ない哀しさを音楽に癒されたとか、演奏家達の一途な姿勢に打たれたとか、理由は付けようと思えば幾らでも付けられるだろうが、一瞬にして激しく心を揺さぶるあの感動に比べたら、そんなものは枝葉末節に過ぎない。私は確かにその時、「モーツァルトのかなしさは疾走する」と評した小林秀雄の言葉を、ありありと体感していたのだと思う。

 その日から私の中で、モーツァルトはアイドルとなった。あの歯
切れの良い爽快な音楽に慣れてしまうと、あれ程好きだったベートーヴェンやブルックナーが、どうも鈍重で融通の利かない堅物に思えて来るから不思議だ。いつ聴いてもモーツァルトは、軽やかに疾走し飛翔している、澄み渡る哀しさをそこはかとなく湛えて。

 格好をつけた言い方になるが、私はあの時の「涙」を信じている。理屈などは易々と超えて、思いもかけずに訪れるあの感動、芸術においてはそれが全てだ。私の今まで取り扱わせて頂いた作家は、全てそんな出会いを原点としているし、今回で4度目の個展となる榎並さんも、やはりそんな思いがけない出会いで知り合った作家である。榎並さんの場合は、たまたまインターネットで作品に触れたのがきっかけだったが、それが画廊であれ、どこかの美術展であれ、あるいは美術誌の記事であれ、図らずも心を奪われる事になった出会いは、信じるに足ると思う。理性的な知識や分析に頼るのではなく、むしろ理性というような狭い領域を超えて、自分でも説明のつかないままに心を揺さぶられる体験、そこに基点を置いている限り、その人の「目」は、あるいは「耳」は、正しいのだと思える。考えてみればそれは何も特別な事ではなく、至極当然の事なのかも知れない。何しろその作品を作った当人が、自分でも与り知らない感動を源泉としているに違いないのだから。

 人は芸術を「自己表現」と言う。それはその通りに違いないのだ
が、それは芸術の半面しか語っていないように思う。自己を表現する事は、ある程度のレベルにある人なら誰でも出来る、しかし、自分の外から来るものを捉える事の出来る人は、極めて限られてしまうだろう。ある意味、芸術家とそうでない人との違いは、そこにあるのかも知れない。「表現」とは文字通り、「表す」事であると同時に「現れる」事でもある。何処からか現れたものを、自分のものとして捉え得る人、その人こそ、真の芸術家と言えるのではないだろうか。

 有名な話だが、モーツァルトは遊びに来た近所のご婦人方と、鶏やアヒルの話、あるいは人の噂話などに笑い興じながら、得も言われぬ名曲を書き上げていたらしい。「構想は、あたかも奔流のように鮮やかに、心の中に姿を現します。しかし、それが何処から来るのか、どうして現れるのか私には分らないのです」、そうやって訪れたものを、ただ書き留めているだけ
なんだと、当人は語っている。もちろんそこには、モーツァルト特有の誇張もあるだろう、しかしそれでも彼は、決して嘘を言った訳ではないと思う。モーツァルトの言葉には、芸術の本質が隠されている。それは、創作の源泉は自己を超えた交感にあるという事実だ。自己表現の権化のように思われているあのベートーヴェンだって、実際は散歩の途中でふと現れたメロディーから、長大な交響曲を書き上げたりしているのだ。そのせいかどうかは知らないが、ベートーヴェンは生涯こよなく散歩を愛したらしい。きっとベートーヴェンも待っていたのではないだろうか、あのゆくりなくも訪れる詩的直観の到来を。

 そして榎並さんもまた、そのように制作をする人である。榎並さんは長年ブログを続けられていて、面白いので私もよく拝見するのだが、そこに制作途中の作品映像が折々にアップされる。大小取り混ぜた色とりどりのパネルが並んでいる光景だが、そのほとんどは地塗りの顔料が塗られていたり、時に壁土が練り込まれていたり、あるいは布地が貼られていたりという段階のもので、未だ作品という形には到っていない。通常は下書きのデッサンがあって、それを徐々に肉付けして行くというのが定番なのだろうが、榎並さんの場合はたいがい弁柄や黄土を塗り込んだり、あるいはせっかく塗ったものを消し潰したり、はたまたその上から金泥をかけ流したりといった具合で、なかなか「絵」らしきものが見えて来ない。しかし、このいつ果てるとも知らぬ作業こそが、榎並さんにとっての制作なのである。だから榎並さんの制作は、ある意味「待つ」作業でもある。画家は幾重にも絵具を重ねながら待っているのだ、何処からか訪れるだろう、何者かとの出会いを。

 ある段階に到って榎並さんは、おもむろに細い白線で何かの輪
を探し始める。模糊とした何かが、作家の前に現れつつあるのだ。いつしかそれは人らしい形を取り始め、やがて画面に楽師が現れたり旅人が訪れたり、時に水撒きをする庭師になったりする。あるいは人だと思ったものが違う形になったり、一人だと思った所にもう一人隠れていたり、榎並さんは現れるべき何かを探しながら、白い描線を大胆に引き続ける。それはまるで、未知の領域を模索する、精神の触手のようにも見える。

 そして全てが眼前に現れた時、作家は筆を置くのだろう。幾重に
も堆積した絵具が、風化した古い壁のような趣を湛える画面、その上にあたかも中世のイコンのように浮び上がる人物達、それら榎並さんの世界に特有のモチーフは、全て何処からか現れて、いつしか画面に降り立った者達である。榎並さんはよく、「自分の中に無いものは出て来ない」という言い方をされる。一見それは、私の言説とは相反するように思える。しかし私も榎並さんも、きっと同じ事
を言っているのだと思う、自分の中に、自分を超えた広大な領域があるのだとすれば。

 先述のモーツァルトに触れ得た日は、結局たった一人の来客だけで終ってしまった。しかし、私の心は安らかに定まっていた。頭が足りないと言われればそれまでだが、私はたとえ逆境の時であっても、良き芸術に出会って心を揺さぶられると、いつも「よし、大丈夫だ」と思えるのである。それが音楽であっても、絵画であっても、文学であっても同じである。芸術の感動は、理由も無く人を励ます。根拠なんて何一つ無くとも、良き芸術に出会うと希望が湧き上がる。その意味で感動とは、蘇生の義に他ならない。どうせそこに理屈など無いのなら、そこから受けた感動にだって、理由も根拠も要らないじゃないか、私はそう思ってここまでやって来た。と言うよりは、そのような芸術の励ましがなければ、とてもここまではやって来られなかったと思う。おかげでここまで来たはいいけれど、いつまで経っても内情は火宅の如し、いよいよ先の見えない灰色の日々、よって一人鬱々と音楽に浸るような、愉悦の逃避に走る訳である。やはり、頭が足りないのだろう。

 今回も榎並さんの芸術は、至福の時間をもたらしてくれるものと
思う。「日々礼賛」というタイトルの通り、そこには画家が生きる日々で見つけたかけがえの無いもの、そして図らずも画家の日々を訪れた未知からの旅人達、そんな出会い難きもの達が豊かに満ちて、見る人の内なる扉を叩いてくれる。おそらく礼賛は絵の中で、静かに何気なく為されているだろう、かつてモーツァルトの書き残した、あのさりげないアンダンテのように」

                    (12.06.07) 山口雄一郎
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