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あそびべのHARU・ここだけの日々
画家・榎並和春

山口画廊・画廊通信Vol.91  - 2011.06.11(ポケットの窓から)






 

はる 3638

 山口画廊の画廊通信が送られてきた。毎回楽しみにしている。勝手転載します。不都合があれば削除します。

http://home1.netpalace.jp/yamaguchi-gallery/top.cgi



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画廊通信 Vol.91   花であること



 毎年11月頃、地元の甲府で榎並さんの個展が開催されるのだが、その回から以降1年間の個展には、すべて同じタイトルが冠せられる。よって今回の「遠い記憶」は、昨秋から続く今期のテーマである。個展のパンフレットに、画家はこのようなコメントを寄せている。



 お腹の赤ちゃんの成長は、生物の発生からの進化の様子と、とても似ているそうです。それと同様に一つの作品が出来てゆく過程は、作家の過去から現在までのスタイルの変遷を少しずつ見せているように思います。一つの作品は突然そこに現れてきたのではなく、今までの経験が何らかの形で沈み込んでいて自然に出てきます。一つのスタイルは作家の生き様でもあるように思います。



 さて、ある程度地塗りがいい感じに仕上がってくると、そろそろ画面の中にイメージを見つける仕事になります。ほとんどの場合、最初のインスピレーションはありきたりでつまらないものが多いようです。面白くないアイデアは思い切って捨てます。そうやって何度も何度も繰り返して自分の心の中を覗き込むような仕事をしていますと、少しずつ何かが熟成してきます。時に、自分では絶対に描けないような作品になったりします。



 私の仕事は様々な事柄の底の方にある「遠い記憶」を探し出して、誰でもが共感できるものに形を変える事ではないかと思っています。それが出来たかどうか、今年もまたそんな作品を並べます。御来廊こころよりお待ちしております。



 以上、画家ご本人の個展紹介である。これ以上くどくどと解説じみた事を言うのも、無粋というものだろう。だから今回は視点を変えて、榎並さんの文章家としての側面を、お話したいと思う。



「ブログ」という名称が、いつ頃から一般的になったのかは忘れたが、榎並さんは「ブログ」という言葉が出来る遥か以前から、ホームページを自ら作成して、日々のエッセイを公開していた。ちなみに、現在のカウントは3600番台、という事は軽く10年を越える計算になる。日々の雑感はもちろん、芸術論・宇宙論・人生論・折々の時事問題に到るまで、その快刀乱麻にして縦横無尽、飾らないストレートな物言いは、当り障りのないどうでもいいようなブログばかりが蔓延する中で、誠に小気味良く面白い。時おり、話の途中で「眠くなったので、また」と寝てしまったりするので、こちらはその続きを待っている訳だが、翌日は全然関係のない話になって、忘れた頃に続編が復活したはいいけれど、また寝てしまったりという具合で、その脈絡のなさもいい。



 震災以降は、いち早く原発報道の信憑性に異議を唱え、国民への欺瞞に満ちた対応を舌鋒鋭く批判し、独自の観点からの考察を発信し続けている。毎日欠かさず更新されているので、ここではほんの一部しかご紹介出来ないが、この一年ほどのブログから芸術に関する発言にテーマを絞り、印象に残った言葉を抜粋してみたい。



2010.09.25 表現というのはどうにも不思議なもので、食うに困らない、切羽詰まったものでないところからは、人を心の底から揺さぶるようなものは、出て来ない気がします。もう後がない、やむにやまれぬ、土壇場のところから、本当のものが出て来るのでしょう。



2010.12.07 新しいこと、誰もやっていないことばかりに囚われていると、一向に新しいものは出て来ない。なぜならそれは、今の延長上にあることだから。言ってみれば、誰でもが遅かれ早かれ考え付くことだからだ。縦の物を横にするといったバリエーションでしかない。

 本当の独創というものは、元に戻った源泉から問い直すことからしか、出て来ないと思う。



2011.01.05 大きな団体に属していると、自然にある種のピラミッド型のヒエラルキーが出来る。自然、なんとなく一般の人たちより優位な立場にたってものを言うことが多くなって、いつの間にか自分が偉い人になった気になっていないかな。そこのところ充分に注意しないと、間違いを起こす可能性があるな。

 何も偉くない。ただの風来坊だ。ただの旅芸人みたいなものだ。



2011.01.09 評論家を目指して勉強中という若い人が来た。「これは誰々の影響を感じますね」「この部分は誰それですね」と分析する。確かに当たってはいるのだけれど、あまり気分のいいものではない。

 どんな作家であろうと、作品であろうと、誰の影響も受けない全くのオリジナルということはありえない。一つの作品は、作家がそれまで受けた影響の総まとめのようなもので、どれだけ多くを受け入れたかが作品の奥行きの深さ・重さになって来るように思う。謎解きしたところで、最後には何も残らない。



2011.02.08 多くの人は「私を見て」というために絵を描いている。だからどの絵にも「私が、、僕が、、」という自己主張の声しか聞こえない。一点や二点なら聞いてもくれるだろう、でも大体が飽食で気持ち悪くなる。私は反対に見る人を「引き込もう」と考えている。出すのと入れるのでは180度違う。何か共通の想いを持つこと。誰にでもどこにでもあるものを探すこと。



2011.02.09 少し見えたと思った取っ掛かりは、セザンヌだった。今から考えると、彼の絵は自己主張しているようでしていない。「私が、、僕が、、」と言う声が聞こえないのだ。淡々と内に向って、ただひたすらに根源へと向って降りている。



2011.05.15 できるだけ「わざ」を見せないようにする。まあ決して上手くはないのだけれど、筆が走るところを見せないとか、お洒落な配色をあえて外すとか、上手さを見せるなら徹底して上手ければそれも持ち味になるのだろうが、そこそこ上手い程度じゃどこにでもいる。だから徹底して外すことを良しとしている。

 好みの絵もそういった絵が多いな。上手さが見えると「なあんだ、あんたはそれを見せたいのか」と、底が見えたようでがっかりする。下手くそな、無器用な、作為の見えない絵がいいな。まあ、傲慢な独り言だ。見逃してくれ。



 こうして過去のブログをひっくり返していると、幾らでも抜き出したい言葉が出て来てしまうので、この辺で切り上げようと思うのだが、もう一つだけ、初回展の時に寄せて頂いた言葉を掲載しておきたい。どうして一昨年のブログなのに、ここで特別に取り上げるのかと言うと、自慢したかったからである。私はこれを読んだ時、胸が熱くなった。ここまで言ってもらえたら本望だ、思い残す事はないと思った。以下、その時の抜粋である。



2009.07.20 銀座には200も300も画廊がある。それも雨後のたけのこのように出来ては引っ込んで、また新しく出来るといったことを繰り返している。そのほとんどが一般に貸し画廊というレンタルスペース専門の、画廊とは名ばかりの展示場でしかない。本来画廊とは画廊のオーナーの眼力を問う場であって、金さえ出せば出来るようなレンタルスペースは、画廊とは言わないのじゃないかな。銀座みたいな場所だから経営は成り立つけれど、画廊の本来の仕事をしていない。



 私がもし画廊をやるなら、貸しスペースなど一切やらないな。独断と偏見で自分の好みを一方的に押し付ける。私が選んだ、私が見い出した、いいと思った作家のみを扱って誰の意見も聞かないその代わりにだめだったら、その責任をとってやめる。そういったものだろう、画廊というのは。生きるか死ぬか、真剣勝負の場所だ。



 山口画廊のオーナーは、そんな画廊本来の仕事に情熱を傾けている。ほぼ一ヶ月に一人の企画、年間で12~3人しかやらない。これだけ聞いてもその姿勢がわかる。なんとか報いたいと切に思う。



 昨年のブログの中で、榎並さんは石原吉郎という人の詩を取り上げている。不勉強にして、初めて耳にする詩人だったが、一読して何か異様な気迫を感じた。深い内省の中から、揺るぎない決意を秘めて、厳しく起ち上がる言葉。今回ブログをさかのぼっていたら、思いがけずその詩に再会する事になったのだが、震災を越えて今、この詩は津々と更なる輝きを発するようである。



 調べてみるとこの詩人は、戦後シベリヤの強制収容所に、8年もの間抑留された経験を持つ人であった。だから「花であること」と題されたこの詩の中で、「花」という言葉の持つ本当の重みは、たぶん私達には分からない。徹底して無抵抗で脆弱な存在、否応なしに翻弄され、踏みにじられ、為すすべもなく消えゆくもの……。



 震災以降、芸術に何が出来るのかという問いを、よく耳にする。芸術の存在意義が問われる、困難な設問である。しかしそもそも芸術とは、実用から離れた純粋な表現であった筈だ。とすれば、元来芸術に実用価値はない。よって災害や戦争といった極度の暴力の前で、芸術はあらがう一切の手だてを持たない。この「何も出来ない」



「何の役にも立たない」という覚悟から、芸術は始まるのではないだろうか。作家はただひたすらに役に立たないものを、命を削って作り上げ、世に送り出す。それをどう受け止め、どう活かし、どう役立てるのかは、徹底して受け手に委ねられている。芸術の存在意義は、むしろ受け手が作りゆくものではないか。



 ならば送り手である芸術家の為すべきは、せめて受け手にまで響き到るような、強靭な「花」を咲かせる事だ。強大な力に翻弄され、為すすべもなく蹂躙されてなお、幾度も幾度もその下から、よみがえり咲き直す、力ある一輪の花を。



 昨年の個展に際して、案内状には「こしかた(一輪の花)」と題された作品を使わせて頂いた。一人の女性が、かけがえのない思い出に囲まれて、祈るが如く捧げ持つ一輪の花。それは人生という歩みの中で、ささやかに彼女の咲かし得た、誠に小さな一輪であったのかも知れない。しかし榎並さんはその物言わぬ花に、誰の心にも清らかな微笑みを灯す、確かな質実の力を宿したように思える。



 前述した石原吉郎の詩を、最後に記したい。





 花であることでしか

 拮抗できない外部というものが

 なければならぬ

 花へおしかぶさる重みを

 花のかたちのまま おしかえす

 そのとき花であることは

 もはや ひとつの宣言である

 ひとつの花でしか

 ありえぬ日々をこえて

 花でしかついにありえぬために

 花の周辺は的確にめざめ

 花の輪郭は

 鋼鉄のようでなければならぬ





  山口画廊 / 山口雄一郎



 



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