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あそびべのHARU・ここだけの日々
画家・榎並和春

帰宅 - 2010.08.10(ポケットの窓から)






 

はる 3334



 勝手引用「放蕩息子の帰宅」

http://www5f.biglobe.ne.jp/~nobpar/colum/colum04-0501.html



「・・・略・・

あるとき、取税人や罪人たちがキリストの話しを聞こうと集ってきた。それを見ていたパリサイ人や律法学者たちが「この人は罪人を迎えて食事をしようとしている」と非難した。そこでキリストが彼らにたとえ話をする。その話しの1つが‘放蕩息子の帰宅’といわれている上記のお話だ。

 この話の中で父はずっと彼の元で働き、言いつけを守っている兄には冷淡であるのに対して、家を出て放蕩の限りをつくし、父の財産を食いつぶしてしまった弟には温かい。普通では考えられないことではあるが、父を神、兄をパリサイ人や律法学者、弟を取税人や罪人をすると何となくわかってくる。


 兄は確かに父のもとでその言いつけを守り暮してきたが、父のありがたさがわかっていない。特に何の思いもなく、ただそれが世間の常識だというだけで父のもとで働いているに過ぎない。彼の体は確かに父の近くにはいるが、その心には不満があり遠く離れているように思える。


 一方、弟も最初は父などどうでもよかったに違いない。だから、財産を分けてもらった後、家を出て好き勝手な暮らしを始める。しかし、放蕩のあげく、身を持ち崩し、悲惨な暮しを余儀なくされたとき、初めて父のありがたさがわかり、出ていった家がいかに温かい場所だったかを知った。ボロボロになって家に帰って来たとき、弟は心から父を慕っていた。


 この話はどんな罪を犯そうとも、悔い改めるのなら神は門を開き受け入れるというたとえ話だ。しかし、そういったキリスト教の教えだけに止まらず、この話にはいろいろな真実が隠されているように思える。


 常識的で利口な生き方をしているが、不満でいっぱいになっている兄。失敗を繰り返し、遠回りの生き方をしながらも、それ故に何かしらを見出した弟。形ではなく、真実の心を重要視した父。


 効率的に無駄なく生きるだけでは何か物足りない気がする。時には間違い、失敗を繰り返しながらも何かがそこに見つかれば無駄も無駄ではなくなるように思う。そしていつか帰りたくなるような家が見つかればいいと思う。」

 





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