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あそびべのHARU・ここだけの日々
画家・榎並和春

「セザンヌ4」 - 2010.02.22(ポケットの窓から)






 

はる 3167

 「セザンヌ4」

 セザンヌとゴーギャンは一時期お互いに並んで絵を描いていた時期があったようだ。で、ゴーギャンはセザンヌのことを大変尊敬していて自分の絵の中にセザンヌの絵を描き込んでいるものがある。



 ところが、セザンヌはかれのことをこういってののしった。「私にはたった一つの小さな感覚しかなかったが、それをあいつは盗みやがった!」



 芸事というのはいつの時代も盗んだり盗まれたりしながら大きくなってゆくものだ。だからゴーギャンがまるっきり悪者というわけではないとは思う。そのことよりも私はセザンヌのいう「小さい感覚」というのが何だったのか、そのことが大いに気になる。



 いまでこそ、セザンヌは現代絵画の父として敬われているのだけれど、当時そのことが分かっている人は彼の周りのホンの一握りの人間でしかなかった。無論当の本人はわかってはいたのだろうけれど、そのことにはまるっきり自信がなかったようだ。



 ここからはまるっきり私の空想なので間違っているかもしれない。あしからず。



 選挙の当確予想などもそうだけれど、ある程度の集団の傾向とか性格とかなどは全部を調べなくても分かるらしい。それが大きな集団になればなるほど、その確からしさの判断は正しくなるらしい。



 で、まぁこの世界というのもある程度は分かっていて、これが起きれば多分これもあるだろうなどと予測ができる。コンピュータの世界になってその情報が大きくなればなるほど正確な判断が出来るようになる。



 どんな部分を取ってみても、必ずこの世界の縮図がそこにはあって、それをどう解釈するかは人によって色々なんだろうけれど、多分それが理といえば言えるのじゃないか。



 「人は生きてきたように死んでゆく」というのもそのことを言っているし、「末端にも本性がある」ということもそれをいっている。



 セザンヌがやっていた、やろうとしていたことも「全体が部分で部分が全体」ということで、どの部分も必ず全体の影響を受けているし、部分だけで存在することはないということではないのかな。



 だから、セザンヌは常にいつも全体を描いている。そのことがセザンヌの発見した「小さな感覚」ではなかったか。



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