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あそびべのHARU・ここだけの日々
画家・榎並和春

ANAVENTURA - 2009.10.15(未選択)


ANAVENTURA

 ネットで見つけた面白い落書き。壁の剥落からイメージした顔。同じようなことを考えている人がいて嬉しい。



 もう少し作品が見れます。ここをクリック。



はる 3039

 般若心経3

 デシャンを持ち出すまでも無く「価値の変換」というのが芸事の一つのあり方だとは思って来た。「価値の変換」というのをもっと簡単に言えば「意味つける」ということであり、「意識する」ということであり、もっと簡単に言えば「名前を付ける」ということのように思う。くだけているので微妙なニュアンスは違うかもしれない。



 茶の湯の千利休がやったことも、骨董の青山二郎などが言っていたこともこういった部類になるかな。



 けれどよくよく考えるとAのものをBと言い換えても、結局また新しいCのものが出てきて、Bの天下は一時の物に過ぎなくなってしまう。「価値の変換」などというものは小手先のことで本質的に新しいことではないのではないかな。



 で今やられていることは「意味つける」ことを止めてしまう。反対にAもBもCも同じであるとする、すべて並列に等価値になれば、もともとあっても無くてもいいということになる。



 無意味であること、意味つけることをやめること、びっくりさせてその場で終わってしまうこと、そんなことを一生懸命やっているように思えて仕方が無い。



 ところで般若心経に戻って「「般若心経とは、この世にあるものは、すべて実体のないものだから、生じたということも、滅したということもなく、汚れたものも清浄なものもなく、迷いもなく、老いも死もなく、苦しみもなく、心をおおうものは何一つなく、それゆえ、恐れるものもないので永遠の平安を極めているのです」



 繰り返しになるけれど、人類は有史以来とにかく物事を細かく分けて「名前を付ける」ということをやってきたわけだ。科学とか学問とか哲学でも芸術でも同じで、物事を理解するということはそういうことだったんだな。



 生命の設計図であるところの遺伝子なども細かく分けられてほぼその解明が終わったと言われている。それを可能にしたのはコンピュータで、もしPCがなければこんな繁雑な作業は出来なかっただろう。そしてネットがお互いのPCを繋げて新たな世界を構築した。



 ところが面白いことにより細かく、小さく小さく分ければ分けるほど一つ一つは無意味になってゆく。AもBもCほとんど区別のつかないものになってゆく。そして無限大になれば宇宙的な混沌になるような気がするな。

 



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