
闘病記12・めばえはる 1397
昨日の続きのようなは話になるかな。
私の作品の描き方は、仕上がりを決めないで描いて行くというような話をした。まぁそれでも昔はちゃんとした下絵を描いて、出来るだけそれを忠実に写す、みたいな仕事のやり方もしていた時もある。それはそれでけっこう面白い。
下絵のドローイングというのか、いたずら書きというのか、そういった自由な発想の面白さみたいなものはないけれど、仕事をつめて行くというのか、段々に近づいて行く、仕上がって行く面白さみたいなものはあったと思う。
女の人が編物をする。全体は見えていないけれど兎に角、手元の部分だけは見えているわけで、それをこと細かく丁寧に着実にやってゆけば、いずれ全体は見えてくる。というような仕事のやり方だと思う。いやそれは女の人の仕事を責めているわけではなくて、職人仕事というものはそういったものだと思う。
けれど、どこかで私はいらだってくるのだ。こんなことをやりたくて人生全てをかけたのか?ってね。ちょっとおおげさだけれど。
下絵を描いていた自由さみたいなものが、本画にも持てないだろうか、とずっと考えていた。どうなるか分からない、だめになるかもしれない、けれど先に行ってみよう、そういったあやふやな、先の見えないスリルみたいなのが、気がつかなかったけれど、好きなのかもしれない。
で思ったのだけれど、それって今の自分の生き方でもあるんだな。ある意味、定職も持たずにいいかげんなその場しのぎのパートタイムの仕事をしながら、こんなことをしている。一度は定職についたけれど、何かんだ言って止めてしまった。
安定した定職を持ちながら、ある種真剣な趣味として芸事に打ち込める人もいる。偉そうなことを言ってるかもしれないけれど、内心凄く心細い、不安なところもあるわけだ。けれどどうなるか分からない、先が見えない、だめになるかもしれない、そういった生き方が好きなのかもしれない。
たぶん、私はこうやって暗中模索で試行錯誤しながら、ふらふらといいかげんに生きて行くのだろう。たまたま自分の絵の描き方と、生き方が似ているのではない。ここはとても大切なことだけれど、実はこれは同じ事なんだと気がついた。逆にいえば、こういう生き方をしているから、こんな絵の描き方なんだ。でなければ私の絵は嘘ということになる。
違うかな?もう少し考えてみたい。また明日。