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あそびべのHARU・ここだけの日々
画家・榎並和春

絵画の平面性 1 - 2007.06.29(ポケットの窓から)
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写メ 「今日は雨」

はる 2203

 絵画の平面性 1

 とりとめもなくうだうだと、結論もありません。適当にお付き合い下さい。


 学生の頃、大学の教授が「絵画の平面性」ということをやたらと強調していた。それで、まだキュビズムの入り口あたりにいた私などは、一もにも無く感化された。

 セザンヌからはじまって、ブラックやピカソの評論や書かれたものをあさるように読んでいたけれど、そのたびに美術史をさかのぼる快感に酔いしれた。

 今までただのピカソでしかなかった絵画の巨匠が、あたかもキュビズムの誕生の瞬間に立ち会った気分になり、すごく身近に感じられ、絵画することはこういうことなんだと夢中になった。

 その頃は何の疑いもなく「絵画の平面性」を受け入れていたのだけれど、なぜ「平面性」なのか?という疑問にはだれも答えていない。

 多分どこかで述べられてはいるのだろうけれど、そこのところにはひっかかりを感じなかったということだろうか。

 で、デッサンのところでたまたま行き着いたのだけれど、洋画の立体表現と我々の線と面の平面表現との感覚の違いみたいなことは、けっこう大事なことが隠されているように思う。

 ここからは探り書きです。

 物がリアルに有る。ということを表現することは難しい。洋の東西を問わず、それぞれの手法でそのリアル感を表現しようと試みる。

 我々は左右の眼で違う映像を観ている。多視点でそれを頭の中で無理やり一つの像に結合している。物が立体的に見えているというのは、ある種バーチャルな幻想だということになる。

・・・・・・・・・・・・・・・
 横道にそれるけれど、少し前にアメリカのホイックニーが京都の竜安寺の石庭を連続撮影して、それを彼なりの秩序で並べて展示していた。多視点も多視点で百くらいの眼で捕らえたということになる。

 まぁ今をリアルに生きている状態を表現するというのであれば、そういった時間差の多視点の方法もありかなとは思った。多分記憶というメモリーもそういった連続した多視点の映像として我々のハードデスクに仕舞い込まれているのかもしれない。
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 西欧の遠近法は科学から出発した。物を如何にすれば実際に見えたとおりに再現できるか、というのが大きな命題だった。しかしまぁ、実際の我々が見ている画像が二重写しのダブル映像だとしたら、その通り再現することはできないことになる。

 透視法はカメラの原理からきている。針穴から入った光は後ろの壁に外界とそっくりな映像を映す。これを見た多くの人はこれだ!これこそ真実だ!と膝をたたいたに違いない。

 しかし、考えてみると「写真」と言う命名には嘘がある。この画像は自分たちが見たものの半分しか再現されていないのである。片目をつぶった状態の画像だ。「写真」は真実の半分だから、「半写真」といってもいい。

 絵画に詳しい人なら描かれた肖像画と写真のポートレイトとは微妙に違うことが分かると思う。まぁ私程度の人間でも写真をモチーフにして描いたか実際の物見て描いたかは何となく分かる。

 絵画の場合、自分の眼で観た二つの画像を微妙に調整して一つの物として表現されているからだ。この西欧型の立体の表現法というのは、まさに西欧の絵画の伝統なんだと思う。

 西欧型のデッサンの手法をみると、如何に見えない裏側まで描くのか、そういった物がリアルに存在することを表現するのだ、という真摯な態度、あくまでも真実を追究するのだという態度が、西欧の絵画を作ってきたんだなという気がする。

 で、例え印象派の絵画や、キュピズムのピカソなんかでも、そういった西欧の伝統の上に彼らの表現がきっちりとあるように思う。根本にあるのはどうすれば真実を伝えられるか、表現できるかということだ。

 だからこそ、反対に写真の出現には驚いた。写真の画像には裏がない。スーパーフラットなこと、ボリュームのない平面性、あくまでも見えたまま。全ての色や面が対等に自己主張している画像。これが西欧の画家たちに与えた影響は大きいだろう。それが日本の版画の出現で裏打ちされた。こんな表現もあったのかと思ったようだ。

 まぁちょうど時代が大衆消費時代に入ってきた頃とぶつかったということも大きいと思うのだけれど、ポスターとかデザインとか兎に角宣伝に印刷物が使われるようになったことも大きな原因かもしれないな。

 物がリアルにそこに存在するという命題よりも、如何に効果的に視覚的にアピールするか?ということが大事な仕事になって来た。そうやって考えてみた場合、東洋画の手法、特に浮世絵などの版画がやっていた線と奥行きの無い面で空間をあらわしてしまう考え方は新鮮だった。

 ここで「絵画の平面性」がでてくる。確かに浮世絵などの木版画は平面的ではある。そのことだけを捕らえていってるのではないということだな。そのことだけなら単に事実をいったまでだ。西洋の人達に日本の版画が影響を与えたんだよ。それだけだ。

 事実は、我々には物がリアルにそこにあるなどということはどうでもいいことだったんだということだ。見えないものはないと同じ事だったし、遠いものは上にあるものだった。物の裏側など知ったことではない。反対に変にボリュームがあっては暑苦しいと思った。

 絵は絵空事だったし、事実などそこになくてもよかった。ただ単に美しくてこの世でないありがたいものだったり、近寄りがたいものだったり、もっと身近でお祭りやおめでたい時に使って、ありがたく捨ててしまうものでよかった。

 映像の時代になって、映画はまだ昔の三次元の空間意識をもっている。けれどテレビの画像は言ってみればば印象派の考え方の究極のかたちではないかな。あれは光の点の集まりだ。あそこにはリアルな三次元の空間の意識などまったくない。全てが対等な光の点の集まりでもって表現されている。

 結局言いたいことが分からなくなった。また。



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