
はる 8196
2000「再生2」入院中の落書き 10x10cmぐらい
大学ノートに万年筆 修正液
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山梨新報10月 コラム
定期健診
2000年に悪性リンパ腫(血液のガン)のために胃の全摘手術を受けた。それまで検診など受けなかったのだが、たまたま虫の知らせか市の人間ドックを受診して引っかかった。最近でこそ悪性リンパ腫の話はよく聞くけれど、私にとっては寝耳に水、晴天の霹靂でまるで予備知識はなかった。あれから23年も経ったけれど、未だに血液検査から解放されない。加齢をへてそろそろ色んな所に不具合が出てきそうなので、こうやって血液検査をやって調べてもらえるのは有難いのかもしれない。そのおかげなのか今のところ何もでてきていない。
ガンの告知はドラマではクライマックスだ。最近では普通におこなわれているけれど、我々の子供の頃は一般的ではなかった。ガン=死病というイメージが強かったからだな。家族の中で隠し事がある、嘘をつくというのはどうしても無理がある。テレビなどではそういった心の葛藤がドラマになったりするけれど、どうにも精神衛生上よくないということで、最近は告知するという方向になったようだ。年齢や体力にもよるのだろうけれど、経験者としていうなら、告知した方がいいように思う。
告知されると最初は急激に落ち込む。誰でもそうだと思うけれど、死というのがリアルに迫ってくると今まで何気なく見過ごしていたものが急激に変化する。これが最後かと思うと何を見ても愛おしく、何を考えても泣けてきて仕方がなかった。元気なころに撮った写真など観ると涙が止まらなかった。ちょうど桜が満開のシーズンだったのでサクラをみると思い出す。次の段階はやたらと腹が立つ。何故他の人でなくて俺なんだ。俺が何か悪いことをしたか?と周りに当たり散らす。そして最終段階では落ち着いてきて、避けられないならば家族とともに病気と正面切って戦おうという気になるのだな。そういう意味でも告知は大事な治療の一かんである。
今だから言えることだけれど、大きな病気と対峙して最初は落ち込んだけれど、そのうちに「これは表現者にとってこれ以上ない経験になる」と思ったのも確かだ。生きて帰ってきたから言えることかもしれないが、不遜だけれど生きるか死ぬかそのものが表現の神髄に近いわけで、これをダシにして一回り大きな表現にたどり着くのではないかと考えたのは表現者の性かもしれん。しかし、本当の表現はそのことには関係ない。何気ない日常にこそ本質があるように思う。
定期健診を受けると当時の事を思い出す。健康には気を付けろと言われているようだ。