
はる 7741
山梨新報7月エッセイ
「マチネの終わりに」( 平野啓一郎)を読んで。
子供の頃をふり返ると漫画以外本は読まなかった。学期末の通信表には毎回「もっと本を読むように」というコメントが常套句のように書かれていた。強制される読書ほど苦痛なものはない。本にうつつをぬかすより実生活の方が何倍も面白く忙しかったからな。その反動なのか、大人なってからやたら乱読になった。しかし、大きくなってからの読書は暇つぶしなので教養にはならないように思う。
読んだ本は溜めないでリサイクルする。今回はたまたま平野啓一郎のこの本を見つけた。「マチネ」というのは午前中の演奏会の事で夜の本番に比べて若干安いコンサートのことらしい。いいタイトルだな。平野は最近さかんに政治的な発言をツィッタ―などでしていて、この国ではほとんど沈黙している文化人の中では注目していた。どう書けばいいのかな、物語が重層的に進んでゆく。読みはじめたら朝になっていた。今日は寝不足だ。
主人公の彼は高校生の時にすでに世界的なギターコンクールで受賞するなどして天才ギタリストとして将来を嘱望されていた。順風満帆にみえた演奏家としての道も20年近く経って、何となく転換期をむかえていた。クラシック音楽の中でもマイナーなギター演奏家というたち位置で、コンサートを中心にこのままやって行くには少し無理がある。ポピュラー音楽を混ぜることで底辺を広げてゆくのがいいのか、時代的にはCDからネット配信に移り変わろうとしていた時期でもある。不惑というけれど40歳という歳は男であれ女であれ、人生の中間点でもあり色々と惑う時でもある。
こういった文学の面白いところは、主人公と同じように自分の人生を振り返ることだ。私の40代は何をしていたのだろう。天才的な芸術家という設定は私には無縁のものだが、このままのスタイルを続けていって何とかなるものだろうか?と疑問が生じてきた頃でもある。
ヒロインがまた非常に魅力的な女性だ。反体制的なユーゴスラビア人である映画監督の父親との関係、アメリカによるイラク侵攻、それによるテロの後遺症、難民など当時の世界的な世情が彼女の周りを賑やかす。もっともそこだけ聞けば取ってつけたようだけれど、物語はその部分を知らないと深くは理解できない。この物語のどこに惹かれたのだろうか、芸術の意義みたいなものか。例えば今回のウクライナ戦争でも同じように戦禍を避けて多くの人が難民となる。今まで普通に生活していた場が戦禍にまみれる。身近な人の死。戦争はそんな極限状態の場だ。そんな場では芸術は直接的には何の役にもたたない。無能だ。けれど、本人は意識はしていないけれど、芸術はそんな極限の場で心の拠り所になりえるのだな。そうでなければ人生をかけてやる意味もない。詳しくは実際の本にあたってもらおう。
バッハのチェロの無伴奏組曲が通奏で流れている。
https://www.youtube.com/watch?v=enFPJcHv-s8