
はる 7268
明日の山梨新報の原稿
36 「革命前夜」を読んで
須賀しのぶ の「革命前夜」を読む。解放前1989年前後の東ドイツに音楽留学した学生の話。そこかしこにバッハの音楽が語られていて、言葉で音楽を語るとこういう風になるのか、バッハをこんな風に語ることが出来れば最高だなと、昔読んだ若いピアニストたちの群像「蜂蜜と遠雷」(恩田陸)を連想する。ちょうど1989年という年は私が東京で個展をして活動し始めた時と重なるので、何となく臨場感が半端ない。ぐいぐいと引き込まれていく。時代は昭和から平成へ。
同じく他の国からの留学生との競い合いがあるわけだけれど、それが今どきでは珍しく半端なくていい。西側から東側に留学する学生というのは少ないらしい。それ故、北朝鮮から来た学生やベトナムからの学生から見ればなおのこと、お前はこんな不自由な国に何しに来たみたいな話になる。お前には帰る場所がある。俺は国を背負って来ている、必ず成功しなければならないし、必ずする。帰る場所のあるアマチュアと一緒にしないでくれ、とはっきり言われる。なるほどなぁ、そうなんだ。ステートアマとかいうけれど、もう根性や気構えがまるっきり違うんだな。主人公は留学の目的を「音の純化」みたいなことをいうのだけど、彼らから見ればまるっきり寝言にきこえる。
表現は自分探しなどといわれる。しかし、自分と他人が違うことなど当たり前のことで、そんなところに留まっていては話にならない。昔盲目の高橋竹山の話をどこかで読んだけれど、好きだとか嫌いということじゃない。死ぬか生きるか、もう後に引けない、そこまでの覚悟があるかどうかを問われるんだな。
気に入った部分をちらっと「・・水のような音。・・ごく単純に一般化された国民性をそれぞれの個性に当てはめるのはばかげているし、危険な行為だが、異文化の中に単身放り込まれれば、否応なく「お国柄」を意識することになる。個人を作り上げる素地の、最も大きな面積を占める部分なのだから、思えば当然のことだ。・・・」
物語はそんな話が主題ではありません。自由がない国というのはどういったものか、ベルリンの壁が崩壊し国が大きく傾いて、時の流れに翻弄されてゆく若い音楽家たちの姿が書かれています。バッハの音楽が通奏低音で流れている。
世界中の国が大きく変わろうとしている。この国将来を考えると今ここで変わってゆかねばと思うんだなぁ。