
はる 6826
時々考えるのだけれど、例えばエジプトのミイラが博物館や美術館で展示されることがるよね。いやミイラそのものよりもその副葬品の素晴らしさに私たちは新鮮な驚きを感じるわけだ。また例えばアフリカのドゴン族などの穀物倉庫の扉とかお祭りの仮面とかその衣装に感動するわけだ。近代の美術シーンに大きな影響をもたらしたことは間違いない。
我々はそれをまぁ手っ取り早く見るために博物館なり美術館にいって解説を読みながらフムフムと鑑賞するわけだ。実際にアフリカに出かけたり、エジプトには出かけられないから、その代用としてそういった施設に出かける。それはそれで一応の意義がある。多くの人を啓もうするという意味では価値があるのだろう。
けれど、その物にとっては有難迷惑以外ないだろうなと思うわけだ。ミイラにとってピラミッドはお墓であるわけだ。その埋葬品は権力の象徴だったりするわけだな。アフリカの現地の人にとってそれは飾り物ではなく、自分たちの信仰の対象だったりするわけだ。
教会のフレスコ画などもそうだけれど、教会の壁からはがして美術館や他の展示施設に保存すれば、確かに環境的にはその方がいいかもしれないが、そこでその役目は終わってしまう。魂の抜けた只のものになってしまう。どんなに高尚で優れたものであっても、それは単にモノになってしまう。
水族館や植物園、動物園もそうかな、それは疑似的な自然ではあるけれど、本来の姿ではない。決してそれが悪いと言ってるわけではないのだけれどね、なんだかそれが本来の姿だといわれると違うと思うのだ。美術館でも徳島に大塚美術館というのがある。ここはすごいよ。システーナ礼拝堂のミケランジェロからスクロヴィーニ礼拝堂のジョットまでほぼ同じ大きさの壁画までそっくり同じように観ることができる。まことに日本的な発想の美術館だ。
どうなんだろう。仏画や障壁画、仏像にしても本来お寺や墓にあるべきもので、それを取ってきて他の場所に置いてもそれは違うのじゃないかと思うんだな。美術館や画廊というのは仮の安置場所であって、便宜的にその場を借りていると考えた方がいいのじゃないかな。本来あるべき場というのは、自ずからきまってくるのじゃなかろうか。