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あそびべのHARU・ここだけの日々
画家・榎並和春

かぶきものF0 - 2018.05.31(作品)

はる 6238
 タイトルをずっと考えていて、最初はただのピエロだった。それでもよかったのだけど、なにかもっとぴったりするタイトルがないか、考えていた。この顔の縞々は元々の布の模様で私が描いた訳じゃない。たまたまここに顔が出現した訳で、最初から顔を描きたかった訳じゃない。

 けれど、このしましまがこの人の顔にぴったりと合うから不思議だな。囚人みたい。アイヌのひとの入れ墨のようにも見えるな。。などと考えていた。もともと私たちは体に模様を描いたりすることに抵抗などなかったのじゃないかな。化粧などみるとそんな気がする。アフリカの人たちを見ると、ごく自然に体に模様を描きこんでいる。あれは自分を目立たせるためというより自然と一体になる、自分を隠すというような意味がある気がするな。

 サーカスのピエロ。歌舞伎のくまどりなどはどういった意味があるのだろうか。かぶくというのは傾くとかふざけるといった意味があると聞いた。そんなところから「かぶきもの」というタイトルが浮かんだ。



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今日のアトリエ - 2018.05.30(ポケットの窓から)


はる 6237
 どうも昨日までのカウントもずれてましたね。いつの間にか5千だいになっていました。ついこの間も間違えていました。いよいよこういったこまめな作業が間違えるようになってきましたね。面倒ですから過ぎてしまったカウントは直しません。まぁ誰も気にしていないでしょうからね。私だけ意味あることですから。なんだか結構疲れています。きょうはここまで。

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2018「思いがけぬ邂逅」F10部分未完  - 2018.05.29(作品)

2018「思いがけぬ邂逅」F10部分未完 

・・・・・・・・・・・
一行の詩のためには、
 あまたの都市、
 あまたの人々、
 あまたの書物を見なければならぬ。
 あまたの禽獣を知らねばならぬ。
 空飛ぶ鳥の翼を感じなければならぬし、
 朝開く小さな草花のうなだれた羞らい(はじらい)を究めね ばな らぬ。
 まだ知らぬ国々の道、

 思いがけぬ邂逅。

 遠くから近づいて来るのが見える別離。――
 まだその意味がつかねずに残されている少年の日の思い出。
 喜びをわざわざもたらしてくれたのに、
 それがよくわからぬため、
 むごく心を悲しませてしまった両親のこと……。
 さまざまの深い重大な変化をもって不思議な発作を見せる
 少年時代の病気。
 静かなしんしんとした部屋で過ごした一日。
 海べりの朝。
 海そのものの姿
 あすこの海、
 ここの海。
 空にきらめく星くずとともにはかなく消え去った旅寝の   夜々。
 それらに詩人は思いめぐらすことができなければならぬ。
 いや、ただすべてを思い出すだけなら、
 実はまだなんでもないのだ。
 一夜一夜が、
 少しも前の夜に似ぬ夜毎のねやの営み。
 産婦のさけぶ叫び。
 白衣の中にぐったりと眠りに落ちて、
 ひたすら肉体の回復を待つ産後の女。
 詩人はそれを思い出にもたねばならぬ。
 死んでいく人々の枕もとに付いていなければならぬし、
 開け放した窓が風にかたことと鳴る部屋で
 死人のお通夜もしなければならぬ。
 しかも、こうした追憶を持つだけなら。
 一向なんの足しにもならぬのだ。
 追憶が多くなれば、
 次にはそれを忘却することができねばならぬだろう。
 そして、
 再び思い出が帰るのを待つ大きな忍耐がいるのだ。
 思い出だけならなんの足しにもなりはせぬ。
 追憶が僕らの血となり、目となり、表情となり、
 名まえのわからぬものとなり、
 もはや僕ら自身と区別することができなくなって、
 初めてふとした偶然に、
 一編の詩の最初の言葉は、
 それら思い出の真ん中に思い出の陰からぽっかり生れてくる だ。
 
            リルケ「マルテの手記」より
 


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今日のアトリエ - 2018.05.28(ポケットの窓から)


はる 5235
 新しいコラムを考えました。というのか古いコラムのニューバージョンです。今回は少し難しいかもな。
・・・・・・・・・・・・・
何を描くのか
 絵画は印象派あたりで、画家は絵を描く職人だということから自由になった。自由になったはいいけれど、じゃぁ「何を」描けばいいのかということが一大命題になった。 まぁいわゆるアーティストになったということだけれど、その「何を」ということを考えない作家はいらなくなったということだな。

 で、印象派がやった重要なことは、今までヤニっぽい中に押し込められていた色彩を解放したことだ。今では常識になっているけれど、色は光の再現なんだということに気がついたんだな。まぁちょうど科学が発達して印刷や写真その他の出現も作用しているとは思うのだけれどね。で、そこからカンジンスキー やクレー なんかの抽象絵画もでてくる。

 同じ印象派でもセザンヌ が考えたことは 少し違っていた。絵というのは突きつめれば「平面に置かれた秩序だった色の点の集まりだ」と考えた。見たままというより自然を自分の意思で再構築するということが彼にとって重要命題だったわけだ。そこからブラックやピカソ の立体派(キュピズム)がでてくる。ここまで来ると、いよいよ物を具体的に描き表すということから離れて行く。

 印象派が色彩を解放したように、例えば絵画は単に色のついた板だ考えると、絵の具は色の粉なだし、ノリに油を使うか膠を使うかアクリルなのか、キャンバスは布でも紙でも板でもいいというふうに自由に選択できるようになってくる。今手に入る画材で表現することが現代絵画だとするならその選択も「何を」の一つになるだろう。

 いずれにしろ、今を生きている我々が何を考えて、何を感じたのか、どんなかたちであれ自分なりに解釈して「今」を表現することが作家の使命だと思っています。



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ゴーシュの会 - 2018.05.27(ポケットの窓から)


はる 5234
 美術館のロビーコンサートです。私が師事している師匠のグループです。私はとても皆さんとやれる実力もないので参加していません。ここはアマチュアのための発表会のスペースです。でも県内の音楽愛好家が発表する場としてここは最高の場所ではにだろうか。ちょっとした会場を借りてもお金がかかりますし、それに他の場所だとわざわざ来てもらう必要もあるからね。ここはそんなに敷居が高くないし、周りの環境もいいからね。毎週何かしらの発表をしている。アマチュアにとって発表できる場というのはとても大事なことだ。経験を積むことで度胸もつくしな。

 内緒だけれども、再来月には発表会がある。それに向けて練習はしていますが、いまから緊張していますね。

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今日のアトリエ - 2018.05.26(ポケットの窓から)


はる 5233
 さて今日も一日過ぎてしまった。何を書こうか。

 展示会は面白い。音楽家ならコンサートだな。役者ならお芝居でしょう。絵描きなら個展だな。私は年に何回も色んなところで展覧会をする。人によっては良くやるねということになるか。でもまぁ私は絵を描くことも楽しいけれど、展覧会で人に会うのも楽しいな。言ってみればワンマンショーみたいなものだ。一人芝居みたいなものだ。

 一人で悦に入って眺めていることも嫌いじゃないけどね。それを出来るだけ多くの人に観てもらいたい。私の考えた今出来立てのメッセージを聞いてほしいと思うのだな。どうでしょう、こんなふうに思ったのだけど聴いてくださいと問いかける。そんなので生きて行けたら最高だな。

 やっぱり時間がかかるな。でもまぁ諦めたらそこまでだ。前に進むしかない。

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ポケットの窓から - 2018.05.25(ポケットの窓から)


はる 5232
 山梨新報の新しい記事が出ました。ということでそれを転載しておきます。ただこのブログを読んでいる方には珍しくない話です。それもそのはず、ここで一度書いた記事を新聞用に書きなおしたものですからね。
・・・・・・・・・・
「絵を観る事」
デパートで個展を始めて10年になる。町場の画廊とは不特定多数の人を相手にしていることが大きく違う。私の作品は見た物をそのまま描いたものは少ないので、ほとんどのお客さんは私の絵に関心なく素通りする。

それでも時々絵を観て足を止めて「なんだこれは」と不思議そうにそろりそろりと入ってくる人がいる。まったく存在さえしないかの如く無視する人もいるわけだからその違いって何だろう。単に興味がないというだけなのかな。

 どこかに惹かれる、引っかかりを感じるということはどういう事なんだろう。それは単に色なのか、形なのか、絵肌なのか、どこかで観たような色や形だったのか、それとも不快だったのかもしれないな。気持悪いとか。いずれにしろ何らかのきっかけで気持ちが動いたわけだ。それでもまったく無視されるより数倍嬉しい。

 絵の中にはその人のカケラが隠れていると思うんだな。それが何だか本人さえ分からないカケラなんだ。それが心をチクチクと刺激する。ひょっとしたら子供の頃にみた夕焼けの色だったかもしれない。土遊びした湿った泥の感触かもしれない。どこかで観た映画のワンシーンかもしれない。そこに本人の記憶のカケラが隠れている。

 絵を観ることでそんなことを思い出すきっかけになればいい。作家が提示したものと同じでなくてもいいんだ。いや同じであるはずがない。生きてきた過程がみんな違うんだもの。そうやって心の中を探って行く道具になればいい。そうでなければ絵や文学や芸術を鑑賞する意味がない。

 優れた技能や才能を堪能するするのも一つの鑑賞の仕方だと思う。けれどそれだけだとまだ不充分だ。そこから始まってさらに自分の記憶の旅に出ることで楽しみはもっと増えると思う。それが本来の芸術の楽しみ方ではないのかな。さぁ絵を観て自分のカケラを探しに行きましょう。


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今日のアトリエ - 2018.05.24(ポケットの窓から)


はる 5231
 何だかな、また同じ組内で葬儀がある。今日が通夜で明日が本葬。年寄りが多いという事なんだけれどね。どんどん構成員が減って行く。若い人がいないというだけではない、人がいなくなる、町が寂れて行く。

 しかし、昔のように町内に子供があふれていて、小学校は臨時の校舎が建って活気にあふれているというのが本当にいいのかどうか、活気にあふれていたものはいずれは成熟してそして寂れて行くのだろう。昔はよかったと振り返るばかりじゃどうにもならんぞ。

 成熟した社会というものがどういった理想を持っているのか、どんな町にしたいのか国にしたいのか、そんなことをじっくり考えて行くべきときかもしれんな。

 国は小さく、人も少なく、それでも豊かに暮らせる方法というのがあるように思うのだ。昔ながらの方法で国に力があるというのは力こぶを見せることじゃ発展性がない。もっともっと違う方法を考えるべきだ。

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ポケットの窓から - 2018.05.23(ポケットの窓から)



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ポケットの窓から - 2018.05.22(ポケットの窓から)


はる 5229
 この家は50年ほど経った安普請の中古住宅だ。それでも当時の建築状況では新建材は使われていなくて、壁は竹の格子を縄で編んで作った小舞と荒土で出来た下地の上に仕上げに漆喰を塗っている。それだけでもなかなか最近はお目にかかれないものだ。まぁ当時はそれが当たり前だったのだけれどね。

 子供の頃家を建てる現場というのはワンダーランドでよく見に出かけた。というのか大工さんのいなくなった建築途中の家に入りこんだりもしたな。大工さんや左官屋さんの仕事は実に興味深かった。土壁の作り方竹の編み方などもじっくり見ていたものだ。布糊を一斗缶でたいて漆喰に混ぜていたりしたな。今はもうそんな手のかかる仕事はしないだろう。

 この家を自分好みに改修するのはとても楽しいことだったな。どう住まうかというのは私にとってどう生きるかに匹敵する重要事項なんだな。私の絵はこの住まいの延長上にある。

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今日のアトリエ - 2018.05.21(ポケットの窓から)


はる 5228
 布と同じように少し紙でやってみようかと、千代紙を買ってきて普通の画用紙にコラージュしてみた。千代紙はそれだけで結構美しい。それを切り貼りする手法は本阿弥光悦など琳派の連中がやっている訳で何も新しくない。高村千恵子の貼り絵なども有名だな。しかし、なんとも楽しい作業だった。もうこれで充分作品になっているのじゃないか。これ以上さわればすべてがだめになりそうで恐ろしいな。

 しかし、これで終わってしまったのではただの幼児のいたずらみたいなもので、作品としてなにも喚起しない。これを壊しながら何処まで作品にできるのか試してみたいと思う。乞うご期待。

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ポケットの窓から - 2018.05.20(ポケットの窓から)


はる 5227
 家の玄関を改装するときに参考にしたのは白洲正子の武相荘という自宅の写真だった。今こうやって写真をみると全くよく似ているな。もちろんクオリティははるかに低いのだが、雰囲気はマネできたかな。

 庭を作る時も外国の小さな庭の写真や京都の坪庭の写真をよくみた。あこがれてもそっくりそのままマネすることはできない。なんとかそのエッセンスだけでも吸収できないものかと試行錯誤する。それがまたおもしろい。

 こういう風に住みたい。こんな風なエントランスにしたい。こんなキッチンにしたい。などその時々にいろんな写真や雑誌をさんこうにする。住むということに関して子供のころから関心があった。インテリアとか今の言葉で言うならエクステリアかな。

 私の絵はそんな自宅に飾りたいという延長上になるように思うな。そこが原点になっている。

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ポケットの窓から - 2018.05.19(ポケットの窓から)


はる 5226
 これは私のブックカバー。何処に行くにも持って歩いています。故にほとんどボロ布状態。東京の地下鉄などに乗ると自分が如何に田舎者かがわかる。誰もがみんなスマホを見ている訳で、そうでない人を探すのが困難なほど。そんな中であえてこのボロ布を広げて読んでいると自己満足ですが凄く気分がいい。しかし、自分もスマホを持っているので観たい気持ちはよくわかりますが、みんながみんなスマホを見ているのはけっこう気味が悪いものだ。電車の中スマホ禁止にすればいいのかもしれません。

 旅芸人のようにあちこちに出かけてホテルに滞在することが多いのですが、ほとんどどこにも出かけません。大体会場の画廊に居るかホテルに居ますね。どこかに観光に出かけることも少ないな。で、ホテルで早めに風呂に入って本を読むというのが大体のパターンだな。そうこうしている内に疲れて寝てしまうというのがいつものパターン。何もやることがなく本しか読めないというのがまたいい。今回の旅では何を読むのかというのが結構な楽しみの一つだったりする。まぁ暇つぶしの読書だけれどね。それでもこの歳になって読書の楽しみを知ったというのは大きいな。もっと若い頃にこういった読書の楽しみ意を知っていれば違った生き方をしていたかもしれんな。

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今日のアトリエ - 2018.05.18(ポケットの窓から)


はる 6225
 あぁあ・・・・袋詰め終了間際になって重大な印刷ミス発見。リーフレットじゃなく私のメッセージの方。気がついてしまったら仕方ないもう一度全部やり直し。気が遠くなる。今日の仕事はほとんど無意味になってしまった。

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うら - 2018.05.17(写真)
阪急bt
はる 6224
 いつまでもこんな時間が続いてゆくものだと勘違いしている。時間は有限なんだな。それは頭のどこかではわかってはいるのだが、いつもはまるで忘れてしまっている。健康もそうだな、元気でいる時はほとんど体の事など考えていない、熱が出たりどこか不調になって初めてあぁ健康というのは有難い事なんだと理解する。

 今が一番いいかな。こんな時間は長くは続かないような気がするな。どうなんだろう。



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阪急リーフレット - 2018.05.16(写真)

はる 6223
 5/7からのカウントが間違えていましたね。このカウントが正解です。ブログのカウントは面倒なので変更しません。あしからず。

 定時制の生徒をみていますが、ここ十年ほどで随分と生徒の質が変わりましたね。昔はけっこうごんたくれが多くて授業をまともにするのがしんどいなぁと思ったことも有ったのですが、最近の生徒はどちらかといえば不登校気味の生徒が多くて随分と大人しくなった。まぁ授業は真面目にやってくれるので楽にはなったけれど、そうなるとなんとなく物足りなく感じるな。一クラスが七人くらいなので、むらの分校のような感じ。


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国展 - 2018.05.15(ポケットの窓から)


はる 6131
 少し忙しくしていました。いや、まだ最中といいかもしれませんね。東京で国画会の大きな展覧会があって、審査に三日ほど付き合ってそのあと千葉で個展がほぼ同時にありました。その後国画会の方は昨日撤去作業のお手伝いなど、バタバタとしていました。その間に組の葬儀が有ったり、知り合いの奥さんがも亡くなってさらにバタバタに輪をかけました。この週中には個展の絵も帰ってくるでしょうしね。

 六月の終わりには大阪の阪急デパートで大きな個展が待ち構えています。今回はドローイングも出さないかということでちょっと実験的にやってみるつもり。上手くいくかどうかそれもやってみないとわからない。準備もそろそろ始めなくてはなりません。気持ばかりあせってもなかなか自由になる時間が取れなくて少し焦っています。絵の方はもう準備は出来ているのですが、もう少しいい作品をそろえたいなどと思うと、気持ち的に時間が欲しい。

 私のライフスタイルは個展が中心に回っています。年に四回も五回も展示会をやるのですから当然ほとんど小品ばかりです。絵を描いてそれを生業にしている訳だから売れなければ生活ができません。だから当然売れるかどうかが判断の大きな基準になります。だからといって必ずしも売れる絵を描こうとはしていない訳で、そこのところに大きな矛盾があります。

 理想的には自分がいいと思った作品がコレクターの目に留まって売れるというのが一番幸福なあり方なんでしょうけどね。そういう絶対的な法則というのはありません。まぁだから自分の眼力を信じるしかない訳です。

 団体展の作家などはほとんど年に一回大きな作品を描いて作家ですと言ってますが、私から言わせてもらえばそれは絵描きではありませんね。他に例えば大学で教えていたり、カルチャーで教えて居たりして食べている訳だから、職業は作家ではなく講師でしょうね。

 まぁだけど、売ることを目的に描かない大きなサイズの絵を描くということに不思議な自己犠牲的な陶酔感が有るのは私自身そういう立場にいるので分かる気もします。

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ポケットの窓から - 2018.05.14(ポケットの窓から)



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裸婦クロッキー2018/5/13 - 2018.05.13(裸婦クロッキー)
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はる 6129
 今日はクロッキー。いつも楽しみにしているのだけれど、今日は上手くいかなかった。最初の一発目はほとんどフリーな線で遊ぶことにしている。自由に出来るだけ筆をあそばせるくらいの方が後肩の力が抜けていいクロッキーが出来るのだが、ここまではよかったのだけれど、木炭に切り替えてから上手くいかなくなった。理由はよくわからない。モデルさんとの相性もあるかもな。

 明日は国展の最終日片づけのため午後から美術館に詰めています。よかったら声をかけて下さい。



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五月の庭 F4部分 - 2018.05.12(作品)

はる 6128
 今日はパスします。


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三笑之図 - 2018.05.10(作品)

はる 6126
 笑い飛ばしましょうということか。
三笑とは
東晋時代(五世紀)。中国南方の廬山に庵を建てて隠棲していた慧遠禅師のもとに、ある日、親友の陶淵明と陸修静が訪れる。三人は近くの滝などを眺めて風雅な情景をたたえ、庵の周りに生えている菊の花を愛でて酒を飲み、興に乗じて舞を舞うなど、至福の時を過ごす。やがて二人が帰る刻限となったので、禅師は見送りに出るが、庵から遥か遠くまで来たところで、禅師が年来庵から離れないという誓いを立てていたことを思い出し、三人はどっと笑う。


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今日のアトリエ - 2018.05.09(ポケットの窓から)


はる 6125
 病院に行って毎回ビタミンの注射をする。胃を全摘した場合必然的にある種のビタミンが不足からで、それを強制的に補うことが必要らしい。まぁそれはそうだろうと納得する。ところが何が嫌かといえば、若い看護婦が「はい、注射しましょうねぇ~」などとまるで子供をあやすようにいう事だ。毎回違う看護婦なんだけれど、すべて共通して同じような接し方をする。これはそういう教育をしているのだろうか。私がそれなりに年寄りに見えるからかもしれないが、今後ますますそういった態度に出られるのかと思うと、結構憂鬱だな。

 看護はしてもいいけどまだ介護は必要ない。

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ポケットの窓から - 2018.05.08(ポケットの窓から)


はる 6124
 冷たい雨が降っている。何だか少し落ち着かない日々を送っている。まぁこの一週間は仕方ないだろうな。

 この地方のローカル新聞に挿絵とエッセイをほぼ一か月に一回書くことになった。挿絵は何回か書いたことはあるけれど、エッセイと一緒にというのは初めての事だ。といっても新しい事などとても書けないので、今までこのブログに書いた中から使えそうなものを800字ぐらいにまとめて掲載してもらうことにした。ただ文体がどうしても「ですます」が苦手なのでどうなんだろう。「文切り」型だと偉そうにみえるかもしれん。この間第一回が出た。

エッセイ1「はじめまして」     榎並和春

初めてお目にかかります。何かの縁で絵とエッセイをかかないかというお誘いがあり始めてみることにしました。生業は基本的には画家という事になっています。ですから、絵の事に関してはかなりのことを自分の言葉として実のある話が出来る自信がありますし、いままで考えたことがないような事でも何かしら臨場感を持って話を展開することができます。ところがそれ以外の事は上手くしゃべれる自信がありません。やってみないと分かりませんが。そんなことで不慣れな文章で読みづらいかもしれませんが、よろしくお付き合いのほど。さて、最初の話題に何を選べばいいのでしょうか。やはり絵に関しての最初の思い出から書きます。
あれは幼稚園に通っていた頃だ。幼稚園などというところはたぶん当時も今もあまり変らないのじゃないだろうか、お話を聞いたり、お絵かきしたり、お遊戯したり、お歌を唄ったり、そんなことで一日が過ぎてゆく。年に一度の学芸会のようなものがあって、秋の虫の音楽会というふうなテーマだった。それぞれが何か虫の被り物をしてカスタネットやタンバリンを叩いてがしゃがしゃやっていたのだ。そのバックの大きな模造紙に色々な虫の絵を描いた。みんなはちまちま幼児っぽい何かを描いていた。一人の女の子がたっぷり緑の絵の具を筆に含ませて模造紙いっぱいのカマキリをかいた。それを見て私は子供心にやられたと思った。というのか、こんなやり方があったのかと非常にショックだったのを未だに良く覚えている。
あれ以来常識を疑うことにしている。驚かすことが表現の目的ではないけれど、人目を惹かなければ見てもくれない。そこらあたりの兼ね合いが表現の要かもしれない。



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夢のつづき 部分 - 2018.05.06(作品)

はる 6212
 GWは家の中の片づけに終わる。昨年も一昨年もそうだった。なかなか一気に片づけることが出来ないらしい。おかげ様で三年がかりでやっと終了したようだが、そうすると一番先に片づけた納戸がまたごちゃごちゃとしてきた。ここもまた断シャリしなきゃならんようだな。いつも片づけると瓦礫の袋が何袋もでる。なんだかな、ゴミばかり集めているようだ。

 ブルーの絵は気持ちがいいらしい。結構評判がいいのは嬉しい事だけれど、まぁだまされやすいということでもあるのかな。


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作品 - 2018.05.05(作品)

F130「ところかまわず寝たのです」F100「ささげもの」
2018 92回国展出品作
はる 6211
 162x324cm其々が別の絵ですが、つなげて展示しても違和感がないと思う。左「ところかまわず寝たのです」右「ささげもの」
共通することは何だろう。喜捨とか五体投地とか投げやりではなくてね、捨てることで得ることがある。そんなことだろうか。
五体投地 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/五体投地

五体投地(ごたいとうち)とは、五体すなわち両手・両膝・額を地面に投げ伏して、仏や高僧などを礼拝することである。仏教において最も丁寧な礼拝方法の一つとされ、対象への絶対的な帰依を表す。 挙体投地、五輪投地ともいう。 日本では、主に下記の宗旨で行われる礼拝方法。



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ポケットの窓から - 2018.05.04(ポケットの窓から)


はる 6210
 今日は気持ちのいい五月晴れだった。遠くの山ももやもやと芽吹きだしたようだ。今が一番うつくしい。誕生日過ぎて六十六になったけれど、実感はあまりないな。こういった日々が永遠に続く気がするのだけれど、いずれは終わりがくるのだろう。ある意味こころの準備だけはしておいた方がいいのかもしれん。

 ネットなどで色んな人の作品を観るけれど、日本人の作家の作品は全体的に幼稚なものが多い気がする。これは国民性なのか良くわからないけれど、若い人の作品が未熟であるというのは分かるけれど、いい加減いい大人の作品もグレードというのか質は低いと思うな。それともネットなどに発表する作家はその程度のさっかで大人の作家は相手にしていないのかな。外国の作家は物凄い量の作品をネットにアップしている。表現しよう、他人に伝えようという意欲は外国の人は素晴らしく旺盛だ。友達申請はほとんど受け付けないが、それでも訪ねてみると作品のストック量は物凄いものがある。

 自分から打って出ない、奥ゆかしい、出しゃばらない、というのが日本人の特質なんだけれど、こと表現という事でいいえばかなり損してるなと思う。例えば今回のアベサンの件なんかでもお隣の韓国じゃ吊るし上げで弾劾されてしまうだろう。どうにもやるせないのだが、我々は大人しすぎるな。もっと声を出して表現して行かねば国際社会から置いてきぼりだよ。

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畑仕事 - 2018.05.03(ポケットの窓から)


はる 6209
 今日は畑仕事。というほどやってはいないのだが、苗を買って植えたら新鮮で無農薬なものが食えるというだけの事で、大して安くはないよな。それでも毎年こうやって畑仕事ができるのは楽しい事ではある。田舎に住んでいる最大のメリットかもしれん。

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キッチン - 2018.05.02(ポケットの窓から)


はる 6208
 人は面白いもので、自分に関係がある興味がある時のみ見えてくるもののようだ。例えば自分の家を新しくしようと思った時見えてくるのはどんな家にしようか、在来工法なのかツーバイフォーにするのか、壁の色や屋根の色、瓦がいいのかトタン屋根にするのか、一生懸命そこらにある家を観察する。今まで何気に見て居たものが急激に親近感を持ってみる。さて家が出来てその内装を考える。これがまた大変な作業だ。ほとんどの場合そんなものは嫁はん任せで旦那はタッチしない。まだまだある。電気のスイッチ一つ、照明はどうするのか、選ばなくてはならないものが山の如し。それもまぁ楽しみといえばそうなんだけれどね。

 大体において、日本男子は家の事に無頓着だ。どんなふうに住むか、住まうか、みたいなことは学校を選んだり、会社を選んだりすることより後回しにされる。もちろんどんな仕事をするかというのは人生の一大事だ、それによって多くの事が決まってしまうのは確かな事だけれどね。本当とうはそれ以上にどう住まうか、どう暮らしてゆくか、ということの方がもっと大事じゃないかと思う。そこの部分あまり男子は立ち入らないことだけれどね。

 どう住まうか、というのはどう生きるかに深くつながっている。そこの部分をしっかり考えることが人生を楽しむ秘訣になるのじゃないかな。それは例えば効率よくとか簡単にという選択ではなくてね、より楽しくかっこよく美しく丁寧に生きるかという事につながって行く。音楽や美術や家庭はそんなことのためにあるのだな。習うものではなくて実践して楽しむものでしょ。

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帰宅途中 - 2018.05.01(ポケットの窓から)


はる 6207
 しばらくぶりです。国画の準備と自分の個展が重なって一週間ほど留守にしていました。スマホなので更新できるのですが、小さい画面で文字を打つのが面倒なので写メだけの更新になりました。

 団体展の方はいつも通り千点近くの作品を三日ほどかけて審査して行きます。私は授業があったので後半しか参加していませんが、それでもまぁ大変なエネルギーを感じます。

 私の参加している団体の特徴はどちらかといえば工作系というのか造形遊びの延長上にあるような作品が主流のように思います。これは自分の勝手な解釈なので違うという方もいるかもしれません。写実的な風景や人物をまともに描いてもあまり受けません。入選すればいいぐらいの評価しかうけません。審査していてこれは他の会に出品すれば最高賞だろうになと思うことも多々あります。会風というのはとても大事でしょうね。

 昔はおもちゃ箱をひっくり返したような会場風景がなんとも違和感があってうんざりしたものですが、最近はこんなやりかたもいいのじゃないか。いっそはちゃめちゃな混沌も愛い奴だなと許せるようになりました。この死に物狂いのエネルギーは大事な物じゃないかな。けっして美しくはないけれど。

 山口画廊の個展は楽しかった。どちらかといえばいままではある程度歳を経た人たちを相手にしていたのだが、若い人たちがこういった小さい町の画廊に足を運んでくれればまた違った場が出来るのではないかと思った。

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画家・榎並和春です。HPはあそびべのHARU・ここだけの美術館

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