あそびべのHARU・ここだけの日々
画家・榎並和春

2016/07/31 - 2016.07.31(裸婦クロッキー)



DSC02273.jpg


DSC02274.jpg 

DSC02275.jpg


DSC02277.jpg

DSC02276.jpg

はる 5581
 クロッキーは毎回実験のようなところがある。故に上手く描けたと思う時と全く駄目な時が交互にやってくる。他人がみれば同じように見えるこんな些細な描画でもその日によって仕上がりが大きく違うから不思議だ。

 このところ描画材に木炭を使っている。木炭の墨色が美しいということもあるのだけれど、それより物を全体で捉えることが出来ることが新しい刺激になっている。かなり幅広の面を一気に捉えることが出来る。一番下の描きはじめは線など一本もなくて木炭の薄い地塗りしかない。それでも人物を感じさせることができる。こういったことは鉛筆ではできなかった。

 物というのは細かい部分の集合体で出来ている。放っておくとついつい目だとか鼻だとか乳房だとか手に目が行ってしまう。確かに人物の場合顔にいちばん興味が行く。これを上手く描きたいという欲求は常にあるのだけれどね。クロッキーの場合これにとらわれるとろくなことはない。


comment(0)

ポケットの窓から - 2016.07.31(ポケットの窓から)



comment(0)

今日のアトリエ - 2016.07.30(ポケットの窓から)
はる 5580
 色んな色の布をコラージュします。基本的には綿や麻などの自然素材ですが、最近はそれもあまりこだわらなくなってきた。何故なら接着剤にアクリル系のエマルジョンを使うわけだからね。でもまぁ確かに自然素材の方が水にしっかりなじんではくれます。接着剤ににかわを使うならそこに一貫性がありますが、素材だけ天然ものを使っても自己満足でしかない気がする。

 今を生きる我々はここで生きて考える。表現だけが特別ではない。絵だけ何か特別な材料を使うのはちょっと違うのではないかな。確かに日本には優れた伝統的な画材があります。伝統工芸やそれに近い仕事をするのであればそういった材料を使うのは当然なんでしょう。しかし、長い時間のスタンスで考えると、本来表現というものは特別なものでなく、今その場所で手に入れることが出来るもので表現してきたのではないかな。

 時間やその場所、風土と切り離して表現は考えられないでしょう。アフリカの原住民はそこにある土や木や草で何かしらの表現をした。現代の我々も全く同じじゃないかな。今日常生活で簡単に手に入るものを使って表現するというのが一番今を表現しているのではないかな。

 例えば百年後の人間が私の作品を観て一番感じるのはもちろん時代が描かせた画題もあるだろうけれど、こういった材料からも言えるのではないかな。21世紀の今の日本でしか手に入れられない材料であるかもしれない。

 眠い。

 


comment(0)

ポケットの窓から - 2016.07.29(ポケットの窓から)
はる 5579
 夏の畑は草ぼうぼう。。

 うっそうと繁った雑木林が好きだ。家の玄関はほとんど陽が入らない。綺麗に刈り込んだ庭はよそ行きの顔をしていてつまらない。この好みもどこから来ているのやら。何だか自分の絵に似ている。他の人はどうして自分で庭を造らないのか、他人の庭師に任せてそれで良しとしている。庭仕事って持ち家の道楽だとおもうのだが、それを他人に譲ってどうするの?

 家って確かに財産という考え方もあるけれど、自分のあそび場じゃないのかね。財産って考えるから一生縛られるがんじがらめのローンを組んで二進も三進もいかなくなって自己破産だなんてやっている。身の丈に合った家ってあると思うな。誰に迷惑かけるのじゃないならどう棲んだっていいと思う。例え三坪の土地でもいいんじゃないの。自分で小屋建てて住めばいい。人と比べるから無理する。

 私みたいな考え方だと経済は停滞するからお上は奨励しないけど、これからだんだん国が小さくなって行くんだから昔のようにたくさん作って捨てるような無駄な生き方を改めるべきだな。そういう小さな社会で楽しく生きていくという理想を掲げる先駆的な国家になればいい。カッコいいと思うけどな。


comment(2)

ポケットの窓から - 2016.07.28(ポケットの窓から)



comment(0)

今日のアトリエ - 2016.07.27(ポケットの窓から)
はる 5577
 地塗りを始めた。いよいよ夏の仕事が始まります70~80点ぐらい、一気に同時に進めて行きます。あまり細かい事は考えません。仕上がりを丁寧に工芸品のように仕上げるのが我々の最も得意とする技ですが、そうやればやるほど何かが逃げて行きます。美は細部に宿る。そうかな?結果的にはそうなっているのだけれど、それを狙った仕事など面白くないな。

 できるだけアバウトでいい加減でだらしないのがいいな。きっちり仕上げるの私でなくても誰かがやるでしょう。どこまで適当にやってやり切れるか。子供落書きのように天然に無意識になれるか。そんな風の理に任せてみたいな。


comment(0)

- 2016.07.26(未分類)


2016年度県展ポスター

はる 5576
 少し寒いくらいの日々が続いている。真夏だろうちょっとおかしいな。

 今年の県展のポスターは私の順番だ。採用されたらどんな絵にしようかと前から考えていた。ポスターだからもっとデザイン化された絵の方がいいのかと考えもしたけれど、まぁこんなチャンスはめったにあるものではない。だから本来の私の絵のスタイルでいくことにした。

 「こたえてください」このポーズは私の中では何度も出てくるお決まりのスタイルだ。最近では「両手で受ける」もこのポーズだな。まぁなんというのだろうか、人が動物から人間になった時に心の中に空ができたんだな。これはどうやっても埋めることが出来ない。ある人は宗教にその答えを求めたし、科学や哲学やお金かも知れないな。私はそうやって問いかける姿そのものを自分の存在証明とすることにした。一生そうやって生きる事にしたんだ。

 だから今年のポスターも「こたえてください」にした。9月には県下に出回るだろう。よろしくな。


comment(0)

今日のアトリエ - 2016.07.25(ポケットの窓から)
はる 5575
 千葉から帰って来ました。また日常が始まります。

 山口画廊
 地方の小さな町の画廊でスペースレンタルする貸画廊形式でなく、自分で探してきた作家の企画のみで展覧会を回してゆく夢のような画廊がここにある。一回の展覧会がほぼ三週間で一週間の休みという形なので年間にやれる企画の数は12~13しかない。そんな企画を同じ場所でもう14年もやっている。

 ここだけの話だが、それだけを聞くとよくある普通に仕事を勤め上げた余裕のあるサラリーマンが老後の楽しみのために自宅を改装して念願の画廊経営に乗り出したのだろうと思うかもしれない。はたまた女性のオーナーでパートナーに定収入があるとか、親が資産家であるとかそんな余裕のある経営者と勘違いするかもしれない。すべて違います。

 絵は売り物ではないという作家がいたらオーナーは怒るだろうな。じゃぁどうやって生活費を稼いでいくのか。ほぼ一か月一人の作家の個展をやって毎日画廊に出てDM出してお客さんの接客してそれで絵は売り物じゃないだと。それじゃ趣味ですねということになる。

 絵で何とか生きて行こうと思った時に考えた。偉大な芸術家にはなれんだろう。歴史に名前を残す作家にもなれんだろう。でもほんの少しでも人生の中ですれ違った人が心に残る作品が残せたらそれで満足だ。そのためには、自分の知り合いに売っているかぎり限界がある。知らない人に買ってもらうには、知人以外の第三者を介して売ってもらう必要がある。作家も一生をかけるけれど売る方も一生をかける、そんな画商さんと二人三脚でやってゆきたい。

 私の個展でなくてもいいです、是非一度画廊を訪ねてみてください。オーナーの話を聞いてみてください。何か得るものがきっとあるでしょう。


comment(0)

ポケットの窓から - 2016.07.24(ポケットの窓から)

千葉3日目


comment(0)

ポケットの窓から - 2016.07.23(ポケットの窓から)

千葉2日目


comment(0)

ポケットの窓から - 2016.07.23(ポケットの窓から)

千葉2日目


comment(0)

ポケットの窓から - 2016.07.22(ポケットの窓から)



comment(1)

ポケットの窓から - 2016.07.21(ポケットの窓から)
はる 5571
 お騒がせしました、とりあえず復活しました。

 昨日の夜メールの返事を書こうとしたら、文字が書きこめないことに気が付いた。何かの不具合でたまにそんなこともある。強制終了で再起動すれば大体それで復活してきた。ところが昨日はそこから立ち上がってこない。画面は真っ黒。右隅に白い横棒があるだけ。普通はそこからウィンドウズが立ち上がってくる。セフティーモードで立ち上がるかどうかも試してみたけれど、これもだめ。通常の終了動作もできない。起動ボタンの長押しで強制終了するしかない。

 ウィンドウズが立ち上がってくれればシステムのバックアップを取ってあるので、多少の情報は消えるかもしれないが何とか今まで通りの操作はできるはずなんだが、その前で止まってしまえば何の有効な手段もない。まったくのお手上げ状態に陥ってしまった。

 ウィンドウズ7にはXPにはなかった多くの復活方法が用意されている。その一つが自動的に復活ポイントが設定されていることだ。何かのトラブルでパソコンがクラッシュした場合でも、セフティーモードで立ち上がってくれればそこまでは復活できるような安全システムが用意されている。嘘のような話だけれど、昔に戻れるタイムマシンのようだ。けれどそれも最低限セフティーモードまで行かなければ利用できない。

 もう一つはシステムの復元という方法がある。これは自分のパソの調子のいい時にその状態を復活できるようにDVDにして取っておくらしい。私はこれをしなかった。外付けのハードディスクにバックアップまでは取ってあったのだが、ここまで深刻なトラブルになるとは考えていなかったからだ。考えてみると今回のように全くパソが立ち上がってこないという場合もありうるわけで、その場合外のDVDやUSBから立ち上げるしかない訳だ。

 新品のパソを買った場合、すべてを買った時の状態にするDVDがついている。これがまぁ最終手段だな。ウィルスにやられたらこれをやるしかない。昔ウィンドウズ98の時に一回これをやったことがある。そのころは今ほどセキュリティがしっかりしていなかったから簡単にウィルスに侵されてしまった。今のはどうだろう。私のは中古パソなのでこのDVDが何もついていない。だからこの手は使えないわけだ。万事休す。

 昨日はここまで。

 一夜明けて、冷静に考える。ディスクトップの場合電源はバッテリーではなかったので時々停電などで強制的に終了していた。この場合メッセージが出て正しい方法で終了しなかったので云々といってスキャンがかかって再起動してくる。ノートパソコンの場合電源がバッテリーなのでこの電源を強制的に落とすということができない。電源を強制的に落とすにはバッテリーを一度抜くしかない。

 ダメもとで最後の手段、えぃやっととバッテリーを外してもう一度取り付けて起動したら奇跡的に立ち上がった。なんだこんなことか?まぁ今回はこんな原始的な方法で立ち上がったけれど、結果オーライ。めでたしめでたしだな。


comment(2)

今日のアトリエ - 2016.07.20(ポケットの窓から)

綿布水貼り
はる  5570
 パソが立ち上がらなくなった。ゆえにしばらく更新できません。あしからず。見ることはiPadでできます。連絡等はここのコメント欄かFacebookのメッセージをつかってください。
福田くんというわけで返事ができません。自由に使ってください。ただし、報告だけしてね。




comment(0)

ポケットの窓から - 2016.07.19(ポケットの窓から)



comment(0)

チェロ教室の発表会 - 2016.07.18(ポケットの窓から)
はる 5568
 今日はもう一つの発表会でした。教室内だけの身内にしか聴かせない発表会ですが、一人でやっているのとは全く違う神経を使います。比べることもおこがましいけれど、やはりプロは凄いなと感心します。普段やっていた何でもないことが全くできなくなります。音程ひとつまともに出ません。聴かせるなどとんでもないことです。最後まで止まらないで終わることだけでやっとです。何の慰めにもなりませんが。。まぁいいだろう。


comment(0)

ポケットの窓から - 2016.07.17(ポケットの窓から)


はる 5567
 ↑の写真だけ見ると普通に照明器具を取り付けたんだなと思うでしょう。途中の写真をまた撮り忘れたので最後の完成した状態だけの写真になってしまった。あまり意味がない写真だけど、ないよりましか。

 台所の食卓の上に照明が欲しいとはずっと思っていた。全体を照らす照明はあるのだけれどそれだと食卓の特別感がない。色んな照明器具を見たけれどこれだというのがないというのと、これまた懐具合との相談なんだけれど、照明器具はいいものはかなり高い。それから既成の物は出来るだけ使いたくない。出来るなら自分で何かあるものを加工して作りたい。それもあまり素人臭いものではなくそれなりのグレードのあるもの、毎日使うものだからね。

 このシェードは継ぎのない一塊の木から彫り出した元々は花か果物を飾る器だった。一番外の直径は35cmぐらいある。その底にドリルで穴をあけて彫刻刀で穴を大きくした。

 電気のソケットは色々持っているのだけれど、30年もたった古い物はどうにも胡散臭い。ショートして出火したというのじゃ目も当てられんからな。ここは既成の物を買ってきた。それから大手の電機量販店に電気ソケットを見に行ったけれど、色んな照明器具は売って居るけれど電球のソケット単体など商売にならないのか売ってなかった。仕方ないので安い家具などを売っているインテリアショップに行く。そこにはソケットはなかったけれど、組み合わせの照明器具があったのでそれを利用することにする。

 こういう物は楽しい。



comment(2)

ポケットの窓から - 2016.07.16(ポケットの窓から)
はる 5566
 額も随分捨てたけれど、これは捨てられなかった一点。もう周りは欠けてボロボロになっているけれど、それがまたいい感じなんだな。


comment(0)

ポケットの窓から - 2016.07.15(ポケットの窓から)


moblog_47a1ae1e.jpg

アトリエの一隅


はる 5565
 


comment(0)

今日のアトリエ - 2016.07.14(ポケットの窓から)
はる 5564
 「風の理」について考えながら書いてみる。まとまらないかもしれませんが、あしからず。 

 宇宙の原理そのものを出来るだけ簡単な理論で表したいというのは誰もが考えることで、物理学者はそれを簡単な数式で表せないかと考えたし、宗教家は神を創設することでそれを一つの統一した教義としたし、哲学者はロジックで持ってそれを理論づけようとした。

 だれでもそうだと思うのだが、宇宙の原理みたいなものを知りたいというのは小さい頃からあった。これさえ知っていれば何も怖いものがない、すべてがこれでOKだという理を知りたいというのは小学校の頃からずっと考えていたように思う。もちろんもっと幼い考えではあったとはおもうのだけれどね。

 たぶんこう思うのだ。すべての物事は部分であるけれど必ず全体を表している。そう考えると、ものすごく大きい宇宙だけれどこのちっぽけな私という部分にも宇宙の一端を表しているはずだ。考え方を変えると私の脳は宇宙だということが出来るのではないかな。私の心の中を探ることは宇宙の原理を知ることになるのだろう。

 セザンヌがやったことは多視点という考え方で絵を描こうとした。遠近法にもいろいろあるのだけれど、彼がやろうとしたことは見えた物と知っていることを同じ画面に置いたということ。ある意味異なった時間を一つの空間に押し込めるたわけで、空間をゆがめないと上手く統一することができない。このセザンヌの方法というのはアインシュタインの相対性理論に似ている。横かじりだけれど、異なった時間を同じ空間に閉じ込めると必然的に空間は歪んでくる。アインシュタインが次に考えたことは電磁場をも同じ理論で統一しようとした。結局は上手く行かなったらしいけれど、今でもそれは証明されていない。

 ピカソやブラックのキュビストたちがやったことは全く違う用途の物を画面の中に持ち込んで一つの画面に統一しようとした。これを発展させるとデシャンのように既成のものを持ち込んで考え方を変えることで作品となるというふうになる。お茶の世界の「みたて」とか赤瀬川さんのトマソン何かとも共通するな。ここまででコンセプチャルアートの現代美術まで駆け足でやってきた。

 私の絵の描き方は物が具体的に描写されていなくてもいい。だからこれは絵でないと言われればそうかもしれない。だけれども抽象画でいいかと言われればそうでもないのだな。まぁ抽象でもいいものはいいのだけれどね。「理」がちゃんと表現できていればね。

ひとことで言えば、閉じられた空間だということ。破たんがあってもその破綻さえも含んだ一つの閉じられた宇宙であることかな。



comment(0)

ポケットの窓から - 2016.07.13(ポケットの窓から)
はる 5563
 作家にはすこし謎の部分があった方がいいらしい。いやそれは私もそう思う。例えばデパートで絵を観るお客さんはそんなに詳しい説明を求めていないだろう、そう思うけれど、質問されると一生懸命説明している自分がいる。出来るなら全部しゃべってしまいたい。出来るだけ分かりやすい言葉で、たとえ話で、伝わる伝わらないは別にしてそうすることが表現する者としての誠意ではないかとさえ思っているのではないか。お客さんにとては多少暑苦しい想いをしたのではないか、反省するのだけれどまた同じことを繰り返しているのだ。まぁ自虐的な暴露癖があるのかもしれんな。

 40年ぐらいかかってある種の理を見つけた。見つけたというのか身につけたというべきかな。カルトみたいだけれどそれを「風の理」とでも命名しておこう。言葉はなんでもいい。それを言葉で説明しようとすると上手く表現できない。反対に具象であれ抽象であれそれがあればOKだというありがたい理だ。私はいつもそれに基づいて判断しているように思う。

 だから表面に現れた技術みたいなものはみんな教えてばらしてしまっても全く問題ないのだ。だれでも私の絵を真似することはできる。同じように描くこともできる。私が絵を描く過程で考えたり見つけたりした言葉が、誰かの心にとどくならそれも嬉しいことだ。

 


comment(2)

今日のアトリエ - 2016.07.12(ポケットの窓から)
2
はる 5562
 HPのことはまた気が向いたら書きます。

 今日は久しぶりに授業があって二回ほど雨のために飛んでしまった風景スケッチの仕上げをしました。この死にそうに暑い炎天下に何もわざわざ熱中症になりにいかなくてもと思いますが、今日が最後のチャンスでこれを逃すと二学期になってしまいます。というわけで汗を拭き拭き付き合いました。無論私は木陰で涼みながらの指導ですが。。

 何もすることがないのでこういった時は何かメモを取りながら考えることにしている。今日考えていたのはミクストメディアのこと。FBの方に質問が有ったので、素人の人にどうやって分かってもらえるか、簡単に分かりやすく答えた。こういう質問は結局自分のためになる。

「 私が理解していることで言えば、絵の具というのは色の粉と糊で出来ています。その糊の種類によって水彩(水性糊)、油彩(乾性油)、日本画(にかわ)などと分けられます。ミクストメディアはそういった境界をとっぱらって画材として絵の具だけではなく、布や紙や土その他色んなものをミックスして使えるということだと思いまいます。簡単に言えば絵の具として使えるものは何でも使ってしまえということだと思います」

 セザンヌがやったことは多視点という考え方で絵を描こうとした。遠近法にもいろいろあるのだけれど、彼がやろうとしたことは見えた物と知っていることを同じ画面に置いたということ。ある意味異なった時間を一つの空間に押し込めるたわけで、空間をゆがめないと上手く統一することができない。このセザンヌの方法というのはアインシュタインの相対性理論に似ている。横かじりだけれど、異なった時間を同じ空間に閉じ込めると必然的に空間は歪んでくる。

 難しくなって眠くなったので続きはまただな。すんません。


comment(0)

今日のアトリエ - 2016.07.11(ポケットの窓から)
はる 5561
 まぁ選挙が終わって、言われていた通り改憲勢力が三分の二を取った。60%の三分の二だから選挙権のある人の40%が与党に投票したことになる。私の周りの感覚では80%以上の人が与党に批判的であるにもかかわらず、こんな結果がでるんだな。まぁ他に任せられる政党がない、民主党時代の政策の無策ぶり、人材の不足ブリを見せられるとやっぱりと思うわけだ。このままでは彼らの思うがままに世の中が変えられてしまうな。若い人はそれどころではないか。そんな教育も受けていないからな。はい選挙権が有りますよ、と言われてもクラス委員を選ぶ感覚で投票してしてしまうのかもな。

 HPをどうするのかという事が問題になった。維持するにはお金とそれを運営する人材が必要だ。確かにそうだ。HPを持つことが流行った時に猫も杓子も右へならえで、あらそってHPを作った。作ったはいいけれど更新されないHPはだんだん訪れる人も少なくなって閑古鳥サイトとなって、おかねと労力の無駄だということになる。じゃやめましょという事になるのだが、果たしてそうなのか?

 私がHPを持っている理由を少し考えた。


comment(0)

今日のアトリエ - 2016.07.10(ポケットの窓から)



comment(0)

- 2016.07.09(未分類)


山口画廊DM


はる 5559
山口画廊のDMです。もしご希望なら http://form1.fc2.com/form/?id=7f409aaa743b035e へお名前とご住所を書いて送ってください。

  正直よくわからないけれどね、なんだか開戦前夜のような不安な気持ちになる。このまま与党が三分の二以上とって憲法が自民党案のように変えられるとしたらどうなってしまうのだろう。たとえそんなふうにならないとしても、こうやって不安に駆られる馬鹿がいるというだけでも大きな問題ではないか。

 戦前のエリート将校たちは今の官僚に似ていて、日本がどうだこうだというより自分たち仲間内の出世を第一に考えていた。まずは失敗しないことが最も大事なことだ。自分たちは選ばれた人間で下々の者とは違う。目線は自分たちかそれ以上の人たちに向いている。そうやって誰も修正することなく戦争へと進んでいった。目はそんなところには向いていないのだから、見えてはいない。

 政治家という人種がどういった人間なのか、極めてそばにそんな人間がいないのでよくわからない。太郎君や洋平君などの演説を聞いていると自分たちと同じ目線でしゃべっているので、本当によくわかる。あぁ上手いな、なるほどなと納得できる。しかし、本当の政治というのはそういった大衆密着型のものでいいのかどうか、例えば今どうしても決めなければならないことがあって、大衆に良い事ばかりを言っていられないということもあるのじゃないだろうかね。

 良くわからんな。でもいまの政府の中心にいる人たちの家系などをみていると、どうやら我々一般人と違う事を考えているのじゃないかとおもうな。あんな家系で育つと、好むと好まざるにかかわらず自分たちは選ばれた血筋、血統だと勘違いするだろうね。昔で言えば王族とか貴族階級みたいなもんだぜ。

 だから考えていることは、自分たちの血統にとっていいのか悪いのか、如何にすれば自分たちがリーダーで居続けることが出来るか、そのためには大きな企業と結託してできるだけその人たちを優遇して儲けさせてお互いに末永く繁栄しようぜ、そんなことを考えているんじゃないだろうかね。自分だったらそうすると思う。

 我々が出来ることは選挙であの人たちをふるいに掛けることだけなんだな。それしかない。よく見て考えて投票しよう。
 


comment(0)

ポケットの窓から - 2016.07.08(ポケットの窓から)
チャン、ウクチン韓国の作家
はる 5558
 何年前だろう、派遣法なるものができた。(今調べると1986年)当時うすらぼんやり考えていたことは、日本の雇用システムが終身雇用から解放されて欧米のように自由に選べるようになったんだなという能天気な言い分だった。企業側から見れば安い労働力を得られるし、労働者側からみれば仕事は自分の能力に合わせて自由に選択できて両者納得と思っていた。

 甘いなぁ。企業が労働者側に立つはずがないよな。それ以来どんどん正規採用が少なくなって今じゃ不正規雇用は四割だって。確かに自己責任と言われればその通りだよ。自分の能力にあった仕事の形態を選ぶことが出来るということは、反対に言えば能力のないものは働き口がない、正規の仕事にありつけないということだな。派遣法は企業にとっては安い労働力がとっかえひっかえ使える魔法の法律だったんだな。

 正規の雇用がどんどん少なくなって、不安定な労働条件の悪い仕事しかつけないようになってしまった。結局派遣労働者などという仕事はパートタイマーとかアルバイトと変わらない。そんな人が四割というのはやっぱりおかしいとおもう。

 当時私は正規の仕事を辞めて非常勤の仕事を選択した。世の中はバブル前夜で仕事は選びさえしなければいくらでもあったように思う。深い考えもなくただやって行けないという理由だけで正規の仕事を辞めてしまった。今でいうフリーターだな。

comment(0)

ポケットの窓から - 2016.07.07(ポケットの窓から)



comment(0)

今日のアトリエ - 2016.07.06(ポケットの窓から)
はる 5556
 山口画廊の画廊通信です。又無断転載します。不可なら即削除します。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
画廊通信 Vol.155         「表現」という事

 8年ほど前に「ピカソの世紀」という1000頁近い
大部の書が発刊され、大変に読み応えのある充実した内
容だったので、この欄にも一部を抜粋させて頂いた事が
あったが、この本には「キュビスム誕生から変容の時代
へ/1881ー1937」という副題が付いていて、要
するにピカソ50代半ばまでの評伝であった。という事
は、当然その続編も日を置かず出るだろうと楽しみにし
ていたのだが、待てども一向に上梓の声を聞かないまま
に時は流れ、いい加減諦めかけていた昨今になってやっ
と続編が出たので、早速大枚はたいて買って来た次第で
ある。後編は「ゲルニカと戦争、そして栄光と孤独/1
937-1973」という副題で、つまり50代後半か
ら91歳で亡くなるまでの伝記なのだが、通常は円熟へ
と向うであろうその年齢において、いよいよ隆盛を極め
る特異な女性遍歴も然る事ながら、相変らずその発言が
独特で面白い。まだ読んでいる最中なのだが、現時点で
見つけた印象的な言葉を、二三ここに抜粋してみたい。

「作品を完成させるなんて、とんでもない事だ。完成さ
せるという事は、自分と作品の関係を絶つ事、それを殺
す事、その魂を奪う事に等しい。つまり止め(とどめ)
を刺すのと同じ事、いわゆる“止めの一撃”ってやつさ」

独創性とは?──「独創的であろうとして躍起になるの
は、時間の無駄だし、間違った事だ。もし何かを得られ
たとしても、それは自分の好きな事を繰り返しているだ
けに過ぎない。更にそれを先に推し進めるのなら、結局
は自分に出来る事しかしないという事になってしまう」

「アイデアは単なる出発点に過ぎない。頭に浮んだアイ
デアを、そのまま画面に定着して終る事は稀だね。何故
なら描き始めるとすぐに、別のアイデアがペンの先から
生まれて来るからだ。一人の男が浮んで来たらそれを描
く、もし一人の女だったらそれを描くという訳さ。自分
の意志とは関係なく、ペンの先から自ずと生れ出て来る
ものの方が、アイデアなんかよりもよほど面白いんだ」

 ピカソという画家は、私にとっては未だ最大の謎の一
つで、これだけ絵に関わる仕事をやっていながら、正直
言ってどうもピンと来ない。ピンと来ないのなら仕方が
ないというだけの話で、何も拘泥する必要はないのだけ
れど、でもどういう訳か気になる。自分には「見えてな
い」だけで、きっとそこには何かが有る筈だ、未だそん
な思いを捨て切れないのである。だからと言って、評伝
をどんなに読んでみた所で何も見えて来ない事ぐらい、
自分自身が一番良く分っているのだが、それでもこんな
本が出ればつい買ってしまうという事は、まずはピカソ
という人間そのものに、ある種強烈な魅力を感じている
からだろう。ならば、魅力溢れる人間の描いた絵に魅力
の無い筈が無い、「感じられない」だけなのだ、今一度
しっかと眼を見開いて観てみよう──と思い直し、ため
つすがめつ眺めてみるのだけれど、やっぱりピンと来な
いものは来ない、こうして際限の無い堂々巡りからいつ
までも抜け出られないまま、今に到っている訳である。
 私事はこのぐらいにして、この場にピカソの言葉を幾
つか抜粋させて頂いたのは、そこに榎並さんの方法論と
ダイレクトに重なるものが見えたからである。もう何度
も書かせて頂いた事だが、榎並さんは真っ白なカンヴァ
スを前にこれから描き始めようという時(実際はパネル
に白布を貼って、支持体も自作されている)、そこにど
んな絵が描かれる事になるかは、ご本人も全く分ってい
ないと言う。小説家に例えれば、何のプロットも無いま
まに、まっさらな原稿用紙に向うようなものだ。一般に
私達は画家にしろ小説家にしろあるいは作曲家にしろ、
分野を問わず創作に関わる人達には、もともと頭の中に
構想なり計画なり完成予想図なりが「有る」と思ってい
て、創作とはそれを具体化・現実化する事に他ならない
と、当り前のように信じ込んでいる。というよりは、そ
んな無邪気な思い込みを疑った事もない。従って、アマ
チュア画家のほとんどの人は、実際にそのように絵を描
くだろう。題材をスケッチして、あるいは写真を撮り、
その中からこの場面をこう描こうと決定し、様々なエス
キースを試みた上で下絵を創り上げ、あらかじめ最終的
な完成図を頭に叩き込んでからカンヴァスに向い、後は
その理想に向ってひたすらに邁進するという訳だ。そし
てそのやり方は、決して間違ってはいない。いや、それ
こそが「正しい」絵の描き方なのかも知れない。しかし
ながら一方、世の中には「芸術家」と呼ばれる人達がい
る。往々にしてこの人達は、人が信じ込んでいるものを
「果してそうだろうか」と疑い、人が正しいと思ってい
るマニュアルには人生を懸けて抗う。つまり一般的な見
地(そもそも「一般的な見地」という言葉そのものが、
辞書には無い人達なのだ)から見れば、間違いなく「変
わり者」であり「異端者」である。だから、芸術は精神
修養であり人間を高めるものだと思い込んでいる人が多
いけれど、それは単なる勘違いで、そういう人はそうい
う学問に勤しんだ方がよほど身のためだ。芸術なんても
のに首を突っ込んだが最後、どんどんひねくれてあれよ
あれよという間に見識もねじ曲がり、気が付いたら「変
わり者」と陰口を叩かれるようになるのが落ちだろう。
 失礼、話がそれた。ちなみに短編小説で著名なフラナ
リー・オコナーに、こんな記述があるので参考までに。

「その短篇を書き始めた時、義足を付けた博士号取得者
がそこに出て来るなんて、自分でも知りませんでした。
まして、聖書のセールスマンが登場して、その義足を盗
む事になるなんて、その十行前になるまで私にも分らな
かったのです。でもそれが分った時、私はこう思いまし
た。これこそ起こるべくして起こった事だったんだと」

 榎並さんは「ブログ」という用語が出来る以前から、
長年に亘ってブログを書いて来られた方で、画家として
は珍しいほどに様々な事を「語る」人である。かく言う
私も、榎並さんと知り合ったのはブログを介してであっ
た。私のような画廊側から見れば、未知の部分を少し残
しておいてくれた方が、謎めいた魅力があって演出もし
易いのだが、「作家である以上は全てをさらけ出さなけ
ればならない」との信条の基にブログを続けて来られた
ので、それはそれで確固とした誇るべき信念であり、私
なぞがあれこれ口を挟む事ではない。むしろその言いた
い事をズケズケと言い放つ率直な物言いが面白く、最近
は絵よりもまずはブログで榎並さんを知ったというファ
ンが散見される程で、これまでにも何度かその発言をこ
の欄でも取り上げて来たのだが、それを読まれた方は既
にご存じの通り、榎並さんは自身の編み出した技法や細
かな制作過程等、通常は後生大事に企業秘密にしておく
ような奥義を、全ていさぎよく公開されてしまう。その
制作に関しても、何度かここに取り上げて来たので繰り
返さないが、要は通常の眼で見た場合、いったいいつに
なったら絵を描くのだろうといぶかしく思うぐらい、そ
の制作には「描画」という行為が出て来ない。様々な布
切れをコラージュし、その上に絵具をたらし込み、時に
墨をかけ流し、壁土を塗り込め、更に金泥をかけて……
と言った具合で、私達が普通にイメージする「筆で絵を
描く」という行為が、待てどもなかなか出て来ないので
ある。しかしそんな飽く事の無い作業を繰り返す中で、
画家はじっくりと自己との対話を続け、何かの「端緒」
が図らずも立ち現れる「時」を待っているのだ。榎並さ
んの制作方法を見ていると、通常は受動的な意味で用い
られる「待つ」という行為が、実は能動的な意味も持ち
得るのだという事が分る。画家は支持体上に様々な変容
を仕掛け、それによって画面に揺さぶりをかけて、時に
は大胆な破壊も加えつつ、いつか何かが立ち現れ、ある
いは何かが降り立つその瞬間に眼を凝らす。それが即ち
榎並さんにとっての「待つ」という行為であり、延いて
は「描く」という行為に他ならない。やがて幾重にも重
なり混じり合った布や絵具や壁土の狭間に、画家の眼は
ゆくりなくも何かを見出し、そのフォルムは白線でなぞ
られてあぶり出される。そして私達は、その画面上にい
つの間にやって来た、どこの民とも知れぬ人々が浮び上
がる様を、目にする事になるだろう。それはむろん、画
家の描き出したものである事に違いはないが、しかし画
家の側から見れば、どこからか奇跡のように降り立った
「客人(まれびと──榎並さんが用いるキーワードの一
つで、異界より来訪する存在を言う)」達なのである。
先述したブログで、榎並さんはこんな事を述べている。

「物を描写するだけの絵はいくら続けても、上手くはな
るけれどそれ以上にはなれない。それ以上になる事を、
望んでいないからだ。ならば、反対に物を描写しない絵
というのはどうやって描くのだろう。描かないで描く。
簡単に言ってしまえば、絵の中に絵を見つけるという事
かな。描くのではなく見つけるんだな。他力本願かも知
れないが、自ら進んで描くのではなく、絵が出てくるの
を待つ、見つけるという事。だから私の形や色を見つけ
る訳で、即ち自分自身を見つけるという事になる訳だ」

「自分にしか出来ない事などない。そう思いたい気持ち
はよく分る。オンリーワンでありたいと思うのと同じ事
だろう。でも、オンリーワンを狙って出来る事などほと
んどない。自分にしかできないことを狙っている限り、
いつまでたってもそれを見つける事は出来ないだろう」

 先程のピカソの言葉を思い出して欲しい──「自分の
意志とは関係なく、ペンの先から自ずと生れ出て来るも
のの方が、アイデアなんかよりもよほど面白いんだ」、
ここでピカソの述べている方法論も、やはり自らの意志
を離れたものとの、思いもかけない邂逅に他ならない。
あるいは「独創的であろうとして躍起になるのは、時間
の無駄だし、間違った事だ」といった言葉、これらの二
者の言葉は、それにしても何と良く響き合う事だろう。
 私達が普段何気なく使っている「表現」という言葉、
それを私達は「個性の発露」と解して疑わない。むろん
それは間違いではないが、本当にそれだけの事であるの
なら、表現は個性の母体である自我を超えられず、自分
という狭い枠から遂には出られない事になる。表現とい
う言葉がどのような経緯で成立したのかは知らないが、
表現という行為の持つ本質的な意義を、この言葉は実に
的確に提示していると思う。表現には「表す」という通
常の意味の他に、もう一つ「現れる」という意味も含ま
れている。ピカソの言っている事、榎並さんの語ってい
る事、それはどちらかと言えば後者の方を指している。
表す事によって現れる、現れる事によって表す、つまり
「表」と「現」が分ち難く融合した時こそ、表現は自我
という狭い枠を超えて、作家本人にさえ全く予測も付か
なかった、思いがけない出会いをもたらすのだろう。そ
して、それを成し得る人こそが「芸術家」という名称に
ふさわしい、これは決して禅問答ではない。何故なら榎
並さんの作品を見る時、人は表現という言葉の豊かな両
義を、そこにありありと目撃する事になるだろうから。

              (16.07.04) 山口雄一郎

comment(0)

ポケットの窓から - 2016.07.05(ポケットの窓から)
はる 5555
 綺麗にカウントが5のぞろ目にそろいました。さて、阪急デパートの個展ではポートレートの展示が義務付けられています。そこに使った写真を記念に載せましょう。実際はもっとババチイおっさんですが、甥っ子が撮ったので贔屓目になかなか良く撮れているように思います。まぁ笑ってやってください。

 さて、参議院選が近づいてきました。何だかいつもの選挙より大人しい気がしますが、どうなんでしょう?このままだと与党が圧倒的に勝ってますます住みづらくなりそうな気配です。、少なくとも今回だけは野党に入れましょう。何でも好きにさせてはいかんのだ。生来アウトサイダーな私は感覚的に多数派にはなれないのだな。他人に指図されるのがうんと嫌いなんだな。子供の頃から上に圧倒的な力を持った親や兄弟がいたので、その圧迫感が身に染みている。


comment(0)

今日のアトリエ - 2016.07.04(ポケットの窓から)
はる 5554
 さて、新しいパネルが入ってきた。ここからまた下地作りが始まります。まぁ楽しいと言えばここらあたりが一番モチベーションがたかいかもしれませんね。一応来年の京都の個展まで見据えて百点ぐらいの新作を描くつもりだ。来年と言えば私も65歳になるわけだ。絵描きはいつまでも出来る仕事ではあるけれど、どんなもんなんだろうな。これも初めてのことなのでやってみないと分からん。


comment(0)


カテゴリ
アーカイブ
月別アーカイブ
プロフィール

あそびべのはる

Author:あそびべのはる
画家・榎並和春です。HPはあそびべのHARU・ここだけの美術館

リンク
このブログをリンクに追加する
カテゴリ
ポケットの窓から (3367)
未分類 (203)
日記 (935)
ベッドの上の王国 (13)
裸婦クロッキー (144)
作品 (130)
写真 (44)
今日のアトリエ (79)
「家族ごっこ」挿絵 (10)
未選択 (45)
ブログ (14)
you tube (96)
原発 (73)
イタリアスケッチ (7)
画集「こたえてください」1 (24)
「こたえてください」2 (6)
「山峡」挿絵 (7)
動画 (1)
フリーエリア

designed by まて