2014年「うふふ」F3 No1699 混成技法
はる 5525
絵の中に自分を探すという発想は何処から出てきたのか?そうそれはまぁ何となくそうではないかということは薄々感じてはいた。けれどはっきりとそれを自覚したのはいつごろなんだろうか。これは自分の絵の描き方とオーバーラップすることなので徐々に段々と確実なものになってきたように思う。
一つは観る人を音楽や演劇などと同じように臨場感を持って巻き込みたいということがある。一つの絵を観て自分の事のように共感を持って観るなどという事はなかなか難しいんだよな。感動とか共感などというのは映像や漫画みたいなストーリのあるものでは可能だけれど、動かない絵画みたいなものではほとんど無理だ。
学生の頃、キュピズムに凝っていてセザンヌからピカソに至るキュビズムの理論が手に取るよう分かって絵画史をもう一度自分の中でやり直したような感動があった。その時考えたことは絵を描かない人には分からないだろうな。分からなくていい。分かる人だけに分かってもらえばいいんだという至上主義のような傲慢な考え方だった。
卒業して分かったことは多くの人は絵画にはほとんど何も期待していないという事だった。悪評ならまだましだ、ほとんど存在しないような扱われ方なんだよな。そりゃそうだ、分かる人だけ分かればいい。世の中にはもっと手っ取り早く面白い楽しいことがいっぱいあるのに、絵画だけ自分たちだけで楽しんでいたんじゃ誰も相手にしてくれなくなるだろう。
何も知らない子供からそれなりの専門家まで唸らせるにはどうすればいいのか?絵画は専門家だけ楽しめばいいのか?そんな傲慢で不遜で面白くないものならだれも見向きもしなくなるのは当然だわな。
そこで気が付いたのは、私が観ているものと鑑賞者が観ているものが違ってもいいという事なんだな。同じ感動を強要することが間違いなのではないか、生まれてから今までに観てきたことが違うのに同じわけがない。それでいいのだ。
「風は姿かたちが見えません。
梢が揺れる様子やひゅーひゅー鳴る音を聞いて、人はその存在を知ります。
絵や音楽や言の葉はこの風音に似ています。見えない心のかたちをそのざわめきで見せてくれます。
絵を描くとはそのための道具だと思います。
何処まで深く掘ることが出来るか、絵を描く事で探ってみたいと思います」
今から10年ほど前のテーマ「風のおとづれ」に書いた文章です。この「おとづれる」というのは「訪れ」のではなく「音連れる」であるというのは白川静さんの漢字の話から発想したものだ。
絵を観ることで、そこに何か心のざわめきを起こす。それは人それぞれでいいのだ。絵を媒介にしてそれぞれの自分を見つけて行く、そのための材料であればいいのではないか。そんなことを思った。
もう少し書くかな。。