今日のアトリエ - 2015.07.31(ポケットの窓から)
はる 5137
ホームセンターに出かけて少し厚めの大きなゴム手袋を買ってきて包帯の上からでも着用できることを確認して、ゆっくりと仕事を始めた。日中は暑いのでゴム手袋は蒸れるので止めて、少し涼しくなってからまたゆっくり始めた。貧乏性で少しずつでもやっていた方が気が楽だ。ということで「神様がくれた休日」は約三日で終わった。
これはパネルに綿布を貼りこんでいるところ。綿布といえば画材に聞こえるけれど、要するにシーツだな。近くの小学校でバザーがある。こういった時に父兄の顔して出かけてほぼただ同然の未使用のシーツを多量に買ってくる。私はもう一生使えるほどのストックがある。だから私の下地には時々バラの刺繍があったりするが、それもまた面白い肌合いにになるのだな。
これが私の仕事の一番最初の工程です。みんなそれぞれ作家一人一人の手順があるのだろう。もちろん最初っからこんな手順があったわけではない。紆余曲折で手探りで自分のやり方を作って行く。だからその工程そのものが一つの作家の生き方であり作品なのではないかと思うな。
技法は作品と一体化している。このやり方は私の作品と表裏一体となっているわけで、このやり方でなければ私の作品は出来ない。いいか悪いか別にしてね。何だかんだ色んなものを真似して自分なりに吸収して段々形を変えてきたものだ。
「絵の描き方」はあるかもしれん。デッサンして色塗って形を整えて、仕上げて行く。水彩なら水彩、油彩なら油彩のハウツーはある。基本的に押さえなきゃならんこともあるだろうな。こうやってこうやるとこうなるという方程式があるのだろう。その所は教えてもらえる、しかし、そこに留まっているとなかなか自分の表現という場所まで行けない。
私はほとんど自分の技法をオープンにしている。どんどん真似してもらっても一向に構わない。誰かが私のやり方を技法書にでもして出版してもらってもかまわない。著作権は取らない。これがオーソドックスなミクストメディアの技法となって世界中に広まっても全くかまわない。技法をどんなに真似しても私自身には誰も成れないからだ。
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ポケットの窓から - 2015.07.30(ポケットの窓から)
はる 5136
フランスボルドーの石器時代2万5千年前のクロマニヨン人が作った女性のオブジェ。角笛かこれは杯として使っているのだろうか、とにかく物を道具として加工して使っている。造形としても充分面白いけれど、当時の人類の祖先は何のためにこんなものを岩場に彫って残したのかということを想像すると、もっと面白い。
ラスコーやアルタミラの洞窟の動物の壁画は有名で良く知られていいるのだが、それよりも五千年も前にこういった具象的な女体像がつくられていることに驚く。まず考えられるのは女性であるというのは豊穣とか子孫繁栄といった女性の産む性というのをたたえたものだろう。古今東西そういった意味で男性像が作られたケースを知らない。
生物の本能はまずは個体の維持、その次に子孫を残すことそれを遺伝子の中に深く組み込まれているわけだ。だから狩りが上手くいきますようにと動物の壁画を残す、その次に子孫繁栄で女体の登場となる。
このオブジェの面白いところは角杯を持っているところだ。食べたり飲んだりの道具として動物の骨や石器を使ったのであろうが、我々が考えるようなただの道具ではなかったのではなかろうか。そんな日常的な風景を残しておきたいなどというのは現代のわれわれの発想で、もっと切羽詰まった非日常的な意味があるのではないかな。
人が動物から人間になった時に一番恐れたのは、人智を超えた大いなるものの存在だろうな。存在することの不思議、不安、おののき、そして畏怖したんだろう。そういったものへの祈りのかたちとして、大いなるものへの捧げものとして角杯があったのではないだろうか。女性は神との交信者としての巫女のような意味あいもあったのではないかな。 眠い
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今日のアトリエ - 2015.07.29(ポケットの窓から)
はる 5135
次の仕事が出来ないので、今日は一日本を読んで暮らした。これもまた楽しい。言い訳せずにサボれるのは怪我した時だけかもしれん。知人が「神様がくれた休日」と書いていた。そんなにカッコよくはないが、言い訳にはなる。
学生の頃夏休みは一人合宿で八ヶ岳の大学の寮に2週間以上お世話になった。なんせ学食もお休みになるので安くベッドとメシを用意してくれる寮はありがたかった。絵の道具と積めるだけの本をスーパーカブにつんで、いざ出陣。これがけっこう走るのだな。けっしてカッコいいリゾート暮らしではないけれど、一人合宿は楽しかったね。とにかく周りにそれほど絵を描く奴はいなかったから、一人でやるしかなかったのだな。
学生といっても入学したのが25歳の時だからね、同級生より断然年上なんだな。同じように遊んでいるわけにはいかないという気が大いにあったからね。今から考えるまだまだ充分若いけど、その時はそんなに余裕はなかったな。
絵描きになりたいとは夢としてはあったけれど、実際そんな簡単ではないと思っていたし、学校の先生でもやりながらと考えていたのは確かなことだ。今はなかなか教師やりながら絵を描くという時代じゃないようだな。とても片手まにできる仕事ではない。
また明日。
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若者の声を聞いてください。 - 2015.07.28(you tube)
ダイジェスト/SEALDs Kansai 2015.7.24
【戦争法案に反対する金曜街宣アピール】 京都 四条河原町マルイ前
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今日のアトリエ - 2015.07.27(ポケットの窓から)
はる 5133
左手の親指を負傷しました。朝飯の手伝いをしていて火傷しました。最初は大したことないと思っていたのですが、けっこう大きな水ブクレになってしまった。病院に出かけて応急処置をしてもらった。
夏は大工仕事のような手先を使う仕事が多いので困るな。しばらくは水も使えないようだ。幸いなのは利き腕ではないことかな。仕方ないので本読んで休むことにする。夏休みだ。
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今日のアトリエ - 2015.07.26(ポケットの窓から)

はる 5132
つぶやきです。聞き流してください。
力による統一というのか統制というのは一番簡単で単純で分かりやすい。何も考える必要がないので、放って置くとややもするとそうなってしまう。国のかたちとしても力による統制というのは一番手っ取り早くて、多くの新興国や革命で出来た国はそういった体制をとる。基本的には武力による独裁型の封建てきな制度だな。
富国強兵政策で、やがて国が大きくなって為政者もその国民も贅沢になってくると他国に侵略を始める。帝国主義の始まりだな。他国の力の弱いところに因縁を吹っかけて戦争をおっぱじめる。上手くすればぶんどったり植民地化して領土を増やす。そうやって多くの帝国は自国の領土を広げてきた。ローマ帝国しかり、大英帝国しかり、大日本帝国しかり。
しかし、植民地も未来永劫支配されたままでは終わらない。必ず独立運動が起きて元の最初の領土に戻って行く。国の成長というのはそんなことの繰り返しだ。
少し話が変わって「弱肉強食」というどこかで面白い話を聞いた。間違っているかもしれませんが、思い出しながら書きましょう。
自然界というのは弱肉強食で弱いものは生き残れない。それが自然の摂理だと誰もがそれを持ち出す。それなのに社会が高度になればなるほど例えば一般に弱者と言われる人たちをホローして生きていけるようにするのは間違いではないか?というのですね。いっけんただしいのですが、どこが違うのでしょう。
確かに個体としては弱肉強食という話は生きています。弱いものは早くに死ぬのです。壊れるのです。力の強いものに負けるのです。ところが種というもう少し大きな目でとらえると。「適者生存」という原理が生きててくるのですね。より環境に適合したより正しいもの、ここで言えば弱いものも生きながらえる社会的な制度、コンセサスがある方が色々な変化、自然環境だけではなく、病気やその他の事に適合できるものが生き残る確率が大きくなるという事なんですね。
なぜこんな話をするのかというと、日本国憲法の話なんですね。ここには理想的な国のあり方ビジョンがうたわれています。ジョンレノンのイマジンと同じなんですね。戦いは止めようといっているのです。世界中の国の人が武器を捨ててれば戦争は無くなるのです。そう単純なことなんだな。それができない。
理想として国の制度として最高のことがうたってある。これが完全に具体化されれば、これに替わるような社会制度などたぶんないのではないだろうかね。確かに現実的ではないかもしれない。自分たちだけ戦争放棄をうたっても周りが武装していたんじゃすぐさま滅ぼされてしまうというだろう。世の中弱肉強食だからね・・と。弱い国が生き残ったためしはないと。
そうかな、「弱肉強食」でいうなら人は死んで国は亡びるかもしれん。それでも「適者生存」でいうなら日本人の理想とする「人類の夢」という高貴な魂は残るのではないだろうか。もしそうならば、そんな国のあり方もいいのじゃないかな。どうだろう。
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山口画廊個展 - 2015.07.25(写真)
はる 5131
22,23,24日と千葉の山口画廊に行ってきました。とても暑い日でした。今回は全部ガラスを取った状態で展示していたので、昼間映り込みがなく非常に見やすかった。私の作品は案外こうやってガラスを外した状態で観る方がいいようにも感じた。実際自宅で展示した場合埃や汚れの心配からこういった状態で展示するわけにはいかないでしょうね。
これでひと段落です。明日からはまたアトリエにこもって新作にかかります。
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ポケットの窓から - 2015.07.25(ポケットの窓から)

帰りました
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個展3日目 - 2015.07.24(ポケットの窓から)

今日いっぱいざいろうします。お待ちしています。
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個展2日目 - 2015.07.23(ポケットの窓から)
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個展1日目 - 2015.07.22(ポケットの窓から)

始まりました。あす、明後日とざいろうします。
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今日のアトリエ - 2015.07.21(ポケットの窓から)
はる 5127
新しいパネルが来た。私の作業はここから始まる。
明日から千葉に出かけます。個展が始まります。というわけでたぶん写メだけの更新になると思います。あしからず。
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- 2015.07.20(未分類)
はる 5126
昨日山口さんが絵を取りに来た。いつも車を運転して絵を取りに来てくれるので、梱包する必要がないので非常にありがたい。この絵を梱包して送るというのは、やってみると分かると思うのだが結構面倒な作業だ。
山口さんとの出会いはネットだった。こんなこともあるんだな。詳しいきっかけは忘れてしまったのだが、好きな作家の企画を開催している画廊を検索していて、たまたまその時に引っかかったのが山口画廊だった。そんなことから付き合いが始まった。 今回で七回目の個展になるそうだ。そうかもうそんなになるのかね。
暑いけれど、是非とも出かけてご覧になってください。私は22,23,24と在廊です。
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ポケットの窓から - 2015.07.19(ポケットの窓から)
はる 5125
今回の芥川賞「火花」を借りて読んだ。最初は何だかいい加減な話で、ちゃらんぽらんなお笑い芸人の一過性の作品だろうと高をくくって読み始めた。読み始めてぐんぐん惹きこまれた。これは私が関西出身だということと大いに関係がありそうだ。
関西のお笑いというのは、他の地域のお笑いとはちょっと違う。例えば私たちの高校時代でもとにかく一日一回クラスの中で笑いを取った、受けたというのが何よりも大事な価値を持っていた。頭がいいとかスポーツが出来るという以上に「おもろい」というのがかなりのウエートを持っていた。
その笑いの質なんだけれど、関西の芸と関東の芸、例えばタケシなんかとはかなり違うんだな。彼のお笑は自分はいい大人がわざとふざけて、それを自ら笑っているというようなところがある。何というのか自分を客観視して笑うというのかな。わざとらしさの芸というのか。お笑いの作為的な部分を笑うというようなところがある。所詮お笑いは仕事だみたいな、日常生活とかけ離れた世界なんだよといった感じかな。
関西のお笑いというのはもっと深いというのかな、この花火にもあったけれど「漫才は本物のアホと自分は真っ当であると信じているアホによって実現できる世界」であるという。アホぶったアホは嫌われるんだな。作為的なのは見抜かれる。とことんアホにならなきゃならない。頭がいいところを見せたら負けなんだな。そんなアホを死ぬまで演じ切ること、それを関西の芸人はカッコいいと思っているんだな。
お笑いは仕事では、生き方なんだな。アホをアホとして生き切る。そんなことを言ってる本だとおもった。百田さんのように「もうアホ臭くなったから止める」という物ではないということだろう。
同じ芸というので共感するとことがあった。
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今日のアトリエ - 2015.07.18(ポケットの窓から)
はる 5124
どうも政治ネタばかりで気が引けるのだけれど、まぁいまは仕方ないかなと思う。戦後初の大転換の時期なので、これを見過ごすわけにはいかない。かといって何か行動している訳だもないが、車に「反アベ」のステッカー貼って乗っているだけだけどね。小さいけど意思表示は大事だと思うからね。自分の中でも確認の意味で声を上げないと、いないのと同じだからね。
一つはやっぱり憲法違反だという言われている法律を強行採決という手法で通してしまったこと。ほとんどの憲法学者が憲法違反だといっている法律を一内閣の一存で勝手に読み替えて「合憲」としてしてしまったこと。こういうやりかたが有りだとするなら何でもやりたいほうだいということになる。もしそれをやりたいのであれば正々堂々、遠回りでも憲法を改正してやるべきだ。こそくにも党内にかん口令をひいて反対派をおさえ挙国一致的にやったこと。これはそのままこのままを許してしまえば言論自由、表現の自由、行動の自由が弾圧されることを意味する。そのことだけでもこの法律を通してはいけないということが分かる。そのことを指摘する人はいない。末端にも本性があるということだ。
自国の防衛に関しては色んな意見があるだろう。戦後70年経って今やっとそのことに関してタブーではなく、堂々と意見を述べられるようになったのに、それをいきなり全面的に吹き飛ばして屁理屈言わないで自分たちの意見を聞け、問答無用と強行採決してしまったことに激しい怒りを感じる。
民主主義は手間と暇がかかる体制だ。けっして多数決ですべてが決まるわけではない。少ない意見に耳を傾けていいところは取り入れて、悪いところは修正して行く。でなければ選挙した段階で議論はいらなくなってしまう。
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今日のアトリエ - 2015.07.17(ポケットの窓から)
はる 5123
まぁ憲法そのまま読めばね「陸海空の軍備を保持しない、交戦権を認めない」とはっきり書かれているからね。どう読んだって自衛隊は憲法違反という事になるね。丸腰のすってんてんになれと書かれている。いくら理想を言ったところで自国の防衛を他国頼みじゃ独立国とは言えない訳で、そんなもの誰が命がけで助けてくれるものか。そういった意味では将来的にはその部分だけでも憲法を変える必要はあるかな。
しかし、今の政治家やそれを取り巻く諸々を考えると危なくてとても憲法を部分的にでも変えるなどとはとても言えない。恣意的にどこかの都合のいいように書き換えられるのが目に見えている。そうであるならば今の憲法を理想として持っている方がいいように思うな。まだそれだけ民度が高くないということだろう。この憲法には戦争によって多大な迷惑をかけた国々への反省と、自国の猛烈な悔い改める想いから出来ている。ある種の格調高い詩のようなものだ。現実的ではないかもしれないが、そういった国だということに誇りを持っている。
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今日のアトリエ - 2015.07.16(ポケットの窓から)
はる 5122
人は遺伝子の舟だというのをどこかで読んだ。本能的には個体の維持の次に自分の遺伝子を出来うる限り沢山、広く、そして長くこの世に残しておきたいと思う。これ自身は生命が生きながらえるためのキーであり、これが無くなってしまえば種として滅亡するしかない。
多くの民族は好むと好まざるにかかわらず、たいてい最初は好戦的で他の民族を滅ぼそうとする。征服して他の民族の血を無き者にしてその上に自分たちの血のつながった民族を据えようとする。これもある意味「わがままな遺伝子」のなせる業で、いずれにしろ多くの民族、国は力をもてば必ず帝国化する。ローマ帝国にしろモンゴル帝国にしろ大英帝国もスペインもすべて他国を侵略植民地化することを国是とするようだ。
しかし、この膨張する国というのも永遠に続くことはないのは歴史が物語っている。いずれは中から崩れるか、より大きな力を持った帝国に滅ぼされてしまう。国の成長というのは個人の成長過程とよく似ている。生まれて成長して血気盛んな青年期をへてやがては大人になって年老いて行く。これは万物の理なんだろう。
さて、日本は今一時の勢いあるエコノミックアニマルと言われたイケイケどんどんの成長過程の国から老いた老人国になろうとしている。いや確実にそれは目に見えている。10年後20年後とお衰えて行くことはもう心しておかなくてはならない。
そんな国が今から成長していこうという大きな国と対等に戦えるわけがない。同じように軍備を整えてどうする。はりあってどうする。老子の「小国寡民」に、国は小さくて人は少ないのがいい。武器はあっても使わないようにして、約束事を守って、まずい物でも上手く料理して、小ざっぱりしたものを着て、小さくても棲みやすい住宅に住んで、日々楽しく生活できればそれが理想だというのがある。ちょっとわたくし流に意訳。
我々には、他国とは戦わないという理想があって、そうやって70年間平和を維持してきたという自負がある。それはやっぱり大きな財産なんだよな。だからそれを捨ててまで他と張り合って生きて行こうとは思わない。いやいや生きても仕方ない。楽しくないならさっさと滅んだ方がましだね。国が敗れても日本が守ったという「理想」があればやがてはそれを良しとする人も出てくるだろう。
何だか分からんような文章になってきた。今日はここまでにしときます。
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今日のアトリエ - 2015.07.15(ポケットの窓から)
はる 5121
扇風機は必需品。なんだかがっかりだ。
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今日のアトリエ - 2015.07.14(ポケットの窓から)
はる 5120
いよいよ明日強行採決らしい。おかしなことにNHKのテレビ中継がないんだって。それっておかしくないか。公共放送でどうでもいいような国会中継するくせに、ここは世紀の分かれ目だろう。関ヶ原だ。視聴率は抜群だと思うのだが、見せたくない人たちがいるんだなとかんぐられてもしかたないな。
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今日のアトリエ - 2015.07.13(ポケットの窓から)
はる 5119
アトリエにある自作の絵の具とか壁土を入れてある冷蔵庫。
いよいよ今週強行採決とうわさされている。これだけ多くの人が反対している法案を、自分がやりたいからというだけで通してしまって本当にいいのだろうか。たとえそれがまっとうな法律であったとしても、こんなに多くの人が不安に思ったり将来に禍根を残すというのであれば、思いとどまるべきだろうな。何が何でもというのは独裁だ。どこかの国と同じだ。民主主義というのは手間と暇がかかる効率の悪い体制なんだな。そういった諸々の反対意見をぶっとばして自分の意見だけでことが済むならこんなに簡単なことはない。
この一週間は本当に日本の将来を決定する大きな一週間だという気がするな。大事なことは日本は戦争をしない、色んなことがあっても戦争という選択肢を選ばないと決めたんだな。そういう理想を憲法という国の根本の理想に据えたんだ。それは先の大戦の大いなる反省から出てきたお宝のような遺産だな。結局先の大戦で多くの人命や他国に多大な迷惑をかけてきたけれど、結局のところこの憲法を得るための序章だったような気もするな。
ちょっと隣の国が力を持ってきたからとかなんだかんだと言って同じように軍備を始めたら、こんな小さな国はそれこそ一気に潰されてしまうだろう。軍備で隣の国を抑え込むことはたぶん無理じゃないかな。それをけん制するのはお花畑と言われても、憲法九条しかない気がするんだな。
自衛隊員にしても自国を防衛するという名目なら命もかけられようし、だいたい多くの国民に感謝される仕事になるだろう。それがやっぱり心の支えになるだろう。ところが訳の分からん、先の見えない敵を殺したり、殺されたり、感謝されない仕事などモチベーションがあがらんわなぁ。
原発と基地はご辞退申し上げます。
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ステッカー貼ってみた。 - 2015.07.12(ポケットの窓から)
はる 5118
昨日のステッカーを車のリアウィンドウに貼ってみた。「赤ちゃんが乗っています」よりは主張が感じられるでしょう。7/18日に全国で一斉に「阿部の政治を許さな」と声を上げるというのに賛同したものだ。これで何かが変わるとも思えないのだが、私は今のアベサンを支持しません」というのを意思表明することが大事だと思うからだ。別に「賛成」でもいいと思う。
しかし、今の日本の現状を考えるとアベサンだけを糾弾しても始まらんようなきがするな。結局は彼はアメリカの傀儡だから、安陪さんが倒れたら次の傀儡が立つだけだ。アベサンがあまりにも露骨に追米をいうから分かりやすいのだけれど、本来日本が戦争に負けてからアメリカの腕からのがれられてはいない。その証拠に原発と基地を追い出すことができない。未だに植民地、属国のようなものだ。それを感じさせないのはかの国の支配が上手くいったからだね。日本は戦後70年上手く騙されたふりをしていたんだね。本当は気付いていたのかもしれないけど。それよりお金を儲けることにしたんだな。
「アンポハンタイ」というのを子供の頃何も知らずに当時の流行語のように思って口にしていた。60年安保闘争は30万人の人が国会を取り巻いてデモしたそうだ。それでも日米安保は改訂された。その頃はまだ期限付きで将来は安保破棄も含めて考えるという日本にも気概があったように思うけれど、今はもう安保ありきで進んでいるように思うな。何の疑いもなく考えることを止めてしまった。これもまたアンポンタンだな。平和ボケと言われても仕方ない。
眠くなった。
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ポケットの窓から - 2015.07.11(ポケットの窓から)
はる 5117
鳥越さんのデモには行かないけど意思表示しよう、という呼びかけに呼応します。上のポスターは知り合いのHPからいただきました。自由に使ってくださいということなので、みなさんもご利用ください。どこでどう使うかは本人にお任せです。
http://www.geocities.jp/marebit/TOP.html
「
7月に予定する「アベ政治を許さない!」国民の一斉行動デーの基本を私の尊敬する作家、澤地久枝さんと話し合って次のように決めました。
こ れはどの団体にも働きかけていません。国民一人一人が今の安倍政権の戦争法案に反対して一斉蜂起するという考え方に依っています。Facebookの力だ けでどのくらいの規模になるかは全く分かりませんが、賛同の方は出来るだけ多くの人に働きかけ拡散して、同じ日,同じ時間に、同じ合い言葉を手作りで結構 ですからプラカードに表しアッピールしましょう!
日時:7月18日(土曜日)午後1時
合い言葉:「アベ政治を許さない!」
以下に澤地さんのアッピール文を掲載します。
「アベ政権の非道に、主権者の抗議意志をいっせいに示そう。
全国共通の、一つのスローガンを同時に掲げる。
『アベ政治を許さない!』
東京は国会正門前その他で。全国全ての街、村、隣近所で、同じ文体の『アベ政治を許さない!』を掲げよう。
2015年7月18日(土)午後1時」【文責・澤地久枝】
今の日本の政治のあり方に不安と不満を抱く多くの人々に以上のメッセージを送ります。皆さん、是非ご協力お願いします。
6月12日 鳥越俊太郎
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ポケットの窓から - 2015.07.10(ポケットの窓から)
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ララバイ - 2015.07.09(作品)

はる 5115
山口画廊 画廊通信 転載
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画廊通信 Vol.142 日常の奇跡
「大江健三郎、作家自身を語る」に、こんな一文があった──もし作家に、他の人間とは違う才能があるとすると、それは実につまらない偶発事から、自分がその時書こうとしている小説の、一番根本的なものを創り出す、そのきっかけを感じ取る能力だと思います。そのきっかけの有効性を信じて、不安があるにしてもそこへ向けてどんどん入り込んでしまう。そこからいろんな構想を広げて書いていく、その能力というものが作家の才能ではないでしょうか──文中の「作家」を「画家」に、「小説」を「絵」に置き換えれば、これはそのまま画家の制作を語る文章になるだろう。何を描いたらいいのか分らない、とはよく耳にする台詞だが、そもそもその人は何を描くべきかを考える前に、描くべき何かに気が付いてないのかも知れない。描くべきものはいつだって目の前に在るのに、ただ、それを感じ取れないでいるというのが、おそらくは事の真相なのだ。あるいは、たとえそれを感じ取る機会に恵まれたとしても、そのきっかけを信じて入り込む能動性=勇気を、持てないが故だろうか。
今回で7回目の個展を迎える榎並さんの制作には、元より日常に端を発する題材が多く見受けられるのだが、近年その割合がいよいよ増えつつあるように思われる。試みに作品のタイトルを振り返ってみると、個展当初の2009〜10年頃は「おおいなるものへ」「聖なるもの」「喜捨」「聖火」「いのり」「まりあ」「守護」といった宗教的なテーマが顕著だったのに対し、ここ1〜2年は「通いなれた道」「いつものところ」「月曜日の朝」「帰り道」「新しい家族」「一輪の花」「あのネ」といったような、さして特別でもない日常の一コマを、温かな目線で捉えたものが多い。今回の案内状に掲載した「古い手紙」という新作も、正にその系統に属する作品だろう。独り立ち止って、手紙に目を落とす男、その顔は心なしか微笑んでいるようにも見える。彼方には小さな家が見えて、手紙の白と家の白壁が、印象的に呼応する。もしかすると男は遠く異郷にあって、手紙を読みながら遥かな故郷の家を、彷彿と思い描いているのかも知れない。背景は温かな赤、今の彼の心の色だろうか。どことも知れない場所、いつとも知れない時間、しかし何気ない日常の、いつどこにでもあるような時空。私達はこの絵に見入る時、こんな記憶にも残らないような日常の一コマを、かつて確かに体験したという感覚を持つだろう。そして、こんなあまりにも当り前のさり気ない日常にこそ、何か大切なものが滲み出している様を、豊かな静けさの内に見るだろう。朝のバス停のベンチ、夕暮れの帰り道、可憐な野の花を手にする女、あのネ…と母に抱き着く女の子、そんな榎並さんの描き出す世界を見ていると、少し大仰な言い方をさせてもらえば、以前のタイトルにあった「大いなるもの」も「聖なるもの」も、現に私達がこうして暮しを営んでいる、取るに足らない今・ここの日常にあって、いつでも触れ得るではないかという作家の声が、画面より知らず知らずに響いて来るようだ。そう考えると宗教性も日常性も、作家の中では同じ事なのだろう。たぶん、その目線は天から地へと降りても、作家の根幹は何一つ変ってはいないのだ。
上記のような榎並さんのスタンスを、今回の案内状はいささか格好を付けて「日常に真理を見る」云々と書かせて頂いたが、それに関連したある印象的な出来事を以前この画廊通信に記した事があった。以下は5年前第2回展の時に書かせて頂いた、当欄からの抜粋である。
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昨年の夏、初めての個展を開催させて頂いた折、会期も終了間近となったある夕暮れに、Kさんご夫妻がにこやかに見えられた。これで会期3度目のご来店である。正直に申し上げて、3回も見に来て頂いたという事はもしや……というあらぬ期待も内心なくはなかったが、何しろKさんには前回の展示会で他の作品をお世話になったばかり、更なるお薦めは出来かねる状況にあった。そんな訳で、この日も熱心にご覧頂くご夫妻を前に「どうですか?」というあの一言を、果して出すべきか出さざるべきか、私は人知れない葛藤を胸中に繰り広げていたのだが、やがて聞えて来たご主人の麗しい言葉で、図らずも私の境涯は一変した。いわく「もう一度見て良いと思ったら、買いたいと思ってたんです」、こんな時の恩寵のような一言は、どんな名言よりも私を感動させる。この日Kさんに、私は一枚の母子像をご成約頂いた。タイトルは「聖なるもの」、どことなく嬰児(みどりご)を抱く聖母を彷彿とさせる、深い祈りを湛えた作品である。よく覚えてないのだが、私はこの時「きっと画家は祈りの象徴として、この聖母を描いたのでしょうね」とか何とか、例の知ったような台詞を吐いたのだと思う。それに対する奥様の言葉を、私は今も鮮明に思い出す。「この絵は、聖母の姿というよりは、どこにでもある日常を描いているのだと思います。聖なるものは、母が子をかいなに抱くような、何気ない日々の暮らしの中にあるのだという事を、私はこの絵に教えてもらいました」私はこの時「やられた」と思った。おそらく、この仕事でしか味わえないと思われる醍醐味の一つは、この「やられた」という快感である。思えば私などよりも、遥かに絵を深く見られているお客様の言葉に、教えられ励まされつつ、曲がりなりにも私はここまで歩いて来られたような気がる。そう、確かに絵は語っていた、聖なるものは子をいだく母の手にこそ、宿るものである事を。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
冒頭に引用した一文の中で、大江健三郎は「日常のつまらない偶発事から作品の根本的なものを見出す、そのきっかけを感じ取る能力こそ、小説家の才能なのだ」と語った後で、もう一つ重要な能力を挙げている。いわく「そのきっかけの有効性を信じて、不安があってもそこへ向けてどんどん入り込み、色んな構想を広げてゆく能力」、この言葉を「絵」に当てはめれば、一体どういう事になるのだろう──という事を考えた時、榎並さんはとうにその能力をそのまま自分の手法とされて、制作に当って来たという事実に思い到る。というよりは榎並さんの場合、何らかの「きっかけ」さえ無いのかも知れない。むしろ不安と共にそこへどんどん入り込み、それによって何らかの「きっかけ」を逆に見出すのである。これも前述した画廊通信からの抜粋になるが、その制作方法についての記述を、今一度ここに取り上げてみたい。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
榎並さんは、これから作品を描こうとしている真っさらな画面を前にした時、さて如何なる絵がそこに描かれる事になるのか、自分でも全く分らないままに作業を始めると言う。画家のホームページに「制作過程」という項目があって、文字通り幾つかの制作過程を公開されているのだが、完成への経過を写真と共に追う事が出来るので、私のような絵を描けない者が見ても面白い。試みに作業の一部を書き出してみると──パネルに綿布を水張り→古布・インド綿等を貼り込む→カーマイン(赤系の色)ジェッソで地塗り→黄土をかける→その上に壁土を塗る→更にカーマインジェッソを重ねて→壁土に墨とベンガラを混合し、褐色にして塗り込む→その上に金泥をかける→墨にベンガラを混ぜて染み込ませる→壁土を溶いて泥状にしたものをかける→それをまた赤に還元し→更に金泥をかけて、何が出て来るかを待ち構える──といった具合である。ちなみにこの作業はまだまだ続いて、傍から見ているといつになっても絵が見えて来ないのだが、実はこれこそが、榎並さんにとっての「描く」という行為なのだ。画家は自らも語る通り、一連のいつ終るとも知れない作業を通して、何かの顕現を手探りで「待って」いるのである。既に見えている「答え」を探すのではなく、問いかけて、問いかけて、ひたすらに問い続ける行為の中から、いつか見えて来るであろう何かを待つ。やがてその果てしない作業は、いつしか時の厚みとなって画面に堆積し、あの風化したロマネスクの会堂を思わせるような、えも言われぬマチエールを造り出す。そして私達は見る事になるだろう、そこにゆくりなくも浮び上がった修道士を、放浪者を、旅芸人を、そし
て楽師達を。彼らは皆いつの間に画面に降り立ち、画家のもとを訪れた者達であり、換言すれば、誰が現れるのか、どこへ向うのかも分らないままに歩みゆく道程の中で、画家は図らずも彼らとその生きる地を、遂に手探りの内に見つけたのだ。榎並さんの制作は、時に「待つ」とは能動であり、何処へたどり着くかも分らぬ「歩み」に他ならない事を、無言の内に教えてくれるのである。
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画家のお話によると近年の制作では、かなりの時間を費やしても今一つ絵が見えて来ない時など、布のコラージュや絵具の堆積した画面に水をかけてふやかし、やにわにバリバリと荒っぽく引き剝がしたあげく、そこからまた新たに出直しをされたりすると言う。決して最近巷を賑わす、高年性突発衝動による暴行ではない。しばしば創作上の思いがけない成果は、一か八かの思い切った破壊から生れ出るものである事を、優れた創作家ほど知る故なのだろう。そんな作業の中でふっと浮び上がった「きっかけ」を、画家は逃さない。かつてそのきっかけは、往々にして上述の修道士や旅芸人の形へと発展し、今でも彼等は画家の主要なモチーフではあるのだが、近年はそれらに併行しつつ「朝のバス停のベンチ、夕暮れの帰り道、可憐な野の花を手にする女、あのネ…と母に抱き着く女の子」云々といった、ごく日常的な形を取る事も多い。これは前述した通りで、きっと作家の内奥では、中世の放浪者も現代の定住者も、時空を超えて何つ変らない同じ者なのだろう。と言うよりは、ごく通常に定住する外面の陰で、独り内面を放浪し続ける者だけが、いつしか「芸術家」と呼ばれる種族になるのだ。ご自身のブログによく写真等をアップされているので、榎並さんの過ごす日々の風景は、私達にとっていつしか馴染みあるものになっているが、そこからそこはかとな浮び上がる人間は、やはり定住者のそれではない。制作をして、庭仕事に励み、読書や音楽に浸り、時に自身もチェロを奏でる。展示会を覗き、付近を散策し、空を見
上げ、想いを馳せる、場所は確かに日常の中ではあるけれど、心は縦横に時空を駆け巡る、その放浪の端々が制作する画面の中に、ある日奇跡のように舞い降りるのだろう。先の小説家の言う「日常から根本を見出す、そのきっかけを感じ取る能力」とは、正にその日常の来し方の中でこそ磨かれるのであれば、日常を放浪する者はより多くの出会いを感じ取り、絵の中へと顕現されるポテンシャルを育む。画家はいつも自身を旅する者である。
世界をより良く見て、より良く聞けば、いつか世界は奇跡を語るのだろう。誰にとっても世界とは今・ここに他ならず、ならばそこかしこに奇跡は潜むだろうに、哀しいかな誰もがそれに気が付かない。ただ数少ない芸術家だけは、その微かに響く声を捉えるのだ。世界の語る奇跡を、今・ここに潜んだ目を瞠るような奇跡を、画家は確かな声として聞き、ある形として浮び上がらせる。思えばそんな芸術を通して、私達も日常の奇跡に触れ得ると言う事実こそ、正に至上の奇跡なのかも知れない。
(15.07.08) 山口雄一郎
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ポケットの窓から - 2015.07.08(ポケットの窓から)
はる 5114
今年は梅がならなかった。昨年は結構たくさん収穫できたので、今年も期待したのだが駄目だった。早い段階でアブラムシがついて成長が抑えられてしまった。早めに消毒すればよかったのだけれど、あくまで無農薬とこだわったのが敗因だな。来年はすこし弱い有機的な消毒をしてアブラムシ退治をしよう。これは人にもらった梅を漬けたもの。
新国立競技場が暗礁に乗り上げている。これだけの国家プロジェクトでありながら責任者が不在というのはどういうわけだ。誰も責任をとらない。べらぼうな金額。それに集まる有象無象。動きだしたら止めることができない。これって何かによく似ている。だめだ、よくない、無理だと思っても儲けが絡んでくると、もう誰も止められない。行き着くとこま行く。
誰も責任をとらないのは最近では原発事故。もう少し前では先の戦争だ。どう考えても上手く行くはずがない戦いに国を挙げて突き進んでいった。一億総玉砕、火の玉になって熱狂的に突き進んだ結果が、敗戦。国破れて山河あり。ギリシャも対岸の火事ではないだろう。抱えきれない借金までしてやることかね、東京五輪は辞退した方がいいのじゃないかな。アベチャンの一人よがりで、どうも何か不穏な雰囲気だな。
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今日のアトリエ - 2015.07.07(ポケットの窓から)
はる 5113
今日も一日雨だった。梅雨だから仕方ないけど、まぁ結構憂鬱だな。
ここのところシャカリキになって仕事しているのだけれど、すぐに飽きてしまって何か他の事に気が行ってしまう。元々私は集中力がなく散漫でだらだらと仕事をするタイプ。たぶん他の仕事だったら役には立たないだろう。なんとかやれているのは自分ペースで出来る仕事だからだと思う。
小品というのはなんだろうな。あくまで自分の作品でありながら、誰かにもらってもらうために描いているわけでそこのところが好きに描いている趣味とは大きく違う。だからと言ってモノ欲しそうになることが一番情けないことで、何ともそこが難しい。
綺麗な花やべっぴんのお姉さんや外国のきれいな風景を描けば、そりゃ上手く描ければそれなりにお客さんが着くだろうけどね。それに若くて新進気鋭の作家というなら将来に期待してという事もあるだろうから、上手くすれば作家として生きて行けるかもしれんがな。還暦過ぎた爺さんになってしまったから、何だろうこう味というのかそんなもので勝負して行くしかない。
「この味わい深い」というのが曲者で、これこれという決まりがあるわけではない。例えばここに花があってそれを見たとおりにデッサンしてそこにあるように描けるというのは凄い技術だわな。その圧倒的な技術に対して尊敬の念を持つわけだし、お金を払うわけだ。ところがこの「味わい深い」などという抽象的な、鑑賞者が変われば全く違ってしまうような価値に対して、なかなか人はお金を払おうとは思わない。描いている私自身が何とも判断しかねない物だったりするわけだ。
いいと言えばいいし、悪いと言えば全くゴミのようなものかもしれないわけだな。そこのところがいつも申し訳ないなぁと思うところだ。
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今日のアトリエ - 2015.07.06(ポケットの窓から)
はる 5112
地元の自治会で昨年文化祭の実行委員をしていた。まぁほとんど小学校の低学年とおなじレベルの文化祭なんだけれど、それでも例年やっていることは続けたいらしい。毎年実行委員が変わるので、止めるとは言いづらいのかもしれないな。これだけ老人ばかりの街になってしまえばやらなくてもいい行事もたくさんあるのではないだろうか。
夏祭りという行事も何だか町内会のイベントで駄菓子屋などと言っているけれど、プロの的屋が入っているわけではなく、町内の親父がやっているわけだから、どうにも面白くない。安全だけれどね。
ああいったお祭りの屋台の面白いところは的屋の危なそうな兄ちゃんやおねえちゃんが、何処からとなく表れてどこかへ去って行く。この見事に摩訶不思議な雰囲気がおどろおどろしていて面白いのだな。隣のおっやんやお兄ちゃんが屋台やっていても何も面白くない。これが本当の屋台だと思って育った子供たちもかわいそうだな。大学の模擬店とは全く意味がちがうのだよ。
大学の模擬店で思い出したのだけれど、どうも学生のデモを見ているとこの模擬店、お遊び風に見えて仕方ない。本物をみて育ってきていないので、どれもこれもディズニーランドのように空虚にみえて悲しい。声を上げたのは嬉しいけれどね。どうもこのまま強行採決されてしまうのだろうか。私の周りの人間は誰も賛成していないのに、このままこの法律が通ってしまうのだろうか。過半数を占めている以上、どうやっても止めることは難しいだろうな。そういう仕組みだもの。誰が過半数もあんな政党に与えてしまったのか、国民に責任あるよな。
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今日のアトリエ - 2015.07.05(ポケットの窓から)
はる 5111
今日は午前中にクロッキーに行って、午後からはこの間の公募展で受賞した仲間のお祝いに出かける。結構忙しい一日だった。まぁこんな日もある。
少し前の新聞小説の挿絵をスクラップブックにして持っている人が持ってきてくれて見せてくれた。当時何の反響もなかったので、まぁそんなものかと寂しい想いをしていたけれど、気に入って切り抜いていた人もいたのだと知って嬉しかった。オリジナルな発想で描かれた絵ではないけれど、小説の部分からインスパイアーされて描く挿絵というのもなかなか刺激的で面白い。チャンスがあればまたやりたいと思う。
受賞式の後、懇親会があり色んな年代の人とお話しする機会がある。これが団体展に参加している面白い所だと思う。普段知り合うきっかけがない自分の年代の上下の人と話をするのは面白い。まぁ若い人はあまりこういった団体には出品してこないのだけれどね。
個展の準備をしなければな。
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今日のアトリエ - 2015.07.04(ポケットの窓から)
はる 5110
今日はこの間のグループ展の打ち上げでみんなで居酒屋へ。私は飲めないのでウーロン茶で乾杯。明日は午前中はクロッキー、午後はこの間の公募展の受賞式がある。教室の生徒が受賞したのでお祝いにかけつける。何だかんだと出かけることが多いな。
FBはあまりにも情報が早く通り過ぎてしまう。もう一度時間がある時にゆっくり読みたいと思った記事を探すのが面倒くさいし、見つからないことも多々ある。これはそういった記事をもう一度読み返すには不都合な道具だ。だからと言ってシェアすると何でもかんでもみんなの窓?に載ってしまう。煩わしい思いをさせてしまう。
それにこれは良い記事だと思ってシャアすると、それがデマ記事であったり、人を惑わす煽り記事であったりすることがある。FBはそういったいみで両刃の剣でよく吟味して裏を取らないと間違った情報を流す元種になる危険もある。だからと言ってあまり臆病になってもこういったツールの面白さが無くなってしまう。
最近シャアが少なくした理由だ。見知らぬ人の作品の紹介ならそれはそれで有効だと思うんだ。問題は政治なメッセージだな。ニュースだな。これは見方は様々に分かれる可能性がある。気になったメッセージはシェアせずにメモとして自分のコメント覧にとどめておくことにする。
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7/3 - 2015.07.03(ポケットの窓から)
はる 5109
どうもいつもの手順で画像が送れない。FCブログの何かが少しずつおかしくなっているのかもしれないな。よくわかりません。
今日は一日雨が降ったりやんだり、まことにうっとしい梅雨空でした。どうも何もやる気になりませんな。
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