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大滝詠一と高田渡

はる 4632
上のラジオ番組は面白い。二人とも亡くなってしまったけれど、言っていることがなかなか深いんだな。オリジナルなどと言っているけれど、独創なんてないんだ。当たり前だけれど、何かどこかで影響されて出てくるものなんだ。絵でも同じだな。そう思う。
どこに根っこがあるかということなんだろうな。そのことに早く気付いた方が勝ちというのか、はやりすたりに関係なく生きてゆけるということだろう。
何でもそうだけれど、物事を突き詰めて考えてゆくとどんどん昔に戻ってゆく。このひとつ前はどうなっていたんだろうと考える、でまたそのひとつ前はどうなんだと考える、でどんどん過去をさかのぼってゆくことになる。
絵を描く人がたどる道を書いてみる。
たとえば油絵を描きたいと思ったとする。まず道具を手に入れるために画材店に走る。まぁそこでキャンバスと油絵の具など必要なものを買う。油彩はそれなりの技術を必要とするので、それに慣れるだけでけっこう暇がとれる。形をとるためにデッサンも練習しなきゃならない。そうこうしているうちに、まぁそこそこ描写できるようになってそれで満足して終わってしまう人も多い。
料理などもそうだけれど、最初は普通に材料をスーパーなどで買ってくることだけで満足するわけだ。そのうちに何かこだわりが出てきて産地にこだわったり、天然のものとか、有機栽培ものとか、もっとこだわってゆくと自分で素材から作るということになるだろう。どんどん過去に戻ってゆくわけだ。
それとよく似ているんだけれど、たとえば絵を描くのにキャンバスってどうして決まっているの?ということに疑問を持つ。それじゃキャンバスがなかった頃はどうしていたんだろう?何に描いていたのかと調べたくなる。元々は大きな木の板に描いていたものだ。あのモナリザなどは板に描かれたものだよ。ところがそんなに大きなまっすぐな木が手に入りにくいので、いろいろ考えた。まぁ帆掛け船などの帆じゃかなり大きなものが作れるし、何よりも軽くて扱いやすい。しかし油を吸って描きにくいので木枠に張って地塗りすることにした。
絵の具にしても油彩画と簡単にいうけれど、そもそも絵の具って何だ?という疑問がでてくる。油彩画できる前はどういうもので絵をかいていたのか。そもそも絵の具やなどなかったわけだから、自分で作っていたわけだろう。じゃ油絵の具ってどうやって作ったの・とどんどん疑問が膨れてゆく。絵をかくということからどんどん離れてゆくのだけれど、一時日本の美大なども材料学がとても盛んになった。
私のことを振り返ってみると、イタリアに行ったこと、いやそれは単に大きなきっかけに過ぎないのだけれど、本当はイタリアに行く前から水性に移行するだろうという予感はあったのだな。絵をかく材料のバリエーションの面白さに気付くと、普通に画材を絵の具屋さんから購入するということが、宝を捨てたように思えてくるのだ。
話が最初に戻るってくるのだけれど、物事の原点まで立ち返ることで人間本来の持っているどこにでも誰にでもみんなに共通するエッセンスみたいなものが見えてくるようにおもうのだな。どうだろうか。