あそびべのHARU・ここだけの日々
画家・榎並和春

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no title - 2012.10.31(ポケットの窓から)

はる 4143
 少し絵が進んだ。今日もまた朝めしを食ったらすぐに絵を庭に引き出した。一昨日描きこんだ場所が気に入らなくて何とかならないかと気をもんでいた。描けば描くほどだめになる。描かないと進まないというジレンマだな。

 作為と無作為の中間をゆく。無作為だけなら案外簡単、オートマチックに絵の具をたらしてゆけばそれなりの作品にはなる。けれどそれだけじゃ私というものがなにもない。どこかに私というものを感じさせるモノや事がほしい。

 何故絵を描いているのか、私の心の中に何があるのか、そんな事を問いかけながらあーでもない、こーでもないとやって行く。そうやってかすかに兆しが見えたり、あぁそうだったんだという瞬間が時々あって、そんなことが面白い。

 しかし、今回は最初っから女神像を描こうと思って始めた。

 人は動物から人間になった時に無意識では居られなくなってしまった。自分を越えたものとして神さまを創造したんだろうな。イコンにしても古い仏像にしてもアフリカの仮面なんかもそうだし、各地にある道祖神や地蔵さんや具体的な姿かたちのない御神体やモノでもそうだ。
・・・・・・・・・
 眠くなった。又明日。


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ちょんまげスタイル - 2012.10.30(ポケットの窓から)

はる 4142
 最近の事ではないが、髪の毛がだいぶ薄くなって坊主頭と変わりなくなってきた。そうやって同年代の男性を見渡すと、まぁやや薄毛を含めると半数ぐらいは無事には済んでいないようだ。そのことで別に安心するわけではないが、何となく仲間意識を感じる。

 今年になって学校に行く時もちょんまげスタイルを維持している。前は夏休みなど長期の休み以外は遠慮していたのだけれど、60過ぎてこれで出入り禁止になればそれでも良いやという居直りからそんな奇妙なスタイルをとっている。そうだなぁ、そうやって周りを見渡すと、結構同じ年代のおじさんたちがこのちょんまげスタイルだという事に気付く。

 仕事をリタイヤして自由な髪型ができるようになったということなのか、我々の世代(ヒッピー世代)のシンボル的なすたいるなのかなとも思う。私に関しては単に髪が薄くなって最後の抵抗として後ろで縛っているにすぎないのだが、見た目は同じだね。


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西海照雄沸画展 - 2012.10.29(ポケットの窓から)

西海照雄沸画展
9/28~10/31
ぶどうの丘美術館
甲州市勝沼菱山5093
0553-44-2111


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祈りのかたち - 2012.10.28(ポケットの窓から)

はる 4140
 一日降ったりやんだり、少し肌寒い天気だった。今日は一日家にいて大きな絵を描いては眺めて、消しては描いてまた眺めるという具合でなかなか思うようには進まないものだ。上の写真はその真ん中の人物の顔。誰かに似せて描こうとは思っていない。絵の中にある顔を少し私が加工しただけ。それでも描いているうちに誰かに似てくる。今までに出会った誰か、知り合いの誰かに似ている。

 気に入らないと庭に引っ張り出して水をぶっ掛けてカネのタワシでこする。貼り込んだ布を部分的にはがすこともある。この顔も何回か水のなかをくぐった。それでも幾重にも布や絵の具が重なった支持体そのものはびくともしない。乾けば更に引き締まって強固なものになる。こんな描き方はどんな技法書にもかいてはいない。描いているというより加工していると言った方があたっているか。

 目指しているのは私なりの『女神像」、長い間風雪に耐えた観音像みたいなものが描けないか、これまでも幾度も挑戦してきたけれど、なかなか思うようなものは描けなかった。今回もだめかもしれない。

 個展をしているとよくクリスチャンですか?と聞かれる。題材に聖書の一部を取ったり、物語を拝借するのでそんな風に誤解されるのだろう。でもまぁまんざら関係なくもない。人間が作って今残っている創造物は、絵にしても、彫刻、建築、音楽に物語にしてもなどほとんどすべてが宗教に関係のあるものだ。ある種すべてが「祈りのかたち」といえる。

 まぁそんなところか。


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山中 伸弥 教授 の話 - 2012.10.27(ポケットの窓から)


「人間万事塞翁が馬」 京都大学iPS細胞研究所所長 
山中 伸弥 教授



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文化祭 - 2012.10.26(ポケットの窓から)

はる 4138
 今日は一日当番で会場に詰めていた。少し前の芸術祭、もっと前なら県展と言った。文化祭という言い方にも少し疑問を感じることは確か。文化祭と言えば学校の学芸会とか地域の町の文化祭のイメージがどうしても強い。今回はなかったのだが、盆栽や瓢箪細工、皮細工、竹細工、流木細工や貴石画のようなものまで出品してくる。無論それぞれ芸術表現まで高められたものもあるのだろうけれど、どうにも評価の仕様がない。

 文化祭と言う言葉の響きは無鑑査の感じがする。審査せずに無鑑査ですべて展示するというのであれば文化祭でいいと思うのだが、コンクールで審査員がいて評価するものだからどうにも審査する方が困る。 

 それにしても若い人の応募が少ない。私が学生だった頃は、100号の絵を描いて出品できるこれが一番身近な公募展だった。一年の目標として設定してそれを目標に絵を描いていたものだ。そういった仲間も多かった。

 今回だけではないけれど、こういった公募展に出品してくる若い人がいない。コンクールそのものに魅力を感じないのかもしれないな。インスタレーションやアニメや現代美術系で今までの評価の基準では計れないような表現になってきているということもある。公募で優劣を争うというのも時代遅れのような感じもする。

 一方で私は思うのだ。実際に手を使って絵を描きたい、工夫してモノを作りたいという人は多いのじゃないかな。どうなんだろう?


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学校のせんせ - 2012.10.25(ポケットの窓から)

はる 4137
 昔はおっかなびっくりで生徒の前に立っていた。いつかは化けの皮がはがれて誰も私の言う事を聞かなくなるのではないかというトラウマだな。一度負けた闘犬は二度と土俵にはたてないそうだ。まぁ人の偉いところは何度も懲りずに失敗することかな。それで何かを学んでゆく。

 大きな声で怒鳴り散らすのは力が有り余っている若い人がよくやる。生徒はそれ以上に大きな声で騒ぎ立てる。今はほとんどしゃべらない。静かになるまで待つ。じっと待つ。そうするといつの間にか潮が引くように静かになってゆく。それからうんと静かに話し始める。生徒は何事かと耳を傾ける。耳を澄ましながら大声でしゃべる人はいない。

 力でどうにかしようとすれば、それ以上の力で反発してくる。力がなくなれば簡単にバランスは崩れる。大きな声も力もないならそんなものがなくても何とかする、そんな方法を考えるものだ。人間の持っている本来の力を引き出す。それが出来れば後は放っておいても自ら学習してゆくものだ。

 学校の教育というのは勿論基本的な知識や技能を修得するという大きな目標があるのだけれど、それ以上に大事なのは生徒自身が自ら学んでゆく、そのことが楽しいこと、嬉しい事、大いなる喜びにつながるんだよということを学ぶことだと思う。そのことで、学校を卒業してからの人生をより楽しく有意義に生きる事が出来るというのが最終的な目標なんだな。

 そういった意味では教科はあまり関係がなく、例えば美術なら美しい絵や彫刻やデザインが出来るということではなく、美術によって芸術によって人間的に育てるという事の方が大事なのだ。学校の美術の先生は「絵の先生」ではない。そこのところを勘違いすると、お互いに不幸だな。


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丹澤和仁展 - 2012.10.24(ポケットの窓から)


丹澤和仁展
2012/10/24~10/29
甲府・イノセント
055-222-4402


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芸人は今しか価値がない - 2012.10.24(ポケットの窓から)


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はる 4136
「吉川春水、昨日今日明日」
 http://kikkawaharumi.blog68.fc2.com/blog-entry-1795.html
より勝手転載

********
・・・・・今月初め、87歳亡くなった大滝秀治さんのお別れの会の様子を報道していたテレビを見ていたら、生前の大滝秀治さんの姿が映し出されました。その中で大滝秀治さんは、多分最近の映像でしょうが、「役者はその時しか価値がない、過去も未来もない」、だから役者である限りは作品に出たい、と語気強く語っていらっしゃいました。

「役者はその時しか価値はない」。大滝秀治さんのこと言葉を聞きながら、9月初めに聞いた「老いの無念」を思い出し、まもなく訪れる、いやもうすでに訪れているのか、私の「老い」を考えました。「その時しか価値はない」のは役者だけではい、どんな仕事であれ、生活であれ、今にしか「価値」はない。

出来るならば、私の「今」がたとえ「死の床」に在っても、「価値」あるものであらんことを。・・・
*****************



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ストーブを出した - 2012.10.23(ポケットの窓から)

はる 4135
 ストーブを出した。


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少し寒い - 2012.10.22(ポケットの窓から)

はる 4134
 個展の準備であたふたとしている。地元の個展はほとんど自分が企画実行するのでやらなければならないことが結構ある。画廊企画の展覧会の場合本来は作家は何もしなくても、すべて画廊が取り仕切るというのが筋なのかもしれないけれど、私は企画でも自主企画でもやることはあまり変らないなぁ。画廊のお客さんを相手にするというより私個人のお客さんを招待するという気持ちでいるからDMも結構な枚数郵送するするし、ほとんどの場合会場にも詰めている。

 サブテーマを決めて一年通じて各地を巡回するという方法を取り出したのは、97年初めて神戸で個展を開催した時からだ。

 95年1月に阪神淡路大震災があった。そのことが勿論頭の片隅にあったのだけれど、私は初めての海外研修の機会に有頂天になっていた。そして後ろ髪ひかれながらもその3月に出発する。帰国したのが96年の春。レクイエムではないけれど、どうしても地元神戸で個展をしたかった。そのサブテーマは「こころのかたち」

 それから毎年サブテーマを決めて個展を開催するようにしている。このテーマに沿ってメッセージを考えるのだが、これがまたけっこう楽しくてしんどい仕事だな。

 何度もなんども書き直してすいこうを重ねる。作品のタイトルを決めるのも楽しい、難しい作業だが、このサブテーマはさらに難しい。
 
 今年は「どこか遠く」何かこころにびびっと来ましたか?
 


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no title - 2012.10.21(ポケットの窓から)


朝日新聞 12/10/21
改札口で傘を持って待つ人
はる 4133
      「どこか遠く」決定稿    榎並和春

 
どうしてなのかよく分らないのですが子供の頃から、例えば老いた者、放浪者、旅芸人などの社会的な弱者、漂う人に共感を感じます。

 一方、人は強くて豊かで大きなものに惹かれるところもあります。それに沿った方が生きやすいかもしれません。しかし、「強い力」に流されていると自分を見失ってしまいそうになります。

 昔読んだマンガに「青春の尻尾」というのがありました。詳しい内容はみんな忘れてしまいましたけれど、こんな話でした。

 若い主人公は「真実を求めて」旅に出ます。ところが一向に見つける事ができません。大人たちはみんな解決したような顔をして生きているけれど、実は考えることをやめてしまっただけで、多くの人はそういった心の葛藤を「青春の尻尾」として心の片隅にくっつけているものなんだよと。

 いつまでも答えのない問いを追いかけていたい。漂う身でいたいという気持ちがそんな人々への共感になるのかもしれません。

 「ここではないどこかに・・」そんな気持ちを今年もまた作品にしてみました。楽しんでもらえれば幸いです。御来廊こころよりお待ちしております。



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羽生結弦 SP Yuzuru Hanyu - 2012.10.20(未分類)


GPシリーズ2012 アメリカ大会 羽生結弦 17歳
SP Yuzuru Hanyu
はる 4132
 神戸の個展が終わって、後始末もそこそこに次の個展の準備に追われている。「貧乏暇なし」のたとえ通り、私は出稼ぎ仕事に精を出す。やはり芸術家などではなくて、大道芸人が似合っている。どこまで行けるのかな・・。今やっと入り口にたどり着いた、そんな気がしている。楽しみながら生きて行けたら最高だ。


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no title - 2012.10.19(ポケットの窓から)



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どこか遠く3 - 2012.10.18(未分類)
 
はる 4130
「どこか遠く」覚書3
 
 どうにも仕方ないことなのですが、例えば老いた者、小さな子供を抱えた親子とか放浪者、旅芸人などの社会的な弱者に共感を感じます。

 一方、人は強くて豊かで大きなものに惹かれるところもあります。それに沿った方が生きやすいかもしれません。しかし、「強い力」に流されていると自分を見失ってしまいそうになります。弱いですから面と向って反抗は出来ませんが、おどけてオチャらけて笑ってしまうピエロに共感するのです。

 力は弱い方がいい。一番弱い者より更に弱い力でよい。その方が力に頼らないない方法を見つけやすいだろうと思います。 
 
 例えば、それは自分を律する心みたいなものかな。簡単に言えば徳とか品格とか、人間としてより高い人格を持とうとする志みたいなものだろうか。
 
 今年も、そんな「内なる力」に身をゆだねて、ふらふらと「どこか遠く」心のうちを旅してみました。楽しんでもらえれば幸いです。


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老いた羊飼い - 2012.10.18(未分類)
 
老いた羊飼い F6 2012
はる 4129
 「どこか遠く」 覚書
 先日イイノさんのブログを読んでいてキリスト誕生の絵の話が書かれていた。http://ameblo.jp/e-no4765/entry-11371651669.html キリスト教だけではないのだけれど、こういった絵というのはただ見れば分るというものではなくて色々な意味が絵の中に閉じ込められていてそのことを知らなければ、絵を理解することにはならないらしい。

 その中でキリストの誕生に多くの人々がお祝いにかけつけるシーンが描かれている。一つは「東方の三博士」の礼拝でその意味は身内の人間だけではなく遠く異邦人でさえも開かれた教えであるということ、そしてもう一つボロをまとった「羊飼い」たちの礼拝がでてくる。これも何故羊飼いか?と言えば要するに土地を持たない著しく差別された貧しい人たちにも平等に開かれた教えなんだよという事らしい。

 今年の個展のDMの絵に上の作品を選んだ。この絵を描いている時は上の話は意識していなかった。知らなかったといった方がいいかな。同じ羊飼いでもその中で「老いた」人はより弱者ではなかろうか。この世の中で一番の弱者、一番低いところから眺めた風景というのが一番風通しがいい。何もかも見えるのではないだろうか。

 もう一つ関連するのだけれど、前から書こうと思って書きそびれたこと。

 力でもって統制された世の中というのは一見平穏に見えるけれど、実際は物凄く危ういものを持っているということ。その実質的な力がなくなればあっけなく崩れてしまう。これは何回か書いた話。

 力でないもので何とかする。それは何だろうと常々考えていた。外からの力ではない内からの力を育てることではないかと思ったのだ。外からの力は一番弱い者より更に弱い力でよい。その方が内なる力を見つけやすい。

 「内なる力」ってなんだろう。それは自分を律する心みたいなものかな。簡単に言えば徳とか品格とか、人間としてより高い人格を持とうとする志みたいなものだろうか。

 弱肉強食で力を持ったものが弱者を食い物にするというバイタリティは認めるけれど、いずれはそれも卒業しなければならないものではないかな。

 内なる力に身をゆだねて「どこか遠く」理想をもとめて旅に出よう。


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岡本直浩展 - 2012.10.16(ポケットの窓から)


岡本直浩展
甲府・三彩洞
10/13~21
055-226-8393
はる 4128


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帰宅 - 2012.10.15(ポケットの窓から)

はる 4127
 帰宅しました。上は帰宅途中で撮った東京駅です。いいですね。クラッシックで。
 個展の様子
石井宏志陶芸工房さんが紹介してくれました。

http://tougei1.exblog.jp/16590892/


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個展楽日 - 2012.10.14(ポケットの窓から)

はる 4126
 個展無事終了しました。今年はお天気に恵まれて毎日気持ちよく過ごす事ができました。反面お天気がよすぎて皆さん行楽に出かけてしまったようですね。すこし客足が鈍いような気がしました。

 しかしまぁ、すべては来ていただいた人が満足できたかどうかで、その点はクリアーできたのではないかな。明日帰宅します。


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個展五日目 - 2012.10.13(ポケットの窓から)

はる 4125
 個展5日目
 いよいよ明日で終了です。午後は5時までですので間違わないようにしてください。お待ちしております。

 今回は新聞の記事で来てくれた方が何人かいらした。DMの小さな写真をみて見たいと思ってくれたようだ。そう考えるとDMの写真は結構大事だということがわかる。DMの写真もそうだけれど、そこに載せるキャッチコピーも大切だ。一言で見る人のこころを掴む的確な言葉がそこに添えられれば百倍の効果がある。

 我々のようなフリーの画家は案外今までそんなことを考えてこなかったし、教えられてもこなかった。ある種のマネージメント、戦略というのだろうか。絵描きは絵だけ描いていればいい、ほかの事を考えるのは邪道だ、才能が無いからそんな作戦をかんがえるのだ、などなど。

 フリーで個展をやりながら生活してゆこうと考えるならば、無名の画家は絵だけ描いていたのじゃ食べては行けない。先ほどのDM一つにしても、ごたごた色々情報を載せることがいい方法だとは思わない。出来るだけ削り取ってシンプルに言いたい事だけを的確に載せる、それには日頃自らの仕事を「ことば」で表現する訓練も必要ではないかな。デザイナーを使うのもいいけれど、本当は自分で考えるのが一番いいと思う。ブログはいい訓練になる。

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個展四日目 - 2012.10.12(ポケットの窓から)

はる 4124
 個展も残すところ後二日になってしまった。明日は土曜日、ゆっくりお茶でも飲みに来て下さい。

 お待ちしています。

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個展三日目 - 2012.10.11(ポケットの窓から)

はる 4123
 個展も三日が過ぎました。どうも昨年と比べると訪問者が少ない気がしますね。各地のギャラリーの話でも全体にギャラリーを訪れる人が少なくなったと聞きます。どうしてなんでしょうか。

 世の中の全体の雰囲気が悪いとはききますが、こんな時代だからこそ反対にアートが必要なんだとおもうのですがね。本物であること。それだけだは自信がある。

 後三日です。お待ちしております。

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個展二日目 - 2012.10.10(ポケットの窓から)

はる 4122
 国画会の先輩たちのグループ展のオープニングパーティに出かけました。グループ展といっても通常のグループ展の域をかるくオーバーしていて一人一人の大作を集めたような展覧会で絵画部の多納三勢さんは300号ぐらいの油彩を3点ぐらい出品していました。見ごたえのある展覧会でした。

 こういった大作をまとめた個展は一生に何度も出来るわけも無いが、一度くらいは生きている間に美術館などでやってみたい。集大成ということになるかな。段々に足腰が悪くなって自分では出来なくなってしまうだろうから、体の自由が利くいまのうちにとはおもうのだが、反面面倒だな、死んでから誰かがやってくれるならそれでもいいかとも思う。作品をすべて写真にとって廃棄するもの残しておくものと誰が見ても分るように整理だけはこの二三年のうちにやるつもりだ。

 卒業制作からの通し番号がついているので比較的に整理は出来ている。今年の最近作が1600番台で年平均50点ぐらいかな。こういったブログや日記などもそうだが、なんでも記録、整理しておくという性癖があるようだ。あまり細かい性格ではないのだがこういうことだけオタッキーだな。

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個展一日目 - 2012.10.09(ポケットの窓から)

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はる 4121
 個展が始まりました。今日は初日で秋晴れの汗ばむような天気でした。多くの人が来てくれるかと思いきや、以外に人数は少なかったですな。まぁ平日のなんでもない日にこれる人は限られているのですが、まぁ明日を期待しましょう。

 新聞の記事を見て来てくれた人がいました。こういった人が多いと嬉しいですね。ではまた明日。明日は国画の先輩の個展のオープニングパーティに出かけて帰りは少し遅くなるかもしれません。

http://www.art-express.co.jp/guide-net/osaka/blanche/index.html

「10/2(火)~10/7(日) 村上孝志 個展・10/10(水)~10/21(日) 国画/陶画彫三人展 柴田雅章 多納三勢 西村公泉・)」

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no title - 2012.10.08(ポケットの窓から)



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はる 4120
 個展前夜 展示の様子
 明日からです、是非どうぞお越し下さい。私は連日お昼過ぎには在廊の予定です。お待ちしております。展示の詳しい様子はまた明日にでもアップします。 




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誕生会 - 2012.10.07(ポケットの窓から)

はる 4119
 実家にお世話になっています。姪っ子の子供たちの誕生日でした。おめでとう。

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パゴダミアの南 - 2012.10.06(ポケットの窓から)


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はる 4118
 明日からまた一週間ほど旅人になります。まぁ単に実家に厄介になるだけですが、それでも日常生活から離れて少し気分転換できます。まさに憧れの大道芸人のような暮らしですね。

 松井今朝子さんの著作が面白い。芸人や芸事の話が多いのだけれど、読んでいてあぁやっぱりそうなんだと思うことが多々ある。例えば
「道を外れたら作家などだれにでもなれるというのは本当のことだけれど、道を外れて生きる事がだれでもできるわざではない」『そろそろ旅に」

 「・・芸でなくても身が立つならそれにこしたことはない、だれもがただやめられないからやめないでいるだけだ・・」「仲蔵狂乱」などなど

 この人の芸事の話はなかなかそそられる。突き詰めて分りやすく言えば「退路を断つこと」だな。退路を断ったものだけが見える真実というものもある、ただし落伍者になる可能性も大いにあるわけだ。


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祝・山口画廊10周年 - 2012.10.05(ポケットの窓から)

はる 4117
 性善説、面倒になったので、この件に関しては又の機会にします。だいたい想像できるでしょう。


 来週早々には関西の方に個展で出かけます。描き始めた大きい作品はとりあえずここまでかな。つづきは帰宅してから。

 お世話になっている千葉の山口画廊が10周年だそうです。その記念展である「斉藤良夫展」の紹介文を無断転載します。(不許可転載ならば削除しますので連絡下さい)企画画廊を経営していく覚悟の程が伺えてしびれます。どうぞお近くの方はご覧になってください。では

http://home1.netpalace.jp/yamaguchi-gallery/top.cgi
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画廊通信 Vol 108               十年 (第16回斎藤良夫展)


 画廊をオープンして、十年の歳月が流れた。当初は、みっともないから一 年は持たせなければ位に思っていたのだが、あれよあれよという間に一年が 過ぎてしまい、それなら石の上にも三年、何としても五年、這いつくばって も七年、野垂れ死んでも十年、と自らをやみくもに叱咤激励しつつ、日々危 うい綱渡りにせっせと励んでいる内に、遂に十周年を迎える運びになってし まった。とは言え、その内実はとても「経営」なんて言えた代物じゃなく、 その場その場をただ青息吐息でしのいで来たに過ぎず、それが証拠に代償と して積み重ねた借金は、いよいよ年季が入ったか一向に減ってはくれず、正 直言って借りるも返すもいい加減飽き飽きしているのだが、先方は残念なが ら飽きてはくれない模様である。

 それはさておき、この十年の記録をざっと申し上げると、開催した展示会 は今期で通算120回、しかもその全てが画廊の企画による「個展」、よっ てグループ展・名品展・セール等の類いは一度もなしというのは、手前味噌 ながら極めて異例の足跡である。その間、計24名の芸術家を取り扱わせて 頂き、そのほとんどをリピートしてご紹介して来た。この際だから、自画自 賛ついでにはっきりと申し上げるが、取扱作家には絶大な自信がある。地元 の先生でお茶を濁した事一度もなし、どの作家も全て、紛れもない「一流」 である。もしたった今、銀座・京橋界隈に出店したとしても、近辺にひしめ くあまたのギャラリーには、決して負けない自信がある。それだけの素晴ら しい画家を、私は分不相応にも扱わせて頂いて来た。こんな無名の力なき画 廊に、個展の開催を了承してくれた画家のご好意に対し、この場を借りて三 拝九拝・平身低頭、心からの感謝を申し上げたい。

 中でも斎藤さんには、最も多くの個展をお願いして来た。今回で16回目 という事は、一年に二度お願いした年が何度もあるという事だが、他の予定 も色々と立て込んでいたにも拘らず、その都度斎藤さんは誠実な対応で、質 の高い作品を提供してくれた。

 個展の2~3ヶ月前にお伺いすると、斎藤さんはたいがいジーンズにボサ ボサの頭で出て来られて、「いや~、なかなか描けなくてねえ」等と言いな がら、自ら淹れたコーヒーを出してくれる。それから1~2ヶ月ほどを経て、 案内状に載せる新作をいただきに上がると、アトリエの壁にはまだ絵具の乾 いてない新作がいつも数点掛けられていて、その見事な風格と独特の情趣に しばし見とれつつ、私は画家がまた一歩新たな境地へと、歩を進められた事 を知るのである。斎藤さんはその脇で、いつになく晴れやかな笑みを湛えな がら、「この半月ほどで一気にはかどりましてね、今朝も3時から描いてた んですよ」等々、疲れも見せず快活に語っている。

 何でも、海外の取材から帰って来ても数ヶ月の間は、見て来た実際の風景 の印象が消えず、そこからなかなか抜け出せないのだと言う。それが心の中 で徐々に熟成されて来て、いつかふっとある一線を超えた時、「斎藤良夫」
としての内なる風景が立ち現れる、そこから先は早いのだそうだ。画家が現 地で描いて来たという素描と、後日制作された油彩作品とを見比べてみると、 その違いが明瞭に分かる。素描も、勢いのある自在な筆さばきが素晴らしい のだが、やはりそれは実際の風景の写生であるのに対して、それを元に描か れた油彩作品の方は、「斎藤良夫」というフィルターを通した心象風景へと、 見事に変貌しているのが常だった。

 私はその新作をいそいそと車に積み込んで、来たるべき展示会へと思いを 馳せながら、うねうねと伸びる東金街道を、ひたすらに千葉へと飛ばす。顧 みればそれは、何度も繰り返して来たおなじみの光景だったが、しかし何度 繰り返しても決して飽きる事のない、スリリングな得難い体験だった。

 十年前に画廊を開店した時も、オープニングはもちろん斎藤さんにお願い した。斎藤さんはある展示会を終えた直後だったが、突如慌ただしく入った 企画に嫌な顔一つせず、かえって「全面的に協力しますからね」と温かい言 葉をかけてくれて、おかげで私は先々の不安に青ざめながらも、堂々たる展 示で画廊を開ける事が出来た。

 初回展のタイトルは「欧州放浪 ── 斎藤良夫展」、文字通りヨーロッパ ・シリーズだけをセレクトした、全点油彩による展示である。当時斎藤さん は66歳、ちなみに私は42歳、それから今日に到るまで、私は苦しくなる 度に目を閉じて、しばし胸奥の彼方を仰ぎ見る。そこには斎藤さんの描き出 すあの悠久の大空が、遥かな郷愁を湛えてどこまでも広がっている。この十 年、私の心の中には、いつも斎藤さんの絵が共に在った。

 斎藤さんと長いお付き合いをさせて頂いて来て、私は画家の「覚悟」とい う事を思う。おそらく「プロ」という言葉は、「覚悟」の異名に他ならない。 一生を絵に懸けるという覚悟、何があっても描き続けるという執念、それを 「生業(なりわい)」にして生きるという信念、それは言葉にすれば簡単な 事かも知れないが、実践して貫き通す人は極めて少ない。

 絵を志した人のほとんどは、必ず一つの別れ道に遭遇するだろう。さて、 どちらの道を歩むのか、その人は自ら選択しなければならない。一つは不自 由ながらも安定した穏やかな道、一つは自由だけれど先の分からない危うい 道。ちょうど家庭を持つ年齢となり、養わなければならない家族を背負った 人の大多数は、安定した道の方を選ぶに違いない。それはある意味、社会人 として当然の事だ。具体的にどんな道を行くのかは、人によって様々だろう けれど、いずれの道を行くにせよ、結果的にその人は自ら画家としての道を 閉ざす。むろん当人は、閉ざしたとは考えてないだろうけれど、そこから真 にプロとして生き残る事の出来る人は、おそらく1パーセントにも満たない。 せいぜいどこかの美術団体の役員にでもなって、地元に君臨するぐらいが関 の山である。

 ところが一方で、何を思ったか知らないが、わざわざ先の見えない危険な 道を選ぶ、普通とは言えない人も稀に存在する。将来設計など何のその、そ うは言っても家族は養って行かなければならず、故に彼は真に人の心を打つ 絵を、見る人の財布を開けさせるだけの力を持った絵を、切実な想いで描き 上げて個展に臨み、厳しい評価の目に自らをさらす。幾度も幾度も、気の遠 くなるようなその繰り返しである。そこには、絵画教室の先生がたまに個展 を開いて、どんな絵であれ生徒が義理で買ってくれるような、そんな生ぬる い共生関係は存在しない。絵を生業にするという事は、常に開かれた売買の 場で、勝負をし続ける事だ。だからこそいつか彼の絵には、自己満足や自己 主張を通り越えた、人の心にまで届き得る力が備わる。それが、プロの歩み というものだろう。

 斎藤さんはまさしくそんなプロの道を、強靭な覚悟のもとに貫いて来た人 だ。声高に信条を語らずとも、その来し方は否応なく絵から滲み出す。斎藤 良夫76歳、独自の画境に到りながらも、未だ安住を良しとせず、更なる境 地を希求するその気概に、私はいつも心打たれる。

 今春斎藤さんは、イタリアはトスカーナ州の山間部を中心に、ソラーノ・ カスティリオーネといった古い町を巡られた。特にソラーノは、印象深い町 だったと言う。丘陵の斜面を覆うように造られた城砦の町で、何百年という 時を経た古い石造りの民家が、びっしりと積み重なるように建ち並ぶ。山の 斜面という地形のせいか、終日強い風が吹いていて、陽春のみぎりだったの にセーターを着込んでも、まだ寒かったと画家は話してくれた。

 ここに、斎藤さんからお預かりした一枚の写真がある(ここでは省略)。 町の中腹の路地から、山頂の城壁を仰いで撮られたものと思われるが、左方 の階段は雑草に覆い尽くされているところを見ると、おそらくは誰も足を踏 み入れなくなった廃墟が、その上に在るのだろう。右側には、何度も埋め直 しては塗り直し、そのことごとくが剥げ落ちてしまった石壁、味とか趣とい った段階をとうの昔に通り越したような、ただの薄汚い塀である。ところが、 斎藤さんが目を留めるのは、正にこういった風景なのだ。きっと私達であれ ば、気にも留めずに歩き去るだろう壁の前に、画家はふっと足を止めてたた ずむ。見ていると、その壁の前を通り過ぎた幾多の人々の温もりが、その幾 百年をかけて刻まれた、数え切れない遥かな営みの響きが、しんしんと滲み 出して画家の心へと到る。やがてそれは、あの得も言われぬ情趣をかもし出 す、斎藤さん独自の石壁となって、絵の中に結晶化するのである。今年はト スカーナの空の下で、風の吹き渡るいにしえの町に、画家は何を見て来られ
たのだろうか。

 壁に染み込んだ時間、毎年毎年塗り替えられながら、  何百年にもわたって見て来たであろう人間の営み、そ んな事を思いながら描いています。 壁の前を通り過ぎて行った、無数の人々がいるでしょ う。ある時は恋人同士であったり、ある時は友達同士 であったり、子供を連れた家族であったり、年老いた 夫婦であったり、そして喧嘩をしたり笑ったり、酒を 飲んで騒いだり、もの思いにふけったり、辛い別れが あったり、そんな市井の人々の数えきれない営み。心 温まる事も、愚かな事も、全てを黙って見続けて来た 路地裏の壁、そこに刻まれた目に見えない時間の温も りを、少しでも描き出す事が出来たらと思うのです。

 十周年という特別の区切りに臨んで、何かのイベントを打つべきかどうか、 これでも少しは考えたのである。当初はその時が来たら、皆様への感謝を価 格に反映させつつ、「画廊コレクション展」を華々しく開催しようと目論ん でいたのだが、昨年の震災後に切羽詰ったあげく、お客様のご好意にすがり 付いて、数少ないコレクションの大半を売ってしまったので、それも叶わぬ 夢と消え、かと言ってパーティーという柄でもないし、そういったものは勘 弁して頂きたい方なので、結局通常通りの個展開催に、落着する成り行きと なってしまった。相も変らず面白みのない人間で、大変に申し訳ないとは思 うのだが、しかし考えてみればこの大きな区切りに、「斎藤良夫展」ほどふ さわしいイベントがあるだろうか。オープニングが斎藤さんなら、十周年も また斎藤さんである。今年もこうして、斎藤さんの新たな気概に満ちた新作 を展示する事こそ、今の私が皆様に表し得る、最大の感謝と言えるのかも知 れない。

 つくづく思うのだがこの十年、私は良き画家と良きお客様の、ささやかな 橋渡しをして来たに過ぎない。この画廊をここまで存続させてくれたものは、 画家のご好意と共に、一枚の絵に身銭を切る事をいとわず、私財をなげうっ て評価してくれたお客様の、芸術への一途な愛情である。安全圏から傍観す るだけの物見遊山の徒が多い中で、そんなお客様の純粋な献身に、私は何度 心打たれ勇気付けられた事か。願わくはこれからも、そんな素晴らしき同志 の皆様と、この道を歩んで往けたらと思う。

 十周年に臨んで、斎藤さんの新作を前に、遥かトスカーナの空を夢みつつ
── 風立ちぬ、いざ生きめやも。  (12.09.28)




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性悪説 - 2012.10.04(ポケットの窓から)

はる 4116
 戦前は軍部が日本の中枢を握っていたことは確かなことで、どういう経過でそうなってしまったのかというのは勉強不足で良く分らない。史事実だけを言うならば明らかに日本は他国を侵略した。今の我々の軟弱な体質からはとうてい考えられないけれど、当時日本はすこぶる荒ぶった民族だった。

 素人考えだけれど少し考えてみる。明治維新で鎖国をやめて世界に国を開いた。自主的にというわけではなく外国の圧力に屈服してというのが本当のところだ。圧倒的な諸外国の文明を見せられてとてもじゃないが対抗できないと思ったことは確かなことだろう。

 「富国強兵」というのがその時の国是だった。兎に角国を富まして軍備を整える。そうしなければ外国に侵略されてしまうその思いは強かったと思う。幸か不幸かアジアではいち早く西欧化したためにあらゆる点で優位に立った。今まで押さえ込まれていた人間がちょっとばかり力を持つとそれを使いたがるというのは人間の真理だな。あれよあれという間に日本は鼻持ちならない軍国少年になってゆく。後は雪崩打ったように破滅までころがってゆく。

 軍部が突出して日本を戦争に駆り立てたように言われるけれど、たぶんそうではないように思う。今回の件などを見ても世論というのは簡単に操作される、民主主義という民意はあまり信用できない。あっという間に好戦的な雰囲気になってしまう。それを止める事はなかなか勇気のいることなのだ。

 何故こんなことを考え始めたかといえば、最近のお隣の国ことを考えたからだ。体制は違うけれどどことなく似ている気がするのは私だけか。誰も反対できない独裁というのは同じような臭いがする。そしてなぜか武力を誇示する傾向がある。

 国というから分りにくくなるけれど、例えば小さな集団であるところの学校のクラス経営も同じようなところがある。昨日の続きだけれど、まだクラスがまとまりがなくバラバラな初期の状態はクラス経営には大きな力が有効だ。そこで失敗するとクラスを立て直すのは至難の業になる。一糸乱れぬ統制の取れたように見える状態は誰にも分りやすく、上からの受けもいい。担任の力がもろに出る。

 昨日も書いたけれど、そこで支配している力はある種の恐怖なんだな。怖いから言う事をきいているだけで、その押さえつけがなくなればすぐさまばらばらに分解する。そこに支配している主な考え方は「性悪説」ということになる。人は放っておくと悪くなる、だから上から一定のルールで押さえつける。守らなければ罰を与えるというわけだ。

 この考え方はお互いに疲れる。極度の緊張を強いられる。一人一人の「幸せ」ということを考えるならば、一番無駄な事をしている。

 では「性善説」によればどうなるか明日考えてみたい。


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戻ってきた。 - 2012.10.03(ポケットの窓から)
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はる 4115
 シャメがやっと戻ってきました。

 昨日の続き
 当時良く考えたのは自分にもっと自信があって、力があって、体育会系のノリのよさがあったなら、ぐんぐんと生徒を巻き込んで行けただろうな。強い力というものに凄く憧れたことは確かだ。打たれ強いと思っていた自分が以外や以外、まったく精神的に脆い事にびっくりした。

 けれど本当は強い力などないほうがいいのだ。最近はそう思う。強い人間は弱い人間の気持ちが分らない。ついついその強い力ですべてを推し量ってしまうからだ。教師は子供の中の一番弱いこどものその又下の力しか持たなくてもいいのだな。力ではないもので何とかする、そのことの方が大事だ。

 人は身の丈でしか物事が推し量れない。自分が考えるように他人も考えていると推測する。だから人のことをけたたましく非難するのは自分がそのことを人一倍気にしているからで、自身一番痛いところなんだろう。

 国でも個人でも同じ事がいえないかな。大きな力で押さえつけるのは直接的、即効性があって短期的にはすこぶる有効だ。遠目には一糸乱れぬ統制がとれて団結力があるように見える。けれどそこで支配している論理はある種の恐怖であって、本人のためになっているかと問われればNOでしょう。その大きな力が抜けた時には暴動が起きるのだ。


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画家・榎並和春です。HPはあそびべのHARU・ここだけの美術館

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