はる 3863
明日朝に荷物を取りに来る。明後日は学校の仕事が入っているので、前日に取りに来てもらう予定。雨が降らなきゃいいのだが。
前回までの松屋の個展は会場がとても立派な大きな会場だったので、そこをどうやって埋めるのかそのことが大きな課題だった。銀座のど真ん中のそれはそれはちょっと信じられないぐらい凄いスペースだった。 なんで私みたいな馬の骨がこんなところで個展が出来たのか全く持って不思議な話なんだが、そのことは今回のテーマではない。これもやっぱり縁だな。
ところで、それまで街の小さな名も無いような画廊で発表していた私がいきなりそんな会場で個展をやれと言われて、最初はほとんど何も考えずに簡単に引き受けたんだけれど、近づいてくるとだんだんプレッシャーがかかって来た。
まぁ何というのか、だめなら一回で終わってもかまわないという居直りで、ミクストメディアに変ってからの大きな作品(s100号)を5点ぐらい並べて出品した。デパートの企画会場で無名の新人が売れないような馬鹿でかい作品を堂々と並べたのは、恥知らず、怖いもの知らず以外なにものでもない。前代未聞の出来事じゃなかっただろうか。で、一回目(2008年)は無事終わった。無論、雑誌も新聞も評論家もすべて何にも手ごたえが無かった。悪口でも書いてくれればそれでも良かったんだけれど、全く無視された状態だった。デパートの画廊というのはそういうスペースなんだ。
けれど、嬉しかったのは観た人の評判はすこぶる良かった。結果もそこそこ、そのことでかなり気分をよくした。
その様子
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二回目は二年後(2010年)にやってきた。こんどは前回と同じようには行かない。なぜなら大きな作品の質が確実に落ちるわけだ。前回は約10年の作品の中から選べばよかったのが、今回は2年しかない。作品もそんなに大きく変化しない。観る人が面白いと思ってもらえるかどうか。何か作戦を考えなければならない。
一年ほど前から日常生活のスナップ写真を知人のデザイナーに撮ってもらって、春夏秋冬、私の生活の一端を壁新聞のようにして会場に貼り出した。普通なら作品(商品)以外の物を飾るのはデパートの展示としてはご法度だと思うのだけれど、あえてそうした自由な遊びの空間を演出した。これも無名の馬の骨としてはけっこう面白い展示になったんじゃないだろうかと自負している。
作家は作品が全て、他のものは必要ない、邪道だという話もよく聞く。でも私に関して言えば、観てくれた人が楽しんでくれれば、それもこれも有りだなと思っている。
その様子
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今回は三回目。会場が今までの会場と違って少し狭くなる。テーマは『日々礼賛」、何も変らない、何も特別な事がない、そんな日々の暮らしのメッセージを何とか会場に持ち込みたい。楽しみに観てください。
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ブログ
「あそびべのはる・ここだけの日々」
より
日々の暮らしのなかから浮かんだ、
言葉、ひとりごと、つぶやき・・・
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具体的に言うならば「何気ない日常が大切である」と感じた私というのを描くべきなんだ。それ以外のことは空言でしかない。誰かの影響で分ったような空言を言っているに過ぎない。若いロック歌手がいう『ラブ&ピース』みたいなもので何の意味もない。
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そう大体良いだけの人間などいない。善だけの人間など信じない。悪意や不善を行うから、そんなどうしようもない人間だから「聖なるもの」「おおいなるもの」に祈りを捧げるのだ。良いだけの人間なら神などいらない。反対に悪意だけの人間もいないんだな。善も悪も同じだけ持っているのが人間なのだ。
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もっと突き詰めれば最終的にその人の「感受性の精度」に行き着く。出来るだけ多くのものを観て、聴いて、読んで、体験して、歓んだり悲しんだり怒ったりして、感受性を磨くことが取りも直さずいい表現者になる方法だ。簡単なハウツーなどない。生きること全てが表現なのだ。
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前にも書いたが、ネタを探しているうちは多分いつかはネタに詰まることになる。ネタは探して書くものではない。書いているうちに出てくるものだ。自分は今こんな事を考えていたのかと書くことで気付くことが多い。書くこと、描く事、出し惜しみせずにどんどん出してゆく。出し続ける限り枯れる事はない。
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すぐに役に立たないことだから、学生のうちに徹底してやるんだ。実生活で役に立つ事など後でいくらもやらされる。お金にならない損得でない無意味な事にこそ意味がある。役に立つ事だけやるのであればすぐに仕事につけばいい。実際の世の中はそんなことで成り立っている。学校生活ぐらい無意味で無駄でいいのだ。その遊びの部分がやがて有益で有意義に変るのだな。
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文章を書くことは絵を描くことと良く似ている。特に私の描き方はそうやって心の中を見つめる事であるからだ。こころのデッサンだと思っている。
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鉛筆をもって一本の線を引くとき、よくその話を思い出す。何も描かれていない画面は大きな宇宙と同じなんだな。何でもあるけれど、なにもない。無数の線があるのと同じだ。私は神になってその中から一本の線を選び出す。不思議な事にそこに山が生まれ海が生まれ人が生まれ、小さな宇宙が生まれる。
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反対に考えれば、「絵は鏡である」とは考えられないかな。その時の自分の裸の姿を見せてくれている。そう考えるとまんざら無駄ではない。理解できない事は全く自分にとって無駄なものか、自分のレベルがまだそこまで達していないということを教えてくれているということになる。
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この「日々礼賛」は私の中からにじみ出て来たもので出来ている。より私自身に近づいているように思うのだな。全ての人が共通に持っているもの(源泉=オリジン)を絵を描いたり文章を書いたりする事で探っているのではなかろうか。
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クロッキーに限らないのだけれど、絵というのは見方なんだな。私にはこう見えました、こう解釈しましたという自己報告みたいなものだ。だから見えない人には描けないし、反対に見えた人には口でも足でも描ける。
Author:あそびべのはる
画家・榎並和春です。HPはあそびべのHARU・ここだけの美術館