あそびべのHARU・ここだけの日々
画家・榎並和春

試し - 2011.09.30(you tube)


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(no subject) - 2011.09.30(ポケットの窓から)

 

 昨日のライブリハーサルの様子。


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初めまして - 2011.09.29(未分類)
ここでははじめての記事です。

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ブログの引越しを考える。 - 2011.09.29(ポケットの窓から)








 しかしまぁ、とんでもないでかい広告があったものだ。苦肉の策でこんな事をしてみた。最新の記事に広告が付くので、最新の記事は・だけにする。直接貼られたら写真もぶっ飛んでしまうので広告だけ上に上げた。



 しばらく最初の項目は無視してください。まぁこうやると少しはましかな。記事に直接貼られたら台無しだ。



 しかし、これじゃみんなここから出て行くだろうな。私も引越しを考えているが、少し他を当たってみたが面倒だな。最近は色んな機能が付いていてすんなりシンプルにゆかないのね。しばらく考えてここが考え直さないようなら仕方ないので引越しだな。


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×CMがはいるようになった。 - 2011.09.28(ポケットの窓から)





 


また知らないうちに変なCMが入るようになってしまった。ブログというのは無料で借りているので当然CMが入るのだが、今まではほんの少し一番下の所に入っていたのが、今日から堂々と品のないカラーのCMが入るようになってしまった。

 元々このブログに引っ越してきたのは前のアメブロがCMが多くなりすぎたためだった。こうなるとまたどこかに引越ししたくなってくる。せっかく色んな詮索にもひっかるようになってきたんだけれどな。

 




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(no subject) - 2011.09.27(ポケットの窓から)



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もう寒いよ - 2011.09.26(ポケットの窓から)







 


はる 3746

 今の時刻(夜の10;30)になるともう寒いね。段々に夜も長くなって、人恋しい季節になります。皆さんお元気ですか?などと言ってみる。こういったブログは誰かが見ているけれど、どうも手ごたえが希薄だ。いや、コメントを書けといっているわけではない。返事を書くのが面倒などで、コメントなど誰彼に書いてもらっても困る。適当に読んでもらえればそれでいい。



 私も何箇所か適当に読んでいるブログがある。あまり難しいのは読んでも分らないので、これもまた適当だな。



 明日はパートタイムのお仕事があるので、早く寝ます。ではまた。




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裸婦クロッキー11/9/25 - 2011.09.25(裸婦クロッキー)





















































 


はる 3745

 私はこうやってパソコンに向って、さて今日は何を書こうかと考えるのが、一日の終わりのほぼ儀式のようになっている。簡単にシャメだけで済ます場合もあるけれど、興が乗れば結構真剣に考え込んでしまう場合もある。



 こうやって書くことは、普通に何気なく過ごしてしまっていることを改めて自分で確認するという意味で凄く重要な仕事になっているんだなぁというのが最近の私の想いだ。絵を描くことも自分のこころの中を覗き込むような作業だけれど、絵と違って言葉はもっとストレートにつかむ事ができるように思う。



 私の文章はある意味特殊な仕事を持つ人間の言葉で、いつも何か問いかけながら、ああでもないこうでもないと探り書きをしているようなもので、文章として面白いとか、楽しいとか、上手いとか、そういった類のものではない。私の今この場で考えていることをダイレクトに表現しているだけで、何の飾りもてらいもない。物を作る人間の見る目を通した文章だから興味がある人には面白く思うかもしれないな。私はほとんど読む人のことを考えてはいないので、反対に興味がない人にはカスみたいなものだろう。



 少し話題を変えて

 先日から考えていたことも書くことで気付いたことで、書かなければまったく見過ごしていただろう。その、クロッキーのことから始まった考察のことだ。



 今日もクロッキーがあった。全く今日は筆がのらなかった。その理由は描きながらいろいろな事を考えてしまったからだとおもうのだけれど、他人からみればほとんど変らないように見えるクロッキーも毎回、その瞬間ごとに違うわけで、描いている私だけに分ることかもしれない。



 絵が描ける、かけないという技術の話ではない。物が見えれば左でも描けるのだし、口にくわえてもでも、足でも描ける。ようするに、どのように観たか、解釈したかということなんだな。



 このことは昨日の家の話にもつながってゆく。簡単に便利にお安くという風な事ばかりで生活してゆくと、結局生きてはいるけれど、何も観ていない、聴いていない、感じていない、生物として生きてはいるけれど、人間として生きているということにはならないのではないかな。



 




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裸の王様 - 2011.09.24(ポケットの窓から)







 


はる 3744

 光より早い素粒子が見つかったということだ。まだ実際は検証がすんではいないので、これからどうなるかわからない。単純に考えるとアインシュタインの相対性理論が根底から覆ってしまうわけで、そうなると宇宙は閉じられた世界ではなくなる。どこまでも無限に広がる空間というと、暗黒の世界を空想して薄ら寒くなる。まぁどちらにしても日常にはなんら影響はないのだけれどね。



 隣の空き地に新しい家が建ち始めた。これが昨日まで土台が出来たと思ったら、今朝屈強の男たちが10人ばかりやってきて、大きなクレーン車が工場で作られたプラモデルのような家の断片を次々と持ち上げてあっという間に二階建ての大きな家が出来てしまった。



 面白いように立ち上がってゆく様子を見ると、これは家を建てるという仕事ではなく、単に組み立てると言う仕事だと思った。それぞれは実に楽しそうにホッチキスのお化けのような物を持ってパチパチとめていた。彼らは大工さんではない。まともな大工の修行をした人間は反対に邪魔になるだろう。そんな技術などこの場では使うところがない。まぁ時代の流れであるから、どうしようもない。仕事のやり方が変ったということだ。



 昔チャップリンがモダンタイムスで風刺していたのは、大きな工場の流れ作業だったけれど、今はそんな生易しいものじゃないね。実際一つ一つ最後までものづくりに関わっていけるというのはもう工芸品とか作家物しかないのかもしれないな。工場で作られた量産品か作家生産の一点物という両極端になってしまった。



 効率とか利便性、経済的なことを考えると、日常生活は出来るだけ量産品を使って暮らすというのが生きてはいきやすいのだけれど、この間の話の続きのようになるのだけれど、例えば何かを観るとか聴くとか感じるというのは、ただ単に流されていたのでは出来ないことなんだ。ただ単に口に入るものを食って、そこらの量産品の服を着て、張りぼてのような家に住んでいたのでは、何を食っても同じだし、どう生きても変らないということになる。



 この間の鑑賞の話とつながる。

 「それで終わってしまったのでは何も観ていない、聴いていない、感じていないのと同じなのではないかな。少し前にクロッキーのところで書いたけれど、物を見るとか、感じるとか、聴くというのは「はっきり意識して聴く、観る、感じる」という姿勢が必要なのではないか。我々に抜けている、教えられてこなかったのはそういうはっきりした姿勢ではないのかな」



 それが生きる、生きた、ということだ。



 裸の王様のように気がつかなければそれでもいいのだけれど、何だかすこし寂しい。

 


 




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真っ当な芸事 - 2011.09.23(ポケットの窓から)







 


はる 3743

 今日から「こうふのまちの芸術祭」というイベントが始まって、私は既に一ヶ月も前から展示は始まっているのだが、その関係で来てくれる人もいるのかと思って夕方の一時間ほど珈琲を飲みに出かけた。上の足は私のものです。すみません。



 何箇所かの展示も見たけれど、どれも何か色んな廃材を使ったインスタレーションだったり、空間や音などで今ひとつ私には興味がわかない。どうも作品というのはこれこれというものだという私の既成概念が強いためだろうな。面白いという意味では分るのだが、それで何が言いたいのとなるとそこで止まってしまう。



 ここに参加している若者は各地のこういったイベントに積極的に参加している人も多く、展覧会があればそこに留まって何かしらの作品をその場にあるものを利用して展示して、終わったら片付けてまた違う場所に出かけるというスタイルをとっている。



 こういった現代美術の先駆的なものにイタリアのベニスビエンナーレがあるけれど、これなどはもう百年の歴史がある。15年ほど前に一度たまたま滞在した時にやっていたので観たけれど、各国の展示場が大きな広い公園の中に点在して、そうだな昔の大阪の万博みたいな感じで観てまわった記憶がある。多くの人がぞろぞろと言った感じで展示をのぞいていて、お祭りの山車や出し物を見る感じかな、面白ければいい、楽しければいい、まぁそんなお祭りに近いのかもしれない。



 まぁ考えてみると、こういったものの原点はお祭りのお化け屋敷とか、見世物やサーカスや芝居小屋などに由来して、アーティストなどと言うのは最近の話で、芸人や大道芸人、歌舞伎者、流れ者、漂泊者に近いのかもしれないな。そう考えれば彼らのやっている事の方が、私などがやっている額縁の絵より真っ当な「芸事」のようにも思う。




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鑑賞の具体的方法 - 2011.09.22(ポケットの窓から)









こうふのまちの芸術祭2011

9/23~10/2

場所・甲府の街中色々




 昨年から縁があって自分の子供たちぐらいの若いアーティストと街中で遊んでいる。実際の話彼らがやっている事、やらんとしている意味が良くは分っていない。「あの有名な・・・」といわれても全く聞いた事も、見たこともないような奇妙な輩が、ガラクタを集めて即興的に何かをやっているという事しか分らん。あれで食べていけるのか?とおじさんは心配してしまう。もっとも彼らにとってはそれで食べるとかサクセスするなどという発想は元々ないのだろうな・・そこのところでもうギャップを感じてしまう。



 私は何度かこの場でお知らせしているように、街中のカフェでほぼ一ヶ月という長期にわたって作品を展示している。これは一年前から続いている企画で、昨年のまちなか芸術祭をきっかけにバールスローの石原さんの快諾を得て何人かの作家をほぼ一ヶ月間の個展という形で紹介してきた。私の紹介という形はこれで終りにしますが、引き続いて展示の計画もあるようなので、どうぞ参考作品か作品ファイルを持って石原さんにそうだんしてみて下さい。



 バールスロー ここです。 



 画廊という商売を考えれば、こんな人が行き交う事が少なくなった街中では経営はなりたたない。今甲府の町で画廊と言われるスペースが一体どれだけあるだろう。画廊は空きスペースがあるからと簡単に考えて始める人が多いけれど、見た目ほど気楽な商売ではない。



 例えば街中の画廊に絵が飾られていたとして、いったい何人の人がゆっくり絵を見てくれるだろう。絵を身近なものとして鑑賞する生活習慣がわれわれにあるのかということだな。確かに絵を描く人は比較的に多いのだけれど、それを観る、鑑賞するという姿勢はできていないように思うな。



 まぁ私自身も偉そうな事は言えないのだけれど、我々がどうして人の作品を鑑賞するのが上手くないのかを少し考えてみる。



 趣味として書く欄に「絵画鑑賞」とか「映画鑑賞」などと書くとまぁ比較的上品な趣味として可もなく不可かもなしといったところなんだが、ここで言う鑑賞は「ただ見る、眺める、娯楽」といった意味だな。「好きだ、嫌いだ、面白い、面白くない」そんな程度の事だ。普通はそれで終了、終わってしまっても誰からも非難されないし、いい趣味ですねで終わってしまう。



 でもそれで終わってしまったのでは何も観ていない、聴いていない、感じていないのと同じなのではないかな。少し前にクロッキーのところで書いたけれど、物を見るとか、感じるとか、聴くというのは「はっきり意識して聴く、観る、感じる」という姿勢が必要なのではないか。我々に抜けている、教えられてこなかったのはそういうはっきりした姿勢ではないのかな。



 そういった姿勢がどうすれば養われるかということなんだけれど、多分「言葉にする」という客観的な作業が必要なのではないだろうか。「言葉にする」事によって「今自分はこのことを意識した、聴いた、観た、感じた」ということを五体に響かすことができるのではないかな。



 ただ面白かったというだけではなしに、何故それが面白いと感じたのか、そのどこに面白さを感じたのか、それを面白いとおもった自分を知りたい。その事によって自然に自分の中にある種の「ものさし」ができるように思う。結局のところ「源泉オリジンへの旅」につながってゆくのだ。




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中立な報道などない - 2011.09.21(ポケットの窓から)





 


はる 3741

 昨日のうちに早々授業のカットが決まって、突然幸せな休日になった。といっても我々パートタイム教師は授業をやらないと給料が減るという「嬉しくてやがて悲しき」状態ではある。それでも臨時休暇は得した気持ちになるから不思議なものだ。



 午後から風や雨が激しくなってきて、午後4時ごろは甲府を通過したらしい。久しぶりの台風の直撃だが、やっぱりお山に守られているのか、神戸で経験した第二室戸台風とは比べ物にならないものだった。勢力はけっこう大きかったんだが、ここはあまり風も吹かなかった。冬の空風でもあのぐらいの事がよくある。



 それに比べて雨はけっこう凄いものだった。川が近くを流れているので、もし氾濫ということになったら、まず今あるアトリエの絵を二階に運ばなければ個展が出来ないなぁ・・などと考えていた。実際はそんな事にはならなかったので取り越し苦労に終わってよかった。



 あと情報取得のためテレビを久しぶりに観た。どうでもいいような、同じようなことをどこのチャンネルでも何度も何度も繰り返しているだけであきれるなぁ。台風ならこんなに詳しく報道するのに、本当に必要な情報はほとんど誰かに遠慮して言わない。日本のマスコミはすごく偏向しているように思う。NHKでさえそうなんだから、民放はスポンサーが手綱を握っているから、推して知るべしだ。



 少し勘違いしていたところがあるのだが、新聞やテレビやラジオなど大手のマスコミはどうやってもその今の体制側(今現在力を持っている側)が握っているわけだから、体制批判てきなことは出来ない、やりづらいわけだ。それを天の公器のような顔をして、あくまでも公平な立場で物を言っているように言うのは間違っている。



 まぁそう考える何を信じて判断すればいいのか分らなくなってしまうのだが、まぁ何にしても絶対と言うものはなくて是があれば必ず非があるわけだ。だからある意味ネットのように玉石混合で何でもあって、ごちゃ混ぜの情報のなかから自分のモノサシで選んで判断すると言うのが正しいのかもしれない。誰かの目を通したものはどうしてもその色が付いているわけで、現場に行って実際に見聞きできないのであるならば、色んな雑多な情報が雑多な状態で入る方が正しいのかもしれないな。嘘も多いけど。まず疑ってかかった方がいいのかもね。



 台風で原発はどうなったのか、どこのテレビも報道していないぞ。




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無題 - 2011.09.20(you tube)






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反原発でも - 2011.09.19(ポケットの窓から)







 


はる 3739

 こんばんは。反原発のデモはどうだったのでしょう。行けなかったので、ブログで反対のメッセージをおくります。

 「原発は緩やかに廃止、太陽光発電やその他自然エネルギーの研究や普及にその予算をつぎ込むこと」



 「小さな国、少ない国民、不便な道具でも大きな国に負けない、素晴らしい文化を持って、ゆっくり丁寧に誇りを持って生きてゆけるんだということを世界にアピールすること」



 


 




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思案暮れる - 2011.09.19(未選択)



思案暮れる

SM


 今年はこれを甲府のDMに使おうかと考えている。まだ決定ではないけれど、何となく気に入っている。たくさんの小品のなかで、なぜ?これを選んだのか。明確な理由があるわけではない。タイトルも気に入っている。ちょうど今の私たちの気分を言いえていないかね。「しあんくれーる」



 「こえをきく」「遠い記憶」と続いてきて、次のテーマは何がいいかな?と考えていた。まぁテーマと言ってもそれに沿って作品を描いているわけではないので、凄くあいまいなものなんだけれど、一応その時の自分なりのメッセージを含んでいるように思うんだな。一年かけて各地を回るわけだし、あまり場違いであってもいけないしな。



 昨日も書いたけれど今回は「日々礼賛」にしようかと思っている。この言葉にはいろんな意味が含まれているように思う。勿論「こえをきく」「遠い記憶」の作家としての姿勢は変らないのだけれど、何かが少し違うように思う。もう元には戻れないのだな、それは震災と原発のことがあるからだ。直接的には震災の事は描かないし、説明もしないけれど、この日々が大切だと感じたのは「何気ない日々が奪われた」という事実があるからだ。



 声高に○○賛成、××反対とプロパガンダすることが絵画として効果的だとは思わない。私がやりたい方法はそういうことではなく、普通に淡々と生活している私たちが気がつかないうちに影響されている、そんな事を気付かせること。見えないことや聞こえなかったものを見せたり、聞かせたりすることではないかなと思っている。



 まぁそれは特に今に限った話ではなく、づっと続いてきたテーマの一つの切り方でしかないのだけれどね。 




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小林宏 個展 - 2011.09.18(ポケットの窓から)









小林宏 個展

2011 9/18~25

21日休み

ギャラリーイノセント

甲府市丸の内2-12-3

TEL 055-222-4402 




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深沢弘昭個展 - 2011.09.17(ポケットの窓から)









深沢弘昭個展

2011 9/17~9/25

11:00~18;00

三彩洞

甲府市貢川1-1-12

055-226-8393


はる 3737

 「日々礼賛」 下書き



 私事ですが、今年二月にお袋を見送りました。それに来年四月で亡くなった親父の年を越えます。それがどうしたと言われればこまるのですが、これからの20年をどう生きるのかと考える節目にはなりました。



 三月には信じられないようなことが起きてしまいました。ごく普通に暮らしてきた何気ない日常が、突如断ち切られて明日からはもうないという、そんな日が来ることがなかなか信じられませんでした。深い悲しみと不安と怒りが今も消えません。



 何気ない日常がいかに大切でいとおしい事か、そんなことを痛切に感じた一年でした。



「日々礼賛」は私の造語です。種を明かせば谷崎潤一郎の「陰影礼讃」からとりました。今を生きる私だから当然震災のことも頭の片隅にありました。けれどその事を直接的には表現したいとは勿論考えていません。私なりの意味は「何気ない日々がすべて」という気持ちをこめたつもりです。



 祈りと懺悔と感謝、それらが表現出来たかどうかわかりませんが、今年もまたそんな作品を並べます。御来廊こころよりお待ちしております。




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(no subject) - 2011.09.16(ポケットの窓から)



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カマキリの共食い - 2011.09.15(ポケットの窓から)







 


 カマキリの共食いを見た。食われていたのはオスだったのかな。自然は無駄がない、けれど苛酷だな。




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不善人は善人の資 - 2011.09.14(ポケットの窓から)







 


くだらない時代小説が好きで、いつも懐に文庫本をしのばせている。テレビや映画と違っていつでもどこでもホンの少しの時間でも読むことができるので、時間つぶしにはもってこいである。普段の生活の中にはけっこう細切れの捨て時間というものがあって、何かをやるには足りないけれど、ただ漫然と過ごすにはもったいないという時間が多い。例えばちょっと買い物に付き合って車で待っている時間とか、ご飯を食べて満腹になって少しごろんと寝転んだ時とか、夜寝る前のまどろみ前の数分とかね。



 こんな楽しみを発見したのは最近の事だな。もっと昔子供の頃から読書の楽しみを知っていたら、もっと違った人生だったかもしれないな。すこし損した気分。



 そんな馬鹿小説でもところどころいい言葉がある。まぁあまり書き留めることもないのだけれど、下の「善人は不善人の師、不善人は善人の資」という言葉に何かを感じた。前半の「善人は不善人の師」これは分る、でも後半の「不善人は善人の資」って何だと思った。まぁ元々は老子のはなしだそうだから、どこか人を食ったようなたとえ話なんだろうけれどね。



 その「天秤」をもった女性のタイトルを考えていた。昔からこの天秤というのは「善悪のはかり」と言う意味で象徴的に用いられることが多い。最後の審判ではないけれど、人生の最後に今までやってきたいいこと悪いことを推し量られて天国に行く人と地獄に落ちる人がジャッジされる、そんな意味かな。



 んでまぁ、完全に善だけの人なんているのかな、反対に悪だけの人というのもいないのじゃないか。いいと思った行為も違う面から見れば悪だったということもあるわけで、反対に最悪だとおもったことも、取り方にによれば良かったということもある。



 善と悪は表裏一体のもので、必ず両面あるんだな。だから簡単にこれは善、あれは悪とは決め付けられないということだな。「不善人は善人の資」というのはそのことを言っているんだと思ったわけだ。




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善悪同等 - 2011.09.13(ポケットの窓から)










善人者、不善人之師、



不善人者、善人之資。






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日々礼賛 - 2011.09.12(未選択)





日々礼賛


「猫の後ろ姿」さんの「日々礼賛」考察

http://ameblo.jp/e-no4765/entry-11015362464.html



はる 3732

 例えばこの最近作である「日々礼賛」タイトルはもちろん一番最後に考えた。日々礼賛は私の造語かな、もともと日本語の四文字熟語にはない。種を明かせば谷崎潤一郎の「陰影礼讃」  から盗んだ。私なりの意味は「猫の後ろ姿」さんが書いていたように「何気ない日常が全て」という気持ちをこめたつもり。



 最初に真ん中の帽子を被った爺さんが登場した。この人は司祭のような服と帽子を被っている。杖をついて顔の表情は定かではないが、何となく過ぎてしまった過去を回顧して満足げにうなずいている。少しぼけてしまったようにもみえる。この司祭の帽子の姿は船越保武のダミアン神父の像がちらっと頭をかすめた。



 これをこういう絵にしたいと思って描き出したわけではない。描いているうちに色んな情景や今まで影響を受けた絵とか文章とか映画とかがどんどん思い出されてぐるぐると巡ってゆく。今を生きる私だから当然震災のことも頭の片隅にあっただろう、けれどその事を直接的には表現したいとは勿論考えていない。



 今年二月にお袋を見送った。それに今年で亡くなった親父の年を越える。それがどうということもないのだけれど、これからの20年をどう生きるかと言う風な事も考えるきっかけにはなった気がする。



 「平均律」が外からの影響でモチベーションで描きすすめてきたのに比べて、この「日々礼賛」は中からにじみ出て来たもので出来ている。より私自身に近づいているように思うのだな。みんな気付く気付かないはあるけれど、そういった核になるものを持っていると思うんだな。それを源泉=オリジンという。絵を描いたり文章を書いたり、する事でそんなものを探っているのではなかろうか。




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接ぎ板に墨書の表札 - 2011.09.12(ポケットの窓から)

















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他力本願 - 2011.09.11(ポケットの窓から)







 


はる 3731

 「平均律」と「ボヘミアン」の違いについて、続きを書きましょう。例によって思いついたまま書き進めるので、つじつまはあわないかもしれませんがあしからず。



 「平均律」は言ってみれば外からの色々な条件で出来上がっている。どういうことかといえば、例えば絵を描く動機自身がコンクールのためであったり、公募展でいい評価を得たいというスケベ根性が根底にあったり。例えば、和風な雰囲気を取り込みたいと言うのは自分の欲求というより、どちらかと言えば日本人であるならこうあらねばという義務感のようなもので、西洋に対抗するなら東洋的な手法を取り入れるべきだ・・とか。構図は源氏絵巻などの吹き抜け屋台風に斜め45度あたりから眺めた目線にするとか・・頭でっかちに色々考えてそうしたこうあるべきだと言うような考え方で出来ているように思う。規制する条件はほとんどがこうあるべきという幼稚だけれど理論で組み合わされている。今考えると誠に浅はかだけれど、まぁ仕方ないな。そんなところも私なんだから。



 大体において私は理屈家で、原理原則のようなものが好きだ。予定外の事に臨機応変に対応する事が苦手である。だから本当は公務員のように毎日決まりきった仕事を淡々とこなしてゆく方が性分に合っているのかもしれない。



 それに反して、「ボヘミアン」はほとんど何も規制するものがない。でたらめに絵の具やコラージュをして、その中から浮かんで来たイメージを妄想をたくましくして話を作っている。だから中から出てくるのを待つというまぁ他力本願のようなところがあるけれど、積極的には私は絵を描いていない。



 またもう少し書くかな。眠くなったので寝ます。




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猫町古本市 - 2011.09.10(ポケットの窓から)







 


「猫の後ろ姿」さんがバールスローの記事を書いてくれました。

 http://ameblo.jp/e-no4765/entry-11013266276.html



 ちょうど二階で彼の主催する「猫町古本市」を開催しています。取り残されたようなボッコイビルですが、甲府の街中では一番文化度の高いところです。是非一度足を運んでください。

 http://ameblo.jp/e-no4765/entry-11007796167.html



 




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20年は長いか - 2011.09.09(ポケットの窓から)







 


はる 3729

 「平均律」と今の絵、例えば「ぼへみあん」の間にはかなりの違いがある。下手すれば同じ作者の作品ではないとさえ見える。時間的には20年ある。作家にとって40台から60までというのはすごく大事な、その人の根幹を作る時間である気がする。自分で言うのも傲慢だけれどね。まぁ客観的に考えたいので許してくださいな。



 大きく異なるのは画材が違う。平均律は油彩であり「ぼへみあん」は色々な材料をつかった混成技法で作られている。これは画材だけの問題ではなくて、作品の作り方、元々の発想そのものが違うということを意味する。



 平均律を描いていた当時、一番考えていたことはコンクールで賞を取るということだった。そのためには当時流行っていた技法やスタイルを出来るだけ吸収して自分なりに応用して作品に生かす事、そんな事ばかりを考えていた。



 当時流行っていた主流の考え方は、「日本人である我々が何故洋画をかいているのか」という根本的な疑問だな。今もってその事を考えることなくヨーロッパの街角をそれ風に描いている作家も多いけれど、考えてみると不思議な話で、我々の先祖からのDNAで素晴らしいものは海を渡ってやってくるという舶来崇拝意識がなせる業かもしれない。



 そんな反省に立って材料を徹底して研究し始めた。各美大の材料研究はこの時代から始まったのではないかな。油彩画はもちろん、その前のフレスコからテンペラ、画溶液からキャンバスに至るまで徹底して解体して組みなおし始めた。



 作品のテーマも西欧からの借り物でない日本の古典から取るというのが新しいような気がしていた。今見ると多くの人が昔からそんなことをやっていたんだけれど、当時はうんと新しい気でいた。



 今から考えるとうわべの形やスタイルばかりが目立って、肝心な表現がお留守になっているきらいはあるけれど、まぁ当時はそこまでしか行けなかったのだ。



 つづく、かな?




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庭木の剪定 - 2011.09.08(ポケットの窓から)







 


 はる 3728

 今日は庭木の剪定に来てもらった。今までは自分でやっていたのだけれど、大きくなりすぎた枝がニ階の屋根を越えて覆いはじめた。それと隣の境もあやふやになって迷惑を掛けている。普通なら届く梯子でもそろそろ私では無理になってきた。手入れしない雑木林風が好きなんだけれど、ここまで大きくなると手に負えない。隣家に植木屋さんが来たので、ついでに頼んだ。



 和風に刈り込んだ庭木は好きではない。盆栽風に去勢されたような松など哀れなものだ。植木屋さんに頼むとどうにもそんな風に刈り込んでしまうので、困ったものだ。だからお任せにはしないでずっと付き合って見ていた。というわけで疲れました。




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犬. 馬. 難. 鬼. 魅. 易. - 2011.09.07(ポケットの窓から)







 


「犬. 馬. 難. 鬼. 魅. 易.」だれの言葉か知りませんが、画家・松田正平が好んで書いた言葉です。想像上の鬼は描くのは容易いが、誰でも見たことがある犬は難しいという意味らしいのですが、ワザとらしいテクニックを使ったあざといものは眼を惹きますが、本当は何気ない日常にこそ真実が隠れているように思います。



 


 




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(no subject) - 2011.09.06(ポケットの窓から)



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物語絵 - 2011.09.05(作品)













 


はる 3725

 「平均律」はもう20年も前の絵になる。今見るとなけなしのワザを精一杯使って、一生懸命がんばって描いているということが見て取れる。まだまだ若いから一発狙いの魂胆が丸見えだ。でもまぁそういった時期も必要なんだと思う。時代はバブルの真っ最中で、皆がみな浮かれているような世相だった。



 油絵でありながらどうにか日本の古典的な雰囲気を取り込みたいというふうに考えていた。日本画的な描き方で下絵をしっかり作って拡大コピーを使って顔などはトレースした覚えがある。この女性の顔は全くのオリジナルでどこかにモデルがいるわけではない。体もたくさんの写真などの資料を用意して色んなモデルさんの寄せ集めで出来ている。そうだ、ピアノは楽器屋さんのカタログから盗んだ記憶がある。そっくりそのままではなく、解体してアレンジしているから盗用ではないだろう。



 全体の雰囲気、構図は源氏絵巻から盗んでいる。勢いのある線は源氏絵巻の十二単の輪郭そのものを真似した。今回探してみたけれど、どれを真似したのか見つけることが出来なかったけれど、上の絵に近いところもあるな。



 和洋折衷で画材そのものは西洋のものを使いながら、表現は日本の個展から盗んで、テーマはまた西欧の古典音楽から取っている。まぁ平均律は現代音楽にも通用するから古典ともいえないけれど、当時はバッハの平均律を意識していた。こういった作り絵はやってみて面白かった。



 前にも書いたけれど、ただ絵を描いて何をどうしたいのか、皆目分らなくなっていた。みんなが通る道だと思うのだけれど、少しは絵が描けるようになって、さてこれからどうするんだと考えた時にはたと困ってしまった。表現すべきものが見つからないのだ。リンゴならリンゴを描けと言われれば描く事は出来るだろう。でいったいリンゴで何を言うのか、そこのところは誰も教えてくれない。



 絵画史はアンフォルメルから抽象になってそこからは色々ありすぎて難しくて理解不能。その時に思ったのは、絵の中に小さいけれど物語があれば絵を描く動機にはなるのじゃないか。こう何か物語の挿絵ではないけれど、美術史は絵画に文学を持ち込むことを否定したけれど、本当は多くの人は絵に物語を期待しているのではないかと思ったんだな。まぁ当時は明確には分っていなかったと思うけれどね。



 まぁそこから油彩の材料も捨ててしまうことになるのだから、面白い。




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