あそびべのHARU・ここだけの日々
画家・榎並和春

(no subject) - 2011.08.31(ポケットの窓から)



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クロッキー考 - 2011.08.30(裸婦クロッキー)







P8280023.JPG





 

その1







その2


 よけいなお世話をしてみましょう。昨日のクロッキーで実際に眼はどう見たのか、そんな事を考えて説明しようと試みた。正しいかどうかは分りません。



 まず、その1を見てください。人物を見て画面の中にどう配置するか、体の流れはどうなのかを実際に何本か線を入れています。それそのまま体の骨組みとなります。



 頭の頂上0から描いてゆきます。次に大事なのは左肩①の位置ですね。ここが顔からどのくらい離れているのか、頭半分ぐらいと眼ではかります。①-②の傾きも大事ですね。次に乳首の位置③これがどのくらい前に出ているのか、①の位置からどのくらい下にあるのかを計ります。③を描いている時に④の位置を気にすることが大事です。



 ②-⑩の傾きは最も重要なポイントですね。これで右に少しひねった状態を下から見上げているんだと言う事を暗示します。①-②ー⑩が描けるかどうかが、このポーズを自分のものにしたかどうかの境目ですな。いずれにしろ、どんなポーズにも肝になるポイントがあって、それを上手く報告するという気持ちが大事です。自分だけ分っても絵にはならない。



 次はおへその位置⑤です。ここからは見えませんが、おへそが縦に伸びているか、横にのびているかで、お腹の状態を報告できます。今回は多分縦に少し伸びているでしょう。⑦-⑧の傾き、⑤-⑫-⑥に至る骨盤の丸みも意識します。⑧-⑨の太ももの丸み、何気ないですが、②-⑫の背骨のラインが体をぐっとそった感じを暗示します。これも大事なポイントですな。




 ⑪の位置が①からどのくらい右にずれるか、これも目分量で測ります。手の指や足の指などは省略する人もいますが,私は暗示する程度には描きます。その方が表情がでるからです。顔より手の指の方が表情があるきがしますね。



 まぁこんなところですか。余計なお世話でした。




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クロッキーのポイント - 2011.08.29(ポケットの窓から)







 


はる 3718

 長年クロッキーをやってきて、ある時に一つのポイントをつかんだと思った。昨日話したことと同じ事だけれど書いてみる。つまらなければ飛ばしてくださいな。



 多くの人(絵を趣味にしている人)は絵を描く場合、上手に描こう、うまく描きたいという願望がある。で、その上手いというのはどういった絵かと言えば、兎に角写真のようにそっくり見えたまま、実物と見間違うほどに描ければそれが一番いいわけで、それ以外は二番手、三番手だと思っている。



 だから描き方として写真を撮ってそれを何等分にして拡大する、人間コピー機のように描くことが一番手っ取り早い訓練の方法だと考える。そっくりそのまま、見えたまま、何も考えずに、目をさらのようにして、コピーする。まぁそれも一つの訓練の方法ではあるでしょう。元々が写真のように描きたいというのであれば、それが一番近い方法かもしれないな。



 けれど私が考える作画の方法というのは、対象に似るとか似ないとか、上手いとか下手であるというのを一番には考えていないということだな。かといってでたらめに描けといっているわけではないのだよ。今からいうように描いて行けば、ごく自然に当然の成り行きとして似てはくるんだ。似ては来るけど対象に似ると言う事を目的にはしていないということだな。



 じゃ何を目標にしているか?ということだな。ここのところが最も重要なポイントになる。例えば普段何気なく暮らしていると、ほとんどの場合風景など見過ごしている。特に何かこころに引っかかりでもない限り、日常的には風景は特記すべき事柄ではないわけで、記憶に留まることはない。見てはいるけれど見てはいない。意識して見てはいないと言える。



 めがねをかけている人は普段はめがねの存在を忘れている。忘れるくらいでなければ邪魔になるわけで、特に意識しない限りめがねはないものとして暮らしている。ところが意識してめがねを見るとはっきり抵抗物として見えるわけで、そこのところが見ているようで見ていないということだな。ちょっと寄り道をしたかな。



 絵を描くという行為はこの「意識してみる」という事なんだということだ。で、意識しただけではだめでそれを報告しなければ、意識してみた事にはならない。その報告の結果が描かれた絵ということになる。



 例えばモデルさんは左のほうを見ている、右肩は左肩より少し下がっている、体は少し右に傾いている、体重は右に掛かっている、鼻先と足先のラインがほぼ一直線だ、・・・という風に自分で一つ一つ確認して行く行為なんだな。それが絵を描くということなんだ。結果として自然と似ては来る。けれどそれは目的ではない。



 このことを知るために実は人体クロッキーなどをしているといてもいいのじゃないかな。クロッキーも絵を描くという行為であるから絵の本道とつながっていて、結局は表現というのは自分の考えていることを如何にすれば人様にメッセージとして報告できるかということである訳だから、見えたものをどうやって「自分はこう見えました」と報告する訓練はとても大事なことのように思う。



 これが私がクロッキーで得た大事なポイントだな。お分かりいただけたでしょうかね。




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裸婦クロッキー11/8/28 - 2011.08.28(裸婦クロッキー)





















































 


 

 今日は月一度のクロッキーの日。有志のメンバーは大分変ったけれど、変らずにずっと続けている人もいる。他人ことはあまり言えないけれど、長く続けたら上手くなるかといえばそうでもなくて、、基本的にはほとんど変らないように見える。こういったものには凄く最初っから上手い人というのがいて、特に訓練する事もなく上手いのだ。これは珍説だけれど、字と似ているな。字の上手い人は訓練すれば絵も上手くなると思う。



 私の字を知っている人はよく分かると思うのだが、はっきり言って滅茶苦茶下手くそだ。下手にも限度があるけれど、私の字は学校に行く前の児童の字にも負ける。しっかりまじめに真剣に書いてもグネグネと曲がってしまうし、何か全体のバランスが微妙に変である。自分で言うのだから間違いない。決して謙遜でも卑下しているわけではない。その事に劣等感もないのだから、卑下しているはずもない。



 これは訓練して上手くなるというものでもないのではないかと思うのだ。小学校の頃私の夏休みの宿題は毎日ゆっくり丁寧に百字書くという課題だった。見本を見ればそれなりに上手くはかける。でもすぐに元に戻ってしまう。



 パソコンで一番いいと思ったのは生字がそのままでない事だな。だからこうやって恥じらいもなく日記などを晒す事ができるのだ。これが生字ならとても人様に見せられたものではない。人格を疑われてしまうだろう。



 で、なぜこんな話をするかと言えば、いってみれば私の指先は持って生まれた癖を持っている。言い方を変えればハンディを元々持っているようなものだ。ところが絵に限った事でないのかもしれないが、人は何かハンディを持っているほうがより遠くへ行ける気がするんだな。もし私が神のような手を持っていたら、絵を描くのに何の苦労もしなかったら、今の手法は考え付かなかっただろうし、多分そこそこで飽きて止めてしまっただろう。これだけ飽き性なんだから・・。全ては裏表なんだな。けっしていいだけではないし、悪いことだけということもない。



 クロッキーに限らないのだけれど、絵というのは見方なんだな。私にはこう見えました、こう解釈しましたという自己報告みたいなものだ。だから見えない人には絶対に描けないのだ。多くの人はそっくりそのまま、見えたままを描くのが絵だと思っているようだけれど、見えたままそっくりに描いても、絵のようには見えるけれどそれは絵ではない。ただ機械的に写しただけなんだ。それは写真でやる事を人間の手がやっているにすぎない。だから積極的にこう見えました。こう解釈しましたという報告書を載せないと絵にはならない。



 クロッキーが面白い、曲がりなりにもここまで続いてきたのは、決して上手くはならないからだろう。無論最初に比べると格段に上手くはなっているけれど、そういう問題ではない。どんなにがんばっても私はラファエロやダビンチにはなれない。もって生まれた天性が違う。彼らは元々並々ならないほど上手だったんだ。その上に努力している。そういうのを天才というのだ。



 だらだら取りとめもないことを書いてしまった。消すのも勿体ないのでアップします。あしかえあず。




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誰か止めてくれ - 2011.08.27(ポケットの窓から)







 


 はる 3716

 家の前の路地が草ぼうぼうになってきたので、朝一番の仕事で草刈をする。しかし、全部抜いてしまってはせっかくの秋の風情が無くなってしまうので、一部分ワザと残した。他人が見れば手抜きしたように見えるだろうか。



 本来雑草という草は無い。その場所に適したものだけが生き残ったわけだ。あえて種を買ってきて花壇にする必要など無いのではないかと思っている。その場に会った、自然が選んだ草花が一番美しい。この猫じゃらしも見方によればなかなかかわいらしいと思う。



話題を変えて

 それにしても今更ながらこの国の指導者層は何をしているのだろうか。この国をどこに持ってゆきたいのか、まさか潰してしまいたいわけではないだろうに。私のような市井の一人が言う事ではないのかもしれないが、全く持って不可解だ。



 マスコミも全く当てにならないと言う事が良く分った。普段ジャーナリストは報道の自由などと偉そうな事をいって、芸能人のつまらないゴシップなどをさも天下国家の一大事のように報道するけれど、一番肝心な、どうしても伝えなきゃならない、命に代えても伝えるべきことが起こった時に、報道の自由を掲げるのではなく、大本営発表しか報道しなかった。この責任は本当に重い。



 新聞もテレビもラジオもみんな政府の公の発表しか報道しなかった。それがためにどれだけ多くの国民が被曝したことか。計画停電などというとんでもない暴挙を許して、牛や馬やその他の多くの動物や命を危険に晒してしまった。昔からそうなんだろうな、今更始まったわけではないだろう。多分もしまた戦争がおきる様なことになったとしても我々は止められないと思う。



 無論彼らだけの責任ではないが、一番ものを考えて独自の判断で物を言っていい職業についている彼らの責任は大いにあると思う。世論はマスコミが作るんだよな。



 それに何だかんだ言っても、電力事業主の言いなりになってきたことが大元だ。それが国と一体になって国民に目隠しして甘い汁を吸ってきた。国策=御国のためという言葉には日本人は一番弱いからな。それにお金が絡むともういちころ。何でもやりたい放題だ。国策に反対するものは国賊だみたいな雰囲気に持ってゆく。戦前の赤狩りみたいなものだ。



 我々は戦後60年でまたしても自ら負け戦にのめり込んでゆく。



 原発の再稼動だって、もうたくさんだ。




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来年は年男 - 2011.08.26(ポケットの窓から)







 


はる 3715

 どうにも下手くそな龍だ。想像上の動物というのは結構多い。鳳凰とか麒麟とか有名なところでは白虎とか青龍、玄武に朱雀か。西欧では一角獣がいる。面白いのは前に書いたが、鳳凰も西欧に行けばフェニックス不死鳥になる。どちらがオリジナルなものか知らない。



 毎年兄貴に頼まれて干支を描いている。もう十年にもなるからそろそろ一回りする。最初は羊からだっけな。始めの頃はなかなか形にならなかった。自分のスタイルともう決まった絵柄というのがどうにもミスマッチで、今見たら多分直してしまうだろう。門外不出にしてほしい。



 他の作品と同じように何も見ないで描くということがなかなか難しい。そこで色んな資料を集めて形をなぞるという風なことをやるのだが、どうにも上手くない。面白くない。いつものようには行かない。いらいらする。引き受けなければよかったと後悔するというパターンだった。



 それでも、十回もこなしてくればそれなりに自分のスタイルで何とか形になるようにはなってきたようだ。ここに三年の事だ。もう一回りすればもう少しましな作品が出来るかもしれないが、兄貴は許してくれないだろうな。それならば新しいのと交換しろと言うに決まっている。そうなると厄介なので黙っていることにしよう。




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過程1上から - 2011.08.25(作品)





















「ビーナス誕生」仮題・部分

 


 上は今日一日何回も上から描き込んだ。一時はもうだめかと諦めて上から絵の具を塗り込んだら、かえってそれが良かったのか復活した。だめで元々とエイやっとぶち壊すと良くなったりする。良くあることだ。ここが上手くいったと思って残そうと思うとつまらないものになってしまう。



 昨日の続きではないけれど、いいか悪いかの判断は微妙で言葉で説明するのは難しい。全くどうしようもない作品がどこか一箇所に点が、一本の線が入る事で見事に蘇る場合がある。これは全く奇跡のような瞬間で、絵を描いていて面白い良かったと思う瞬間だな。



 どんな駄作でもその作品にとって最高の瞬間というのがあるのじゃなかろうか、ある一点を過ぎるともう潰れてしまう。後はどうあがいてもその瞬間より絶対に良くはならない。それを見極めるのがまた難しい。大体描いている途中と言うのはあばたもえくぼ状態で、自分の絵にほれ込んでいるので五割以上良く見えている。明日になればげっそりするのは見えているのだが、それはそれ描いている時は見えない。



 その窮みを知りたいと思う。それを知るために絵を描いているのか?な。



 美が生まれる時まさに「ビーナス誕生」ではないかな。


 




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ギャラリーSHIMA DM - 2011.08.24(ポケットの窓から)





 


はる 3713

 DMが出来ました。これが出来ると否が応でも臨戦態勢になる。一回一回が勝負という気がしている。見に来てくれた人はその一回が全てだからね。面白くなければ次はない。



 DM用の写真も三種類ぐらい考えた。赤は発色が難しいので避けようかと思ったのだが、初めてやる会場だから、あえて赤で行く事にした。インパクトのあるDMになったと思う。何とか多くに人に観てもらいたい。



 閑話休題

 「絵は好きか嫌いだろ?」といわれる。確かにそうなんだ。どんなに他人にこれがいい、価値があると言われても好きでなければ自分の身近に持って置きたいとは思わないだろう。好きか嫌いか最も単純な基準ではある。



 では反対に作家の方から見るとどうなんだろう。もちろん好きか嫌いかといえば、自分の作品は好きなんだろうけれど、そんな基準で描いてはいない。具象的な作品ならば具体的なそのものに近づいているかどうか、人物ならその人物の雰囲気に近づいているか、臨場感があるかどうか、そんな事が判断の基準になるだろう。



 私の絵などは全くの抽象ではないが、具体的な形は残っているけれどそれに近づいているかどうか、似ているかどうかというのは判断の基準にはならない。無論好きか嫌いかということでもない。すごくあいまいである。



 昔、民芸の浜田庄司が自分のろくろで作った生地に釉薬を施していた。今で言う流しかけのようなもので、それを間近で見ていた取材者が「先生ぐらいになると3分で一丁あがりですね・・」といったら彼はこんな風に答えた「ここまでになるのに60年と3分かかった」



 「これがいい」という判断の物差しは一様ではない。どんどん変ってゆくものだろう。昔いいと思ったものが、年を経るとそうでもなくなったり、反対にどうにも好きになれなかったものが、やがて好きになったりする。



 結局どういうことかといえば、少し前の針穴写真のように、どんなに真実をう写したとしても、身の丈にあったものしか観えないのだろう。



 なんだか代わり映えのしない結論になった。あしからず。




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福島の子供を守れ - 2011.08.23(you tube)



Evacuate FUKUSHIMA - 福島の子供を守れ



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個展のDMが出来ました。 - 2011.08.23(ポケットの窓から)







 


はる 3712

 上の絵はどこかで見たでしょう?一週間ほど前にここに晒しました3703の「受胎告知のような絵」です。まだまだどうなるか分りませんね。もっと面白くなるのか、何か具体的な物語が出てくるのか、まったくつぶれてしまうのか、分りません。楽しみでもあるし、苦痛でもありますな。



 10月の西宮の個展のDMが出来てきました。関西方面で芳名帳に住所を書かれた方は10月に入りましたら郵送します。気長にお待ち下さい。それ以外で欲しいという方は

http://enami.sakura.ne.jp/mailform.htm に住所、氏名を書いて送ってください。よろしくお願いします。




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眼力 - 2011.08.22(ポケットの窓から)







 


 ある人のブログを読んでいたら、セザンヌはただ下手くそなだけだ。基本的にデッサンが出来ていなくて、男と女も描き分けられないとんでもないくいい加減な作家だとか、クレーはつまらん、アンフォルメルなどという仕事は見なくてもいい時間の無駄だ、「わざと下手に描かなければ、これだけ下手に徹底することは出来ない」というふうなことが書かれていた。



 まるで自分のことを言われているようで、意気消沈してしまった。そうかそんなふうに見える人もいるんだと正直なところ驚いた。もう既に歴史的にそれなりに評価されている人を、自分が分らないから、理解できないからといってこき下ろしていいものだろうか。まぁブログは言いたい放題、勝手気ままという面があるから、仕方ないのだけれど、まぁ自分の眼力のなさを恥じた方がいいように思うがな・・。どうだろう。




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根源(オリジン)なもの - 2011.08.21(ポケットの窓から)







 


はる 3710

 描いていたものをほとんど全て壊してしまった、その残骸。けれど壊す事で次の展開が見えてくるわけで、けっしてゼロになったわけではない。そこのところが微妙でまったく何もない状態にしてしまってはだめなんだな。



 地球上の生物のDNAの大元はどこか宇宙のかなたからやってきた星屑だったらしい。たとえ生き物が発生するどんな好条件がそろっていても、そこに何かしらのきっかけ、信号、メッセージが入ってこなければ生物は生まれないそうだ。



 材料がどんなに素晴らしいものであっても、技術がどんなに優れていても、最後のさいごは何かしらのオマジナイをかけなければ、けっして生きた絵にはならのではないか。で、その最後のオマジナイは何かという事だな。



 こいつは難しい。これは本当に自分のこころの中に問いかけるしかない。きっと全ての人が同じように持っているものなんだろう。ありとあらゆるものにあって、尚且つ根源的なゆるぎないもの。



 言葉でいうのは簡単なんだけれど、結局、描いてゆく、書いてゆく、作ってゆく、ことでしか得られないものじゃないかな。そんなふうに思う。




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ショッピングモール - 2011.08.20(ポケットの窓から)







 


はる 3709

 この間たまたまついでがあったので、○○モールというショッピングセンターに行ってみた。もう長くここに住んでいるけれど、こういったショッピングセンターなるものに出かけたのは初めてのことだ。自慢じゃないが・・。



 馬鹿でかい体育館の何倍もあるような建物が現れて来て、これにも最初に驚いた。その周りはこれまたそれ以上の広さの駐車場で占められている。お盆休みということもあるのか、駐車場は満杯だ。で、一歩会場の中に入ってこれまた驚いた。



 一つの町が作られている、ショッピングモールというのはそういった意味だったのね。食料品はもちろんのこと、色んな雑貨、ブティック、本屋さん、酒屋、映画館もあって片隅にはベンチがさりげなく置かれていて、子供づれの若い家族が休んでいた。いやはや駅前なんかより全然人が多くて、ちゃんと雑踏になっているだな。



 素晴らしいことに、このくそ暑いなかでもモール街のなかは適当な温度に保たれている。もちろん日焼けする心配もないし、雨がふることもない。ハウステンボスとかディズニーランドのようなテーマパークを想像した。



 快適、便利、綺麗・・そうなんだけれど、なんだか少しおかしい。街中に人がいなくなる理由が分る。人は群れを作る動物だ。放って置いても自然に群れる。けれどある法則がある。何々すべきだといった原理原則では人は動かない。面白いから楽しいから、人は集まる。面白くないところは自然に寂れてゆく。これは止めようがない。



 だからといってこんな人工的な町で、人が用意してくれたおあつらい向きの、行動が読まれてそっくりそのままお任せした施設でいいのかな。予定調和というのか、どこにも破綻のない、良く計画された人生など、大げさに言えば生きてゆく価値はない。もっとも生きる事に意味など元々ないのだけれど、それでもあっちこっちで頭をぶつけて、暗中模索で生きてゆくのが、時には大怪我するかもしれないが、病気になって途中で死んでしまうかもしれないが、そうやってうだうだ言いながら生きてゆくのが人ってもんだ。



 ぼうふらもわかないような生簀で、どう間違っても溺れ死ぬような事のない水溜りで遊んで、面白いかい。血わき肉おどる興奮が味わえるかい。



 パソコンのバーチャルな世界とどっこいどっこいだな。と思った。 




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諏訪敦「どうせなにもみえない」 - 2011.08.19(ポケットの窓から)







 


はる 3708

 今日は一日降ったりやんだり。おかげで涼しくなって、過ごしやすい。まぁこのまま秋になるとも思えないけれどね。



 本屋さんに寄って立ち読み。まだ新しい美術雑誌は発売されていないので、ぶらぶらと画集のコーナーへ行く。たまたま手に取った画集が諏訪敦の「どうせなにもみえない」という最新の画集。これがなかなか凄い画集だった。本物を見ていないので、なんとも言えないのだけれど、彼の作品は今はやりのスーパーリアルな美人画の若手作家だけれど、○日会系のただやたら綺麗だけではない凄さを感じさせるものだ。流行のアントニオ・ロペス・ガルシアスペインリアリズムとも違う、松井冬子などにも感じるある種日本的でちょっと危険で猟奇的な部分も感じさせる。まぁ徹底した写実というのはどうしても生きた人間よりも標本を感じさせるものだ。それが悪いという意味ではない。



 日曜美術館で特集されたという、諏訪さんのTVを見たいと思って探すとここにありました。便利ですねぇ。感動しました。

http://www.twitvid.com/MB4AH



 

 




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全体で一つ - 2011.08.18(ポケットの窓から)







 


はる 3707

 まぁ一応こんなものになってきた。サインなんかも入れてみたけれど、多分また上から描き込んで無くなってしまうだろう。サインも絵の一部だと考える。絵に合わせて自然に変ればいい。



 私の考える方法は「全てが全体で一つ」という考え方だ。ここでいつも書いているように、一つ一つの作品もそんな描き方をする。決して部分的に仕上げてゆくという事はしない。それは意識してそうする訳で、無意識にかきすすめてゆくと、どうしても部分的にすすめてしまう。



 少し視点をひくと、少し前に書いたように例えば50点一緒に描くなら、50点で一つというような描きかたをする。ここでも一つ一つ仕上げるということは極力しない。理想的に言うなら一日の仕事は50点全てに手が入っているというのがいいのじゃないかな。まぁ多分そんなふうには描けないとは思うけれど、スタンス的にはそんな感じではないだろうか。



 個展会場の展示も同じだと思う。必ず全体を見て色や大きさをそろえるのではなく、ある種の「ランダムな統一」ということを考える。例えば色味を考えると、地塗りの時に主調色、中間色、反対色と5;3:2ぐらいの割合でほどこした訳だから、個展会場もそんな感じで配分するようにする。これはあまり気にする人は少ないのだけれど、大事な事ではないだろうか。



 次に自分の一生を考える。自分の人生全体でどれほどの作品を作る事ができるのか、あまり深刻には考えてはいないのだけれど、長くても多分あと2、30年ぐらいのものだ。ここでも全体で一つという考え方でゆくと、私の絵は半ば過ぎを描いているところだろうか。まだまだ仕上げてはならない。まだまだたどり着く先は見えない。そんな状態だろうか。



 やっぱり「フラクタクルの理論」だな。小さく小さく考えても、大きく大きく考えても結局全てが自分で出来ている。だから一日のうちにその人の一生がみえる。




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展覧会二つ - 2011.08.17(ポケットの窓から)









小山晃「よせばよかったのに」部分

「小山晃・翠芳 絵と書二人展」

8/15~20



「青樹会展」

8/15~20



山梨県立美術館



*やっぱり年寄り(失礼)の自画像はいいなぁ・・

ちょっと上手すぎるか?




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(no subject) - 2011.08.17(ポケットの窓から)



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宇宙の果て - 2011.08.16(今日のアトリエ)





 


はる 3705

 かなり仕事が進んできた。でもまだ半分か。



 この間の続き。考えながら書くので、つじつまが合わなくても御容赦願います。



 人の頭の中というのも針穴みたいなものじゃないかな。というのは始めは世界は極小さいものだった。知っている世界が小さいから当然理解する世界も小さい。多分母親と父親と兄弟、その他大勢となる。だから理解できる宇宙観(あればの話だけれど)もその程度のものだ。



 それが色々な知識をつけるにしたがって世界がどんどん広がってゆく。目で見るというだけではなくて、本を読んだり人と話したり、聞いたりすることで世界は飛躍的に広がってゆく。得た知識、外界から入ってくる情報でもって世界観が構築されてゆく。



 針穴写真が小さいピンホールから外界の光を取り込んで映像を結ぶように、我々の世界観というのも外界のあらゆる刺激を受け入れて作られるものだ。世界観はその人の身の丈以上にはならない。



 私が宇宙の果てを空想するとすると、実際には永遠に届かないはるかかなたであっても簡単にたどり着ける。一瞬のうちに私は宇宙の最果ての地にたたずんでいる。ここのところが面白い。実は宇宙は私の頭の中にあって、針穴写真機を夜空に向けたのと同じではないか。見えないけれど宇宙の最果ては確かに写っているのだ。



 こんな事を考えるのは実は絵画というのも同じではないかと思うんだな。あるものを再現するのではない。私の頭の中にある宇宙観みたいなものを、自分の目と手を使って再構築してゆく。それは多分この宇宙の成り立ちと同じ理で出来ている。私の中に宇宙があるように、今度は絵の中に宇宙を再現するということではないか。



 次はその具体的な方法を書いてみたい。まぁ今までの繰り返しになるけれどね。興味ありますか?




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はる 3704 - 2011.08.15(ポケットの窓から)







 


 




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針穴写真 - 2011.08.14(ポケットの窓から)







 


はる 3703

 一つ一つの絵もそうなんだけれど、50点いま同時進行で描き進めているとすれば全部が同じ程度に進んでゆく。50点が大きな一つの作品として進んでゆく、そんな描き方をするということかな。けっして一つ一つ仕上げては行かない。



 だから最初は何が描かれているのか、まるっきり分らない。ほぼいたずらがきに近い状態。で段々に姿かたちが現れて来る。上の絵は私の前を何回か行ったり来たりした過程で、少し形が見えてきた状態。マリアさんかな、それとひざまずいた人とそれを見守る人、の三人のひとがた。ひとまずそんなとこで置いておく。そのまま仕上がりになることはまずないだろう。でもここらあたりが一番面白いかもしれない。



 ちょっと話が飛躍する。



 針穴写真の原理を頭の中で想像する。針穴を通して世界が反転した状態で暗箱の壁に像を結ぶわけだ。そこにフィルムがあれば焼き付けられる。見えてはいなけれど、その暗箱のなかには外界の全てが凝縮された状態で詰め込まれている。もし、誰もいない真夜中に空にその針穴を向けたとすれば、遠い遠い宇宙の果てまでそこには写っているはずだ。



 我々の知っている宇宙は無限の広がりを持っているのだけれど、認知できる宇宙は多分針穴からのぞいた世界と同じようなものでないかと思えてくる。そう考えると無限だと感じていた宇宙が高々その暗箱の中に存在する宇宙と同じようなものだろう。



 人の一生というのも例えばそんな針穴からのぞいて見たのと同じようなものだとは考えられないかな。みんな自分が主人公だと思ってはいるけれど、実際の話たった一本の針穴活動写真でしかない。人類いや世界そのものが針穴写真のなかにある幻のようなものだ。



 話が分らない方向に進んできた。言いたい事は分ってはいるのだが、うまいぐあいに言葉にならない。このことはまた考えたい。今日は眠い。




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死んだ男の残したものは - 2011.08.13(you tube)



長谷川きよし 死んだ男の残したものは










 


はる 3702

 いつの間にやら、カウントは三千七百を越えた。どこまで伸ばせるのかね、楽しみでもある。



 長谷川きよしの歌唱力もあるのだが、この時期この歌は切実に訴えかけるものがある。我々はとんでもないものを残してしまったなぁ・・。



   死んだ男の残したものは

谷川俊太郎作詞・武満徹作曲



1.

死んだ男の残したものは

ひとりの妻とひとりの子ども

他には何も残さなかった

墓石ひとつ残さなかった



2.

死んだ女の残したものは

しおれた花とひとりの子ども

他には何も残さなかった

着もの一枚残さなかった



3.

死んだ子どもの残したものは

ねじれた脚と乾いた涙

他には何も残さなかった

思い出ひとつ残さなかった



4.

死んだ兵士の残したものは

こわれた銃とゆがんだ地球

他には何も残せなかった

平和ひとつ残せなかった



5.

死んだかれらの残したものは

生きてるわたし生きてるあなた

他には誰も残っていない

他には誰も残っていない



6.

死んだ歴史の残したものは

輝く今日とまた来るあした

他には何も残っていない

他には何も残っていない




 




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ジプシー・キング - 2011.08.12(you tube)







Bamboleo - Gipsy Kings












Gipsy Kings - Djobi Djoba








山梨県立美術館県民ギャラリー

グループWOW

8/9~14




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すばやい対応 - 2011.08.11(ポケットの窓から)









8/11 今朝の朝日新聞の記事

五ヶ月もたってこんな地図を出してきて恥ずかしくないか。

 




3/12の段階で自分で風向きなどを調べて警告していた人がいた。



http://minkara.carview.co.jp/userid/709167/blog/21758633/








3/11以降のブログ

 


http://minkara.carview.co.jp/userid/709167/blog/p25/



今朝の新聞を見ていて驚いた。3/13から14に放射能がどう広がって行ったか分析して、さも重大事項を発表したかのように掲載されていた。遅い。あまりにも遅い。今頃こんな分析をしても全く意味がない。学生の夏休みの宿題でもあるまいに。台風なら事前にコースを予想して発表するでしょう。それなのに当時何も発表しなかったのは怠慢といわれてもしかたないでしょう。いや、怠慢どころの話ではなく、自らの使命が終わった事を意味する。



 それに比べて、上のブログは素人ですが、誠に臨場感あふれる警告をつねに発していた。当時このブログがあまりにも先見性があるために、不安を煽りすぎるということでどこからの警告が入ったようだ。そのために炎上してブログを止めてしまった。今から振り返ると、間違っていたところもあるけれど、大体が正しいようだ。



 素人でさえこれだけの警告が出来るのであるから、後の祭りだけれどもっと事前に準備して警告を発していれば、例えば学校の運動場や畑や田んぼに一時的にシートを被せるとか、子供たちをすぐに避難させるとかできたはずだ。



 今頃になって除せんだ、洗い流しだ、運動場の土の入れ替えだ、農作物の流通を止めるなどと騒いでいるのは、怠慢いがいないなぁ。




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セザンヌの理論 - 2011.08.10(ポケットの窓から)







 


はる 3699

 朝六時半ぐらいに起きて、すこし川沿いを散歩する。朝方はうっすらと雲がかかって比較的に歩きやすかった。これが朝からピーカンだと、日中はもう地獄のように暑くなる。そうそう、草むらではもう虫が鳴いていた。季節は確実に秋に向っているようだ。



 涼しい午前中に一仕事する。午後からはとても仕事する気にはなれない。ほぼ裸に近い格好でアトリエの床にへたり込んでいる。髪は暑いので夏休み中はちょんまげにしている。でもなぁあまりきつく縛ると、前頭部があやしい・・。



 仕事の仕方は人によって色々だろう。私の仕事の仕方は少し変っている。どう変っているかを少し書いてみる。



 一度に描ける枚数は60から80枚ぐらい。そのくらいのパネルをまず用意する。それも出来るだけ色んな大きさのパネルをランダムにそろえる。



 地塗りはとても大切で、私の場合これに半分の以上の時間をかける。これも出来るだけランダムになるように工夫する。地塗りの全体の比率は赤が5で黄が3で青が2ぐらい。だから6全体が60枚だと、赤系統の地塗りは30枚前後となる。ある程度意識して地塗りしないと、全てが同じ機械的な作業になってしまう。



 地塗りに合わせてというのか、感覚的にだけれど布をコラージュする。ここでは出来るだけ色々な厚みの布を用意する。麻袋などは面白い効果が後で出て来るので出来るだけ最初の頃に貼り付けておく。ある程度マチエールが出来てくるとコラージュするのが難しくなる。



 何回か全体というのか、これはとても大切なことなんだけれど、一つ一つ仕上げるのではなく60枚全体を一つの作品のように考えてすすめて行く。これが面白いというのか、私の独特な描き方ではないだろうか。だから一つの作品は何回も私の前を通り過ぎてゆく。そのたびに少しずつ手が入ってゆく。面白くない作品はどんどん上から絵の具が塗りこまれたり、たらし込まれたりする。そのうちにまた布が貼りこまれたりする。何かが見えるまで、面白いと思うまで、続く。



 ここが「セザンヌの塗り残し技法」だと思う。「フラクタクルの理論」かな。一つ一つの作品もそんなにこだわらないで描いて行く。一つは全体の中の一部分でしかない。ちょっと理屈っぽいかもしれないが、結局は同じ一つの理屈で成り立たせるということなんだけれど、ちょっと上手く書けない。



 簡単に言ってしまえば「部分は全体の中の一部分である」ということかな。また書きます。




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「美は発見である」 - 2011.08.09(ポケットの窓から)







 


 宮崎駿と吾郎のテレビを観る。テレビはめったに見ないが、こういったドキュメントはテレビの真骨頂だな。「時代の気分」というものを感じた。



 親父さんの言葉「時代が平和で夢見ているような時に、終末を描くことはロマンがあった。けれど今、みんなが傷ついた時にどんなロマンが語れるか、それが問われている」



 それにしても親子で同じ土俵で競うのは難しいというのか、ほとんど無理だな。どうしても比べてしまう。少しくらい良くてもだれも評価してくれない。圧倒的に良くなければ、消えてしまうだろう。



 閑話休題

 昔はそれなりにアートフェアなど多少興味があった。知らない人には全く興味がないだろうけれど、アートフェアというのは、例えば東京ならこんなのがあった。

http://www.artfairtokyo.com/

 簡単にいえば画廊の見本市みたいなもので、世界中の画廊がある期間、ある場所で集まって自分のお抱え画家などを披露するお祭りかな。まぁここで扱われるようになれば一応世界のマーケットに参加したというわけで、それぞれの画廊が一押しの作家を紹介するわけだ。



 良く知らない頃は、なんとかチャンスを作ってこういった一流?の画廊に扱われる作家になりたいものだと考えていた。作家になって食べてゆくというのはそういうことなんだと、かってに解釈していた。



 まぁ、間違えてはいないかもしれないが、それを望むのであれば他の仕事をした方がいいようにも思う。はっきり言ってこういったフェアはビジネスの世界のはなしで、全てとは言わないけれどどことなく胡散臭いものを感じるのは私だけかな。



 一枚の現存する作家の絵が大きさにもよるのだろうけれど、何千万、何億などという金額はどう考えてもおかしい。絵そのものの価値というより投機的な意味合いでしかない。昔バブル華々しい頃銀座では良く一枚何億などという話が飛び交っていたいたけれど、それはもうまともな感覚ではない。いずれ誰かがババをひくことになる。



 大衆というのはいつもスターを望んでいるものだ。今誰が人気があって、流行っていて、良くテレビで見かけるとか・・いったい絵とは何ですかね?絵の本質からどんどん離れてゆく。



 「美は発見である」=自分自身を投影したもの、出来るもの。それが自分にとっていい絵なんでしょう。他の人がどう評価しようが関係ない。自分のモノサシをしっかりもって、いい絵を見つけて下さい。それが今の貴方の姿なんですな。




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夕立 - 2011.08.08(ポケットの窓から)






 

はる 3697

 今日の夕立は凄まじい嵐だった。雷もすごい音だったけれど。雨が降るまで外にでて稲妻を鑑賞していたけれど、まぁ綺麗なもんだ。ピカピカピカと光って、バリバリバリと空をかぎ裂きする。花火の比ではない。



 夏の風物詩で、まぁ見ていて飽きない。結構恐ろしいけれど、スカッとしたものだ。原発とは違う。こいつはいつまでも隠隠滅滅と体を蝕んでゆく。見えないからいやらしい。あと二十年俺たちがいなくなっても、こいつは残る。役に立つものなら結構だが、どこにも持って行きようがない。そんなものどうして使ったんだ。全く、無責任だよな。



 今日は眠い。また明日。

 

はる 



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ズボランスキー - 2011.08.07(ポケットの窓から)






 

はる 3696

 今日も一日が終わりました。夕立があって夜は少し涼しくなりました。何を書こうか?頭の中には何もない。



 毎年夏休みのこの頃に秋に向って個展の準備をする。具体的に言えば小品をずらりと並べて描く。よく集中力が続きますねと言われるけれど、自慢じゃないが私に一番かけている能力は集中力だと思っている。



 だから並べてはいるけれど、だらだらと少し描いては面白くないなぁ・・と次の作品に移ってゆく。何か一つの作品を最後まで集中して仕上げると言う事ない。根をつめて書き込むということがない。だから何かいつも不完全燃焼状態で、ぐずぐずしている。のべつ幕なしにアトリエにいることはいる。でも仕事ははかどってはいない。



 最近は居直って、集中してのめり込んではだめなような気もしている。描き込んでいかにも仕事しましたよといった作品は私の性に会わない。適当にいい加減、中途半端で、ずぼらで、不器用、どこにでもあって、誰にでも描けそう、そんな絵がいいのじゃないかな・・・。



 

 

 



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今日のアトリエ - 2011.08.06(ポケットの窓から)






 

 



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ポケットの窓から - 2011.08.05(ポケットの窓から)






 

はる 3694

 さて、今日の写真何が良くてシャッターを切ったのか?わかりません。あえて言うなら、遠くにかすむ山々と入道雲、それと人工的な一直線の道路と案山子のような送電線の対比が面白いかな。毎日何か写真を載せることにして何年たったかな。そうなると一応頭の片隅にその事が残っていて、気がついたときにシャッターを押す事にしている。忘れる事も多いのだけれど、そうするとアトリエの風景でごまかすことにしている。



 まぁこれも私の意識の一部であるから、ほぼ毎日載せていると、語ろうとは思わなくても自然に私というものが出て来るものだろう。案外言葉より正確に私を表現しているのかもしれない。こうやって毎日、何事もなく淡々と過ぎてゆく日々を、兎に角、何かしら表現してゆく事というのが、とても大切なことのように思うのだな。



 人の一生というのは99.9999%こういった何気ない日々で出来ている。確かに突然とんでもない天災が襲ってくることもあるのだけれど、それは人生の0.00001%もない。だから人生の本質はこういった何気ない日々の中にあるということだ。それをないがしろにしては人生を見誤ってしまうだろう。



 ところで、この写真はお分かりのようにケイタイのカメラを使っている。ケイタイを持ち歩くという習慣がなければこういった写真を撮るということもなかっただろう。これも時代の眼ということかな。ところで、カテゴリーを「ポケットの窓から」とした。「シャメールより」とするより少しは洒落ているかなと思った。



 ちなみに、「ポケットの窓から」で検索したら、なんと一番だった。何事も一番はうれしい。



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年金機構 - 2011.08.04(今日のアトリエ)






 

はる 3693

 日本年金機構なるものから何度もお知らせが来る。確かに私はバイトを含めて色んな職業に短期間ついたことがあるので、その都度年金を申請したり止めたりしたのでつながりが分りにくいということがあるとは思うのだけれど、「年金定期便」だとか「年金の記録を確認するお知らせ」だとかが何度も同じような書類がくると、おいおいこの機構は一体何をしているのだ。大丈夫か?と心配になる。無駄だな。何にしてもシンプルなのが一番で、一目で馬鹿でも分るそんなシステムにして欲しい。



 閑話休題

 いまだに「絵描きのなり方」という検索項目でこのブログにやってくる人がいるね。何を期待しているのか、まぁ薄々分るのだけれど、○○のなり方」などというハウツーものを期待するとあてが外れるだろうな。もしそんな技法書があれば私も欲しい。



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画家・榎並和春です。HPはあそびべのHARU・ここだけの美術館

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