裸婦クロッキー10/31 - 2010.10.31(裸婦クロッキー)
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(no subject) - 2010.10.31(ポケットの窓から)
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小池歩個展/BAR SLOW - 2010.10.29(ポケットの窓から)

小池歩個展
10月26日(火)~11月21日(日)
BAR SLOW
山梨県甲府市丸の内1−19−21
tel/fax 055-226-8625
http://www.bar-slow.com/
この間町中の芸術祭で展示させてもらった同じカフェで小池歩さんが個展をやっている。アンバランスで頭でっかちなじゃがいものような人物がゴロゴロとした不思議な画風だ。それが広々としたスローの店内と絶妙にマッチしている。寒い街中を歩いて暖かいコーヒーでも飲みながらゆっくりくつろいで下さいな。
絵は美術館や画廊のようなきっちりとした空間で観るものと勘違いしている人が多い。もちろんそれも正しい見方である場合もある。例えばもうすでに歴史上の価値が決まっていて、普通の状態で見せたのでは保存上問題があるとか、研究発表のために関連した作品を世界中から借りて展示しているとか、一人の作家の大回顧展であるとか、大きな力と経済力がなければ展示できないような場合など。
音楽もそうだな。正装してきっちりと座席に座って一言もしゃべらないで、身じろぎもせず耳を傾ける。案外それって苦痛なんだな。多くの場合眠気が襲ってくる。もともと日本の芸能などは物を食いながらお酒も適度に飲んで、おしゃべりを楽しみながら見たものじゃないのかな。全てではないだろうけれど。今でも相撲などは飲み食いは自由だよな。
シャンソンやジャズはもともと酒場で唄われたり演奏されたりしたものだ。実際に生活の場で楽しんだものじゃないかな。大道芸の音楽家やダンサーは路上が舞台だ。下世話だけれど、その方が本物だし、生きている。私はその方が好きだな。
お茶を飲みながら、何か食べながら、おしゃべりをする。ふと会話がとまった時に自然に絵が目に入る。日常の生活の場にアートが普通にあること、そのことが特別なことでないそのことの方が大事だと思うな。
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冷たい雨 - 2010.10.28(ポケットの窓から)
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ストーブを出した。 - 2010.10.27(ポケットの窓から)
昨日は木枯らしが吹いて一気に冬になったようだ。寒いのは嫌いではない。これから約半年冬仕度となる。毎年のことだが、この秋から冬の初めは新鮮な感覚にわくわくする。もう何十年も同じことの繰り返しなのに、人というのは忘れるものだな。しまっておいたストーブを出した。
もうすぐ甲府の個展が始まる。楽しい出会いがあるといいのだけれどね。
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(no subject) - 2010.10.26(ポケットの窓から)
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町中のスラム化 - 2010.10.25(ポケットの窓から)
鳴り物入りで町中にあたらしいビルが建って一昨日オープンした。町中の活性化をもくろんで地下から二階までが店舗でその上が宝石学校、さらにその上がマンションになっている。県営の駐車場も兼ねているからその点便利に使えそうだ。
ということで、楽しみにして覗きに行ったのだが、想像していた以上に陳腐なスペースで驚いた。一階の一等地にバーさんが売れないような団子を売っていた。なんじゃあれは。笑ってしまう。明らかに取ってつけたような場ふさぎてきな、大学祭の模擬店のような、お店ともいえないような、悲しい寂しい場末感が漂っていた。オープンのおめでたい、一番盛り上がって盛大に人が行き来する時にあれはないだろう。
一階のスペースしか見なかったけれど、以下は推して知るべしだな。一度行けば二度とは行かないような魅力のないスペースをいくら作っても活性化には程遠い。かえってマイナスの効果しかない。もし県の担当者があれでいいと思っているなら、一年も持たないでスラム化するだろう。少し前の西武の跡地の県民プラザ、オギノの入っていた旧ポトスの甲府あるじゃん。唯一のデパート○○デパート。すべてよれよれだ。
公の力が入れば入るほど、援助金が入れば入るほど、活性化とは縁遠くなる。なんだろうなぁ、昔バブルの頃にリゾート開発の名目でとんでもない僻地に公のお金がどんどんつぎ込まれて、大リゾート地が突如出現したことがあった。教員などの共済会館などもそうだけれど、結婚式場や宿泊施設がぼこぼこ出来ていた。とんでもない田舎の田んぼのど真ん中にデラックスな音楽ホールなども出来た。ほぼ3年ぐらいで膨大な借金を抱えて、みんなつぶれて今は廃墟になっているか、つぶされて更地になっている。
そうなる可能性が大いにあるから危惧するのだ。町中にあるよさというのをどうして誰も考えないのだろう?町中におしゃれじゃない田吾作のスペースを作って何をする気だろう。不思議だ。民間に任せるべきだな。おしゃれなブランドが無理なら、反対に若いやる気のある者に全面的に任せるとか、思い切った事をやらないと致命傷になる。立ち直れないよ。
**************
10/28のUTYの「ニュースの星」の「アトリエ訪問」のコーナーに出ます。3分ぐらいの番組だそうです。取材は3時間もやったのにね。
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表現の核 - 2010.10.24(ポケットの窓から)
昨日は先日の「町の芸術祭」で知り合った若い友達と餃子と肉まんなど皮の部分から作って、みんなでワイワイと遊んだ。若い連中と遊ぶのはどうして楽しいのだろう。まぁ私がというよりカミさんがすきなんだろうな、私はただフンフンと見ているだけだから・・。
「若いお前たちには分からんだろう」と偉そうに薀蓄をたれるわけではない。知ったかぶりして若い連中相手に君臨するつもりもない。経験がなくて未熟なのは当たり前だ。そんなところで差をつけて上から目線で話をしたいとは思っていない。ただ単に一緒に飯を食ったり飲んだりして楽しみたい、それだけだ。役に立つことなど何もしたくない。
「閑話休題」
修行する行者は荒行などで体を痛めつけて人間業とは思えないような苦行をする。チベット仏教などでみるのが五体投地といって体をなげうって聖地まで到達するのを修行の一つとしている宗派もある。一生右手を上げたまま生活するとか、生身の体を出来るだけ痛めつけているようにしか思えない修行もある。いかにして人の欲をたつかということであり、本質的には生物としての生と矛盾する。
修行するものは山に住むだから仙人というのだけれど、それは分かりやすいトレードマークのようなもので、まだまだ本物じゃない気がする。本当の修行はもっと町中で「寒山拾得」ではないけれど、箒でも持ち掃除しなら、普通に日常生活しながら、そんな中でするものじゃないかな。最終的には穏やかに、良寛さんのようにただただ子供と遊ぶそれだけでいいというふうなのが本物じゃないかな。
何が芸術かよく分からないのだけれど、純粋に芸術と言われているものだけ取り出して例えば芸術館みたいなところに展示したり、発表したりして、それをまたありがたがって鑑賞する、そんな芸術ももちろんあってもいいのだけれど、私の目指すところではない。
内緒のはなしをすると、人は何気ない日々の生活の中で、ちょこっと慰められたり、心のささえになたり、癒されたり、ありがたかったり、こころよかったり、こころのよりどころになるような物、事、出来事、それがひょっとしたら「いのり」というものかもしれないけれど、それが表現の核でないかと思っている。そんなものを捕まえたい。
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久石譲の音楽 - 2010.10.23(you tube)
ハウルの動く城
上はハウルの動く城」のメインテーマこのワルツは泣かせるねぇ。久石譲の音楽には物語をはるかに超えた力がある。
下は賠償千恵子の唄「世界の約束」この人の声、すばらしくないかい。小学校の頃、遊びつかれて夕暮れと共に帰った風景を彷彿させる。何か寂しくて悲しくて美しい。
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ギャラリーSU - 2010.10.22(ポケットの窓から)
昨日の話したギャラリーのシャメです。下がそのクートラスの画集。その画集にクートラス自身の言葉が残されているのだが、無断でその部分を引用する。
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Robert Coutelas Mes Nuits 「僕の夜」
「立ちのぼるブーケ,気つけ薬として」p98,99より
岸真理子・モリア
「僕は描かなければいられない。だから毎日絵を描くし、紙がなければ地下鉄の切符にだって描くだろう。材料とかテクニックは二次的なことさ、たった一つ大事なことは、何かを探しているってことだよ」・・中略・・クートラスには、本質的に旅回り画家的なところがありました。「僕がバイオリン弾きだったらねぇ、通りで演奏して、生活できるのになぁ。」と言っていました。本当にジプシーのバイオリン弾きみたいに、旅回りしながら絵を描いて、生活してゆくことが出来たら幸せだったでしょう」・・中略・・
「クートラスにとって芸術は聖なるものの探求だったのかもしれないません。そんな風に思うのは、彼の言うpatronが神様のことのような気がするからです。究極の無神論者だったとも言えるクートラスが、存在の深みからほとばしり出した作品には、聖なるものが宿り、それが人の心の聖なるものに、生命に直接語りかけてくれると信じていたからです。・・略」
***************
昨日色んなギャラリーのはしごをしてまわったのだが、その中でたまたま私の作品(お面)を持っている方がいて、その時にはお会いしていなかったので初対面であった。その人の家は代々神主さんで、どうしてそのお面を購入したのかという話から、その表現の奥にある「いのりのかたち」の話になって、思わず意気投合してなかなか面白かった。多くはないけれど、こうやって長く活動しているとどこかで共感を持って見てくれている人がいるもので、やっていて無駄ではなかったんだなとうれしく思った。
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クートラス展を観た - 2010.10.21(ポケットの窓から)
気になっていた
ロベール・クートラスの展覧会を見に出かけた。地下鉄・麻布十番で降りて坂道をとことこと10分ばかり歩く。高速道路が狭い空をよけいに圧迫している。地図がなければ絶対に行けないような袋小路の突端に古ぼけた洋館のアパートがあった。青山などのおしゃれな町中で、いかにもそれ風なブテックならあるけれど、神戸の坂の上の古い洋館のように住宅として普通に使っていたアパートが、タイムマシーンにのってそこに現れたようなこころくすぐられる建物だった。
しかし、なんだね。例えば今建てた建物が50年経ってこれだけの風格というのか品格というのかが、残っているのかといえばとても無理だろうな。建物自体に住んでいた人の愛着がないし、なんだろう美しく年を経てゆくという気持ちが、それを是とする共通の認識が育っていない。古くなって薄汚れてくれば、バリバリと重機で壊してスクラップにして廃棄してしまうという、ものすごく短絡的な荒っぽい思考を是とする気持ちしかないのではないか。物に対する愛情というのが、どんどん希薄になっているように思う。心込めたものには魂が宿るんだということを、教えなければならない。
肝心の展覧会の件についてはまた今度。
後は銀座に出て、お世話になったギャラリー惣が一年半ぶりに再開して今日がオープン記念だったので、お祝いにかけつける。銀座に出かけた時には寄って下さい。
銀座・ギャラリー惣が再開しました。オープン企画
武田百合子個展
■2010 11/21(木)~11/4(木)銀座・ギャラリー惣
中央区銀座7-11-6徳島新聞ビル3F
03-6228-5507
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オブジェ - 2010.10.20(ポケットの窓から)
明日は久しぶりに花のお江戸に出ます。色々な個展の案内が来ているのですが、なかなか出かけられないのですが、ちょうど見たい作家の展覧会とギャラリーのオープンが重なったのでこの際だからと重い腰をあげます。
誰かが門柱のガラス玉を割った。自分で作ったものだから値段的には大したことはないのだが、謝りに来たならしかたないけれど、黙ってそのまままというのはよくないね。どうしたものか?
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詐欺のような携帯の料金2 - 2010.10.19(未選択)
昨日の続き
「注意しましょう」
以前の携帯はmovaでメールやシャメの送信は時間で計算されていたようです。無論カメラの画素数がものすごく荒いものだったということもあるのだろうけれど、ほとんど料金を気にすることもなくシャメを便利に使っていた。
ところが新しいFOMAになって、時間の単位で計るのではなく、パケットという情報量で料金が決まるということも知らなかった。本当は更新の時に店員さんはそういうことを注意事項として言っていたのかもしれないが、こちらはほとんどそういうことは素人で知らないわけだ。パケットが何々・・といわれても外国語にしか聞こえない。まぁそんなこともあって料金の制限に無理やり入れてくれたのかもしれないが、これに入っていなければべらぼうな料金を請求されることになる。
ちょっと知り合いに聞いてみると、やはりそういったことで高額の請求をされたという人が何人もいたそうだ。とくに若い人が「着歌」とか何とかを無料だと思ってダウンロードすると、一曲で1000円とか2000円とか掛かるらしい。
まぁ知らないのはこちらにも責任があるのかもしれないが、私のようにそういったことも気にしないような人が簡単に孫の写真などをやり取りしたとしたら、一枚の写真でも500円ぐらい簡単に掛かってしまう。これってはっきり言って詐欺みたいなものじゃないか。もっと注意を呼びかけなければ、仕方ないで泣き寝入りしている人が多いのじゃないかな。大企業でありながらそういった詐欺的な行為で儲けるのはズルイという気がするなぁ。
***********
覚書
128バイト=1パケット=0.21円(通常)
半角1文字≒1バイト
全角1文字≒2バイト
絵文字1文字≒1000~3000バイト=1.5~5円
着歌おおよそ500Kバイト≒3900パケット≒780円
フルサイズ着歌≒5Mバイト≒8200円
フルサイズのシャメ≒350Kバイト=2900パケット≒580円
こうやって書いてみると大きなサイズのシャメを一枚送っただけで500円も掛かる。おいこら!馬鹿にするのもええ加減にしろといいたい。料金制限(4200円)のパケホーダイ(無制限使い放題)に入っていなければ天井知らずだ。これは恐ろしい話だぞ。
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花であること - 2010.10.19(ポケットの窓から)
「猫の後ろ姿」さんがエールを贈ってくれた。どうもありがとう。
http://ameblo.jp/e-no4765/entry-10681353203.html********************************
「花であること」 石原吉郎
花であることでしか
拮抗できない外部というものが
なければならぬ
花へおしかぶさる重みを
花のかたちのまま
おしかえす
そのとき花であることは
もはや 一つの宣言である
ひとつの花でしか
ありえぬ日々をこえて
花でしかありえぬために
花の周囲は的確にめざめ
花の輪郭は
鋼鉄のようでなければならぬ
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携帯の料金 - 2010.10.18(ポケットの窓から)
携帯を替えてから利用料金がやたらと高くなった。前は普通に使って3000~4000円ぐらいだったのにいきなり7000円以上になった。携帯で家族以外と通信することはほとんどないのに、私の何倍も利用しているカミさんと変らないのはどう考えてもおかしい。
料金明細が送られてくるのだが、色んな名称がついてはいるのだけれど、ほとんど意味が分からない。この明細を見てすんなり理解できる人は相当変った人ではないだろうか。生命保険の但し書きのように、あえて分からないように、理解できないように書いてあるのではないかと疑ってしまう。分かってしまうと何か不都合が生じるのだろうかね。
と言うわけで、またまたネットで検索してみた。そうするとやはり私と同様によく分からないで疑問に思っている人がいるものだ。
今までの携帯のシャメは古いものだから画素数がとても少なくて、言ってみれば凄く荒い画像だった。まぁそれが幸いしていたのだけど、今の携帯の画素数は昔のデジカメぐらいの画素数があって、すごく綺麗だけれどフルサイズで送ると時間もかかるし、何よりも通信料が掛かるという事らしいことがわかった。
メールとか画像の送信は電話のように時間に対してその料金が掛かるのではなく、大事なのはその情報量で掛かるということなんだな。パケットというそうだけれど、文字のメールなどは大した情報りょうではない、問題は画像だな。私は綺麗になった大きなサイズの画像を毎日、何枚も送っていた。これが凄い情報量だった。
普通1パケットに0.2円の料金が課せられるのだけれど、私は一ヶ月に132,946パケット使用していた。単純に計算すると26,000円掛かることになる。新しい携帯になった時にパケホーダイ ダブルという契約をしていたおかげで定額の4,200円以上はかからない契約になっていたので助かったのだが、もし、そういう契約にしていなければ思わぬ高額の請求がくることになっただろう。それにしても本来の電話としての利用料金より高い通信をしていたということで、知らなかったというだけでは済ませられないな。
まぁシャメの画素数を落としてそれでどうなるか、それでもだめなら少しシャメはひかえることになるかな。
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掃除でくたびれた。 - 2010.10.18(ポケットの窓から)
今日は人が来ると言うので、朝から掃除をする。接客そのものより掃除で充分疲れてしまった。ということで、その報告はまた。
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一輪の花 - 2010.10.17(ポケットの窓から)
まぁ人のこし方行く末なるものを考えてゆくと、どうやっても最終的なあり方というのかね、老い方、そんなことを考えてしまう。
それで、ホスピスの語源などを調べてみた
「・・・中世ヨーロッパで、旅の巡礼者を宿泊させた小さな教会のことを指した。そうした旅人が、病や健康上の不調で旅立つことが出来なければ、そのままそこに置いて、ケアや看病をしたことから、看護収容施設全般をホスピスと呼ぶようになった。教会で看護にあたる聖職者の無私の献身と歓待をホスピタリティ という・・」
ターミナルケアのところで書いたと同じ。この巡礼者というのが特に気になった。洋の東西を問わず、人はある時に巡礼に旅立つんだな。
このところ年金の問題で高齢者の所在不明が問題になっているけれど、確かに残されたものが不正に年金をごまかすためということもあるかもしれないが、もっと本質的なことがあるのではないかな。
動物は自らの死期を悟ると、どこかに出かけていなくなるというようなことを聞いた。案外人のDNAの中にそういった情報が書き込まれていて、ある時ぷいと漂泊の旅に出る。巡礼の業に出てそのまま行き倒れていってしまう。そういった生き方の方がある意味正しいのではないか。
インドのバラモン教のなかに人生を四つの時期に分けて説いているのをみつけた。
1、学生期・・・あらゆることを学ぶ時期
2、家住期・・・家庭を持って子育てする
3、森棲期・・・森に住んで隠棲して修行する時期
4、遊行期・・・一定の住居をもたず乞食遊行する。漂泊期
私はなぜか小さい頃から漂泊する修行僧に憧れるような、妙にませたガキだった。何がそうさせるのか分からないのだけれど、だから今もこのバラモン教の遊行期の話を覚えていた。意味もよく分からずに何となく漂泊の旅に出るんだなと思っていたのだけれど、何となく納得したな。
何故「一輪の花」を持つか?ということなんだけれど、私などは旅芸人のようなものでね、芸を見せて生きている。だからどんなになっても、飄々とね歌を唄って生きてゆきたい。花はある種の自分たちの生き方の象徴のように思うんだな。
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絵の具 - 2010.10.16(ポケットの窓から)
今の制作方法になって、最初の頃は随分と自家製の絵の具を作った。色んな色粉を買ってきてはメジュームを混ぜて絵に具にした。面白いように絵の具の数は増えた。それは画期的な発見のように思った。そりゃそうだ、今までは絵の具は画材店で買うものだと考えて疑わなかったわけだから、それが簡単に色の粉で絵の具を作ることが出来ると知って驚いた。
しかし、そういった新しい発見で喜んでいる時は案外つまらない仕事しか出来ていない。絵の具は絵を描く材料でしかないということに気がついた。そして随分と絵の具の数は少なく整理されてきた。少し前に書いたけれど、今は基本的な色はアクリル絵の具を使う。そしてどうしてもアクリル絵の具ではかえ難い、例えば胡粉とか砥粉とか弁柄とかその他土せいの顔料などの絵の具は自分で作ることにしている。
そう、特別な赤は絵の具にはないから作るしかない。
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大作の話 - 2010.10.15(ポケットの窓から)
自分は大きな作品、例えば100号をこえるような作品はどうも苦手なところがある。アトリエが小さいということも関係しているのかしれないが、今まで上手く描けたと納得したことがない。自分の身体能力的には162cmx162cmぐらいまでで、それをこえた大きさのものは若干無理して描いているところがあるように思う。公募展やコンクールは大体100号前後が大きさの規制で、まぁチャレンジしていた頃は何枚も平行して描いてた時期もあったね。今はもうそれほどたくさんの大作を描くことはない。
小品は失敗作も含めると年間で100点ぐらい描く。その中でまずまずの作品は半分ぐらいだろうか。段々個展が中心になってきたように思う。それはそれで絵描きとして生きてゆくわけだから、当然の成り行きのようにも思う。
けれど、やっぱり小品ばかりを描いていると、ばかでかい毒にも薬にもならないような、無駄に大きい、間違っても売れないような作品もかきたくなるから不思議だ。まぁ精神衛生上こういった大作も必要かなと思っている。
小品と大作というのが微妙にずれていて、なかなか同じようには描けない。気持ち的には大きくても小さくても同じように堂々とへたくそに描けばいいのだけれど、どうも大きな絵になると実力以上に見せようとするのか、下手を悟られないようにしたいという、姑息な気持ちが見え隠れするのか、満足できる作品にはならない。まぁそれが実力というものだろう。
同じように見える絵でも、少しずつ変っている。最近の大きな絵は少し前の具象的な作風に変ってきたように思う。一時はかなりタピエスに影響されてかなり具象から離れていたのだけれど、また少し具象てきな人物が入ってきたように思う。「牧歌」とか「方舟」あたりの感じかな。まぁらせん状にスパイラルしながら繰り返してゆくから、だからどうだとはいえない。また大きく抽象の方に揺れることもあるわけだからね。そうやってどんどん深みに舟をこいで行くのだろうと思っている。
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ターミナルケア(一輪の花) - 2010.10.15(未選択)
ターミナルケア(一輪の花)部分
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より勝手引用
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個展のDMができました。 - 2010.10.14(ポケットの窓から)
少しは秋らしくなってきた。
甲府の個展のDMが出来ました。一度個展にこられた方は展覧会一週間前(11月)になりましたら送るつもりです。いま少しお待ちください。それから遠方の方で
是非DMが欲しいというひとはここに住所、氏名を書いて送って下さい。
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ターミナルケア - 2010.10.13(ポケットの窓から)
人は長生きし過ぎたのかもしれないな。普通生物は子供が巣立ったら自らの寿命は尽きる。DNAを無事に運んだわけだから生物として一応の義務を果たしたというわけだ。ところが人類は子供がひとり立ちしても尚長く生きている。ある意味子供の足を引っ張る可能性も大いにあるわけだ。親の世代が子供世代に負担をかける生物など他にいないのではなかろうか。
私自身がもう孫がいてもおかしくない年齢になってきた。この先のことを考えるとまぁ安穏とはしていられないのだけれど、さてさて、こればっかりはどうしようもない。どういう結末が待っているのか、楽しみでもあり、恐ろしくもある。だからあまり考えないことにしてきた。
絵のテーマとしてそんなことがちらりと浮かんだ。終末医療というのは違うのかもしれないけれど、いずれ自分たちが面と向って対峙しなければならない問題だな。今はまだ頭でっかちで考えているだけだけれど、一度は死病と対峙した経験はあるのだけれど、この老という問題は初めてのことだ。どうやって付き合ってゆけばいいのか皆目見当がつかない。
今回そんなことを考えながら作品にしてみたけれど、どうもまだまだ消化不良で上手くはいかない。そうやって周りを眺めてみてもあまりそういったテーマで絵を描いている人もいない。不特定多数の幸せな風景や情景は「「ラブ&ピース」のようなもので絵にしやすいのだけれど、こういった深刻な話は一般化しにくいのかもしれないな。
どうも眠くて話がピーマンになってきた。またそのうちに。おやすみなさい。
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(no subject) - 2010.10.13(ポケットの窓から)
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集まったガラクタは自分自身 - 2010.10.12(ポケットの窓から)
シャメとブログというのは昔の絵日記のようだな。一応今日は何をシャメするか?ということを頭の中にインプットしておかないと忘れてしまう。忘れてしまって何もない時はアトリエの風景でもシャメする。文章は後で考える、というのかまず何かを書き始める。書きながらおおそうだそうだと修正したり、付け加えたりする。この方法だと何も書くことがなくても、次第に芋づる式に文章がつながってゆくと言うわけだ。
時々本を読んだり、新聞を読んで感じたこと、今日はこれをテーマにして何か考えてやれと言う時はどこかにちょこっとメモしておく。これも旬があって大体24時間以内に書かないと意欲が薄れる。だからこれはネタになるからといって取っておいてもだめだね。ネタが古いまずくなる。絵とおんなじだ。旬が大事だ。
こうやって10年続ければ相当文章がストックされる。いや同じようなことを何度も何度も反芻している牛のようなので、面白いかといえば面白くないかもしれん。つたない文章で情けなくもある、でも知ったことではない。そんなことのために書いているのではないからね。まず自分が書くことが、考えることが好きだ、ということだ。誰かに強制されれば、これほど苦痛な修行はないだろうな。ないものをいくら探って書けない。
例えばここに鉛筆一本転がっていても、なぜここに鉛筆があるんだということを考えてゆくと、誰かがどこから持ってきたわけだ、それはもらったものか、買ったものか、いつ買ったんだとか、それなりの来歴が綴れるわけだ。
ものというのは自然には集まってこない。必ず何かしらの理由があってそこにやってくる。そう考えると、身の回りにあるものが、すなわち仮の自分の姿でもあるわけだ。なんだかんだと言いながらも毎日、毎時、この一瞬一瞬選択しているだな。
今日の格言「集まったガラクタは自分自身」
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(no subject) - 2010.10.12(ポケットの窓から)
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射幸心 - 2010.10.11(ポケットの窓から)
公募展なんかでもそうだけれど、コンクールの功罪でよく言われるのが「射幸心」って言葉。で、射幸心をもつことはいけないことのように書かれていることがよくわからなかった。まぁ言葉の意味の元々はギャンブルの努力もせず単に偶然で一攫千金を狙う心構えをいうのだけれど、どうもいいやら悪いやらがよく分からない。
若い頃に多くのコンクールに出品したのは、世の中に出る方法として、一番要領よく注目を集める方法はコンクールで大賞を取る事だということが書かれていた雑誌を鵜呑みにしたところもある。学歴も画歴もほとんどないような若造が、普通にまじめに地方で絵を描いて個展を開催すると言うだけではなかなか注目されないだろうと考えた。時代はバブリル真っ最中で色んなところで冠の着いたコンクールが開催されていた。で、手当たり次第にコンクールに出品したのはそういったわけだ。
今なら「射幸心」の意味も分かる。例えばたまたま偶然に幸運なことに一等が当たったとしよう。絵画のコンクールはくじやバクチではないので、当たったという言葉は本当は間違いなんだけれど、コンクールで大賞を獲得する幸運は限りなくバクチに近いものがあるし、偶然の左右することも大いにあるわけだ。
たまたま当たってしまうと、時に勘違いをおこす。芥川賞や直木賞を取って二三年大騒ぎして消えてしまった作家は何人いるだろうか。もちろんそこから運命を切り開いて押しもおされぬ大作家になった人も大勢いるのだが、絵画の場合ほとんど消える確立の方が大きい。運命のきまぐれで人生を踏み外してしまうのだな。
まぁそのことを肝に銘じて、そのことに翻ろうされずに、反対に武者修行ぐらいのつもりで利用すれば適度なモチベーションの維持にも役に立つのでいいところも大いにあるな。
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天上の音楽 - 2010.10.10(you tube)
Bach's Cello Suite No. 6 - Rostropovich
篠田節子の「ハルモニア」という小説を読んだ。知らなかったのだが、ハルモニアにはこんな意味があった。以下あとがきより
「・・『天球の音楽」とは大宇宙が調和を保ちながら壮大な音楽を発しているという、数学と音楽と真理とが結び合わさったファンタジーのことであり「ハルモニア」とは宇宙の奏でる調和に満ちた音楽そのもののことである。ピタゴラスがつむぎだしたというこの音楽の幻想は、ヨーロッパの音楽の展開に極めて大きな影響を与えた・・」
なかなか面白いというのか、いつも考えていたことが全く新しいことではなく、そっくりそのまま紀元前から考えられていただなんてショックだなぁ・・。この小説の主人公は脳に障害のある女性なんだけれど、まぁそのために特殊な音楽的な能力を持ったという設定で話は進んでいく。それはそれで納得できるのだが、話が超能力のエクソシストのようになるのがどうもいまひとつだった。
で、その中で主人公はチェロ弾きなんだけれど、クライマックスで↑のバッハの6番を弾く。これは超絶技巧だな。ロスロポービッチ爺さんの感動的な演奏をきいてくださいな。
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