あそびべのHARU・ここだけの日々
画家・榎並和春

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泣く事はない - 2010.05.31(作品)




「泣く事はない」

F6

 ここに自分の作品を晒すことは少ないのですが、下のクロッキーとの対比のためにあえて置きました。物を描くとか描写するというのは単純に目をレンズのようにすることです。最初の頃は兎に角写真のように描くことが一番と思っていました。かといって写真と同じように描いたからといって我々が実際に見えたように描けているかといえば違うのですね。そのことは随分と後になって気づいたことです。実はけっこう嘘を描かないとそれらしく見えないようです。



 写真というのは単眼なんですね。どんなに立体的にみえたとしても、それは一枚の映像でしかない。しかし、3Dの映画などで分かるように我々の眼は複眼で物をダブらせて頭の中で立体的な映像を感じさせているわけです。実際にそこに存在しない立体、奥行きを頭の中でイメージさせているわけだ。



 考えて見ると実際のモデルを見て描くというのは、実はものすごく複雑なこと自然にやっているんだな。二重写しになっている頭の中の映像から、取捨選択して一本の線にまとめ上げるわけだ・・・・・・・



 ・・・・・・・・・眠たいので、ミスタッチが多い。また明日かな。



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裸婦クロッキー5/30 - 2010.05.31(裸婦クロッキー)


 





































 



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(no subject) - 2010.05.30(ポケットの窓から)



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どうでもいいことをだらだらと・・。 - 2010.05.29(ポケットの窓から)






 

 下の写真はパネルに麻布を貼りこんだ上に新たに布をコラージュしているところ。水に浸して乾かないうちにボンドをたっぷりつけて上から刷毛でたたきつけるように空気を抜く。これを怠ると空気が入り込んで隙間ができる。乾くと水分が適当にボンドの樹脂分を吸い上げて布と一体になった合成物になる。



 油彩は皮膜を作ってキャンバスに貼りついているだけなので、樹脂分が少ないと意外に簡単に下地のキャンバスから剥離してしまう。特に速乾性のテレピンを多用すれば絵の具に入っている油脂分だけなので弱い。



 どうでもいいことをだらだらと・・。



 水彩の伝統の国に生まれて、何のために油彩でなきゃならないのかがよく分かっていなかった。訳もなく西欧の文物に憧れた。結局はこと物質的には貧しかったということかな。舶来物や珍しいものに価値があるように思うのは今に始まったことではない。この国の生来の生きてゆく方法のように思える。



 仏教の伝来や西欧の文物がシルクロードを通ってやがては日本に到達した。考えてみれば我々の言葉そのものがそういった伝来ものの融合で出来ている。漢字、ひらがな、カタカナ、そしてローマ字。ありとあらゆるものを消化して吸収できる貪欲な遺伝子を持っている。そうやって今まで生き延びてきた。たぶんこれからもそうやって生きてゆくのだろう。



 たまねぎの皮みたいなもので、誰にも影響されない、唯一つのオリジナル(独創的)なものを探してゆけば結局何もなかったということになるかもしれないな。

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 蔵出し

はる 2097

 オリジナルの話。とりとめもなく・・。



 originalは形容詞だから、名詞でいうとオリジン(origin)ということになる。



 中国には想像上の動物というのが結構たくさんいて、有名な所では竜や鳳凰なんかもそうだな。前に麒麟をモチーフに絵を描いた時に気付いたんだけれど、麒麟も実際には存在しない動物だ。



 まぁ不思議なことに鳳凰は西欧に行けば不死鳥フェニックスとなる、ここらあたりはどこがオリジナルなんだろうか。



 で、想像上の動物というのは考えてみれば、そのときの人間の理想や希望を表しているわけで、ただの絵空事だから無意味なことだとは言えないんだな。



 じゃあ、麒麟というのはどういった思いが込められているのかと調べてみた。

 

・・略・・



 とまぁ、こんな意味がこめられていたんだなぁ。ところで、きりんというのは、一角なんだな。一角獣ということでここでも西欧のユニコーンと関係してくるから面白い。



 ところで、このユニコーン(unicorn)というのは一つの名詞だと思っていたんだけれど、ユニ(uni)+コーン(corn)なんだな。ユニというのはなんとラテン語で一を表す、でコーンは(角)なんだそのままじゃないか!と思うなかれ。



 で(only one)のラテン語は(unicus ウーニカス)、ここからが面白い。この(uni)は(unique ユニーク)(universal 普遍的)とつながってゆく。



 ということは、オンリーワンの元の意味をたどってゆくと、ただ一つのものは個性的であるし、普遍的でもあるということになる。



 でさらにこの普遍的という意味を調べてみると、

 1.すべてのものにあてはまること。すべてのものに共通していること。

 2.宇宙や存在の全体にかかわっていること。



 結局言いたい事は、全ての源(オリジン)はすべからく自分のなかにあり、でそれは宇宙や存在の全体にかかわっていることでもある、ということなんだな。



 とりとめもない話で、すんません。まだまだつづく。



はる 2098

 オリジンの話3



 この(unique ユニーク)と(universal 普遍的)の話は、結構本質的な事柄ではないだろうか。



 どういうことかと言えば、まぁ普通に考えて(only one ただ一つの)ということは、掛け替えのない唯一のもの、そんじょそこらに同じ物があってはならない、ただ一つのもの、貴重なもの、という意味が込められているね。まぁだからこそそれが(ユニーク)個性的ということになるわけだ。



 (ナンバーワンよりオンリーワン)の歌詞に含まれている意味も、だから貴方は掛け替えのない大切な人なんだよという、多分そういったことが唄われていると思うんだな。



 ところで、もう一方の(universal 普遍的)の意味は、私は随分と考え違いしていたところがある。言葉の音として(不変的 変わらないもの 一定した)というふうに理解していた。



 絵を描くことは自分の個性をのばすことだ、いかに人と違うユニークな存在であるかそのことを確認する、そのことが一番大切なことだというふうに考えていた。独創性、オリジナリティが作家の生命線だと考えていた。



 しかし、ただ一人の存在であることは当たり前のことなんだな。他と違うことを競うことが最も大切なテーマである仕事など大した仕事ではないのではないか。



 自分のスタイルを作って喜んでいても、そんなものはいずれは真似されるかただの流行で終わってしまう。すぐにもっと目新しい作品に取って代わられてしまう。AのものをBにした程度の違いで個性だユニークだと主張するのもおかしなものだ。本質的に違いはない。



 ところで、普遍とは(すべてのものにあてはまること。すべてのものに共通していること)



 全く正反対のことなんだな。自分にしかないただ一つのものを探して、小さな違いをあげつらって喜んでいたんだけれど、そうではない、みんなに共通の何か、どこにでもある何かを見つけるんだよと言われた気がした。



 これは目からうろこだな。自分の進むべき方向を教えられた気がした。



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(no subject) - 2010.05.29(ポケットの窓から)



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これもまたマトリョーシカ人形のようだ - 2010.05.28(ポケットの窓から)






 

 今日は一日外に出なかったので、まぁまぁ仕事がはかどる。といってもまだまだ地塗りが続いているので絵を描いているわけではない。まだもう少し残っている。



 上の写真をみても分かるけれど、大体赤系統の地塗りが五割、黄色系統が三割で後は青系統になる、比率でいえば7・5・3ぐらいがちょうどいい塩梅かな。これは全体の話だけれど、一つの作品でも同じことが言えて、主調になる色、中間色、反対色が7・5・3ぐらいになるようにする。



 例えばこれは個展などで全体の配置を考える時にも割りとこの比率を物差しにする場合が多い。同じ系統の色、形、にならないように工夫しているつもりだ。これもまたマトリョーシカ人形のようだな。どこでも同じ理でできている。



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kivis - 2010.05.27(ポケットの窓から)








KIVIS



喫茶キヴィス こころとおなかをあたためる場所。



一宮町中尾651 喫茶KIVIS

0553-47-6244










 



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山口画廊、展示 - 2010.05.26(写真)














榎並和春展

── こえをきく ── 

 2010年 5月26日 (水) ~ 6月14日 (月) 火曜定休

      【 6月12日 (土)・13日 (日) 作家在廊 】


山口画廊


〒260-0033

千葉市中央区春日 2-6-7 春日マンション 102

Tel.&Fax. 043-248-1560



 昨年のいつだったかよく覚えていないのだけれど、カナダの画廊から作品の展示の話が舞い込んできた。まぁよくあるメールでの勧誘で誘い文句は「次期の冬のオリンピック開催地であるカナダで日本の作家を紹介する」ということらしい。ホームページがあるので見て判断してくれということだった。私は、いつものように全く無視した。



 まぁ基本的なコンセプトは間違っていなし、どういう形であれ紹介して展示してもらって見てもらえるチャンスが増えるのはありがたいことだ。しかし何かしっくり来ない、日本人の欧米人に対するコンプレックスに付け込んで、どこかで「フジヤマ、芸者」的なお手軽なお土産物を期待されているのではないか、そんな風に勘ぐってしまう。



 よくあるパターンで「フランス美術賞展」とか「イタリア美術賞展」などという冠の着いたコンクールがあるけれど、絵を描き始めた頃はこれに入選や受賞すれば一躍画家として海外で認められたわけで、何とかなるのじゃないかと夢を膨らませて要綱を取り寄せたりしたけれど、何処となくこれもまた胡散臭いにおいがした。



 要するにそういった「海外でデビューする」ということを釣り文句に訳の分からん素人から出品料というお金を巻き上げるよく考えられた一種の詐欺だな。



 まぁ実際にフランス賞展ならパリで日本人ばかりから集めた作品の展覧会を開催して紹介するわけだから、まんざら全ては詐欺とはいえないけれど、そんなもの地元の誰が見に行くかね。出品した作家の知り合いが義理で観るだけだ。まぁそれでも一応海外で紹介された、展覧会をやったという画歴にはなるからお互い様といえばそうかもしれない。

 

 まぁこの企画の主もカナダ人にはなっているけれど、実質的には日本人の 誰かがやっているのでないだろうか。二ヶ月預けて一万円、実際に展覧会をやっているかどうか疑えばきりがないのだけれど、どうもこういった話は乗らないほうがいい。



 何処が間違いか?芸は生き方なんだ、安易に作品だけでなんとかなると考えるところが間違い。



 HPはここ

 http://www.rufuslingallery.com/gallery.html

 




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山口画廊個展 - 2010.05.25(ポケットの窓から)






 


 明日から山口画廊個展です。

── こえをきく ── 

榎並和春展

 2010年 5月26日 (水) ~ 6月14日 (月) 火曜定休

      【 6月12日 (土)・13日 (日) 作家在廊 】

山口画廊

〒260-0033

千葉市中央区春日 2-6-7 春日マンション 102

Tel.&Fax. 043-248-1560

 

http://home1.netpalace.jp/yamaguchi-gallery/profile/profile.cgi

より転載

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「見えないものを観る、聞こえないものを聴く、その時々の心の『こえをきく』事が、私の仕事だと思う」



内なる対話から生まれ出る、言葉なき思索の絵画。長い人の営みが、幾重にも堆積した様な画面から、いつしか静かなる祈りの声が響く。個展第2弾、再び瞑想の旅路へ。





















 

Enami Kazuharu  (1952 ~ )

 

「もう既に分かっている事を描いても、面白くない。それよりも私は何故それに引っかかりを感じたのか、その『想い』の中味を知りたい。それを選んだ自分を 知りたいと思うのだ」



あたかも長い歳月に風化された岩壁の様な、深い趣を湛える地塗りの上に、どことなく古いイコンを思わせる人物像が、茫洋と静かに浮かび上がる。修道士・旅芸人・楽師・道化師、そして何処へ向かうとも知れない放浪者等々、そのどこか中世的な作中の人物像は、見る者をいつしかゆったりとした瞑想の時空へといざなう。



思索する画家、榎並和春。

未知なる魂の形象を求めて、ひたすらに自己を掘り下げる内に、その世界は表層的な虚飾を離れた、より根源的な領域へと到る。作風の深化に伴って技法も大きく変化し、初期の構成的な油彩表現から、一年間のイタリア研修を境に、アクリルエマルジョンを用いた独自の混合技法へと発展した。



現在は麻布や綿布を貼付したパネルに、壁土やトノコ等を塗り重ねて下地を作り、布等のコラージュを自在に交えながら、墨・弁柄・黄土・金泥・胡粉等々、様々な画材を用いて地塗りを重ね、やがてそこ浮かび上がるフォルムを捉えて、独特の人物像を現出させる。おそらくは、その幾重にも絵具を塗り込み、かけ流し、たらし込み、消しつぶし、また塗り重ねるという作業の中で、来たるべき「何か」を飽く事なく求め続ける事、それが榎並和春という画家にとっての、「描く」という行為に他ならないのだろう。



それはまた、画家がイタリアの古い教会や祠で出会い、心打たれた幾多の無名画家達に寄せる、時空を超えたオマージュなのかも知れない。



表層的な特異性のみがもてはやされ、精神性が大きく欠落した現代の美術界で、真っ向から精神の内奥を指向し、始原の祈りを希求する榎並和春の存在は、これからいよいよその意義を増して行くものと思われる。






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地塗り - 2010.05.24(ポケットの窓から)






 

 新作のために地塗りを始める。5,60点ぐらいあるかな。ここに至るまでも下地作りを色々やっている。絵を描くまでに延々とこういった作業が続く。ただ同じようにやったのでは面白くないので、出来るだけ変化をつける。その時に心がけることは「自分の意に反するように」ということ。



 この「意に反する」というのが結構極意かもしれない。綺麗にきっちり塗ったり貼ったりすることは簡単だな。それらしい物を持ってきてコラージュすれば、簡単にそこそこの作品ができる。でもそれだけに終わってしまう。何の工夫も抵抗もないものになってしまう。そこであえて「自分ならこうはやらない」「ここにこれがあれば困る」ということを下地作りのうちに出来るだけやっておく。



 色も出来るだけ原色でけばけばしいくらいのものを置く。なぜならいずれは渋い自分の好みの色になるのが分かっているから。そうやって自分に反する仕事がされていればいるほど、何とかしようという工夫ややる気が起きるのだな。



 無意識にやるとどうしても今までと同じようにやってしまう。手馴れの仕事になる。例えば筆でなぜるようにムラなく塗るのはある意味小学生でもできる。だから反対に意識して出来るだけ、「無意識」に「無作為」に塗る。書に似てるかな。これがなかなか面白い。



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バタフライテーブル改装 - 2010.05.23(ポケットの窓から)














 

 前回このテーブルを作ってから何年たったかな。随分と使い勝手が悪くて、結局はずしてしまった。一つはテーブルの部分が大きすぎてこの場につりあわなかったこと。もう一つは延長したした時のテーブルの支えが上手くなくて簡単ではなかったこと。



 こういった簡易テーブル延長システムはいざお客さんが来た時にスルスルと簡単に設置できなければ、本来の意味がない。それと大事なことは設置すれば頑丈であること、なぜなら割れ物であるグラスやお皿や料理が乗るからで、ちょっとやそっとでは壊れないシステムが必要である。



 簡単にすぐに設置できて、簡単には壊れない。相反する条件を満たす方法を考えなければならない。それと大事なのは私に出来る範囲の工作であることだな。



 見て分かるようにこのテーブルは元々食材入れとテーブルを兼ねるように私がコンパネを貼りあわせて作ったものだ。天板は無垢板の製図板。この入手先は、今の学校が引っ越す時に多量に製図板を廃棄処分することになった。今はドラフターやパソコンを使うため製図板そのものを使うことがなくなった。これをやすりをかけてカシュウで塗装すれば綺麗なテーブルの天板ができる。



 この延長したテーブルの支えをどうするか?これはよくよく考えた。で、結局↑の図のように必要な時に角材をテーブルの側面に穴を開けて差し込むのが一番確実で簡単なように思うな。



 しかし、まぁやり始めると結構時間を食う楽しい作業ではあった。

 



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気がつかなかった新しい自分を発見すること - 2010.05.22(ポケットの窓から)






 

はる 3256

 今のスタイルになる前はそれなりにデッサンを取ったりスケッチを元に構成して絵を作っていた。何度も同じようなスケッチを元にして絵を描いた覚えがあるな。



 例えばバラをスケッチしたとする。それを元に例えば人物と組み合わせたり、風景と組み合わせることで変化はいくらでもつけることは出来る。それはそれで結構面白くて何枚かは飽きずに描くことが出来るだろう。



 それでも、結局アイディアは一つだと思うんだな。色々変化はするけれど、描きたいことはバラであって、後はある種の手慣れで作品にしただけだ。だから描けば描くほど何かしらエッセンスが薄まってゆく。手馴れてはくるけれど、絵にはなるのだけれど、何かが逃げてゆく。



 そういった描き方だと、個展で作品を30点並べても、すべては一つの元絵のバリエーションに過ぎなくて、ただただ退屈なだけだ。絵の上っ面は変わっているけれど、中身はみな同じということになる。作品は一つ一つが独立していなければならない。大きな作品の部分であってはいけないし、ましてミニチュア版であってもいけないし、バリエーションであってもいけない。



 何回か個展を繰り返していると、百のデッサンやアイディアを用意しても、いつかはネタが尽きる。それに大事なことは絵を描くのが作業になってつまらなくなることだ。確かに手馴れては行くから仕事ははかどるようにはなるだろう。絵描きは職人的なところも多々あるので、それはそれで見過ごして仕舞いがちなんだけれど、先が読めるというのは退屈でもあるわけだ。



 絵を描く面白さは、今まで気づかなかった、新しい自分を発見することでもあるんだな。



 



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搬入 - 2010.05.21(ポケットの窓から)






 

 今日は真夏のような日差しだった。午前中、山口画廊のオーナーが直接絵を取りに来てくれる。家の前の路地は軽なら充分入るのだけれど、車高が低い車は底が着くらしいので、途中まで絵を運んでおいた。家の中にある時は場ふさぎであるダンボール箱もこうやって外に出すと、なぜか心強い甲冑のようだ。



 今年はこの個展を含めて四箇所で開催する予定。ほぼ三ヶ月に一度のペースかな。そんなによく作品がありますね?という声が聞こえますが、まぁいいのか悪いのか、そんなに売れっ子ではないので使いまわしができるのです。内緒ですが・・。もちろん随時新作は追加していますのでご心配なく。年間どのくらい描くのですか?と時々聞かれますが、7,80点から100点ぐらい。そのうち半分ぐらいは気に入らなくてまた描きかえてしまいます。



 アイディアはストックしていません。全くなにもありません。デッサンも資料もなにもない。すべてぶっつけ本番。全てが絵の中に隠れています。絵の具のしみや、コラージュした布の模様から浮かんでくるイメージを拾い集めて形にするだけです。この方法はこうやって何もないところから文章を書いてゆくこととよく似ています。全ては実は自分の中にある。経験したことや、夢見たことや、こうあったらいいなぁとか、本で読んだことだったり、映画で観たことことだったり、誰かに聞いたことだったり、そんなことが思いがけずに出てきて懐かしい感動に包まれたりする。



 アイディアはストックしているうちはいつか尽きてしまうように思う。すごく矛盾しているけれどね。こういったブログのネタも同じだと思う。それに取っておいたネタというのは結構鮮度があってどんどん味が落ちてゆくんだな。これはいい!と思ったときが最高で、その後は段々どうでも良くなってゆく。そんな経験ない?だからアイディアは取っておかない。



 訓練としては裸婦クロッキーだけだな、続いてやっているのは。これは面白いからつづいている。訓練という意識もない。けれどまぁものを描写しても仕方ないからなぁ私の場合。純粋に絵を描くことを楽しんでいるだけだな、クロッキーは。



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画廊通信77 - 2010.05.20(ポケットの窓から)






 

山口画廊・画廊通信77

 

http://home1.netpalace.jp/yamaguchi-gallery/room/room.cgi?mode=koumoku&no=25

より承諾を得て転載



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画廊通信 Vol.77   聖なる手(第2回榎並和春展)

  「探す」という行為は、絵画において何の意味もなさない。大切なのは「見つける」事だ。── 生前ピカソは、あるインタビューでこのように語ったと言う。この言葉を耳にして、私ははたと膝を打った。なるほど、と思ったのである。しかしそれも束の間、考えるほどに意味が解らなくなって来たので、国語辞典を引いてみた。



 曰く、「探す」── 見つけ出す事、「見つける」── 探し出す事、まあ「トートロジー」の例文としては打ってつけにしても、意味を知りたい私としては、これでは馬鹿にされているようにしか思えない。さて、ピカソの真意は何か。



 冒頭の引用は「ピカソの世紀」によるものだが、同書には他にも貴重な発言が記されていて、制作につい「語る」事を嫌ったピカソの、胸中を知る鍵として興味深い。ついでだから、二三関連のありそうな言葉を。



「探究は、数々の迷いのもとだ。探究は、芸術家を単なる知的迷路へと追いやった。これこそが、現代美術の主たる過ちかもしれない」「発展という言葉もよく耳にした。私の絵が今後どのように発展するのか、説明して欲しいと言われるのだが、私にとって芸術に過去も未来もない。もし現在に留まる事が出来なければ、その絵は何の意味も持たないだろう。古代ギリシアやエジプトの巨匠達が残した傑作は、決して過去の芸術ではない。もしかしたら今日それは、これまでになく生き生きとしてはいないだろうか」「理解ほど危険なものがあるだろうか。それも、理解など存在しないなら尚更だ。理解は、ほぼ常に不当だ」



 ピカソという芸術家には、人を面食らわせるような物言いが多いが、その一見奇抜な意匠を取り去ってみると、そこからは芸術への真摯な眼差しが見えて来る。上記の言葉を吟味するほどに、「探究」「発展」「理解」といった思惟の作用を、徹底して排除する画家の純粋な姿勢が、凛として浮かび上がって来るように思える。おそらくはピカソにとって、芸術は構築すべき論考でもなければ、研鑽を究める学理でもなかった。カンヴァスに向かうという事は、知性で織り成された条理のくびきを外して、茫洋と広がる不条理の海へ、新たな船出をする事に他ならなかった。感性の船、直観の羅針盤、海図はない、ある訳がない、航路のない未知の海を往くのだから。ならば目的地は?── きっとそれさえも、ピカソにはなかっただろう。 



 明確に解き明かすべき目的を定め、そこに向かって探究し、追求し、実証を積み上げ、論理を築き上げる、それは学術の方法論なのだ。対して芸術には、目的そのものがない。自分が何処を目指しているのか、何を探しているのか、それは芸術家本人にも分かってはいない、少なくともピカソにおいては。もし「探す」という行為を、探す対象(目的)を認識した上での行為と解釈するのなら、私はピカソの言葉に一歩近づいた事になる。即ち「探すという行為は、絵画において何の意味もなさない」、ならば「見つける」とは?

 

 今回で2度目の個展となる榎並さんは、作品の支持体となるパネルを前にした時、これから如何なる絵がそこに描かれる事になるのか、自分でもまったく分からないと言う。 画家のホームページに「制作過程」という項目があって、文字通り幾つかの制作過程を公開されているのだが、完成への経過を写真と共に追う事が出来るので、私のような絵を描けない者が見ても面白い。



 試みに作業の一部を書き出してみると ── パネル布を張り込む →下地材(ジェッソ)を塗り込む → その上に壁土を塗る → カーマイン(赤系の色)ジェッソで地塗り → 黄土をかける → 更にカーマインジェッソ → 壁土に墨とベンガラを混合し、褐色にして塗り込む→ その上に金泥をかける → 墨にベンガラを混ぜて染み込ませる → 壁土を溶いて、泥状にしたものをかける → それをまた赤に還元 → 更に金泥をかけて、何が出て来るかを待ち構える。── といった具合である。



 ちなみにこの作業はまだまだ続き、傍から見ているといつになっても絵が見えて来ないのだが、実はこれこそが、榎並さんにとっての「描く」という行為なのだ。画家は自らも語る通り、一連のいつ終るとも知れぬ作業を通して、何かを手探りで「待って」いるのである。既に見えている「答え」を探すのではなく、問いかけて、問いかけて、ひたすらに問い続ける行為の中から、いつか見えて来るであろう何かを待つ。 榎並さんの制作は、時に「待つ」とは能動であり、何処へたどり着くかも分からぬ「歩み」である事を、無言の内に教えてくれるのである。



 大切なのは目的地ではない、現に歩いているその歩き方である。── 小林秀雄。しびれるような言葉だ。



 やがてそんな画家の歩みは、いつしか時の厚みとなって画面に堆積し、あの風化したロマネスクの会堂を思わせるような、えも言われぬマチエールを造り出す。そして私達は見る事になるだろう、そこに浮かび上がる修道士を、放浪者を、旅芸人を、楽師達を。彼らは皆いつの間に画面に降り立ち、画家のもとを訪れた者達でり、換言すれば、誰が現れるかも分からないまま歩みゆく道程に、画家は図らずも彼らを見つけたのだ。 



 こうして私はまた、「見つける」という言葉に巡り会う。「見つける」とは「出会う」事だろうか。 顧みれば、出会いはいつも思いがけない。それはある時我知らず、雲間から不意に射し込む光のように、私達の前に降り立つ。画家はきっと、自らの精神に何処までも分け入る内に、いつか自分でも知らなかった自分に、ゆくりなくも出会うのだろう。そして更に歩みを進めるその先に、もしや自分さえも超えた何かに、刹那であれ触れ得るのかも知れない。思うにそれは、冷徹な知的探究の道では、とても踏み入る事の出来ない次元なのではあるまいか。そこはたぶん「芸術」の領域なのである。



「見つける」事を「出会う」事と解するのなら、ピカソは制作の根幹となるスタンスを、とてもシンプルに語った事になる。即ち「大切なのは、見つける事だ」、私はピカソの言葉に、少しは近づき得ただろうか。



 小林秀雄(批評家)は、こうも言っている。── 始めからこのように描こうと思い、その通りに出来たというのは、図面通りにビルが建ったというだけの話で、それは建築家の仕事だ。やってみなければ分からないものをやるのが芸術家なのだから、彼らはどういうものが出来るかなんて、知ってやしないのだ。だから、優れた芸術家ほど自分の描いたものに、驚いているに違いない。── 思えば人生もまた同じだ、かつての詩人の言葉にもあるように、「僕の前に道はない」のだから。画家は正に、絵の中を「生きる」のである、人生を歩むが如くに。



 今年の一月末から2月にかけて、銀座の松屋にて榎並さんの個展があった。私は最終日に伺う事になってしまったが、ゆったりとしたスペースに100号ほどの大作も交え、実に見応えのある構成となっていた。



 展示された作品もさる事ながら、絵を掛けずに作家紹介にあてた壁も一面あって、それがまたとてもユニークで面白い。企画者の発案との事で、作家の言葉や様々な日常のスナップが、壁新聞のように編集して大きく貼り出され、作品をぐるりと見てたどり着いた最後の壁面に、作家の人間性と直に触れ合えるコーナーが現れるという、誠に心憎い演出である。



 榎並さんはかねてから、折々の雑感を包み隠さずブログに書かれていて、それを私は面白いのでよく拝見している事もあり、常々作家の生き方や考え方には親しんで来たつもりだったが、こうしてそのライフスタイルを一望させて頂くと、あらためてその生きる姿勢に心打たれるものがあった。



 丹精して育てた畑の野菜、アトリエの片隅に立て掛けられたチェロ、作品の前で物思う画家、アトリエに続く敷石の小径……、そんな日々の一コマ・一コマを見ている内に、榎並さんの描き出すあの深い内省の世界は、こんな坦々とした日常から生み出されるものなんだなあと、至極当然の事実に思い到るのである。



 きっとこの素朴にして地道な、しかし決して止まる事のない歩みの途上でこそ、あの放浪者や旅芸人に代表される、作者言うところの「遊部(あそびべ)」達との出会いも、豊かにもたらされるものなのだろう。 作品が作者の投影に他ならないのなら、正に榎並さんの描く一作一作は、画家の「現に歩いているその歩き方」なのだと思う。榎並さんは今この時も、やはり坦々と歩いているに違いない、決して大仰に構える事なく、あくまでも何気ない日常の中に、さりげなく確かな覚悟を染み込ませながら。



 昨年の夏、初めての個展を開催させて頂いた折、会期も終了間近となった夕暮れに、Kさんご夫妻がにこやかに見えられた。これで会期3度目のご来店である。3回も見に来て頂いたという事は、もしや……というあらぬ期待も内心なくはなかったが、何しろKさんには前回の展示会で他の作品をお世話になったばかり、更なるお薦めは出来かねる状況にあった。



 そんな訳で、この日も熱心にご覧頂くご夫妻を前に、「どうですか?」というあの一言を出すべきか出さざるべきか、私は人知れない煩悶を内心に繰り広げていたのだが、やがて聞こえて来たご主人の麗しい言葉で、図らずも私の境涯は一変した。曰く「もう一度見て良いと思ったら、『買いたい』と思っていたんです」、こんな時の恩寵のような一言は、どんな名言よりも私を感動させる。



 この日Kさんに、私は一枚の母子像をご成約頂いた。タイトルは「聖なるもの」、どことなく嬰児(みどりご)をいだく聖母を彷彿とさせる、深い祈りを湛えた作品である。



 よく覚えていないのだが、私はこの時「画家は祈りの象徴として、聖母を描いたのでしょうね」とか何とか、知ったような台詞を吐いたのだと思う。それに対する奥様の言葉を、私は今も鮮明に覚えている。「この絵は聖母の姿というよりは、何処にでもある日常を描いているのだと思います。聖なるものは、母が子をかいなに抱くような、何気ない日々の暮らしの中にあるのだという事を、私はこの絵に教えてもらいました」



 私はこの時、「やられた」と思った。おそらく、この仕事でしか味わえないと思われる醍醐味の一つは、この「やられた」という快感である。思えば私などよりも、遥かに深く絵を見られているお客様の言葉に教えられ、励まされつつ、曲がりなりにも私はここまで歩いて来たような気がする。そう、確かに絵は語っていた、聖なるもの子をいだく母の手にこそ、宿るものである事を。



 リルケはある作品の中で「何もかもが落ちる、枯葉のように」とうたった後、こんな言葉で詩を結んでいる。── しかし一人いる、この落下を /限りなく優しい両手で支える者が ── 時に一枚の絵もまた、そんな大それた手ではなくとも、見る者をそっと受け止める温かな手であるだろう。その絵にはきっと、画家が生きる日々の中で見つけた、大切な何かが刻まれているのである。 (10.05.13)



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(no subject) - 2010.05.19(ポケットの窓から)



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バウレ族の仮面 - 2010.05.18(ポケットの窓から)






 

 アフリカの仮面はどきどきするほどの魅力がある。ピカソなどのキュビズムの作家がアフリカの彫刻からヒントを得たことは有名な話だが、高度な科学的な知識をもった頭でっかちな文明国の人間には、この素朴というのか生命の根源からくるような造詣にはまったく太刀打ちできないように思う。



 このあいだ東博で日本の古い土偶展をやっていたけれど、この中にも今の我々が失ってしまった「自然の声に感応する力」みたいなものを感じた。



 これらのものは今の我々の「美しい」という基準では計れないものだ。彼らが「美しいもの」を作ろうとして作ったわけではない、リアルに何かに似せて作ったわけでもない。しかし、全く何の基準もなかったわけではないだろう。そんな是非の基準を知りたいと思う。



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雑感 - 2010.05.17(ポケットの窓から)






 

 明日からは久しぶりに仕事です。



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gallery更新 - 2010.05.16(未選択)


 

 長い間手着かずで放置してありましたギャラリーを少し更新しました。

2006年の作品集

2007年の作品集

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すべてトップ画像で一度晒したものです。クリックすると少し大きく見ることが出来ます。



 HPというものは一度作ってしまうとなかなか更新されないようだ。特に私のように個人で管理運営しているHPは最初の熱意はどこかに行ってしまって、一年中変わらない画面が晒されている。まったくもって怠慢そのものだが、こういったギャラリーの趣旨から考えてもそんなに頻繁に更新できるものではない。まぁその代わりにブログのほうは毎日更新しているわけだから許されたい。



 先日自宅のコタツの電子部品であるコントローラが壊れてしまった。本体は全くなんともないので、何とかこの部分だけ交換できないかと買った家電量販店に出かけた。しかし、今は夏の商品がシーズンであって、コタツのような季節商品は何処を探してもない。当たり前の話だが、まぁ仕方ないので来年まで待つことにして、自宅に着いて、ふと,この会社のHPがあれば直接交換してもらえるのではないかと思いついた。



 日本の企業だったのでHPは簡単に見つけることができた。でこの部品だけ購入することが出来るかどうか、まずメールしてみた。実物の写真も添付した。で、意外にすばやい返事で色んな対応をしてくれた。



 という具合に今はやはりHPを持っているほうが色々便利である。とりあえず窓口はこの量販店がなってくれた。でも多分もう修理や交換はここでは扱えないだろう。なぜなら窓口の店員さんは親切ではあったけれど、専門家ではない。いろんなことは直接企業に聞いた方が分かりやすいだろう。



 まぁこれは一例に過ぎないけれど、たぶんこういったふうにネットを使った対応みたいなものがこれからは一つのやり方になってゆくだろうな。

 



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踏み切り - 2010.05.15(ポケットの窓から)






 

 近くの無人駅。



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あるものでなんとかする。 - 2010.05.14(ポケットの窓から)






 

はる 3248



 あるものでなんとかする。



 この話は随分と遠い話で分かりにくいかもしれない。自分でも何だかよく分かっていないところがある。で、まぁいつものように手探りで書いてみよう。うまく行かなければご愛嬌ということで許してくださいな。



 話を分かりやすくするために子供で考える。いつも思うのだけれど、大人が考えているほど子供は無邪気でも、脳天気でもない。彼らは彼らの時代を精一杯生きている。大人から見て無邪気に見えるのは自分もそんな時代があったという余裕から生まれたものだろう。



 どんなに能力があって才能があったとしても10歳の子供はそれ以上でも以下でもない。よく天才少女などと騒がれて一躍世の中に出てくる音楽家などがいるけれど、果たしてどうなんだろうか、10歳の子供には生まれて10年の経験しかないわけで、それだけのレベルでしか世の中を理解していない。もし天才だとするならその技術が、師匠の意思を反映するだけのものだということだろうな。



 表現ということでいうならば、人を感動させるには高尚である必要はない。「ないものは伝わらない」ということでいうなら、子供はこどもなりの感性で表現すれば充分人を感動させることが出来る。それが妙に大人のまねをして白々しい表現をしても薄ら寒いだけだ。



 違うなぁ、こんなことを書こうとしたわけではない。



 例えば三岸節子の絵に感動したとする。こんな絵が描ければいいなぁと思う。で、そのスタイルを真似するじゃない。まぁそれとよく似た絵はたぶん描けるだろう。そう難しいことではない。けれど何かが違う。それはあなたが三岸節子ではないからだ。



 彼女は生き方が三岸節子なんだと思う。絵のスタイルではない。芸というのはそういうことだろう。絵が上手いとかへたくそだというのではないのだな。どう生きたか?何を選択したか?何を是として何を否としたか?自分にはこれこれがあって、これこれがない。私が今見えているのはこれで、だからこれこれで描きましたというのが芸なんだろう。



 今の自分の持っているいいも悪いも、あるだけの方法で何とかするのがその人の芸道だ。



  「あるものでなんとかする」



 このことを分かっている人はわりと少ない。みんなほとんどの人がよそゆきの顔をして自分以上に見せようとがんばっている。何かそれらしきものがあるけれど、切実なものとして何も伝わってこない。このことはだれも教えてくれない。けれどこれが一番だいじなことだ。



 ここで少し話は飛躍する。



 自然界の話で「フラクタクルの理論」というのがあった。日本語では「自己相似形」とでもいうのだろうか。実際この宇宙の根本原理はこの入れ子人形のマトリョーシカに似ている気がする。何処を切っても金太郎飴のように同じようなパターンがでてくる。



 人格形成においても結局同じ事を繰り返しているに過ぎない気がしているんだな。子供時代の私も今の私もパターン的には同じ思考回路で生きている。確かに人生経験は違うので大きさは違うかもしれないが、小さな小さなマトリョーシカ人形のパターンで生きている。



 これで最初に戻った。まだ何か書き足りない気がしている。



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コンポストの不思議 - 2010.05.13(ポケットの窓から)






 

 このコンポストには約半年の間に野菜くずがはいっている。昨年の11月から始めた。それまでは穴を掘って埋めていたのだけれど、これが段々に面倒になってきた。それでコンポストの話を聞いた。家族の数にも夜のだろうけれど、約一年ためても一杯にならないそうだ。二台用意して一年ごとに堆肥として使うらしい。これから真夏にかけて虫とか悪臭がどうなるのかちょっと心配のところがあるけれど、昨年作った刈り取った草などを積み上げて堆肥にしたものを上からぱらぱらとふりかけると結構匂いも抑えられるようだ。今のところ上手くいっている。



はる 3247

 「自分にないものは伝わらない」という話はけっこうショックだった。確かにそういったことってあるなと感じていたからだ。



 青山二郎の「美は観た人の発見である、創作である」というのもなかなかに衝撃的ではあったけれどね。確かにいえることは『分かる」というのはその人のレベルでしかない。どんなに高尚な高等なものでも、その人がそこまでのレベルに達していなければ『分からない」のだな。



 「今分かる」というのは案外大したものではないのかもしれない。ひょっとしたらもっと数段すばらしいものが、今の私には理解できない大きなものがあるのかもしれない。今の私に見えないものが、他の人には見えていてそれを堪能しているというのは結構悔しいな。でもまぁ見えないのだから仕方ない。



 そこまでは考えていた。これはインプットだ。「自分にないものは伝わらない」というのはアウトプット、表現について

言っている。そうかそうだよな。どんなに綺麗な高尚な言葉でも何だかうそ臭い、恥ずかしいような気持ちになることがあるよな。例えば政治家の公約みたいなもの。



 一級の役者とか、芸術家、政治家とか、セールスマンとか、宗教家とか詐欺師なら、自分にないものもあるように語ることができるかもしれん。それはまぁすこぶる怪しい、危ない人物ではあるけれどね。平凡な凡庸な人間にはそれは難しいね。



 「自分にあるもので何とかする」というのもその続きであった。ないものをねだっても始まらない。あれがないから、これがないから、自分には無理だと諦めるのではなくてね。今もっている材料や技術で何とか伝えようとするんだな。ぺらぺら余計な話が出来るより、伝えたいという気持ちがあればボディラングエイジの方が良く伝わる。



 続きはまた明日。

 



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伝わる - 2010.05.12(ポケットの窓から)






 

 長い文章を書いたがアップしたら、消えてしまった。もう書く気になれないのでまた明日だな。『自分にないものは伝わらない」の話。



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(no subject) - 2010.05.11(ポケットの窓から)



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楽日 - 2010.05.10(ポケットの窓から)






 

resonance

http://resonance-1111.tumblr.com/post/586877221


より勝手引用

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「伝わると伝わらないの境界はなんだ?」

このところ思っているのは、

「自分に無いものは伝わらない」

ということだ。


なんというか、

伝わらない表現になっている人は、

「いま、ここにある自分」には無い、

どっかよそにある、美しい、正しいことを、

言おうとしている、

そんな感じがする。




(this post was reblogged from onehalf)



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明日でお仕舞い - 2010.05.09(ポケットの窓から)






 

 東京暮らし1



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満開のノイバラ - 2010.05.08(ポケットの窓から)






 

 明日はまた東京です。国展もいよいよお仕舞いですよ。



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わじあじあ - 2010.05.07(ポケットの窓から)






雑貨とコーヒー

わじあじあ

甲府市住吉3-27-24

055-237-2133

 ちょっとショックな出来事がありました。というのは長年私の左手にありました時計が突然消えてしまいました。この時計は私が29歳の時に意を決して学校の先生になった時に兄貴がくれた大事な腕時計です。結局学校の先生は一年しか出来ませんでしたけれど、それはそれで結構気に入った時計でした。30年つれそったわけですから愛着もあります。警察にも届けましたが出てくるかどうかわかりませんね。けっこうショックです。



 実はさっき車の中をもう一度探しましたところ、椅子と椅子の間からひょっこり出てきました。上から隠すようにタオルがかかっていたので見落としていたのです。しかしまぁ大騒ぎしてすみませんでした。警察にも先ほど電話しましてご苦労さまでした。



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覚悟 - 2010.05.06(ポケットの窓から)






 

 最近はキャンバスを購入することがなくなった。もっぱらパネルに適当な綿布を張り込むか、コーヒーのズタブクロをもらってきて解体して張り込むことが多い。上の写真はホームセンタで売っている園芸用の麻布です。これは少し荒らすぎる(布の目)のところもあるけれど、それを反対に利用すれば使える。兎に角画材としては破格に安価である。



 私がミクトメディアに移行したきっかけはコラージュを含めて色んな材料を画面の中に持ち込めるという特質からだ。油彩の作家でもコラージュしている人は多いけれど、どうしても油彩とコラージュとはマッチしないように思えるのだ。油彩でゆくなら徹底的に油彩の画材を研究してそれに適した作画方法を考えるべきだ。私的に考えるならば、油彩画は光沢のある滑らかな絵肌が適している。そういった画材なのだ。



 印象派以降絵画はどんどん解体された。始めは色から、次にその支持体や絵の具まで綺麗に解体されて既成の売られているものをそのまま買ってきて絵を描くという時代は平和な時代だったんだな。まぁそれがもっと進めば絵など描かなくてもその考え(コンセプト)さえしっかりしていればいいなどというへんてこりんな理屈も有りになる。



 ちょうど我々が学生だった頃、そういったコンセプトアートやその場の空間を材料に組み込んだインスタレーションなども出てきてますます訳が分からんようになってきた。今もそんな状態の延長上にある。



 文明開化から何も疑わずに西欧文明を猿真似してきた我々は、ここにきてはたと気がついた、西欧人でもない我々がなぜ油彩画を描くのか?そこでさて油彩画というのはそもそも何じゃいなとうことで徹底的な祖先帰りが始まったわけだ。そして全てのものを根本から洗いなおしてみるというイチダイブームが起きた。



 油彩画のもっと前のテンペラ画とかフレスコ画とかそういった画法、技法が一躍スポットを浴びたんだな。今は巨匠になってしまった絹谷さんなどの仕事が評価された時だ。さっそと有元利夫が出てきてあちらに行ってしまった。



 私はそこから一つだけ影響を受けたのは油彩でなくてもいいということだ。絵の具も顔料から取り寄せたり、建築材料の顔料をつかってみたり、基底材はキャンバスでなくていい、紙や布土なども画材として画面に持ち込めることを知った。随分と選択は広がったように思う。



 根本は何を描きたいのかということだろうな。描くことは多分一つだ。 



 昨日女優の大竹しのぶのドキュメント番組をやっていた。彼女は女優としては天才的なところがある。まぁ私生活では男を惑わす毒婦のようなところもあるけれどね。その彼女が答えて「お客さんは役者の裸をみたいのですね、さらけ出した裸の姿を見たいのですね。恥ずかしがって出し惜しみしたしたようなものは私はみたくないですね」



 覚悟が必要なんですね。



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真夏日 - 2010.05.05(ポケットの窓から)






 

 今日は真夏日になったそうだ。ついこの間寒くてふるえていたのにこの気温の差はついて行けないな。上の写真は満開のナニワノイバラ。このバラは放っておいてもどんどん繁殖する。無精者にはもってこいの庭木だが、反面丈夫過ぎて繁茂しすぎるきらいがある。少し切りまこなくてはジャングルになる。



 今日は午前中に苗やさんに出かけて今年の苗を何種類か買ってきた。きゅうり、なす、とまと、ピーマンの定番。オオバ、バジルのハーブ類、ルッコラ、パクチーは種を買った。かぼちゃは昨年豊作だったので、今年もそれを期待しよう。生姜、冥加が好きなのでこれも苗をかってきた。にんじんジュースが自家製のものでまかなえれば嬉しい。葉ものは春菊。何処まで出来るかわからないけれど、完全無農薬の我が家の菜園は頼もしい存在でもある。



 子供の頃の少年雑誌は夏休みなどの前になると、色んな特集が組まれていた。けっこうわくわくしたのが樹の上の棲家とか、どうやって水を運ぶのかとか、シャワーの作り方とか、空き箱と利用した椅子とかベッドとか、何か廃棄物を利用して物を作る、それを使って遊べるといったことだったな。工作少年だった私はそんなことにとても空想力を刺激されたものだ。



 今の少年むけの雑誌が子供たちにどんな夢を見させているのか知らないけれど、手と頭を使って工夫して物を作るという醍醐味というのか面白さは、小さな画面を相手にピコピコやってるゲームより数段わくわくする遊びだと思う。そして無い事、足らないことで代用したり空想したりすることで、想像力というのはどんどんと着いてくるんだな。



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勝手引用 - 2010.05.04(ポケットの窓から)






 

resonanceより勝手引用

http://resonance-1111.tumblr.com/post/568138904

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私たち人間は言葉によって世界を理解し、言葉を通して体験を経験化している以上、言葉の牢獄から逃れることはできない。私たちの使う言葉が陳腐化してしまえば、私たちを取り巻く現実世界も腐食する。何となく変わらぬ退屈な日常の繰り返しという倦怠感におそわれる。もしこの文章を読んでいるあなたがそう感じているのなら、まず「見ること」から学び始めなければならない。そして、世界をもう一度新しい言葉で語り直すのだ。そうすればあなたは世界は同じでも見る視点が変わるだけでこんなにも違って見えるのかと思うことだろう。そして自然の美しさにあっと息をのむかもしれない。

「見ること」について―詩人とまなざし « Akizukiseijin’s Weblog (via beso) (via nemoi) (via konishiroku) (via dewfalse)



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大石正巳のアトリエ日記より勝手引用

http://laseine38.exblog.jp/14301782/

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 ・・略・・世界大戦でドイツがフランスを侵略した時フランスは軍事的には無抵抗

をとうして国と国民の命を守ったと新聞で読んだ。もし闘っていたら大変

な惨事になっていたかもしれない。ドイツ秘密警察〔ゲシュタボ)がピカソ

のアトリエに来てゲルニカを見、これはあなたの仕業かねと聞いた時、

ピカソはこれはあなた方の仕業だよ、とこたえた時のエピソードを思い出

した。・・略・・



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吉川春水、昨日今日明日より勝手引用

http://kikkawaharumi.blog68.fc2.com/blog-entry-73.html#more

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・・略・・永井荷風の人が言うところの「陋巷に窮死した」最期を「荷風は、とうとう、自分というものを貫きとおすことができた」と書き、子規の晩年を「六尺の病床に縛られたのではなかった。その中に自分を発見したのだ」と書いているのは、他人にはどのように見られようとも、自分が納得する最期、剛毅な最期を迎えるという覚悟を自らに課しているように思えます。・・略・・

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画家・榎並和春です。HPはあそびべのHARU・ここだけの美術館

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