あそびべのHARU・ここだけの日々
画家・榎並和春

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補助金めあて - 2010.03.31(ポケットの窓から)






 

はる 3204

 メセナとか奨学金とか補助金とか、私も若い頃は随分利用させてもらっていまさら言えた義理ではないのだが、もらった本人は嬉しくて有頂天になって後は何とか使い切ることばかりを考えている。どうもこの感覚というのは政府の予算の配分に似ていて、使い切ってしまうということに意味があって、それを何かに役立てるということに目的が置かれていない、本末転倒型が多いように思うなぁ。



 奨学金や補助金をもらうと、何かしらの報告義務があって、確かにこれこれのことを実際にやりましたという、ある種の体裁ばかり、カッコばかり、つけることに始終して、確かに見た目はすごく内容があるように見えるけれど、実際は見てくれだけで内容は薄っぺらというのが多い。これも野球の消化試合のようで気の抜けたものだ。



 人間というのはある意味ものすごく利巧でね、目の前に餌があるとそれを獲得するために一生懸命になるけれど、餌をもらってしまうと急速にやる気、モチベーションが落ちる。ほかの事にその能力を使ってしまう。この場合だとみばのいい報告書を書く事だな。



 まぁ何が言いたいのかわからなくなった。また明日。



 



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どうなりたいか? - 2010.03.30(ポケットの窓から)






 

はる 3203

 そうだった。「どうなりたいか?」



 何かのキャッチコピーを読んでいたら「よく使う言葉の集積がその人を表している」とか書かれていた。う~ん。なるほどなぁ。さしずめ「どうなりたいか」というのはよく使うフレーズだな。



 二十歳やそこらの人間ではない、還暦ももう目の前に迫っている準老人がまだ「どうなりたいか」などと考えているわけだ。これはもう、一生私は「どうなりたいか?」と考え続けて棺おけに入るわけだな。まぁそれもまた私というわけだ。面白い。



 私のペンネームのように「遊び」というのが一つのキーワードのように思うな。この場合の「あそび」にはクリエイトという意味が含まれている。



 「絵描き」であるというのもある意味「遊び」の一つである気がする。遊びも真剣勝負でなければ面白くない。「命がけ」なんだけれど、かといってすがりたくもない。さらっと気前よく命を預けたい。ここのところのニュアンスが難しいところだ。野暮は一番避けたいところ。

 



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無用の用 - 2010.03.29(未選択)
荘子の話

http://homepage1.nifty.com/kjf/China-koji/P-323.htm

から



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花見 - 2010.03.28(ポケットの窓から)






 

 町内の花見会。途中で雨に降られたけれど、まぁまぁ皆さん楽しんでいました。後は恒例のカラオケ大会です。



 明日は東京、また遅くなります。では。



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春は名のみの・・ - 2010.03.27(ポケットの窓から)






 

はる 3200

 糸井さんのコラムより

http://www.1101.com/darling_column/2010-02-08.html

・・略・・

(おそらく、「どういうじぶんでありたいのか?」

という自問自答のなかでは、

理想のじぶんと、そうはいかない見苦しいじぶんとが、

しょっちゅう対話しているにちがいない。

でも、その問答、その対話が、

その人をつくってるんだというのは、すごいことだ。)



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さくら、さくら・・ - 2010.03.26(ポケットの窓から)






 

 近所の公園の桜並木、今年も桜が咲きました。この日曜日は町内会の花見です。昔は考えられませんでしたが、最近は近所のお年寄りと花見をしたり、町内の公民館の文化祭にもごく普通に参加するのです。ほとんどの人が私が絵描きだと知りません。小学生の工作や、ばぁさんの編み物や、じぃさんの俳句の短冊などと一緒に展示されています。これでどうだ!というのは恥ずかしい。妙に違和感なく並んでいますね、それでいいと思っています。



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(no subject) - 2010.03.25(ポケットの窓から)



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絵描きになる方法? - 2010.03.24(ポケットの窓から)






 

はる 3197

 (絵描きになる方法?)質問に答えて

・・・略・・・

 で次は絵描きになる方法ですが、これはなかなか難しいですね。コンクールで上位の賞を取ってデビューという方法もありますが、長くはつづきませんね。一発屋でおわることが多いです。



 これはお客さんをつかんで行かねばなりません。自分の好きな絵だけを描いてゆくというわけには行きません。無論自分の絵を描いてゆくわけですがね。



 地道に個展を開催してゆくというのが、遠回りですが一番の方法だと思います。



 絵描きになるには団体展の会員である必要はないのです。「作家として生きる」という姿勢です。



 絵描きは個展がすべてです。グループ展や団体展は団体戦ですね、確かに楽しくて有意義な仲間なんですが、基本的に絵は個人的なものです。自分の世界、を個展という方法で世の中にアピールする。



 それで、出来るだけたくさんの自分のファン?シンパ?を増やしてゆく。コレクターは真剣に見ています。一年目は眺めるだけ、二年目は声をかけてきます、三年目でやっと小さな一枚を買ってくれるかもしれません。もちろん見てもらえるだけでもありがたい話です。100人に一人買ってくれればいいのです。押し付けは絶対にだめですね。



 画商はもっと真剣です。それが商売だからです。汚い言葉ですが「儲けにならない作家」には話は回ってきません。ですが、多くの画商の中には自分と一緒に成長してゆこうと言ってくれる画商さんが、そうですねそれも100人にひとりくらいですかね、必ずいます。そう信じてやってきました。



 あせってはいけません。自分と意見の合う、パートナーを真剣に探してみてください。これは誰かの紹介とかというのではだめなんです。自分で見つけるひつようがあります。



 まじめに真剣に個展を続けていれば必ず誰かが声をかけてくれます。最初は地元から経費を少なく始めるのが良いでしょう。そうやって10年ぐらいつづけてみてください。必ずいい結果が得られるでしょう。



 ここからは禅問答のようですが、絵だけを売ろうと思うと、媚びた見苦しい絵になります。底が見えて、げんなりしてしまいます。そんな絵はそこら辺にいたるところに転がっています。目的はそこにはありません。大事なことは、本人が楽しみながら、悠々と淡々と生きているか?ということですね。そうすれば必ず共感して見ていてくれる人がいるように思います。



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ニューシネマ・パラダイス - 2010.03.23(you tube)

 感動的なラストシーン。


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融通無碍 - 2010.03.22(ポケットの窓から)






 

はる 3194

 少し面白い話を聞いた。ある小さな会社があった。社長は40台の女性。くわしいことは知らないけれど、最初はオーガニック系の石鹸を扱っていたようだ。



 面白いのは会社の形態というのが、その構成員である社員の提案でどんどん変化して行くことだ。会社は社員のものであるという発想だ。新しい共産主義みたいだな。



 例えば会社には食事する食堂がなかった。昼食に会社の外に出るより社内で済ませたほうが経済的だ。ということで60過ぎたおば様たちに社員食堂をやってみないかとすすめた。これが意外にやる気になって、それではオーガニック系の食材で体にも頭にもいい献立を考えようということで、やがては自社のビル近くに畑まで作るようになった。



 それがやがてうわさになって、そこの社員食堂は社員だけではなく、近所のそういったことに(食育に関心のある)人たちが食事を希望するようになって、やがてそんなお店に発展した。で、もっとということで会社自体を田舎に引っ越してしまった。



 これは多くの話の一つでしかない。今までの会社、仕事のイメージは就活して、何とかそこまではがんばって、いい会社、安定した仕事にありつけるよう、腰を低くして媚売って愛想良くして、雇ってもらうというイメージだな。



 ところが、そういった労働というのはある種、必要不可欠な苦役でしかない。嫌々だけれど仕方がないというやつ。人というのは最初は生き生きと仕事をする。慣れるまではまじめにノウハウを学ぶ。ところが一旦慣れてしまうと、今度は以下にサボるかということにその能力をつかってしまうのだな。



 まぁ融通のきく小さな会社だからこんなことが出来るのだろうけれど、まず会社ありきという発想ではなく、まず人ありきという発想で、その人力(ひとちから)で何かをやってゆく、探してゆく、というのは面白いなぁと久しぶりに背筋に電気が走った。



 上手く行くことばかではないけれど、成り行きで会社そのものがつぶれるかもしれないが、こんな会社ならみんな骨惜しみをせず、面白がってがんばるのではないか。仕事の原点のような気がする。 



 



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(no subject) - 2010.03.21(ポケットの窓から)



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胃全摘出から10年 - 2010.03.20(ポケットの窓から)






 

はる 3193

 胃を全摘出してから今年で丸10年になる。今でこそ何気なく話ができるけれど、まぁわが身にとっては最大の危機ではあった。



 くわしくは書かないけれど、胃がんではない。聞こえは悪いけれど「胃元発祥の悪性リンパ腫」というのが正確な病名である。当時の治療方法は胃の全摘出が最善の方法であった。



 考えてみると少し前から兆候はあった。原因不明の突然の高熱、それも40度近い大人では珍しいくらいの体温だ。寝汗。まぁこれでリンパ腫が読めれば苦労はないのだけれど、それ以外は普通に日常生活できるので、見過ごしてしまう。



 普通に生活していれば、ほとんど気がつかない兆候ではある。私はたまたま胃に潰瘍があったので、人間ドックで生検をとってわかった。何が功を奏するかわからないものだ。



 胃を摘出すると、どんな弊害があるかということを書いておこう。最初は物が詰まる。上手く飲み込めないなど、物理的なことが多い。次に色々あるけれど、一つはビタミン12や鉄、カルシュウムがだんだん不足してくる。よって貧血気味になる。定期に補充する必要がある。



 胃の弁がないので、食べたものが逆流することがある。これも慣れるとだんだん回数が少なくなるけれど、最初の頃はほぼ毎朝みられた。



 免疫力が落ちたように思う。今までかかったことがない炎症で高熱を発祥することが年に一度ぐらいある。まぁこれも最近は少なくなった気がする。



 まぁ5,6年たったころから、後期ダンピング症候群かな、血糖値コントロールが高めになる。元々食べ物が直接腸にはいるので、急激に血糖値が上がる、そのためにインシュリンが出て今度は急激に血糖値が下がるといった乱高下が前期ダンピング症候群の特徴だけれど、私はあまりこの傾向はなかった。



 それゆえに血糖のコントロールに気を使ってはいなかったのだが、ここに来て尿に糖がでてくるようになった。(誰でも血糖値が170を超えると自然に体外に排出されるようだが、普通は170をこえることはないらしい)糖尿病ではないが、症状的には同じことになるので、長い間に色んな不具合がでてくる可能性がある。



 色々と調べて(HbAlcなど)、今のところ一時的なものなので問題はないらしいが、これから年を加えてくるとインシュリンのコントロールが不安定になると気をつけなくてはならない。



 ネットはこういったことは色々な症例が検索されるので非常に便利である。専門的なことがかなりわかる。自分の体は自分で知っておく必要がある。知ってその結果医者に任せるのはいいのだけれど、知らないで医者任せは非常に危険だな。



 



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今というのは二三年前の結果である - 2010.03.19(ポケットの窓から)






 

はる 3192

 いつも行くブログの中に「今というのは二三年前の結果である」てなことが書かれていた。まぁ言い換えると、今間違いに気づいて、すぐに行動を変えても、その結果は二三年後にしか現れてこないということだな。



 人は目標を立てる動物だともいえる。多分未来というものを想像できるのは人間だけだろうから、努力目標にしろ、こうなりたいといった憧れであっても、今の努力が未来に少しでも近づけたらと思うから、努力もするのだろう。



 けれど、まぁ往々にしてすぐに目に見える結果をだけを求めるから、地道な努力を放棄してしまいがちだな。自戒を込めていうのだけれどね。



 受験勉強なんかも似ているけれど、明日からやろう!とはよく思う。でも今やらなければ、明日もやらない。だから今から10分でもやることだ。これがとても大事な秘訣。すでに今はもう未来の一部でもあるんだな。



 自分はどうなりたいのかね。いまだによく分からない。現代を代表する芸術家になりたいわけではないよな。いや、なれないとしても、もしそう思うなら、すでにいままでにそれに向かって行動しているだろう。努力目標としてそんな活動をしているだろう。今の私の活動から、将来今を代表する作家になるとは到底思えない。笑い話でもない。



 前にも書いたけれど、私は絵描きになりたいわけではない。絵を描く人なら他にいっぱいいるわけだし、私より上手な人はごまんといるわけだ。それにここが大事なんだけれど、一流の芸術家に会ったことがないからかもしれないが、何となくあまり尊敬できない、近づきたくない、はた迷惑なわがままな人たちが多いきがする。いまの私を含めてだけれどね。



 自分が・・、私が・・というのは、もう聞きたくないのだな。



 私が絵を描くのは、修行みたいなものだと思っている。無理だけれど、自分から離れてもいいのだ。万人に共通する普遍的なものが描ければね。



 毎日の日常の中で、食べたり、飲んだり、だべったり、考えたり、想ったりしたことを、一人語りのようにポツポツとうたって行ければ、それでいいように思う。大それた芸術である必要はさらさらないのだな。



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オープンニング - 2010.03.18(ポケットの窓から)








PIECE橘町 

~ピエスタチバナチョウ~

オープンニング

 



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PIECE橘町  - 2010.03.17(ポケットの窓から)








PIECE橘町 

~ピエスタチバナチョウ~  

 

400-0031 山梨県甲府市丸の内2-16-18  

055-237-5005  日曜定休


 いつも行っていたカフェが閉店。その後、夜ちょっとコーヒーを飲む場所もなくて困っていた。普通にコーヒーが飲めればいいのだけれど、ファミレスかスタバぐらいしかない。お腹がすけば何か簡単な食い物があって、よく会うメンバーがいてくだらないおしゃべりが出来ればそれにこしたことはない。



 この、PIECE橘町 は、そのカフェのマスターが新しく駅前に開いたカフェバーです。当分夜しか開店しないそうですが、まぁ機会があれば寄ってみてください。マスター一人できりもりする小さなスペースですから、出来ることだけしかやらないそうです。本人もソムリエの資格を持っていますが、県内産のワインを飲ませるのが売りのようです。



 後はまぁ、彼は山梨スローフードの会長ですから、狩をやったり、釣りをしたり、ぶどうの栽培をやったり、地産地消的なコンセプトで、そういったことも大いにやってゆきたいようです。ということで、明日からオープンです。みなさんよろしく。



 場所は

http://slowfood-koshu.sblo.jp/article/36283943.html




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(no subject) - 2010.03.17(ポケットの窓から)



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定年退職 - 2010.03.16(ポケットの窓から)






 

 私には定年がない。なぜなら就職していないから、定年というものが元々ない。毎年解雇されて、まい年契約する。毎年履歴書を書いて、免許書の写しがいる。直属の上司というのもいない。挨拶に回るわけでもない。だから校長と会ったこともない年もある。気楽といえば気楽だけれど、何の保障もない。当然収入も微々たるものだ。あるのは生徒との関係だけだな、まぁそれが私の仕事ではある。



 同じことを私はもう28回繰り返している。だから職場の同僚が嬉しそうに、寂しそうに定年退職して行くのを毎年見送っている。今日はそんな先生の送別会に付き合った。



 



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午前様 - 2010.03.15(ポケットの窓から)






 

 午後から東京に出て、同じ国画に出品している作家の展覧会を一つ見て、他にはほぼどこにも寄り道をしないで五反田の某印刷会社にでかける。これからこの春にかけてなんだかんだと仕事をしなければならない。ボランティアなので強制ではないが、会のカタログを作る。基本的には我々はお客さんで、会社がやる仕事をフォローする立場なんだけれどね。



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明日は東京 - 2010.03.14(ポケットの窓から)






 

 今日のアトリエ



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三井桂 水彩画展 - 2010.03.13(ポケットの窓から)








三井桂 水彩画展

2010 3/12~3/22

甲府・ギャラリーイノセント

055-222-4442

 
 街中に歯が抜けたように空きスペースが出来たためなのかどうかわかりませんが、最近わりと新しいギャラリーが出来ている。まぁギャラリーは壁と照明さえあればなんとなく出来てしまうところがあるので、簡単にオープンするようだ。まぁ放っておいて朽ちてしまうよりは何かに利用した方が良いには決まっているのだが、そういった考えではじめるとほとんど一年以内でクローズしてしまう。長いスタンスで作家を育ててゆくなどということは考えられない、短命さだ。イベントとして一時でも盛り上がればそれでいいや、という考え方もそれはそれでOKだけれど、何だか一生懸命付き合うのがばかばかしくなる。



 少し前に上の方から「町中活性のため・・」云々かんぬんで、こちらはほぼボランティアで協力したけれど、担当の役人はその場しのぎの対応で、今の役割としてなんとなくこなしてはいるけれど、長い目で見た町中の活性など彼らは考えていないというのが、しみじみ感じられてこれもまたばかばかしい。誰のためにやっているんだか・・。



 誰かが言っていたけれど、『アートで町おこし」などということは絵に描いた餅でしかない。考え方がまちがっている。もともと何もないところにアートなど芽生えるはずがない。人が集まってきて何らかの町が出来て、混沌としてきた中に芸術や芸能が芽生えるわけで、活気のない人が集わない場所にいくらイベントを組んでも何も起きない。まぁそういってしまえばみもふたない。



 



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「猫の後ろ姿」より - 2010.03.12(未選択)


インドの町の壁



「猫の後ろ姿」より

http://ameblo.jp/e-no4765/entry-10478102091.html



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原寸画像検索 - 2010.03.11(ポケットの窓から)






 

 原寸画像検索

http://gensun-images.com/

 

 原寸画像検索「榎並和春」で検索してみた。

http://gensun-images.com/n/%e6%a6%8e%e4%b8%a6%e5%92%8c%e6%98%a5



「あそびべのはる」で検索

http://gensun-images.com/n/%E3%81%82%E3%81%9D%E3%81%B3%E3%81%B9%E3%81%AE%E3%81%AF%E3%82%8B



 私の作品ではないものも含まれています。すみませんね。



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(no subject) - 2010.03.10(ポケットの窓から)



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寒い。 - 2010.03.09(ポケットの窓から)






 

はる 3182

 春の雪です。



 時々これはHPですか?ときかれる。CMがほとんど入っていないシンプルな形をしているので間違われる方がおおいのかもしれない。下の方をよく見ると小さくきづかない程度のCMが入っている。だから借りているブログだとわかる。前に借りていたブログはかなり大手のアメブロで最初はよかったのだけれど、だんだんに強制的にCMが入ってきて閉口した。まぁ無料で借りているから文句はいえないのだけれどね。



 こういったブログも随分と進化してきて、もうほとんど昔のHPと変わらないし、シャメの機能とかyou tubeの貼り付けなど、いろいろな遊びの機能を考えると、ある意味HPをはるかに超えたようにも思うな。容量も無限になった。これはすごいことだ。



 独自のHPのよさを一言だけ言うならば、借り物でない自分で作った一国一城の主だということかな。これは自己満足かもしれないが、大きいものだ。ひな形があってそれを選ぶ形でつくるブログは便利ではあるけれど、既製品という感じは免れない。どこまでいっても与えられた範囲のなかでこしらえたものという不自由がある。でもまぁこれがネットが普及する大きな力になっているのだから否定するわけではないのだけれどね。



 もう一つは借りているシステムの場合、どこかで止めてしまうかもしれないという不安がある。明日から止めますと言われたら、過去のログが消えてしまう。まぁ記事など消えてもいいけれど、作品をアップしている場合記録を取っておかないと消えてしまう可能性がある。これは日記も同じだと思うな。過去の記録はバックアップしておいた方がいいように思う。



 ご存知のように私のHPのトップは

 http://www2.journey-k.com/~enami

 です。よろしくお願いします。



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つれづれに - 2010.03.08(ポケットの窓から)






 

 宇宙の話つれづれに

 宇宙がどんどん膨らんでいる風船のようなもので今も変わらずに膨張しているならば、当然その外はどうなっているのだという発想になる。けれど二次元の人間が考えた空間と三次元の人間がみる空間とはおのずから違いがあって、二次元の人間にはどうやっても二次元的発想しか出来ない。同じように、今ある宇宙を風船のように考えてその後ろを考えてるのは三次元的な発想でしかない。



 空間が曲がっていて、それは閉じられているわけだから宇宙の果て、境界というものはない、あたりまえだけど。三次元的発想で行くならいずれは果てがなければならないわけだけれどね。これって古代の地球の考え方と同じだね。世界の果てがどこかにあるはずだと、航海に出る。やがて元の港に戻ってくるわけだ。それでこの世界は丸いんだと立証されたわけだ。



 前に書いたけれど宇宙は今でも膨張しているように見えるらしい。ということは考えてみると、我々から一番遠く見える星はほぼ光速に近いスピードで遠ざかっているわけだ。それより遠い星から出た光は永久に地球にはとどかない。



 ・・・・・眠たくなってきたのでやめます。



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永遠とか無限とか - 2010.03.07(ポケットの窓から)






 

  何もない比較的に静かな日曜日でした。チェロの練習もやりだすと結構面白くて指が痛くなってくるまでやるのですが、そこに至るまでがなかなかですね。何だかんだ理由をつっけてサボってしまいます。だから一向にうまくはなりません。絵を描くことにも似ています。いやいやでもやって行かねば前には進まないのです。



 何も書くことがない時はまた宇宙の話でも書きましょうか。つれづれに・・

昔、手塚治虫が「不思議な少年」で四次元の空間の話を描いていた。すごく上手い説明でそのことがずっと頭に残っていて、今でも多分そこから抜けきってはいないだろうな。どんなことが描かれていたか、思い出しながら書いてみる。



 漫画のような二次元に住んでいる人間が居たとする。彼には三次元空間というのは想像はできるけれど、実際にみることはできな。だから例えば丸めてボールのようになったとしても本人としては平面上を動いている感覚でしかない。彼にとっては、平面世界というのはどこまでいってもまっすぐで永遠に続いているように見えるわけだ。彼が世界の果てを目指して旅に出たとする、ところがこれがボールのように曲がっていたら不思議なことにやがて彼は自分のもとあった場所に戻ってくるというわけだ。我々三次元の人間からみれば当たり前のことだな。



 空間がゆがんでいると言い出したのは例のアインシュタインだ。でも当時はだれもそんなことは理解できなかった。しかし、後にその事実が確かめられた。そのことはまたどこかに書かれてあるので省略する。



 上と同じように、多分われわれの住んでいる三次元の宇宙は閉じられた世界なんだと思う。だからたとえば光速の乗り物にでものって移動すればやがてはもとの場所に戻ってくるのだと思う。永遠、無限とは次元が変わればなんでもないことだ。



 



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写真展示のお知らせ - 2010.03.06(ポケットの窓から)






 

 銀座・松屋の個展で展示した写真(popというらしい)が甲府の写真屋さんの小さなギャラリーで見ることができます。多分もう他の個展では展示することはないでしょう。大きな会場でなければ出来ないような遊びの展示企画で、壁一面を自由に使っていいということだったので友人のデザイナーに頼んで一年かけて生活の一部を撮ってもらいました。新聞とか雑誌の記事のようなコンセプトで、読んでも楽しめるようになっています。三月いっぱい展示しているそうです。時間があれば覗いてみてください。



 甲府駅南口から5分ほど西

 カメラの栄光堂です。

http://eikodo.typepad.jp/blog/




 地図

http://www.e-shops.jp/local/lsh/an/19/9605809.html



はる 3179

 少し前にかみさんの同級生が地元に里帰りしてきて、その娘さんが一人街中を散策したそうだ。日ごろ街中の荒廃を寂しく思っている我々は、さぞかしがっかりしただろうなと想像するんだけれど、彼女たちの目からみたら、けっこう新鮮に映ったらしい。「レトロな昭和の町」として面白いと感じるらしいよ。



 「へっ・・」意外だったな。まぁ言い換えれば新しく蘇ろうとする活気もない凍り付いてしまった町ということだけれど、まぁそれが案外違った目で見れば新鮮なのかもしれないな。まぁそこに住んでいる我々にとっては、喜んでばかりいるわけにはいかないのだけれど、何もかも壊して新しく作ってしまうことだけが、正しいとは思わないな。



 案外田舎町の良さに気づいていないのはそこに住んでいる我々自身かもしれない。少し新鮮な驚きでした。



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イタリアの真ん中で暮らす - 2010.03.05(ポケットの窓から)






 

 そうそう、今朝はイタリアにいた時にお世話になったタカシさんから電話があって、今ナルニ市の市庁舎に展示されている昔のカズハルの絵をブログにアップしてあるので見てくれということだった。あぁとても懐かしい絵だな。

「イタリアの真ん中で暮らすウンブロクンのブログ」ここです。

ホームページは「イタリアの真ん中で暮らす」



********************

勝手引用「デッサンと模写の違い」

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp

/qa/question_detail/q1125175971


***

・・略・・

デッサン……眼の訓練。手の訓練よりもはるかに「眼の訓練」です

世界の中にあるものを、どう見るか。

はじめは、ただ漠然としか見えない。

でも、そのものを紙に写そうとしてがんばっているうちに、実にさまざまなもの、ありとあらゆるものが見えてくるようになります。

光と影。かたち。マッス。対象のムーヴメント。そこに漂う「気配」のようなもの。そして、対象の「物語」まで……。

「良いデッサン」をじっくりみると、画家が、そこになにを見ていたか、なにを見ようとしていたか……そして、その画家が、どのような「眼」を育てていったのか……そういうものがあらわれてきます。

画家は、本絵では、多少とも「つくる」傾向があるが、デッサンは、その画家の持つ「眼」に最も正直です。

デッサンは、「眼」の訓練として欠かせないものと考えます。



模写……手の訓練。眼の訓練を生かして絵を「つくる」手の訓練です。

画家にとって、本絵は、世界と対峙する真剣勝負の世界。

なので、画家は、自分のこれまでつちかったすべてを総動員して本絵を「つくり」ます。

その画家のつくった「本絵」を模写することは、その画家の本絵をつくるための「手のスキル」を自分に移す行為です。

模写をすることで、その画家がその絵をつくっていった「構造」があきらかに感得されてくる。

なので、模写の基本は、同一支持体、同一画材、同一寸法……そして、もう一つ、これは理想ですが同一光源、ということになると思います。

ちなみに、本絵の模写をする人は多いが、デッサンの模写というのはあまりききませんね

模写が、「手の訓練」であることをあらわしているのだと思います



・・略・・



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宇宙 - 2010.03.04(ポケットの窓から)






 

はる 3177

 ユーチューブでNHKの「宇宙」をみる。まぁそれにしても便利なものだ。見逃したと思ったテレビ番組をこうやってみることが出来るのは嬉しい。前のpcではダウンロードに時間がかかりすぎて細切れにしかみれなかったものが、xpになってほぼ滞りなくみることができる。



 目新しいことはなかったのだけれど、ビッグバンは今では小学生でも知っていることだわな。そのきっかけは宇宙の大きさを調べていたら、一番遠い星がどんどん遠ざかっているように見えた。そう、だから今より前はもっと近くにあったわけで、それを気が遠くなるほど繰り返せば、やがては今のすべての要素を含んだ点に還元されるのだろうと考えられるわけだ。そこまではいい。



 何もないところに、点があるとき突然ぱっと出現して、一秒の何万分の一の時間に、光で何万年もかかる大きさまで膨らんだ、大爆発を起こしたというだな。これはもう物理的な大きさや、時間の感覚では計り知れない、そんなもん想像できんだろう。・・んじゃ、その前はどうなってたの?という疑問が残る。



 で、実はこの宇宙の前には親宇宙が存在していて、その前にはまだその生みの親宇宙があるというのだな。これって植物の枝分かれ、細胞分裂みたいなもので、まさにフラクタルの理論そのままだな。



 それから、冗談みたいな話だけれど我々の体は宇宙の星のかけらで出来ていているという事実。というのは我々を形作っているさまざまな元素は地球だけでは作ることができなくて、遠い星が成長の過程で最後に大爆発した結果宇宙に撒き散らした塵が集まって出来たということ。



 こういった宇宙を見ていると長い時間をかけて成長する生命のようなものを強くかんじるなぁ。我々も元は同じように、宇宙に漂う塵だった。やがて何かのきっかけで地球の引力に引かれて星屑となって地上に降り注いだ。空中の大気になったものもあれば、地中深く岩石になってしまったものもあるだろう。



 地上に出てきた元素はやがて結びついてDNAの一部になって生物の体になる奴もいでてくる。生命が次の生命を生んで新しい命になってゆく。そしてやがてはまたもとの宇宙の塵にもどってゆくというわけだ。



 だから、こう思うんだな。人の一生も宇宙の一生も実は同じような理で出来ているんだな。いや、実は我々の方が宇宙の創生を真似しているのだと思う。でなければこんなに上手に何もかも回って行くはずがない。誰かが考えてやったのならまだ探りようがあるけれど、これは全くの偶然に見えるけれど、その実上手に計られた物語のように思えるな。



 



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理解できないもの - 2010.03.03(ポケットの窓から)






 

 今までに経験してきたことで良いと思って来たものはもう既成の事実としてインプットされているわけだ。例えばゴッホの絵だとかロートレックなどの印象派の作家の絵などはいち早くこれに取り込まれてしまう。日本人にとってほとんど何の下地がなくても理解できる絵だからな。浮世絵が影響を与えたということもあるけれど、特に西欧の絵画はキリスト教の理解がないとなかなか普通には理解しにくいものが多いのだけれど、印象派以降の絵はほとんどそれを表面的には感じない。



後期印象派のセザンヌから始まって、 ピカソ、マチス、クレーその後アメリカに渡ったモンドリアンとかアメリカの抽象表現主義、作品が巨大化して自動筆記のポロックやゴーキー、少し前になって落書きアートのバスキアやキースヘディング、ぐらいまでなら何とか理解できる。



 その後の現代美術というカテゴリーになるとまるっきり分からなくなる。



 私が今理解できないけれど、やがては見えてくるだろう優れたものというのは何なんだろう。観てみたい。



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