あそびべのHARU・ここだけの日々
画家・榎並和春

戦略2 - 2010.02.28(ポケットの窓から)






 
「Iさんへの返事」

そうですね。19歳の女の子にどれだけのことを期待するかわかりませんが、確かにキムヨナさんには「表現する何か」がありました。戦略かもしれませんが、それをしっかり意識するかどうか、自分ものとして理解できるかどうか、それが表現者としてとても大切なことと思います。



 年齢を加えることことで分かってくることも多いのですが、舞踏など違って旬のある、若くしなやかでなければできないスポーツは難しいですね。もって生まれた才能、境遇みたいなものが大きく左右するのかもしれません。



 いずれにしろ、もっと意地悪く、悪賢くならなければ勝てないでしょうね。



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戦略 - 2010.02.27(ポケットの窓から)






 

山梨日々新聞 平成22年2/27 文化欄

 (田中喜博)



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真剣な遊び - 2010.02.26(ポケットの窓から)






 

かなり暖かくなってきたぞ。今年から来年にかけての個展が大体決まった。今のところデパートを含めて年間4箇所で個展を開催している。これからどう展開してゆくのか、どうなって行きたいのだろうか、考えてその通りになってゆくことは少ないのだけれどね。



 定職を持っていればそろそろリタイヤで、年金もらって夫婦二人の老後の生活を考えて行けばいいのだけれどね。今のところそんなに優雅に暮らせる計画はない。末はやっぱり河原こじきの原点で野垂れ死にかな・・。



 私は「絵描き」になりたい訳ではない。最近はそんなふうに思うな。たまたま今は絵を多少なりとも生活の糧にしているので、それらしくみえるけれど、世間でよく言う「絵描き」ではない。だいたい絵を描いている時間はそれほど多くない。ほとんどボーッと何事か考えたり、本読んだり、そんなふう毎日が過ぎてゆく。これが絵描きなのかな・・。



 基本的なスタンスは「遊び」かな。「飲む、打つ、買う」の遊びではなくてね。生きてゆくことは遊びの延長、かっこよく言えば。まじめな人に怒られるかもしれないけれど、「真剣に人生を遊びたい」と思っているんだな。お金はないけれど、使えるのは自分の持ち時間しかないけれどね。死ぬまで遊び続けられれば本望だ。絵を描くことはそんななかの一つじゃないかな。どうだろう。



 最近若い人と付き合って、この人たちと真剣に遊べたらそれはそれで面白いのじゃないかと思っている。遊びは面白いからあそびであって、面白くなくなればやめる。また面白いことを考える。絵だけ描いていたのじゃすぐに行き詰まってしまうのじゃないかな。



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今日はもろもろ忙しかった。 - 2010.02.25(ポケットの窓から)






 

はる 3170



「セザンヌ物語」をやっと読み終えた。かなり分厚い文庫本だったけれど、まぁ行きつ戻りつしながら読んだので随分とかかった。



 話は寄り道する。途中簡単な剣豪小説「居眠り磐音」もはさみながらだった。剣豪小説は全く予定調和の水戸黄門みたいなもので、娯楽としてこれほど適しているものはない。私は大体いつも一冊ふところに忍ばして時間つぶしに読んでいる。池波正太郎の「鬼平シリーズ」「剣客商売」完全読破。今は少々飽きてこの「居眠り磐音」の作家佐伯泰英の作品を読み漁っている。この人も多作だな。 



 今日はもろもろ忙しかった。

 



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「セザンヌ6」 - 2010.02.24(ポケットの窓から)






 

はる 3169

 「セザンヌ6」 吉田秀和「セザンヌ物語」より

 この多視点というのと「部分が全体」というのとどう結びつくかということだな。まぁここからは全く嘘八百になるのであしからず。



 多視点で描くというのはどういうことなんだろう。反対に考えれば、普通は一つの視点で描いている。一つの場所で、ある一定の時をストップモーションをかけて止まっているようなものか。まぁちょうどカメラやビデオのストップをかけたようなものか。



 けれど、普通生きている限り時間が止まったような瞬間を見ることはないわけで、必ず時間は動いているし、微妙に場所も動いている。



 以前、アメリカの現代作家のホイックニーが京都を旅して、竜安寺の石庭をランダムに写真に撮影してそれをまたコラージュして作品にしている様子が何かで」紹介されていたけれど、人の記憶というのは案外こういったもののような気がする。



 人が生きて活動している様子を記憶に残った特徴的なものだけを拾っていくと多分大変奇妙で面白いものになるだろう。とにかくそれの中心に存在するのは自分で、それから自分にとって大事なものが大きく描かれる。取るに足りないものは小さく描かれてやがては消えてゆく運命にある。まぁ完全に消えるのではなく潜在意識の中に入ってゆくということかな。で、何かのときにふと浮かんできたりする。・・・



 セザンヌの話とは少しずれてしまったな。元に戻そう。



 そうやって考えてみると、彼はとにかく一つの画面に多くのことを描きたかった。多くの情報をそのものがそこに存在するということを、そのすべてを描いておきたかったのだ。ストップモーションのようにある時、ある場所からの一つの方向からの情報ではなく、そこに私が居ました、立って周りをぐるりと歩いて得た情報も描きたかった。その結果出来上がったものは閉じられた一つの宇宙のように思える。



 多視点を今便宜上無限大に増やしてみる。ありとあらゆる方向と過去から今までの時間を加えてみるとそれは閉じられた一つの宇宙を作ったことにならないかな。



 以前にフラクタルの理論というのを聞きかじったことがある。これもどこかで書いたことだけれど、簡単に言えばロシアの入れ子の人形みたいなもので、親亀の中に小亀が入っての中にまた孫亀が入るにたいなものか。どこまで行っても最初の形を維持している。



 例えば宇宙のある一部分をサンプリングで取ったとする。まぁ凄く特殊な場所もあるのだろうけれど、可能な限り大きく取ればそれも含めたサンプルが取れるわけだ。その宇宙のサンプルの組成は結局全宇宙の様子を暗示しているわけだ。だから極端に話を進めると、我々の脳内や遺伝子情報を知ることは宇宙の組成や成り立ちをしることでもあるわけだ。



 セザンヌの言っていた「小さな感覚」と言うのはこの宇宙観のようなものではなかったか。そのことがセザンヌのいう「部分が全体」という意味ではないのかな。

 



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「セザンヌ5」 - 2010.02.23(ポケットの窓から)






 

はる 3168

「セザンヌ5」・・・吉田秀和「セザンヌ物語」より

 多視点というけれど、元々我々は物を見るときに複数の視点で見ている。というのは三次元にあるものを見る場合、左右の目がそれぞれ違うものを見ているからで、それを一つの画像にしているのは頭の中にある頭脳であって、まぁそのことがことさら珍しいことではない。バーチャルであるというなら元々我々は仮想・幻想を見ていることになる。今盛んに作られている3Dの映像はそれを利用したものだな。



 それをもう少しアレンジして片目は正面からもう一方は斜め上からとしてもまんざら大きな違いはないのではないか。もっと進めて時間も空間も複数にしたとしても誰からも文句はないだろう。セザンヌのやったことはそんなことか。



 マネもそうだけれど、ゴッホやロートレックやドガなど印象派のそうそうたるメンバーが明らかに日本の浮世絵版画から影響を受けていて、その事実はそれを模写している作品があったりするので、我々は何となくしてやったりといういい心持になる。



 彼らが大いに影響を受けたのは特にその大胆な構図、省略、フラットに塗られた色面などがすぐに分かるのだが、実は分かりにくいけれど、もっとも重大な影響を受けたのはセザンヌかもしれない。



 西欧の描画の中でこの多視点を論じられるから、すごく新鮮に見えるのだけれど、我々東洋人にとってはそれほど珍しい表現方法ではない。掛け軸や屏風や絵巻物などは時間とともに進むように描かれたり場所が変わるのは当たり前だし、同一画面に春から夏、秋、冬と季節が移り変わるのは極普通の表現方法だ。



 この斜め上から俯瞰してながめたり、真横からながめらり、モチーフを中心にぐるりと回ってみたり、前後を無視して気にいったものを大きく描いたり、そういった遠近法は東洋の絵巻物やあたりから学んだのではないだろうか。



 それからセザンヌの晩年の水彩画などは東洋の水墨画などと空間の表し方など、感覚的にも凄く共通するところがある。有名な「セザンヌの塗り残し」だけれど、水墨画などはそういった余白が大事な空間表現なのだからね。



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「セザンヌ4」 - 2010.02.22(ポケットの窓から)






 

はる 3167

 「セザンヌ4」

 セザンヌとゴーギャンは一時期お互いに並んで絵を描いていた時期があったようだ。で、ゴーギャンはセザンヌのことを大変尊敬していて自分の絵の中にセザンヌの絵を描き込んでいるものがある。



 ところが、セザンヌはかれのことをこういってののしった。「私にはたった一つの小さな感覚しかなかったが、それをあいつは盗みやがった!」



 芸事というのはいつの時代も盗んだり盗まれたりしながら大きくなってゆくものだ。だからゴーギャンがまるっきり悪者というわけではないとは思う。そのことよりも私はセザンヌのいう「小さい感覚」というのが何だったのか、そのことが大いに気になる。



 いまでこそ、セザンヌは現代絵画の父として敬われているのだけれど、当時そのことが分かっている人は彼の周りのホンの一握りの人間でしかなかった。無論当の本人はわかってはいたのだろうけれど、そのことにはまるっきり自信がなかったようだ。



 ここからはまるっきり私の空想なので間違っているかもしれない。あしからず。



 選挙の当確予想などもそうだけれど、ある程度の集団の傾向とか性格とかなどは全部を調べなくても分かるらしい。それが大きな集団になればなるほど、その確からしさの判断は正しくなるらしい。



 で、まぁこの世界というのもある程度は分かっていて、これが起きれば多分これもあるだろうなどと予測ができる。コンピュータの世界になってその情報が大きくなればなるほど正確な判断が出来るようになる。



 どんな部分を取ってみても、必ずこの世界の縮図がそこにはあって、それをどう解釈するかは人によって色々なんだろうけれど、多分それが理といえば言えるのじゃないか。



 「人は生きてきたように死んでゆく」というのもそのことを言っているし、「末端にも本性がある」ということもそれをいっている。



 セザンヌがやっていた、やろうとしていたことも「全体が部分で部分が全体」ということで、どの部分も必ず全体の影響を受けているし、部分だけで存在することはないということではないのかな。



 だから、セザンヌは常にいつも全体を描いている。そのことがセザンヌの発見した「小さな感覚」ではなかったか。



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「セザンヌ3」 - 2010.02.21(ポケットの窓から)

























「セザンヌ3」

 ①は正面から見たセザンヌ「キューピッドのある静物」普通に見ていても明らかにおかしいところに気がつく。机の左端のラインが大きく弓うってカーブしているのがわかる。もしこんな机が実際にあったならとんでもない不良品ということにあるだろう。



 今回吉田秀和の「セザンヌ物語」を読んでいてちょっと気がついたのだが、例えばこの絵を②のように左端から斜めに見ると手前の机のラインは正しいことに気がつく。で引き続きき見る方向を③から④と次第に右端から斜めにみるようにしてみると、机のラインはそれぞれに正しい位置にあることがわかる。



 ということは、セザンヌは描くときにこのキューピッドど中心にしてぐるりと一周して描いたということだ。一つの絵の中に複数の視点を持ち込んだ。ある意味で平面に時空を持ち込んだということができるな。セザンヌという作家がどうしてこれほどまでに気になる作家なのか、最近になってやっと気がついたところだ。



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一人一人の祈りのかたち - 2010.02.20(ポケットの窓から)
 





 

はる 3165

「セザンヌ2」

吉田秀和「セザンヌ物語」よりp322



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傾いた人物 - 2010.02.19(ポケットの窓から)






 

はる 3164

「セザンヌ1」

 昨日はブログのサーバーがメンテナンスで今朝まで接続できなかったようです。何かしらの表示があると戸惑わないのですが、待っていてもつながらないとイライラしますね。すんません。 



 セザンヌの風景や人物を見ていると明らかに傾いている場合が多い。どう見ても実際はこうは見えない。セザンヌという人物はどんな人間だったのか、その作品から推し量るしかないのだけれど、勤勉で実直な公務員か石頭の学校の先生を感じる。ほとんど冗談も言わない、そんな面白みにかける人物を想像するのだな。



 そんな人物であるにもかかわらず、実にまじめに実直に斜めに傾いた人物や風景、静物を何点も何点も飽きずに描いている。ちょっとデフォルメしました、洒落です、冗談です、といった軽いものじゃないのだな。何かしら自分の法則というのか真理、理、を見つけてそれにしたがって、やむにやまれずこういった描き方になったということなんだな。



 子供たちが描く絵をみていると、よく電信棒や立ち木が道に対して直角に寝て描かれている場合がある。これは実際に見た風景ではなく、生活の習慣上体験したこと、電信柱は道に対して直角に空に向かって立っているという経験が描き込まれているんだな。普通、科学的な視覚で言うならば、そんなことはありえないのだけれど、あえて遠近法を無視した色んな視点から見た画面を一つに描いたということなんだな。ここのところが画期的に新しいことだった。



 今でこそ多視点はピカソなどの偉大な作家によって極普通に語られ、先駆的な作家として認められてはいるけれど、まだサロンが大きく権威があった頃はほとんど気違い沙汰であったと想像する。



 それではセザンヌが発見した法則、理とは何だったのか?そんなことを書いてみたい。



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デッサンの意味・勝手引用 - 2010.02.18(ポケットの窓から)






 

なぜデッサンするのか?という検索で私のところに入ってきた人がいる。それをつたって反対に検索してみるとなるほどなと思う文章にぶつかった。勝手に引用しておきます。気に入ったらたずねてみてください。

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http://kattak.exblog.jp/5357267/

「Dessin : デッサンをすることの意味って何だ?」より勝手引用



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(no subject) - 2010.02.17(ポケットの窓から)
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368cm - 2010.02.16(ポケットの窓から)













  昨年の作品も一応組み作品のようなもので、②のように展示するつもりであったがそうしなかったは面倒になったからだ。アトリエが狭いということもあるのだけれど、わたしの作品は一つ一つが独立しているような描き方なので、今のアトリエでは最大でもF130号しか描けない。この一つ一つが独立しているというのはとても大切な要素で、一度に全体を仕上げてゆく描き方といってもいいかな。



 絵を描かない人にはなかなか説明するのが難しいのだけれど、では反対の描き方はというと編あみ物やパッチワークのような描き方といえば分かりやすいかな。全体が一つではなくて部分の集まりが全体になっているような絵ということかな。こういった絵の特徴はどんどん増殖ができていくらでも大きな絵が描けるということだ。



 全体を一つのものとして描いて行く描き方の先駆的な作家はセザンヌだ。またそのうちに書いてみよう。



 で①は今年の組作品。元々は一つ一つ独立してういるものだが、こうやって組にしても違和感がないようにまとめたつもりだ。横の長さが368cmある。



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色々あってこそ - 2010.02.15(ポケットの窓から)






 

はる 3160

 東京の個展が楽しいのは異邦人になれるところであろうか。日本でありながら異邦人というのは少しおかしいのだけれど、あの街は私にとってある意味異国のようなものだ。生活の場でもなければ、何か人間関係が発生する場でもない。仕事場といえばそうなのかもしれないが、普通の意味の職場ではない。



 かつて一度もそこに住んだことはないので、地下鉄に乗っても、街を歩いても顔見知りに出会うことはほとんどない。多くの人が行き交うけれど、私のことを知る人は誰もいない。無名のただの路傍の石のようなものだ。そこのところが心持いいのだな。



 日常的にそこに住んでしまえば、少なくとも何かしらの人間関係が出来て色々と面倒なことに巻き込まれてゆくのだが、それはそれ人が生きてゆくためには仕方のないことだけれど、高々一週間そこで遊び暮らしている分には、まぁ旅人のような、風来坊のような、旅芸人のような感覚で楽しい、終わりが近づいてくると一抹の寂しさがある。



 どこまでそうやって暮らして行けるのか、どこまで行けるのか分からないけれど、いつの間にかだけれど、まぁこれが望んでいた暮らしに近いような気もする。こうありたいと強く志を持っていたわけではないのでね。何となくだな。



 先日の話につながるのだけれど、白黒はっきり付けるとか、理路整然としているというのは一見正しいし、カッコよくはあるのだけれど、反面それは他を認めないという排他的なところもあるわけだ。我々は今までそれが正しいと教わって暮らしてきたわけだけれど、自然それが身についてきたわけだけれど、まぁそんなにカッコよく生きられないなぁとは最近思う。もっとルーズだし、いい加減だ。



 欧米型の効率を考えるなら、これはもっとも不出来な、出来損ないの言い訳にすぎないのだけれど、あえて色々あってもいいという多様な混沌の選択でもいいかなと思い始めた。そういった方がより大きいというのか、宇宙の理に近いのじゃないかと思う。



 国母選手がいてもいいのだ。

 



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裸婦クロッキー2/14 - 2010.02.14(裸婦クロッキー)
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美は混沌にあり、蔵だし2 - 2010.02.13(ポケットの窓から)






 

蔵出し

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はる 3051

 「般若心経6」

 「美は混沌にあり」これは新しい概念だな。ここのところ考えていることにぴたりと当てはまる。「美は発見である」というのが私の今までの考えだった。思えばこれはもう十年も変わらない考え方でね。まぁ今も基本的にはその立ち位置は変わらないのだけれど「美は混沌にあり」の方が本質的な気がする。



 「美は発見である」というのはどこから来たのかといえば、よく「絵なんて好き嫌いでいいじゃないか」といわれる。そういわれて、確かにその通りなんだけれど、どうも何かしっくり来ないものがある。子供が好きというのと大人が好きというのではどうも違うのではないかと。本当に「好き嫌いだけ」なのかなとね。



 何でもそうなんだけれど「人は自分の身の丈にあったものしか理解できない」幼稚園生にいくら正しくても高等数学は理解できないだろう。それと同じでいいか悪いかはその人次第、その人のレベル次第というところがあるな。だから、まぁ「これが好き」といえば簡単にいえばその程度の人間だということかな。



 ところがね、ここのところが難しいところなんだが、例えばピカソは子供が見て面白いと思わないか、興味を示さないかと言われればそんなことはないんだな。本物というのは実は子供から大芸術家まで満足させる多くの引き出しを持っているということなんだな。ある程度の教養のある人しか分からない美というのは、まだまだ本物じゃないと言うことじゃないかな。



 ドゴン族のお面とか扉とか鍵とか家そのものも面白い。朝鮮の民芸とか日本の古い猿楽のお面とか、神楽のお面や奉納物なんどもおもしろい、初期の仏像なども面白い。当時の人が特に教養があって美の何たるかを理解していたとか考えていたとは思えない。そういった価値はまぁこちら側の物差しであってね、彼らは「美(うつくしい)」とか「信仰」「道徳」などという概念も無かったように思う。あったのはただ「いい」ということだけだったんだろう。



 この「いい」という概念も様々だ。「美」とかいて(よし)とも読む。「善」も(よし)だし「儀」も(よし)、だし「良」「好」もよしだ。「よし」というのを調べてみるとこれまたなかなか面白いように思うな。



 ある時、ある場所では「よい」であっても時空が異なれば「悪い」になるのであれば、それは普遍性が在るとはいえない。もっと違う概念、普遍的な考え方がないものかと探っていた。



 ところで、また般若心経に戻ってみる、

「「般若心経とは、この世にあるものは、すべて実体のないものだから、生じたということも、滅したということもなく、汚れたものも清浄なものもなく、迷いもなく、老いも死もなく、苦しみもなく、心をおおうものは何一つなく、それゆえ、恐れるものもないので永遠の平安を極めているのです」



 「いい」「わるい」の判断を超えたところに真実があると言っているきがするなぁ。「いいもわるいもない」と言ってしまえばそうなんだけれど、「いい」にこだわって「わるい」を排除すると、いつかまた排除される側になる。



 壊れた物はさらに壊れることはない。死んだものは再び死ぬことはない。なくなった物は二度なくなることはない。正しいものはいつか正しくなくなるかもしれないけれど、元々いいも悪いも無いものは永久にいいも悪いも無いという禅問答だ。



 統一された、これしかない、唯一のというものほど危なっかしいものはない。明日から保身にまわらなければならない。



 「美は混沌にあり」

 



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アジアンカラー - 2010.02.12(ポケットの窓から)






 

↑はとっておきの布地。インド綿のプリント模様。裏地は真っ赤なローズヴァイオレット。どこか昔チベットの仏教寺院を見ていると、まるっきり同じような色の装飾を見た。それからそれから、中国の京劇や韓国の舞の衣装や日本の神社の歌舞、ほとんど同じような配色だな。現代の歌舞伎になるとやや渋い日本人の好みが入ってくるように思うのだけれど、元々のルーツは同じかもしれない。



 西欧の色彩理論というのは極めて論理的で、要するに破調もふくめて、トータルには調和するということを目指しているように思う。現代の我々の感覚もどちらかといえば西欧化してきているんだろうな。だから↑のようなめったやたらな極彩色のようなものは反対にエキゾチックなものを感じてしまう。



 アジアの色彩は混沌だと思うな。ということで少し前の「美は混沌にあり」を転載。





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一日雨 - 2010.02.11(ポケットの窓から)






 

はる 3156

 今日は一日雨。野暮用で一日つぶれる。



 



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有為の奥山 - 2010.02.10(ポケットの窓から)






 

はる 3155

 例えばネット裏から野球を見るとする。最初はネットがじゃまになる、ところが慣れてくるとネットは存在するけれど気にならなくなる、そしてやがてあることさえ忘れてしまう。



 水道の水がぽたぽたと落ちている。気になって眠れない。しかしやがてつかれて音が聞こえなくなると、眠りに落ちたということ。水の音を聞いている限り眠れない。



 竹刀を持ったこともないのだが、例えば剣道の達人というのは剣をやわらかく持っているのではないだろうか、自在にどんな風にでも対応できる構えというものは、力の入ったものではないし、殺気立ったものでもないだろう。そこの具合が極意なんだ。



 ピカソは90年かけてピカソになった。ピカソの絵をみて誰もデッサンがおかしいとは言わない。彼自身正確な形を表現しようとは思ってないからだ。そんなところに絵の目的を置いていない。自由にピカソのように描いた。だからピカソなんだ。



 ここのところが難しい。絵を指導するのに、こういう人が多い。「基礎も何もいらない、自由に描けばいい」というのは簡単なことだ。けれど基礎がない人が一番デッサンにこだわるのだ、見えたとおり正確に描きたいと思う。



 反対に言えば、自由に形や色にこだわらなく描くためにデッサンが必要なんだな。そこの部分を気にしなくなる、ネット裏の野球でいえばネットが見えなくなるまで、水の音が聞こえなくなるまで、竹刀を持っていると意識しなくなるまで、描く必要があるんだな。で、初めて自在に描けるようになるように思う。



 それでもまだ

「有為の奥山、今日越えて、浅き夢見し、酔いもせず」

なんと奥深いものか・・。



 



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祝人 - 2010.02.09(ポケットの窓から)























 


はる 3154

 久しぶりに学校に行く。個展があったり、学校のスキー教室があったりで、なかなか思うように授業が進まない。三学期は毎年こんな感じだな。こちらの都合で休むのは申し訳ないとは思っている。許してくれ。



 昨日のデッサンの話。なるほどなぁと自分で納得した。今までそんな風に考えたことはなかった。人物クロッキーやデッサンは結構好きなんだな。月に一度だけれど、もう随分と長くやっている。それで上手くなったか?といえば、それは昔に比べれば形は取れるようにはなったけれど、まだまだへたくそだ。



 クロッキーを始めたのは、最低限の描写力がほしいと思ったからで、まぁやり始めるとなかなか上手くならないので面白いということもあるな。



 もう一つは本格的なデッサンの修行をしていないというコンプレックスが根底にはあるんだな。私の卒業した学校は教育学部で絵の専門の学校ではない。それゆえにどこかまともな技術教育を受けていないのじゃないか、という気持ちがずっとあった。それがいままで人物クロッキーをやり通して来た根底の動機かもしれないな。



 でね、色々な話を聞くと絵の修行というのは、みんなそれぞれ独学でね、学校で手取り足取りで教えられるものではないらしいということが、薄々分かってきたんだけれどね。今ならそれも納得できるけれど、昔はそうではなかった。



 デッサン力を付けたい、というのがやはり直接の動機なんだと思う。誰も文句の付けようがないデッサン力を付けたいというのが、当初の浅はかな願いだった。やがてクロッキーそのものの面白さにひき込まれて行くのだけれどね。



 で、今は「見ないで描く」ということを本願にしている。頭の中にある形を出来るだけ何も見ないで想像で描くことが面白い。それも実物とそっくり同じである必要などないわけで、何かその様なもので、私の中にある「かたち」が描ければそれでいいと思っている。子供の様な絵が描ければそれが一番だ。



 「形がくるっている」「デッサンが違う」という無言の圧力(結局、それここれも自分の中にある声だ)から自由になるためにデッサンをするのだと思うようになった。



 



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デッサンする意味 - 2010.02.08(ポケットの窓から)






 

はる 3153

 昨日の天声人語から

「・・どんな死も悲しいけれど、若い母親のそれは切ない。お母さんは風になり木になって、わが子の声援を送り続ける。他の母親より少し短い、真珠のような思い出を抱きしめながら。

 乳がんに侵された先の女性は、幼子にも走り書きを残していた。(男の子はやさしくなければいけません。まわりの人の言うことをよくきいて。いっぱいおでかけにつれていってもらうんだよ。本もいっぱいよんで、音楽もいっぱいきいて・・・)つらなる「いっぱい」に母性の叫びを聴く」・・



 自然に泣けてきた。こういった話には弱いな。



「嚢中の錐」(のうちゅうのきり)の話。ある本を読んでいたらこの話が出てきた。嚢というのはまぁカバンのようなものか、で持っているカバンに錐を隠し持っていると自然に外に現れてくるという意味だそうだ。いい意味で隠し持っている人格や品格が外ににじみ出ているというのであれば、それはすばらしいことなんだけれど、反対に腹に一物を持っていると自然人柄にも出てくる。そんなことか。なかなかこれはいい得て妙だ。馬鹿は隠しおおせるものでない。何か悪巧みは自然にばれる。自らの身辺、心持をいつも清廉潔白にしておけということか。まぁそれも難しい。



 これもどこかのブログより。山に登って悟りを開くために修行しているうちは仙人だ。山から下りてしまえばただの俗人だな。多くの教祖といわれている人間はほとんどが途中で「山から降りた人」何らかの理由で修行を止めた人ということだな。



 芸術家など山に登りもしない。山の周りでその雰囲気を楽しんでいるだけの俗人だな。人畜無害で人様に迷惑をかけなきゃ、まぁそれはそれでいいかなとも思う。



 もう一つ、これは今日あっと気づいたこと。私が人物デッサンを続けているのは人物をより正確に間違いなく描くためではない。ここのところはすごく難しいところなんだけれど「デッサンに囚われない」ためにデッサンをしている。



 普通デッサンの勉強は物の形と陰影を学ぶためにする。ごく当たり前に時間をかければそれなりに上手くなる。もちろん程度の差はあるのだけれどね。



 私はものの描写に囚われないためにデッサンする。

 



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個展写真2 - 2010.02.08(写真)
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個展写真1 - 2010.02.08(写真)




個展写真1



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(no subject) - 2010.02.07(ポケットの窓から)
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水彩画 - 2010.02.06(ポケットの窓から)






 

はる 3151

 油彩画を習いたいという人が来た。私なんかもそうだったけれど、ごく自然に絵を習うことは油彩画を習うということだった。無論日本画をやりたいという人や水墨画や水彩画もいることはいるのだが、油彩画には何かしら特別な響きがある。



 最初に買った画集がゴッホであったということはどこかに書いた。とにかくゴッホのような絵の具をチューブから直接出したような、ゴテゴテした肌合いの絵が油絵だというイメージがある。何かしらそこには水彩にはない物としての存在感があって、西欧を身近に感じられる、そんな気がしたのだな。



 紙と鉛筆と水彩絵の具で描くことが出来る水絵はどこか安易で、絵の具などどこまでも水で薄めて描くことができるし、そんなことが安っぽいというイメージがあった。



 とにかく高級な舶来の絵の具をたっぷり使った「油絵」がいい悪いは別にして高級な絵、高価な絵、と思っていたふしがある。



 本当はまったく逆なんだけれどね。まぁやりたいという人を「やめた方がいい」とは言えない。日本人には水彩の方が体質にあっているようにおもうのだな。



 



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日々新聞 - 2010.02.05(ポケットの窓から)






 

はる 3150

 午後から倉庫の片付けとアトリエの荷物を何とか仕事ができるように整理する。個展期間中は家を留守にするので雑他なことから開放されるが、その代わりに終わってからどどっと雑事が押し寄せてくる。



 絵描きは絵を描いているだけでいいというのであれば、こういった雑用から開放もされ、さぞかし仕事もはかどるだろうと想像するのだけれど、絵だけ描くという職人仕事のような毎日はそれはそれで大変かもしれない。私はいずれにしろこうやってだらだらと生きてゆくしかない。



 半端なプロならアマチュアの方が潔くて、あとくされがなく、綺麗にすまして生きられるからその方がよい。多くの自称作家は本来の意味のプロではない。



 



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山梨美術協会会員展 - 2010.02.04(ポケットの窓から)






 

はる 3149

 若い頃は個展の荷物も自分で車を運転して運んだ。もともと車の運転は好きではなかったので、10年ぐらい前から赤帽さんに頼んでいる。今回も作品だけではなく雑多なものを展示したので、すべてまとめてお願いした。



 昨日、体だけは帰宅したけれど、赤帽さんも他の仕事があって荷物はまだ着いていなかった。午前中に美術館に100号の絵をおろして、他の絵を倉庫までおろしに行く。100号の絵は今日から始まる「山梨美術協会会員展」に出品するため。期せずして会員賞をいただきました。受賞もこれで打ち止めでしょう。ありがとうございました。来週の水曜(2/10)まで県立美術館に展示されます、是非ご覧ください。



山梨美術協会会員展

 2010 2/4~2/10

山梨県立美術館



 今回の個展の雑感。

 展覧会の企画の話があった。よく分からないのだけれど、絵を展示するだけでは展示にはなるけれど展覧会にはならない。その展覧会がどんなコンセプトでやられるのか、見せるだけの展示なのか、売るための展示なのか、ただのイベントとしての展示なのか。いままでも色々な話があったけれど、どうもやりたいと思える企画は少ない。



 絵だけでは分からなかったことが、今回展示した写真や文章でよく分かったという人も多かったが、絵描きは絵だけで勝負すべきだという内心の声も無視できない。まぁおおむね好評ではあった。



 絵がだんだんにまとまってきたという感想があった。よくもわるくも、まとまってきたことは事実のように思う。これからどこに向かうのか、考えてみる必要もあるだろう。



 

 



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無事帰宅 - 2010.02.03(ポケットの窓から)


















 

 個展も無事に終了。昨日はそのまま東京に泊まって、午前中は上野の国立博物館に出かける。上の写真は上野公園の様子。



 東京博物館では「土偶展」をやっていた。久しぶりに観た感動的な展覧会であった。



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個展楽日 - 2010.02.02(ポケットの窓から)






 

 個展無事終了しました。ありがとうございました。



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(no subject) - 2010.02.02(ポケットの窓から)
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画家・榎並和春です。HPはあそびべのHARU・ここだけの美術館

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