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あそびべのHARU・ここだけの日々
画家・榎並和春

人生の勝ち組み - 2009.09.30(ポケットの窓から)






 

はる 3024

 確かに豊かに暮らすというのは難しい。勿論お金もなくてはならないだろうけれど、お金が全てではない。多分いつの時代も不満はあったし、戦後の食うや食わずの時代にも幸せはあったように思う。全ては相対的なものだと言ってしまえば話は進まなくなってしまう。



 一時勝ち組み、負け組みなどという話が大手を振って話題になった。いまでもそうなのかな?学校生活を考えてもまぁ上の25%はとにかくエリート意識を持っていて、やがてはいい学校いい就職いい会社いい結婚いい生活いい葬式?と順調にいい人生を送ってゆく。と考えられているらしい。そうすると後の75%の人間は良くない人生なのかね?



 公立の学校の教師をしていた時によく感じたことがある。運動会はまだしも行進の練習とか全員で体操などやっているとこれは何の訓練なのか?国からお金を貰っているのだから仕方ないのかなぁ、まぁある程度成績のいい奴はいいけど、その他大勢組みはどう生きろと言えばいいのか、一生上の奴らのご機嫌伺ってお上には逆らいませんみたいな生き方をしろというのかなと漠然と思ったね。



 はっきり言って学校の勉強という能力には適正があるよな。出来る奴は勉強などやらなくても点は取れる。反対にどんなに頑張っても限度というものがある。それを「負け」と言ってしまうとどうやっても浮かばれない。



 まず大人たちが、そういった価値観で生きているから、どうやっても「勝だ負ける」にこだわってしまう。結局ライブドアのホリエモンじゃないけれど「お金を稼いだものが一番だ」といった発想になる。「速い、安い、上手い」といううたい文句があるけれど、なんだろうな、とにかく効率、便利、手軽という一元的な価値で世の中が進んでしまうことが、色んな弊害の元だ。



 時代が進んで価値が凄く多様化しているように見えるけれど、実のところはこの効率という価値にどんどん一元化されてきているように思うなぁ。いまここではっきり違うと意識しなきゃいけないのじゃないか。



 成績がよく何でも手早くすます能力だけが幸せをつかむレシピだと考えるのではなく、色んな人生の選択があってそれでも充分生きがいを感じて生きてゆけるんだということを、身をもって教えて行くべきだ。



 具体的には言えば「お金などなくても楽しく生きられるレシピ」を教えることだ。そんな人はたくさんいると思う。そういう人を「人生の勝ち組み」というのだ。



 



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恐竜の尻尾 - 2009.09.29(ポケットの窓から)






 

はる 3023

 今日はとても驚いたことがあった。まぁ大したことではないのだけれどね。



 私は自分の画集をネットで販売しているにもかかわらず、いままでネットで買い物したことがなかった。まぁそれに近いような例えばホテルの予約みたいなことは必要に迫られて活用はしていたのだけれど、実際に現物を見ないで買い物をするということに若干の違和感があるんだな。随分と古風な考え方だと言われればその通りなんだけれど、多分これからもそれはあまり変わらないように思う。



 ところで驚いたことと言うのは、チェロの教則本なんだけれど、これは県内の楽器屋さんにもあることはあるのだけれど、欲しいと思う本は洋書だったりすると、もうこれは注文するしかない。実は前に注文したら随分と時間がかかった。それはそうだろう、そんなに需要がある本でもないし、倉庫に置いておいても右から左に売れてゆくものでもない。場所ふさぎだし、ひょっとすると最後まで売れないかもしれない、そんな本を置いておくより、もっとポピュラーな売れ線の本を置きたいわな。私が店主でもそう思う。



 ところが、昨日ネットで検索してそういった洋書の楽譜を扱う専門店を見つけた。地方のそれもほとんど誰も知らないようなお店で、たぶんお店の形態もしていないのではないだろうか。いや見つけたというより、その本のタイトルと検索したら一発でそこに飛んだ。で、在庫数5で即日発送しますということだ。午前中にがたがたとして必要事項を書き込んで注文したら、午後には発送しましたというメールがきて、何と今日朝の10時には手にすることができた。何と、24時間以内にマイナーなほとんど店頭にはない本を手にすることが出来た。



 実感として世の中というのか、販売の形態というのが変わりつつあるのがよく分かった。少し前の「ウエブ革命」?かな、その本にそんなことが書かれていたなぁと思い出した。確かにこういった今まで埋もれていた古書とか廃盤のレコードどか、マニアックな品物とか骨董とかは、なかなか世の中に晒されることがなかった。私物化されるともうほとんど死蔵・デッドになって世の中から存在が消えてしまう。



 パソコンというのかネットというのこういったバーチャルなせかいではこういったことが一番得意である。で、よく考えるとこれはじつはニ三日前の写真からデッサンを起こす方法と同じことなんだな。



 少し繰り返しになるけれど書く。現実の世界は三次元であるから、二つの目で見た像を個人の頭の中で一つの画像として統合している。立体を絵にした時の何ともいえないあの分厚い立体感はそんなところから来ている。要する三次元の像には正面や側面がある。奥行きがある。描き手はそれをかき分けなければならないわけだ。



 ところが写真の画像には奥行きがない。当たり前だけれど、奥行きがありそうに描かれていてもそれをかき分けてはいない。実は全てが同じ光の点、同じ絵の具の点になっているからだな。



 パソコンにとっては大ベストテラーも100年に一冊しか売れない本も同じ価値しかない。一冊は一冊、価値のある本もない本も同じ。そこのところが人間の尺度を越えているということだな。



 こういったブログも同じだな、意味のある意見も、まったく意味のないアホな意見も同じ重要度で存在する。味噌くそ状態。今後ますますこういったバーチャル化が進むと考えると、そうだな、どういう方向に進んでいるのかといえば、宇宙の混沌に近いかもな。結局のところ誰も重要ではないし、何も特別なことはない。全ては並列でお互いに影響しあいながら離れていっている。やがてはそれぞれが素粒子になって宇宙に飛び出して行くのかもしれない。



 何のこっちゃ。

 





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(no subject) - 2009.09.28(ポケットの窓から)



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裸婦クロッキー9/27 - 2009.09.28(裸婦クロッキー)



















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(no subject) - 2009.09.27(ポケットの窓から)



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中庭草茫茫 - 2009.09.26(ポケットの窓から)






 

はる 3020

 明日は午前中はクロッキー、午後は野暮用でお江戸に出ます。そんなことで又更新はシャメだけになるかもしれません。何もないとはいえ結構忙しく右往左往しています。ここのところ用事でお江戸に出る機会が多い。疲れやすいのでほとんど他の用事はしない。だからもったいないなぁとは思う。お金はいいけれど、時間は取り戻せないから、尚そう思う。



 徒然に・・

 昨日考えていて、あぁそうだなとあらためて思ったのが、「絵画の平面性」ということだ。当たり前といえばその通りなんだが、ところが西欧絵画の歴史でいえばルネサンスの頃から如何にすれば平面の中に立体的な世界を再現するかというのが大きな命題だった。まだ写真技術というのがなかったので人見たように見えたように描くのはどうすればいいのかを考えた。元はといえば天国とか地獄などを実際に見てきたように描きたいという欲求があったのかもしれないな。でティツィアーノやミケランジェロ、ルーベンス、やカラバチッオでそういった表現のピークをむかえる。



 その後はどんどん絵画の再現性みたいなものは崩れてゆくのだけれど、まぁ教会や王侯貴族が力を失って商人や市民階級がちからを持ってくると、一気に絵画も大衆化してゆく。ちょうど絵の具もチューブ入りみたいなものが開発されて野外でスケッチできるようになったということや、画家そのものが貴族などから自立して自己主張しだした、芸術家という存在が認められてきたと言うことかな。



 印象派の出現は偶然ではない。そういった歴史上の必然から出てきたもので、ちょうど科学技術も発展してカメラや版画、印刷などという大衆的な表現方法も支持されてきた頃でもある。印象派が壊してきたものは多いけれど、大きなものは「絵画は平面にある秩序で置かれた色の点の集合である」ということだろうか。なぜそんな考えが出てきたのかといえば、昨日のモザイクの話が分かりやすい。平面に置かれた点には奥行きも側面も、主役も脇役もない。全てが同等な点でしかない。何故平面かという答えはここにある。この考えの延長上にウォーホールもリキテンシュタイン、今をときめくスパーフラットの村上隆もいる。



 ところで私は何故にクロッキーや人物デッサンにこだわるのかね。日ごろの絵がものを描いていないので反対に出来るだけ物を単純に描きたい。単に趣味みたいなものか。又考えてみたい。



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暇人の一日 - 2009.09.25(ポケットの窓から)






 

はる 3019

 シルバーウィークだそうだが、4日や5日のお休みは毎週のことだが、この休みは試験のお休みも重なって約20日ほどの連休となった。これだけ休むと、またまた学校に行きたくない症候群が始まる。無給休暇なのでだれにはばかることはないのだが、来月の給料はまた限りなく0に近いだろう・・。



 私にとって絵を描くとは、描くことであり、書くことでもあり、思索することでもある。今何を考えているのか、考えなければならないことなのかを書きながら、描きながら考えている。奇妙な話だけれど、実際の話何を書くのか、描くのか決めていないので、描き始めなければ何も出てこない。書き始めて「あぁわたしは今こんなことを考えているのか」と分かるわけだ。その思索の過程がこのブログになったり、作品になったりして残ってゆく。それを読まされる、見せられる読者、観覧者は迷惑な話だ。



 このところ考えていたいたのは、デッサンのことだな。上手くかけるかどうか分からないけれどやってみる。



 我々が物を見ているのは実は二つの眼で違うものを見ている。三次元の空間を把握できるのは実はそういうことがあるからで、昔草原の小動物が獲物をとるテレビをみたことがあるけれど、小さな耳を音のする方に傾けて微妙に首を動かしながら距離を測っていた。二つの眼で見るというのはそういった意味がある。まぁ数学で言う三角測量みたいなものだな。



 ところで、違う像を見ながら実際は頭の中で上手く統合して一つの像として感じている。だからまぁリアルな像ではないバーチャルな幻影を見ているのだということができる。ここで大事なことは物事というものはいつもさまざまな方向から見てゆくものだということだ。そういった習慣が、実は遠回りのようでありながら、物の本質をつかむ又表現する大きな道具となるのだな。



 話は少し変わるが、テレビやパソコンの画面の像というのはご存知のように小さな点の集まりで出来ている。拡大すればはっきりそれはわかる。いままぁ一つの画像(花)を3x3の9つの白黒のモザイクで表現すると、9段階に分かれた白黒のグラデェーションで表される。まぁ何がかかれているのかそれを見ただけではわからないけれど、とにかく一つの画像ができる。形は単純化されているけれど白地図を塗り分けるように諧調を作り出すことができる。これをマッピングという。白地図化とでもいうのかな。



 そのモザイクを段々数多くして諧調も複雑にしてゆけば段々にリアルな画像になってゆく。それはよくあるコンピュータ処理で見かけることだな。100年ほど前の印象派のスラーなどがやろうとした点描というのはまぁ来れに近いようなことだな。



 このやり方の面白いところは遠いところも近いところも、側面も正面も縦も横も、全て同じ価値をもつ一つの点に還元されるところだ。人間の眼ではなく、機械の眼が一番得意とするのはそのところだ。写真とかそれを使った印刷、そこから発展したテレビやパソコンの画像の面白いところでもあるし、妙に奥行きのない、軽い画像であるのはそんなところに理由がある。



 理論的に言って、デッサンもそういった機械のような眼になって全てを無数の点に還元してしまえば、小難しい奥行きの表現、正面や側面や手前や後ろ回りこみなど意識しなくてもいいわけだ。全てが同じ価値をもつ一つの点に還元できればね。



 ところで、アメリカのデッサンの指導書やよくあるハウツーもの「・・の描き方」のようなものには、言い方はそれぞれ違うけれど、大体上のようなことが色々な作画例をもとに書かれている。それがまぁ一般に一番理解しやすいデッサンの方法かもしれない。写真や印刷物から絵を描く場合、もともと奥行きのない平面であるわけだから、この考え方でだいたいいいだろうな。



 現実の世界でも片目をつぶって平面的にものを見た場合、こういった方法で描写することは可能かもしれない。でもまぁ、普通は三次元でみた立体的な空間を、二つの眼で見たバーチャルな幻想を一枚の絵にまとめて描くという離れ業をするわけだ。そこのところが一番ひっかかるとことだと思う。



 普通に何も考えないでやると図形的な遠近は描ける。まぁ遠近法などという画法を一応学習しているので大体の輪郭は訓練さえすればそう難しいものではない。難物は回り込んでいる側面とか奥行き、その面の表現だろう。最初は頭で考えてあぁ側面だ、縦だ横だなどと描こうとする。そうするとぎこちない設計図のような絵になってしまう。



 上手い表現はまだ出来ないのだけれど、ものには輪郭線はないということかな。輪郭線というと面はそこで終わってしまう。実際は面は続いていて向こう側に回っているわけだ。輪郭線があってその中を塗り分けるのが、上で書いた方法で、輪郭線などなく「面で描く」というのが立体を平面に描く方法だ。具体的にはもう少し研究しなければならないが興味があれば又書きましょう。

 

 ところで、上の話は物の描写の話だけれど、私が描いている絵はまったくそんな約束事からはなれている。いやあえて無視している。ものの描写はしない。絵は描かない。上手く描かない。作為的に成らない。出てくるのを待つ。空想で描く。物を見ない。出来るだけ自由に心を遊ばせる。そこから連想するものをかければいいと思っている。



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夕焼け空 - 2009.09.24(ポケットの窓から)






 

 綺麗な空だった。ブログに写真を載せるようになって空を見上げる機会が多くなった。普段何気なく見過ごしたり、心にとどめておくことがなかった光景がこうやって記録に残っていることは悪いことではないだろう。これらの延長上に今の私がいる。



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小国寡民 - 2009.09.23(ポケットの窓から)






 

 

 便利が全てという価値基準で考えてゆけば、各個人の専門店より近くのコンビにの方が役に立つということになるだろうし、本格的に手をかけた料理より電子レンジでチンのジャンクフードの方が味が強くて美味いと言うことになる。



 確かに今の街中の商店街の凋落振りを見ると、もうこれからは個人商店、魚屋や八百屋、乾物や、金物や、といった専門店の成立世の中ではなくなってしまったなぁと感じる。いやそうではない、とにかくいい物はいいのだからここで踏ん張って頑張れとはいえない。



 食べ物だけの話ではない。衣類などもユニクロに行けば色とりどりの下着からGパンからジャケットまで普通のお店で買うよりかなり安い値段で買うことが出来る。靴なんかでも安売りのスーパーに行けば、デザインやブランドにこだわらなければ何百円で買える。日常使いでは充分使用に耐える。



 多分こういったものは海外の人件費の安いところで作られたものだろうけれど、そうすると国内のそういった生産者はまったく対抗できないわけで、まぁこれはね、農産物なんかにも言えるわなぁ。放っておけば国内の農業など全てやってゆけなくなる。



 合理的という考えをすすめて行くと、最終的には生きているという事自体が非合理的に出来ているということに気付く。そもそも生きていることに意味があるのかという根源的な問いかけにたどり着いてしまう。



 人の幸せというのは非常に相対的なもので、これが絶対ということはない。不便な時は便利な世の中に憧れるものだが、便利になったからといってそれで確実に幸せになれるというものではない。



 老子の話に「小国寡民」という言葉がある。理想的には国は出来るだけ小さくて人は出来るだけ少ない方がいいということらしいのだけれど、昨日の話のオチと同じようなものだけれど、誰が作ったのか分かるような物をくって、自分で編んだ、縫った服を着て、自分たちで作った家に住む。そんな生活が一番幸せかもしれん。

 



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(no subject) - 2009.09.22(ポケットの窓から)






 

はる 3016

 今日もまた村松さんのメルマガを読んで考えさせられた。そのまま転載すればいいのだけれどメルマガは著作権があるようなので直接は載せられないようだ。要約すれば「ネットとお金」と言うことなんだな。



 ネットで発信していればよく分かるように、こういった文章もそうだけれどあらゆる情報が只になる。自分の側もそうだけれど例えば何か調べものをした時も多くの情報を只で得ることが出来る。昨日見のがしたTV番組のいいところもほとんどの場合海賊版でyou tubeで見ることが出来る。これは海賊版だから見ないでおこうなどという善良な輩はいないわけで、ありがたくもその恩恵にあずかるわけだ。



 例えば自分にとってどうしても必要な情報と言うのは「お金」を出して得ていたわけだけれど、最近はどうも無料でいただくということが多い。まぁ考え方によればそうやってあらゆるものが便利に手軽に手に入るということはありがたいことだし、知的な財産が多くの人に共有されるわけだから、大きく考えて社会的に有効であるきもする。



 で、まぁ趣味で文章を書いていたり、絵画やデザインや写真など表現的なことをやっている場合、別にそのことが直接収入に関わるわけではないから、出来だけ多くの人に読んでもらったり利用してもらうのはありがたかったりするわけだけれど、それらを何かしらの形で生業にしている場合、死活問題だな。



 特にこうPCがここまで発達してくると、誰でもが簡単に一応クリエイターの真似事が出来るわけで、今までデザイナーがしていた仕事の領分まで侵してくるわけだ。でどんどん仕事が値切られて安くなってゆく。一昔前は文字一つも写植やさんがいて拡大したり縮小したりしてそれで食えていたわけだ。いまならド素人でも簡単にPCで出来る。これも汎用な知的財産の共有と言えばいえる。



 職人的な手仕事みたいなものが壊滅的な打撃を受ける。100円で手に入るものと10000円のものと機能的にはそんなに違いはない。あるのは職人が如何に気持ちをこめたかみたいなところしかない。とわ言っても社会はどんどんそういった簡単なチープな手軽で便利な方向にいっているわけで、今更声を大にして反対を言えるものでもない。止められない。



 このまま進めば「手仕事」というものがなくなってしまう。いや手仕事だけではなく「仕事」そのものがやる気とか生きがいとか夢とか希望とかそんなものと別のものになってしまうだろう。ただ単に労働をお金にかえるだけのそう、今の派遣やアルバイトのような仕事だけになってしまうだろうな。



 全てが、便利で、簡単で、チープで、分かりやすい。お金さえあれば楽しく暮らせると思っている。どうすればいいのか、何を始めればいいのか、手のつけようがない状態になってしまった。



 自分で作ったものを食って、織ったもの着て、自分で建てた家に住む。究極的にはそんなことか。それがまぁ一番の贅沢であり豊かな生き方といえるかもしれんな。



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画廊めぐり - 2009.09.21(ポケットの窓から)


「田中常貴遺墨小品展」

2009 9/20~・・

ギャラリーcocochi

甲府市丸の内1-19-21 2F

055-587-8629





「小林宏 展」

2009 9/20~27

ギャラリー イノセント

甲府市丸の内2-12-3

055-222-4442





「竹下 みさお展」

2009 9/19~23

アートセンターコスモス

山梨市上神内川1478-1

0553-23-3747





「中野宗夫展」

2009 9/19~25

ギャラリーパーシモン

山梨市神内川1262-5

0553-88-2039



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9/20 - 2009.09.20(ポケットの窓から)
 





 

 今日はお休み。



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裸婦クロッキー9/19 - 2009.09.19(裸婦クロッキー)






















































 

 はる 3013

 さて、今日は恒例の美術協会の裸婦デッサン会だった。有志で月一でやっているクロッキー会とは違って美術館の実習室でやるもので人数も多く、モデルも二人呼んでいる。次から次とポーズするモデルも大変だけれど、それを描いてゆく方もなかなか疲れるものだ。



 クロッキーは随分と長くやっている。20過ぎの頃、絵を描き始めてデッサン力の必要に迫られて大阪の肥後橋近くの絵画研究所に入会した。そこには専属のモデルさんがいて毎週裸婦クロッキーをやっていた。狭い教室にほとんど立錐の余地がないほどカキテがいて熱気もあったように思う。大阪に住んでいた頃は毎週そこにかよっていた。京都でもどこかの教会の地下でクロッキーをやっていたな。あれはチケット制だったかな。



 何がそんなに面白くて続けているのだろうか。クロッキーというのは楽器とか運動能力に似ているところがある。しばらくやらないとまるで出来なくなる。けれど一度腕に覚えさせていると、しばらく復習すればそこそこは復活する。もと通りにはならないのだけれどね。



 クロッキーといえど絵画の大道に通じているところがあって、いつも思うのは小手先の線はどんなに上手くかけていてもいいとは思わない。精神がたっていて生き生きとした大きな線がひけた時はすがすがしい気分になる。それは何だろう、剣豪の一振りとか、禅僧の一筆にたいなものかな。ためらいがないおおらかな線がひけた時は気分のいいものだ。そんなのは一回のクロッキー会でも一度あるかないかの確立だ。



 本画と絵柄は全く違うけれど、精神的には同じだ。どこが同じかといえば、表現するというところだな。クロッキーの要領はと時々聞かれるのだけれど、そこのところが難しいのだけれど書いてみる。



 モデルを見てただ漫然と筆を走らせているだけでは絵はかけるけれど、絵にはならない。絵にしようとすればそこに自分の「意識」をこめなければならない。そこが表現というわけだ。絵を描くという行為はどういうことかというと「私はこう見ました、見えました」ということを報告している訳で、もう少し具体的に言えば、左足に体重がかかっていますよ、とか下から見上げているから上半身は縮まって見えますよとか、胸の左右の位置は右が少し上だよとか、そういうことを無意識のうちに意識しなければならない。そう意識するだけで絵はかなり違ってくる。



 で、問題は実際に描く場合はそのことを忘れなくてはならない。意識して意識していることを忘れた時がいい線がひけた時だ。



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因果な商売 - 2009.09.18(ポケットの窓から)






 

 はる 3012

 某タレントの記者会見をyou tubeで見た。芸能人は因果な商売だというのが第一印象だな。タレントという虚像を売っているにもかかわらず、それを実像と勘違いして押し付けられる側もかわいそうなものだ。「だますなら死ぬまでだまして」というのが一種のダンディズムだとはおもうのだけれど、そこまで要求するのは酷かもしれないな。



 こういった不祥事の会見でいつも思うのは、スポットライトの反対側にいる人間の浅はかさだ。罪を犯した奴らは自分達と違って極悪非道の輩で、自分達は正真正銘の正義の見方でございというふうに、これでもかという石のつぶて投げかける。その姿はおぞましくあさましい。



 マグダラのマリアの話だったか、娼婦の彼女に石のつぶてを持って「こんな罪ある女は殺してしまえ」と寄ってたかって群集が攻め立てている。彼がいう「おまえ達の中でいっぺん足りとも嘘をついたことがない、一度も罪を犯したことがないものは、その石を投げるがいい」そうすると誰も石を投げつけることが出来ずすごすごと引き上げていった。この逸話を思い出す。



 政権がかわった。圧倒的な支持を受けて新しい政党が政権を取った。考えてみると今まで政権がかわらなかった事の方がおかしかったのだ。どんな不祥事をやろうと、大きな疑獄事件がおきようと、正々堂々と人の書いた文章を棒読みしようが、官僚が平気で天下っても、年金のシステムがどうにかなっても、何が何でも自民党が政権を取って動かして来た。そのことのによってどれだけ国民が迷惑をこうむったかなどということはどうでも良かったのだ。とにかく一部の権力をもったものと官僚の好きなようにこの国を動かしてきた。



 政権がかわって、新しい首相の演説を聞いて、あぁ国というのは、国民のためにあるのかもしれない。決して一部の権力をもった人たちの者ではないのかもしれないと、たとえ大きな勘違いだったとしてもそういう風に思わせてくれただけでも今回の政権交代は意味があった。たとえこの政権交代が失敗だったとしても大きな意味のある一歩だったのではないかな。自民党には深く深く反省して謙虚に国民の意見を聞いて欲しいね。そうすればまた日は昇る時もあろう。



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散歩道 - 2009.09.17(ポケットの窓から)




 

 はる 3011

 いやもう三千も11になった。日々というやつは過ぎてしまえば夢の如し。おそろしいものです。こうやって毎日カウントしてゆくと、一年が365日というのを時々意識する。人の一生というのは有限で80年生きたとしても大した数ではない。



 話題を変えて

 絵を描きはじめた動機というのは何だったのだろうか。母親が少し趣味で絵を描いていたというのがあるけれど、特に親戚に絵を描くことを仕事にしたり、職人がいたりしたわけではない。だから小さい時からの職業の選択肢に物を作る仕事というのはなかったな。そういった意味では私の家系では凄く場違いなありえない選択だったように思う。自分自身の小さい頃を考えて特に内向的な文学的な嗜好を示したガキンチョではなったわけで、どちらかと言えば反対にガキ大将的であった。



 高校時代から何か書くことが好きだった。それは日々の出来事を記録するという風な日記ではなく、自分の心のありようを知りたかったというような、今のもとになるような問いかけだったように気がする。今以上にもっと切実に誰かに聞いてもらいたかった、知ってもらいたかった、なんだろうな「私を見て」というのがやっぱり最初の声だったように思う。それはまぁだれでもそうなんだけれどね。自我と言うものが出てきて、どうして今ここにいるんだろう?と気付く頃だからね。



 勉強が出来ればそこそこ評価されたんだろうけれど、受験勉強は要領が悪かったな。今もそうだけれど、時間の使い方とか集中力がない。能力もなかったのだけれど、そんな人間が普通に評価される場などない。特に秀でたものもなかったからな。



 最初の大学は入れてくれたとこに入った。けれど、ほとんど学校には行ず、昼も夜もアルバイトに明け暮れていた。何が出来るのか、何ができるのか、実践で手探りで探していたようなところがある。だからアルバイトの数は半端なものじゃない。夜はジャズ喫茶の店長というのが一番気に入っていた、出来たら自分もそんなお店でもやって生きて行こうかなと考えていた。



 どうしても極普通に就職して仕事してという気になれなかった。適当にアルバイトして食いつないでいく、今の派遣で生きている適当なぷー太郎の先輩だな。だから今の若い人に何も偉そうなことはいえない。昔の自分を見るようだ。無責任で適当で根性なしで自分のことしか考えていない。若い頃に戻りたいなどとは全く思えないな。二十代の前半はしんどいな。どうしたらいいのか全く道が見えないからだ。



 そんな生活でも多少なりとも得ることはある。アルバイトはやはりアルバイトでしかないということだ。仕事という大きな意味で考えたらほとんど得るものがない。時間を労働力をお金にかえているだけだ。アルバイトによって大きく人間が変わるとか成長するということは期待できない。長い人生を考えた場合自分にとっては何か手仕事・職人仕事が一番適しているのかなと思った。



 まぁそこから手仕事の修行が始まる。まず京都に出て焼き物の手付けの仕事を見つけてくる。これは工房に弟子入りみたいなものだから、何でもやった。土練りから、釜入れ、釜だし、掃除から洗濯までやる。飯は工房で出るからお金はかからなかった。まぁ微々たる給料だったけどね。二年ぐらいやったかな。まぁ二年やると不満も出てくる。我慢して10年やって独立という手もあったのだけれど、同じ物を数作る、まぁ職人とはそういったものだな。ところが京都という場所柄作るものが観光客相手のみやげ物的なものなんだな。これがまた飛ぶように売れるわけだ。我々が作っているところをサルのように見せてね。じゃ辞めたと辞表をだす。



 まぁこうなったら好きな絵を描いて売れても売れなくても生きて行くかと考えたわけだな。収入はアルバイトで本業は絵を描くと一応の方針を決めた。これで生活は苦しくなったけれど、気持ちは随分と楽になった。



 その後はまただな。



 



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9/16 - 2009.09.16(ポケットの窓から)



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こえをきく - 2009.09.15(ポケットの窓から)







はる 3009

 覚書「こえをきく」



 見えないものを観る、聞こえないものを聴くそんなこと。



 思索すること、考えること、それを書いたり、描いたりして「こころのありよう」を探ること。



******************



 作家の生活はなぞに包まれている方がそれらしい。何も語らず、顔も見せず、その存在さえ隠しておく。そんな手もあるだろうな。



 ところが、私は自分の心のありようを隠しておけない。どうしてそうなのか、なぜそうなのか、語れば語るほど浅はかな底が見えるというものだ。まぁそれでお里が知れるようであれば、それまでのことだとあきらめている。



 作家とはそういったものだろう。出し惜しみせず、その時の精一杯の全部出してしまう。出し尽くせばまた湧いてくるものだ。



 思索すること、それを書いたり、描いたりして、その時々の心の声を聴くことが私の仕事のように思う。






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対峙 - 2009.09.14(ポケットの窓から)






 

はる 3008

 又あとで。



 少し書いたのだけど、pcのトラブルで消えてしまった。もう一度同じ文章を書くきにはなれないので、違うことを書こう。



 上の絵は奇妙な絵柄だな。サルが台の上にいて左の少女と見合っている、髭のおっさんがそれを行司しているといった感じかな。自分で描いていながらどうしてサルが出てきたのか分からない。旅芸人とか大道芸人などは今までも描いていたのだけれど、動物使いのようなのははじめてだな。



 いつだったかな、もう4,5年前になるか、兄弟の還暦を祝う行事で兵庫の有馬温泉に行った事がある。温泉そのものはそう珍しくもないのだけれど、そこで初めてかなお猿さんをつれた旅芸人を見た。まぁもともとそんな場末の芸人みたいなものに惹かれるところがあるので、時間を忘れてみていた。そんなことがどこかにあって出てきたのかもしれない。



 私の絵は芸術などという高尚なものではないな。どうやっても芸術をやれ、芸術を語らなければ絵を描く資格がないというなら、絵など止めてもいい。私がやっていることで世の中が変わるとも思わないし、美術史に残るような絵描きにもなれないだろう。だから今の先端の芸術を語る能力も資格もないな。第一全く面白いとは思えないのだからどうしようもない。



 私は自分が面白いと思った極々小さい世界を見つけて、こんなのもありますよ、あんなのもありますよと言うだけでいい。ただねぇ、自分のいいと思う眼だけは一級品であると自負しているのだけどな。腕がなかなか追いつかない。



 また眠くなったのでお終いです。

 



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生きてきたように死んでゆく - 2009.09.13(ポケットの窓から)






 

はる 3007

 流行というのは何だろう。その時代の流れの中でたまたま時流に乗れば一気にメジャーになって、何処でも雑誌に取り上げられたりする。一時の有本利夫なんかもシンデレラボーイと言われて注目されていた。まぁ彼はその後早くに亡くなってしまったので、以後の展開がどうなっていたのかは想像するしかないのだけれど、ひょっとすると鳴かず飛ばずの作家で終わっていたかもしれない。



 流行歌の作曲家でも一時はこれでもかと思うほど次から次にヒットを飛ばしていた人が、ある時を境にほとんど活動が見えなくなってしまう。で、死亡のニュースを聞いてあぁまだ生きていたんだと気付いたりする。



 才能は変わらずあるのだろうけれど、いつしか通り越して取り残されてしまうんだな。変わらずにずーっと評価されるのは一時当てるより難しい。反対に評価され出したら終わりが近いと言うことかもしれない。そう考えると鳴かず飛ばずの今の方が幸せなのかもしれないな、ひがみが多少入っていますが・・。



 生きてきたように死んでゆくという例えがあるが、実際の話パッと出た作家は消えてゆくのも速い。まぁ出来うるならば死ぬまで淡々と描き続けていたいので、そこそこでいいよなぁと思う次第です。



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彼岸花 - 2009.09.12(ポケットの窓から)






 

はる 3006

 何をもって一流というのか分からないのだけれど、未だかつてこの人は一流の人だという人に会ったことがない。いやすでに出会ってはいるのだけれど、私にそのアンテナがなかったがために見過ごしてしまったのかもしれない。



 大体がその道では優れているけれど、人間的には尊敬できないとか、一芸に秀でてはいるのが人格破綻者だとか、そういった類がほとんどだ。最終的な全人格的に圧倒的に、ダントツに優れている、そんな人は人間ではないのかもしれないな。人間くさくない。



 吉田秀和の話を前に書いたけど、もう一度書く。彼が奥さんを亡くして、もう何もやりたくない、聞きたくもない、まして仕事などしたくない、と思っていた時期があった。彼の仕事はクラシックの音楽評論であるから、好きで聴くのではなく仕事として聞かねばならなかったわけだ。



 モーツアルトは天才だ。音が淀みなく美しい流れとなって自然に懇々と湧き出してくる。普通は真っ先に聴きたくなるだろう美しい音楽であるはずだ。ところがそのモーツアルトでさえ聴きたくなくなったらしい。なぜなら彼の音楽でさえ「私が、僕が、俺が・・」と聴こえてきたらしい。



 で、一番最初に心ひかれた音楽はやはりバッハだったというふうなことが書かれていた。バッハの音は宇宙の存在を感じさせるそんな音楽だからだな。



 器の問題かもしれないね。眠たいので又明日。



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風羅坊(ふうらぼう) - 2009.09.11(ポケットの窓から)






 

はる 3005

 あいつは何をやるか分からないというのはやっぱり怖いものだ。最近では「きれる」という言葉を使うのかな。まぁ、ほとんどの場合は「切れたフリ」してその場の居たたまれなさをごまかしているのだろうけれど、何割かは実際に忘我の境地に達してしまった人がいるのだろう。



 何か調べて書いているわけではないので、適当な話なので流して読んで欲しい。で、一度そういった臨界を越えた人というのは意識するかしないかは別にして、往々にしてそういった状態になりやすいのではないかと想像する。催眠状態というのは、何処か潜在的な無意識の世界に入り込んでいるのだと思うのだけれど、慣れた人はすぐにそういった無意識の状態に入れるようだな。どう考えても自分がそう簡単にあちらの世界に行けるとは思えない。



 個人の許容量みたいなものかもしれないけれど、人によってそのタガというのかバリアーというのが色々のように思う。で、そういったタガはどうやってきまるのかというと、遺伝子的なレベルもあるだろうけれど、案外というのかほとんどが家族環境によるのではないかな。どういった家族構成なのか、信仰をもっているのか、親の職業とか、裕福か貧乏かとかね。



 私のタガは非常に強固だった。一重も二重も何重にも巻きついていて容易にははずすことはできない。いや、今でもそれが外れた自分というのが想像できないし、普段はそのタガによって守られている自分というのを感じるのだけれどね。



 唯一そのタガを越えたのは「絵描きになろう」と決めた時だ。学校の正規の教員を辞めた時にどれだけ開放された気持ちになったか。まぁほとんど後先を考えずに辞めてしまったけれど、不安とか心配というのはなかったな。それよりもこれでやっと本来の望んでいた生き方が出来る。もう後にはひけないと、気持ち的には随分と楽になった。



 ところで、話は少し飛ぶのだが、芭蕉の「笈の小文」というのをご存知か。恥ずかしながら私は全く知らなかった。実は先日、山口画廊のオーナーから飯嶋和一の「始祖鳥記」を読んでみろといただいた。江戸時代の話なのだが、その主人公は空を飛ぶことに一生をかける。まぁ時代がそんなことを許す時代ではなかったので、時の権力者の捕らえられてしまうのだが、そのときに聞かれるのだ。「おまえの中にやっぱり、風羅坊がいるのか?」



 どうしても、どうしても、飛びたくなってしまう。いいかげんに上手く世の中を黙って黙々と働いていれば捕らえられることもなかったのに、この主人公は飛んでしまうのだな、命懸けで。



 その風羅坊というのが芭蕉の別名で、自らをそう呼んでいる。全てを捨てて漂白のたびに出てしまう、その因果なDNAをそう詠んでいる。



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秋空 - 2009.09.10(ポケットの窓から)






 

 はる 3004

 秋空になってきた。何処となくうすら寂しい季節だな。好きだけどね。



 人格が崩壊するするほどの怒りとか、興奮とか、前後不覚で何も覚えていないなどとたまに聞くけれど、そこまで自分をコントロール不可能なところまで落ちた事がない。例えは悪いけれどよく犯罪者がもう全く別の人格になってしまったような自己の崩壊をきたしたなどということを聞くと、もし仮にそうなった自分と言うのは怖いなぁと思う。知らない自分が出てくるのは怖い。



 アルコールに極度に弱い体質なので、われを忘れて何もおぼえていないなどというそんな体験はない。昔無理に飲んでほぼ病気のようになったことはあるけれど、それでも自分を見失った、前後不覚になったというほどではない。



 幸運にもいままでそういった臨界の状態に陥ったことがないので、分からないのだが、例えば戦争を経験するとか暴徒に襲われるとか、そういった場合にある一線を越えてしまった人間は自分のタガが外れてしまったと感じるのではないだろうか。



 ただの支離滅裂な話になってしまった。ごめんまた。



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安心と安堵 - 2009.09.09(ポケットの窓から)







 

はる 3003  

  憂鬱な気質が私の中にはある。まぁそれも考え方によればその気質があるから絵などというものを書き続けられるわけで、全く何の心配事もないあっけらかんとした性格ならこのブログさえ続けることは難しいのじゃないか。そんなうっとうしい気質など要らない、わずらわしいだけだとは思うのだけれど、まぁこれもプラスマイナス0だな。

 

 このすっきりと晴れない、目の前の霧のようなぐずぐずしたものは何なのか?長い間の懸案事項ではあった。不安、心配、強迫観念そんな言葉で語られるのだけれど、よくよく考えてみれば全ては自分のなかにあるもので、自らが作り出した亡霊におびえているようなものだ。幽霊の正体見たり枯れ尾花というのは、この私の状態をよく言い表している。

 

 小さい頃のお化けとか、化け物、何だか分からないけれど恐ろしいものというのは、それも結局その本人が作り出した幻でね、大人になって恐ろしくなくなるのは、ある種空想力の枯渇ということもできるかな。  さて、私のそれはたぶんに遺伝的なものが大きいとは思うのだけれど、仕方ないとあきらめると解決の糸口が切れてしまう。遺伝的な要素を差し引いて残った中から私のその「不安、恐怖」の材料が何か考えてみたい。

 

 子供の頃見た夢に大きな風船のようなものが無数にあってその中に自分が閉じ込められてアップアップするというような、今まさに呼吸困難になるというところで目が覚めるというようなことがよくあった。今考えるとこれは親や兄弟のプレッシャーのように思うんだな。私は五人兄弟の末っ子で、みんなのいう話では甘やかされて自由に育ったと言うふうなことを言われるのだけれど、私自身は全くそんな風には感じていない。

 

 幼い頃というのは子供同士の上下関係はかなり厳しいもので、絶対服従が前提である。その代わりに安心と安堵をもらうといった封建制度に近いものがある。「絶対服従と安心安堵」この相反する飴と鞭のような感覚は、例えば親方と徒弟、親分子分、会社と社員、みんな共通する命題じゃないかな。

 

 私の不安の原因はその安心と安泰の絶対服従の殻から出てしまったということにあるのじゃないかな。またもう少し考えてみよう。今日はここまで。


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表現者として力を持つ - 2009.09.08(ポケットの窓から)






 

はる 3002

 例えばデパートなどでがんがん売れている絵描きがいる。でそういった画家の経歴を見るとほとんど大きな団体には参加していないか、無所属だ。参加していても全く無名のどうでもいいような団体である場合が多い。そういった作家に共通するのは「私は絵で食べているんだ」という暗黙の自信だろうか。花と実という例えなら、明らかに実を取ったということかな。団体展の作家には分からない厳しい世界を生きているんだという凄みだろうか。でもしかし、心のどこかに芸術家ではなくなってしまった後ろめたさみたいなものがあるきがする。



 まぁ我々の方からみれば「なんだい、こんな写真のような売り絵を描いて」と思うのだけれどね。それがまたどんどん売れるのだから仕方がない。団体展の作家とデパートの作家とでは永久に埋まらない溝がある。お互いに意識しないようで気にはしているのだ。



 団体展の作家でもデパートでやるとなるとやたら迎合して花やら風景を描くひとがいるけれど、それはちがうだろう?とつっこみたくなる。本来の自分の仕事の延長上に今のスタイルがあるわけだから、それを無視して「売り絵」を描きましたというスタイルは反発を感じるな。芸能人のサインやお相撲さんの手形みたいな感じじゃないの。何でもいいじゃ安易すぎるなぁ。



 私なんかはこれもまたどちらにも属している中間派だな。どちらの言い分もわかるし、正しい気もする。団体展にも長く出品してきたし、団体展に出品する前から個展をやって作品を売ってきた。売れればいいと考えるとどうしても他者に迎合する。人が好むような絵柄だったり描き方だったりする。それがいつのまにか職人仕事のようにパターン化してしまう原因となる。職人仕事が悪いというわけでは決してないのだが、芸というのは自己模倣すると次第に壊れて行く。



 反対に売らないなら、それらの仕事はあくまで趣味の延長上にあるということになる。正業をどこかで持たなければやってはいけない。趣味なら高級な楽しみだが、人様を巻き込むほどの絵描きになるのは難しい。



 私はねぇ、こう思うんだな。どちらか一方というのは片手落ちだ、二頭立てでゆけばいいのだ。あくまで自分の絵を描きながら、個展もやって絵も売ってゆく、両方やるんだな。それが正解じゃないのかな。本来そうあるべきじゃないの。表現者として力を持とうと思ったら、どちらも必要だと思うんだな。



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絵描きとは? - 2009.09.07(ポケットの窓から)






 

はる 3001

 おぉ、三千台が始まりましたね。何か凄く遠いところまで来たという気がします。ちょっと出かけてきます。書けたら又後で書きます。とりあえずここまで。



 絵を売るということに凄く違和感があった時期がある。今でもそんなにスッキリとした割り切り方が出来ているわけではないが、当時と比べると随分楽になった方だろう。ファインアートというのだろうか、青臭い芸術論とか芸術家に憧れてこの世界に入ったものは、最初の頃は絵を売ることに抵抗を感じる。仕事として絵を描いているわけではないと考えているからだな。



 絵を描く仲間と話していても、どうもそこらあたりで話が食い違うことがある。絵を描くことは自分のライフワークで生活の糧を稼ぎ出す仕事ではないと考えている人がわりと多い。そうすると生活の糧はほかで得なければならない訳で、まぁだから普通は学校の先生とかカルチャーの講師などをその場しのぎの職業にする。その方が好きな絵は描けるし、生活も安定する。でもそれは絵描きではない、生きた絵は描けない。



 絵が売れるからいい作家だとは思わない。いい作家でなくても絵は売れるからだ。明らかに手を抜いた、壁の飾りのような絵でも、ニセモノの版画でも、芸能人の下手くそな絵でも人は名前が通っていれば何の疑いもなく絵は売れて行く。まぁそれはそれでそんな絵もあってもいい。どんな形でも絵を売ってしのいでいるなら立派な「絵描き」だ。

 

 私はどうもそこらあたりがまだ青臭いところがあって、「売り絵描き」というのに凄く抵抗がある。やっていることは「売り絵描き」に近いにも関わらず、自分はそうではないと思っているふしがある。見る人が見れば同じようなものかな。



 このことはもう少し書きたい。



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祝3000 - 2009.09.06(ポケットの窓から)






 

3000(祝3000カウント)

 はる1が   2000 9/25

 はる1000が 2004 2/28

 はる2000が 2006 12/12

 はる3000が 2009 9/6



 まぁ野球選手が記録のコメントで「通過点ですから」というふうなことをよく言いますが、現役引退するまで通過点に過ぎない。引退はいつか?神ののみぞ知る。



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3000前夜 - 2009.09.05(ポケットの窓から)






 

はる 2999

 あぁ、明日が3000だ。 といいながら、今日もまた忙しくてバタバタとしていた。明日はゆっくりできるかな。では。

 



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残り三冊 - 2009.09.04(ポケットの窓から)






 

***祝はる3000カウント記念企画***

 残り三冊

 今日より先着10名様に08年制画集「こたえてくださいvol1」をプレゼントします。

期限は2009 8/27~9/10までとします。



 ここに住所、氏名を書いて送り返してください。購入と区別するために本文のところに

「祝3000カウント、画集希望」
と必ず書いてください。

希望としては、できるだけ私のことを知らない、

あったこともない人とのコンタクトが欲しいですね。待ってます。

*************************************************

はる 2998

 またあと書ければ書きます。

 



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我が家のかぼちゃ - 2009.09.03(ポケットの窓から)






 

はる 2997

 かぼちゃは偉い。種一つからかぼちゃがすでに6つ取れている。今まだ3つ大きくなっているので都合10個以上は出来るだろう。初めは自然に放っておいたのだが、かわいい雌花が付いたと思ったらニ三日すると黄色くなってしぼんでいた。家庭菜園の指南書を買って読むとなんと人工授精しろということだった。放っておいても二つに一つは実をつけるようだけれど、人工授精したほうがより確実らしい。同じツルに雄花と雌花が付くことさえ知らなかったのだから、なんと無知だったのだろうか。しかし、かぼちゃはかなり繁殖力が旺盛だな。さすがに飢饉の植物だけのことはある。切らずに置いておけばかなりの間保存することができるし、完全な無農薬野菜だし、この冬は甲州名物のほうとうを自家製のかぼちゃで食うことができる。めでたしめでたし。



「このところ考えていることの続き」

 ピカソやブラックがコラージュを始めた理由はなんだろうか。古い新聞紙や雑誌を切り抜いて自分の作品の仲の一部として取り込んだ。文字や写真という当時珍しい新しい媒体を画面の中に持ち込んだということが新しかった。それに例えばコップをコップとして画面に再登場するのではなく、全く関係のない果物や花などに変えてしまうそんなところが凄く斬新で新しかったように思う。



 価値の転換、見立てるというのはお茶の世界のはなしだけれど、新しい価値の発見というのが芸術の一つの大きな要素だとおもうんだな。今までは何でもなかったものを、これにはこういった価値があるんだと言ってのけること、そのことが面白い訳だ。骨董の青山二郎はこんなことを言っている。

 「優れた画家が、美を描いた事はない。



 優れた詩人が、美を歌った事はない。



 それは描ききれるものではなく、



 歌い得るものでもない。



 美とは、それを観た者の発見である。



 創作である」



 ミクストメディアはある意味で異なる材質のコラージュだと思う。紙だけではなく布や木、土、その他親水性のあるものならあらゆるものが画材として画面の中に持ち込むことが出来る。絵の具にしても一番元のところまで下がって「絵の具は色の粉だ」というところまで還元できる。そうやって私は多くの新しい絵の具を手に入れた。



 何故だろうというのが私の癖だ。そしてどんどん前に戻って行く。何か物事を考える時にそうなった一つ前の理由を足がかりに考えて行く。数学の演繹的にはそうやって考えて行くといつかは元のオリジナルなものにぶつかるだろう。



 もう少し考えをすすめて行く。徒然なので結論の出るものではありません。




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私の出稼ぎグッズ - 2009.09.02(ポケットの窓から)






私の出稼ぎグッズ

はる 2996

 今日から三彩堂で「裸婦クロッキー展」をやっている。機会があれば覗いていってやってください。私も3点ほど出品しています。以下はその宣伝

「裸婦クロッキー展」

2009 9/2~9/9 9/7休み

甲府市貢川1-1-12

055-226-8393



 世の中の全てのものは動いている。動いているという言い方は正確ではない。同じ状態であることは出来ないといった方がより正確か。水が高いところから低いところに流れるように、この世のすべてのものは常にある方向に向かって進んでいる。この宇宙の星達もこの宇宙そのものも例外ではない。そしてある一定の限界、臨界点に達すると膨張したり爆発したり、融合したりして他の物質を取り込んだり、吸収したり、その一部を自分のものにしたりして新しい星に生まれ変わる。これは星だけではない宇宙そのものがそんことを繰り返しているのだろう。したがって今ある宇宙はすでに何世代か生まれ変わった後の形ではないかと思っている。



 幾度となく書き散らかしていることなのだが、生命の発生のプログラムは多分この宇宙の誕生から衰退して消えてゆくまでを模倣しているのではないかと思う。でなければこんなに都合よく何の見本もなく生命が生まれるわけがない。と考えると我々は宇宙そのものだということになる。少なくとも宇宙の遺伝子をもっていることになる。



 神というのが本当に存在するのかどうかそのことの直接的な答えではないけれど、その大きな理はたぶん神がつくったというのか、大いなるものを真似たものであるきがする。だからどうしたといわれれば困るのだけれど。



 話が変わって

 ミクストメディアの面白いところは、いやそんなものは百も承知だといわないで少し聞いて欲しい。



 人のスタイルというのは意外に変化しないものだ。特に長年その道で生きてきたものにとって自分のスタイルというのは変え難いものだ。こうやればこうなってどういった効果が生まれるか、知り尽くすことになる。まぁそれが熟練するということだな。ところでどうなんだろうか、自分が絵を描く理由を考えると、そういった分かりきったものを作り出すことが目標、目的なんだろうかね。確かに確実に熟練はするのだけれど、職人のようにきっちり形あるものを作り出すということが目的なんだろうか。結果的に絵が出来てくるのだけれど目的ではない。



 自分のスタイルだけでやっていると煮詰まってくるんだな。軽い自家中毒に近い状態になる。まぁ反面そこまで突っ込んで自家中毒にならなければ本物にはなれんという話もわかるけれどね。私の知り合いの日本画のブログを読むと、現場に行って泊り込んで具合が悪くなって救急車のお世話になったというふうなことが臨場感たっぷりに報告されていたけれど、それはそれで一つのスタイルで尊敬はできるのだけれどね。徹底して見つめることで見えてくるものだあるだろう。愚直に、私はそこまでというのかまるっきりそこまで自家中毒にはなれないなぁ。



 新しいものが生まれる瞬間というのは、考えて出来るものではないきがする。どこか偶然というのか人智を超えたある種の啓示によって気がつくというのか、知らされるのではないかな。その方法は人によってさまざまだとはおもうのだけれどね。



 自分では考えつかないような色や形、肌触りなどコラージュすることによって画面に持ち込むことが出来る。



 続きは又だな、眠くなった。



 



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画家・榎並和春です。HPはあそびべのHARU・ここだけの美術館

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