あそびべのHARU・ここだけの日々
画家・榎並和春

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トリックかな? - 2009.06.30(ポケットの窓から)






 

「 風景画を描いている私」と言うタイトルはどうでしょう。 携帯のカメラは全てに焦点が合うからこんなことが可能になる。ちょっとボケているけれど、遠景の山と筆がほぼ同じピントで合うというのはどういう原理なんでしょう。



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三時のおやつ - 2009.06.29(ポケットの窓から)






 

 昨日は地元の美術団体の審査と飾り付けがあって一日美術館につめていた。もうここと関わりあって30年近くになった。昨日も書いたけれど小学校以来絵を描いて賞状もらったのはここが初めてだった。まぁ良かったのか悪かったのか分かりませんがね。



 何か書くつもりだったが、眠くなったので又明日。



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それだけでいい - 2009.06.28(ポケットの窓から)






 

はる 2931

 ☆さんへのメール

 そうですね。あわよくばという気持ちは賞を取ったことがある人は必ず持つと思います。あの本当にうきうきするような、華々しい、少し勝ち誇ったような高揚感は、一度味わうと癖になる蜜の味ですね。それは楽しい期待でもあります。



 私が本格的な油彩画ではじめて賞を取ったのもここでした。もう30年も前の話ですがね。やっぱり飛び上がるほど嬉しかったですよ。その後いくらか受賞経験がありますが、あの時の感動以上の受賞はありませんでした。



 賞はいいように働けば励みになります。反対にそれだけになれば何か物欲しげな、そんな気持ちはなくても人様に受けを狙うような、そんな下心が見えてきて自分でも嫌な気持ちになったりします。



 ★さんは嬉しそうでしたね。今回のことを踏まえて、もう次の絵の構想を楽しそうに話してくれました。彼は自分のために絵を描いています。描くことを楽しんでいます。絵がかけることが楽しくて、嬉しくて、ただそれだけで充分だという気持ちが伝わってきます。



 まぁ他の人の評価は無理に無視する必要はないですが、そういったことも含めて絵を描いていることを楽しんでいるんだということでしょうね。これでいいのだと思います。これで充分です。そう思います。



 



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スリーバンドラジオ - 2009.06.27(ポケットの窓から)






 

 アトリエの音響はこれだけです。それもあまり聴きません。イメージとして優雅にバロック音楽でも聴きながら絵を描いている感じですが、全く音は邪魔になるのです。昔から何かしながら他のことは出来ません。このラジオは小さいながら短波も聞けるすぐれもの。



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古代の笛の音が聴きたい - 2009.06.26(ポケットの窓から)





榎並和春個展DM

いつかみたところ

山口画廊

2009 7/15~8/3

千葉市中央区春日2-6-7


043-268-1560

オーナーのコメント

「深い趣を湛える地塗りの上に、亡羊と浮か

び上がる魂の形。風化した岩壁に刻ま

れた、古いイコンの様なその作風は、内

なる瞑想の旅路へと、見る者をいざなう。

思索する画家、榎並和春の世界。激しく

変転する現代にあって、変わらない何か

を希求する、その静かなる祈りの調べを」

 

 三万五千年前の鳥の骨で出来たフルートと、マンモスの骨で出来た女性像が出土した。人類と言うのは何と素晴らしい種族なんだろうか。そういえば人を埋葬したらしい古代の塚からは骨の化石と共にたくさんの花の花粉の化石が出土したと聞いた。食べることや着ること住むことと同じかそれ以上に人は身の周りを飾ったり、悲しい嬉しい時に音楽を奏で、ビーナスに祈りを捧げたのだ。



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喜捨する - 2009.06.25(ポケットの窓から)






 

 例えば、老後が困らないだけの蓄えをするべきだ。という前提で考えるとそれじゃ出来るだけいい会社に勤めるべきだし、そのためにはいい大学へ、いい高校へ、皆と何も変わらん発想となる。まぁそれが楽ではあるな。



 何だろう、とりあえずとやってしまうと、次々とつながってみんなと同じでいることが、いいことだ、皆と同じ価値観で生きるべきだという風になる。抜けられなくなるんだな。特に最近はマスコミのせん動に乗せられる。何かが流行れば右へならえ、ワァーとなると訳がわからなくなる。我々は物事を批判的に見る、考えると言う習慣が身についていない。親方日の丸で一つの方向に向きやすいところがある。



 本当は自分の人生は自分で決めていい訳だ。無論その分責任は取らなきゃならいのだけれど、自分で自分の命の責任は取らなきゃね。よく言うのだけれど、「最悪でも死ぬだけだろう」そう思うんだな。それだけ覚悟して生きてゆけばおたおたすることはない。他人と同じでなくていい。



 まぁそりゃ、少しでも蓄えが欲しい。楽に老後は暮らしたい。人情としてよく分かる。もしそう考えるならサラリーマンやって平平凡凡やてばよかった。それを止めたい以上、頑張って意地張って、泣き言いわないで、やせ我慢しなきゃ、ならないのだ。それがダンディズムだろう。インフルエンザが流行ってマスクかいに走るようなことはしたくない。



 大事なコンセプトは「喜捨する」ということだ。全て捨ててしまうのだ。喜んで。命さえもね。保身にまわらない。言い訳しない。それが私の選んだ生き様だったはずだ。今更こんなことでおたおたするんじゃない。絵を描くということは絵を描く生き方を選んだということだ。それ以外はすべて捨てるんだな。それが死ぬまで満足してし尽くして生きる唯一の方法だ。

 

 



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風景スケッチにでる。 - 2009.06.24(ポケットの窓から)







 今日は午前中は雨。午後からは快晴となり気温もどんどん上がった。足元がぬかるんでいたら外に出るのはやめるつもりであったが、まぁ大丈夫。来週出れるかどうかわからないので、スケッチに出ることにする。私は学校の自転車で生徒の後をついてゆく。自分で言うのもおかしいけれど、自転車はよく似合うのだよ。間違うとホームレスになる。だからできるだけ真っ白なシャツを着ることにしている。上手いとか下手くそはどうでもいいのだ。彼らの記憶に絵を描いたことが残っていればそれでいい。しかしまぁ疲れるのだな。暑いし。



 



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甲州ごぜ - 2009.06.23(ポケットの窓から)






 

はる 2926

 「ほいと」という言葉を知っていますか?「祝人」と書いて「ほぎひと」から「ほいと」になったと辞書には説明されている。「祝人」という字面はきれいですね。どんなに美しい姿形をしているのか、その字からは想像できません。



 我々が子供の頃、まだ正月には「いわいびと」がまわって来た。鼓と太鼓を持ったおじさん二人が羽織はかまで、「あぁめでたいなぁ、めでたいなぁ」と唄いながら角々をまわって行くのだ。「漫才」というと吉本など芸人を指すようだけれど、昔の漫才はそうではなかったのだ。



 「ごぜさん」というと盲目の門つけ芸人でとんでもなくつらくて暗いイメージだけれど、ある種の階級社会で一番底辺にある彼らが生きてゆくすべは芸を売って少しばかりの稼ぎを得るしかなかったのだ。



 今「ごぜ」で調べてみると、わが町には「ごぜ」さんがたくさんいたらしい。明治の6年に大きな弾圧があって壊滅したようだ。30年も住んでいてほとんどそんな話を聞いたことがない。驚きだな。また少し調べてみたい。



 



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スローフード - 2009.06.22(ポケットの窓から)






 

はる 2925

 Tさんへのメール

 最近「スローフード」の山梨支部の立ち上げに少しばかりかかわりを持ちました。普通スローフードと言えば「食」だけの話になりがちですが、スローライフ・「ゆっくり生きる」というふうに解釈すれば一種の生き方の哲学ということになって、それならば賛同できるということでかかわりをもった訳です。



 ご存知のように「スローフード」はアメリカ発の「ファーストフード」のアンチとして登場したわけですけれど、ゆっくり食べる、すなわちゆっくり味わいなが人生を楽しむという、まことにイタリア発祥らしい考え方ですね。安い、速い、便利が全て良いわけではないぞということだと思います。



 例えば「余暇」といえば「暇な時間、暇つぶし」的な発想をしがちですね。しかし本当にレクレーションということを考えれば「クリエイトの再生」でなければならないわけで、単に「暇つぶし」的な発想では再生まではいかないように思う。我々はどうも貧しい時代が長かったもので、「暇は悪」といった考え方をしがちだ。「いそがしい」ということが「ひまがない」ということがとりもなおさず「いいこと」となるように育てられた。



 一億総中流意識と言われて久しいけれどまだまだこの「余暇」の使い方が下手くそだな。この「余暇」の考え方がこれからの生き方に大切なコンセプトになるように思うな。仕事は仕事で大切な時間なんだけれど、それと同じかそれ以上に「自分の時間」余暇を上手く使えるかどうかがその人の人生の充実度に関わってくるように思う。文化というのはそういった「自由な自分の時間」と密接に関わってくるので「スローライフ」という生き方に賛同するわけだ。



 結局「自由な自分の時間」を使って何をするか?といえば、ごろごろと寝転がって休んでいてもいいわけだけど、もっと積極的に考えると「自分の心の中を探索する」時間と考えると本を読んだり、音楽を聴いたり、絵を描いたりすることがその手助けとなる。趣味というのは「暇つぶし」ではない。もっと積極的な時間の使い方なんだな。そこのところがまだ充分に教育されていないように思うなぁ。



 「スローフード協会」はNPOなので営利目的では使えないけれど、若い彼らは地域密着型の農家と連絡を取り合って、直接的な農産物はもちろんワインなどの二次的な産物も関係して、顔の見える生産者と都心の利用者の仲介的な仕事をしてゆくらしい。地産地消がいまスローガンとして注目されていますが、実際に仕事としてどこまでやってゆけるのか未知数ですが、山梨が経済的にこれだけ落ち込んでいるいま、彼らの活動が起爆剤となって注目されれば面白いなぁとおもいます。

 



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全てが美しい - 2009.06.22(今日のアトリエ)






 

 人の意識が入る前の下塗りの段階では全てが美しい。どこかで上手く描こうとか、何かが見えてきだすと、しだいにつまらなくなる。エコだとか、地球にやさしいなどというのは意識が見えすぎて美しくないな。それでもやらないよりはましかもしれないけれどね。



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スクエア展が始まった。 - 2009.06.20(ポケットの窓から)






第19回 スクエア展

併設・深沢弘昭個展



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トマトが大きくなった。 - 2009.06.19(ポケットの窓から)






大きくなったトマトの苗

 いつの間にやらトマトが大きくなった。もうすでに花も咲いて実をつけている。これからが難しいらしい。雨があたると割れる、そこから腐ると脅かされる、ということで袋をかけた、ちょっと過保護だな。どうなるんだろう?でもなかなかかわいいものだ。キュウリやナスなどはいっちょまえの姿かたちをしている。それだけで結構感動する。まぁ生涯で始めての自作農園だからな、人からみたらママゴトみたいなものだ。後はつまで続くかだな。



 今日は結構忙しかった。午前中は絵画教室での指導。どれだけ的確な助言ができるか、自分の力量が問われている気がする。どんな絵にもその人のいいところがあるわけで、それを探して見つけ出す産婆さんのような仕事だな。考えてみると絵を描く行為と似ているような気もする。共に成長できればそれにこしたことはない。メンバーの多くがこのブログを読んでいるようなので、ここまでにしておこう。



 午後はいつもの運送屋さんが明日の絵を取りに来る。自分で運べなくはないが、雨が降ると厄介なのとあまりにも重いので車の屋根に乗せるのが段々怖くなってきた。だから彼に頼むことした。明日は手ぶらで美術館に行けばいい。



 三時からは目医者さんに予約が入っている。特別悪いところはないのだけれど、若干視神経が薄くなっているところがあるらしい。遺伝的なものかそれとも後天的な何かしらの疾患なのかと言うことで、一応定期的に検診した方がいいらしい。飛蚊症もかなりあるし、目と歯と頭は弱い。



 しかし、いつも思うのは医療関係の看護婦さんはどうして子供にいうように言うのだろうか。私が年寄りに見えるのかもしれないけれど、露骨にされると馬鹿にされているような気がして腹立たしくなる。まぁ特に目医者さんは年寄りの方が多いのでそのままの感じで他の患者さんにも接してしまうのかもしれないな。「普通にしゃべらんかい!!」と叫びたくなる。



 



 



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ながい旅 - 2009.06.18(ポケットの窓から)






「ながい旅」F130部分 2008



第19回スクエア展

(平面作家8名のグループ展)

2009 6/20~6/26 6/22(月)休

山梨県立美術館

(6/25 在廊予定)

 

 土曜日から県内の平面作家8人のグループ展が始まる。今年の作品は残念ながら大阪展に巡回中なので、昨年の作品を引っ張り出してきた。久しぶりに見て○と思う作品と、×と思う作品がある。自分の目が他人の目になっている、他の人が見て感じる第一印象と同じなんだと思う。その時にだめだと思った作品は×だろう。この「ながい旅」は◎だった。よかった。



 こんなものを描くつもりはなかった。敦煌の壁画とかバーミアンの壁画を眺めていたら、いつのまにかこんなものが出てきた。だから実際に何かを取材してといった話ではないので、色々な約束事は間違えているだろう。大体が知らないのだから正しいも間違いもない。気分とか雰囲気それだけだ。



 シルクロードを通って西欧からキリスト教を初めとして色んな文物が日本に流れてきた。当然中国大陸を経由してくるわけだから純粋に直に西欧から伝わってくる話も少し変化した形で入ってくる。今でも五島列島あたりの隠れキリシタンの賛美歌(オラショ)などを聞くと微妙に和風で面白い。



 バーミアンなどの壁画を見ると仏画なのかキリスト教のイコン風の壁画なのかその両方がミックスされた状態で面白い。技法的にも最古の油彩画が出てきたのもバーミアンの石窟だそうだ。それは仏さんだった。



 今の私は色々なもので出来ている。それは意識されたものから、無意識なものまで数え切れない。遠い昔の私の遺伝子の所までさかのぼって考えると、我々はどこかアフリカの奥地のどこか知らない水辺のほとりで生まれた一対の細胞だった。アダムとイブの一対の細胞はやがて旅をしてここまでやって来た。それはながいながい旅だった。



 閑話休題

 日本は昔から色々な文物が入ってきた。東の端の吹き溜まりといえばうがった見方かな。文字をみればよくそのことが分かる。日本語には文字がなかった。勿論話し言葉はあっただろう。けれどそのことを文字として記録するすべがなかった。それゆえに謡として伝承される歌が重要だったように思う。神との交歓はそのようなかたちで行われたのだろう。



 やがて大陸から漢字が伝わった。古代の人は工夫して日本の音をそれに当てて記号としてそれを使った。万葉かなは不完全ではあったけれど、今まで記録されなかった歌を我々に残した。やがて漢字の一部や変形でひらがなが考案されて日本人の心情をより正確に記録することが出来るようになった。



 漢字混じりのひらがなで音と意味を両方取り込んだのは凄い発明だ。これはその後の我々の物事を柔軟に取り込む思考方法の大きな示唆であるように思うのだな。例えば明治以後凄い勢いで欧化政策が取られた。それは肌の感覚として我々は優れたものを取り込む触覚が自然に備わっているように思う。 最近は英語交じりの日本語になっているからな。まぁ反対に言えば節操なく何でも取り込む猿真似という面もあるけれど、太古以来我々はそうやって生き延びて来たのではないだろうかね。



 



 



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6/17 - 2009.06.17(ポケットの窓から)






 

 疲れました。



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自在天 - 2009.06.16(ポケットの窓から)






自在天坐像



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不老不死 - 2009.06.15(今日のアトリエ)






何かしら色々な物語が出てきた。上手く紡げたものもまた消えてしまうものもある。

 

 人間などという鬼ッ子のような生き物がなぜ生まれたのだろうか?マクロ的に見れば人類に限らず生物全般はこの地上に寄生したカビみたいなものだ。まぁ栄枯盛衰はあるけれど、お互いに共生しながらここまでながらえてきた。それにしても人類はここに来て勝手気ままに暴走しすぎる。地球が何年もかかって化石化して閉じもめてきた二酸化炭素を百年そこそこで吐き出そうとしている。コントロールできない核の脅威、オゾン層の破壊、遺伝子の操作などなど、ほとんど神の領域まで達しようとしている。で、他の生物を絶滅に追い込んで、いまだ増殖を続けている。エコだ、地球にやさしいなどと言っているが、結局のところ自分が少しでも生き延びたいからで、誰に対してやさしいといっているのやら、地球にとってはおまえらの存在が迷惑だと言われそうだ。



 コンピュータというのがいったいどこまで発展するのか、記憶の媒体としては、ここ10年ほどで考えられないくらい発達した。私のPCはウィンドウズ98の骨董品だが、このPCにはCDの再生装置さえ付いていない。別売りの機器を買ってつけた。当時はもっぱら記憶の媒体はフロッピーだった。それからOMなどというコンパクトなものも出始めていた。CDが出てきた時にはその容量のでかさと安いことに驚いた。それが最近はフラッシュメモリーが主流でCDの装置さえ付かないようになりつつあるらしい。何ともはや??時代遅れだ。



 不老不死は人類の長年の夢だ。生身の肉体ではそれは無理だろう。あらゆる宗教も神さんも、魂の永遠などという嘘か本当か分からんものを持ち出しているけれど、まぁあの世というのかあちらの世界は物語としては面白いけれど、多分存在しない。そんなものを期待しては当てが外れるよ。



 もうすでに研究している人は多いと思うのだけれど、人の記憶とか遺伝子情報を電脳情報に全て置き換えてしまえば、ある意味で肉体は要らないわけで、実際にはこの世に存在しなくても電脳上には生きているというそんなことが可能になるかもしれない。理論上不老不死となる。もっと考えれば電脳上で遺伝子の交配ができてあなたと私の子孫が電脳上で存在するなどということがありえるかもしれない。まぁこれはねぇマトリックスの世界みたいでありえない想像上の世界ではない気がする。



 人がこの地上に出てきた訳は案外そんなところに目的があったのもしれない。究極的にはありとあらゆる生物がこの地球上に現れてそして絶えていったそんな歴史や情報がが一編の詩のようになって光媒体に乗って宇宙に向けて発信されるのだ。どこでどう受け止められるのか分からないけれど、それが届いた世界でそこからやがて新しい生命が生まれる。遠い昔の地球のようにね。



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収穫 - 2009.06.14(ポケットの窓から)






 

 畑から収穫できるようになってきた。ほんの少しの耕地だけれど、けっこう色々なものができる。自分たちで食べる分には充分とはいかないけれど、充分楽しめる。また自分で作った作物は少々虫が食っていても平気平気、虫が食うほど上手いみたいな話だ。昨年までのコンテナ栽培とは大きく違うのはルッコラ(イタリアのサラダ菜)などもめちゃくちゃに元気がいい。どんどん大きくなって花盛りだ。小さい方がうまいんだけれど、でもやっぱり元気な方が身体にはいい気がする。



 学校に行かない時は(週の五日)、隠居した年寄り夫婦のような生活だ。それでも最近は結構忙しい。朝起きて出来るだけ、ゆっくり川沿いを散歩する。帰りに畑に寄って、ルッコラを取ってトマトに塩とオリーブオイルで簡単にサラダにする。もうすぐ自家製のトマトも収穫できるだろう。大体朝飯はほとんどバンと紅茶でミルクティーにすることが多い。私はヨーグルトは食べないけれど、あの有名なカスピ海ヨーグルトが何年も続いている。



 朝方の生活パターンになってから、朝飯は私の分担になった。にんじんジュースもほとんど毎日飲む。後は蒸し野菜。これが結構はまっている。茹でるより野菜のうまみが飛ばない。



 アリとキリギリスの話を身にしみて聞いている。けれどどうやっても永遠には生きられない。大きな病気をしてさらにその観を強くした。蓄えは何もないけれど、こうやってほとんど毎日ゆっくり朝飯を食うのは最高の贅沢であろう。今を充分楽しんで生きられたらそれはそれでいいと思っている。後のことはまたあとで考えることにしよう。そういう生き方を選んだ。



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1Q84  - 2009.06.13(ポケットの窓から)






 

はる 2916

 村上春樹の「1Q84」を読んだ。彼の作品は大体読んでいるけれど、本当の意味で文学趣味のない私には難しすぎて理解できなかった。けれど、この作品は面白かった。というのか、今の私のフィットする作品だったなぁ。テーマが信仰とか宗教、宇宙とか遺伝子の話、おおいなるもの、そんなことだったので、今の私には身近なテーマだった。



 普通日常で読んでいるのが馬鹿な剣豪小説か、歴史ものが多いので、こういったフィクションというのか全く違う世界を見せられると最初は戸惑ってしまう。現実にはありえない彼の頭の中の世界が実にリアルに描かれているわけだ。嘘も八百並べれば本当らしく見える。



 いつもいっている「あちらの世界」と「こちらの世界」、現実の世界と虚構の世界、常識と非常識、そういったパラレルワールドが不思議なリアリティをもって描かれている。天国へ行って見てきたような嘘を言いとはいいえて妙だ。



 閑話休題

 「方舟6」

 生物は実によく出来ている。それだけではなく、その遺伝情報の伝達の方法もこれ以上は考えられないほど完璧なものだ。



 遠い将来地球上にどんな生物もいなくなる時が必ずやってくる。それはまぁ人間の認識の範囲を越えた宇宙的な時間の中での話だが。多くの他の天体と同じようにこの星の最後がやがてはやってくる。大きく膨張した太陽に吸収合併されるのか、はたまた自ら超新星爆発を起こすのか、それは空想の世界でしかない。



 けれどもそうやっても物理的にこの世から全てがなくなってしまうのではなく、その何かしらのかけらがこの宇宙空間を漂うことになる。そのかけらは私の体の一部だった元素だったかもしれないし、DNAの塩基を形作っていたものだったかもしれない。確実に言えることは、けっして全てはなくなりはしないということだ。何かしらの形で次の新しいものの要素になっている。



 いいたかったことはそんなことではない。我々生物の遺伝の方法は独自のものではないだろう。反対にいえば、こんなに完璧なものが独自に作られるわけがない。どこかの、何かを真似している。多分それは宇宙の成り立ち、生成流転の方法を真似したものだ。



 神は自らの形に似せて人類を作ったという風な話をどこかで聞いた。そう考えると神は自らの中にいるのだと思う。 



 まだ続くかな?



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方舟5 - 2009.06.12(ポケットの窓から)






 

はる 2915

 「方舟5」

 どうも、これで書き切ったというきにならないので、うだうだと続いて書いてしまうこの話、どう決着をつけるのかわかりません。またまた今日も考えながら書いて行きますので、とばしてもらってもかまいません。



 まぁこの前の「永遠の故郷」の話とダブルところがあるようにもおもうのだけれど、基本的に「人は何故存在するのか」といった問いから始まっている。



 存在するには存在するための理由が必ずあるはずで、物事には必ず原因と結果がある。何の理由も無く人が偶然にこの世界にあらわれて来たとは思えないのだ。



 もし生命の遺伝子を次に伝えるというだけであるならば、人のこの意思とか思考とかは全く無駄というのか、反対に邪魔であるような気がするのだな。



 少し話題を変えて、生物のこの遺伝子のシステムというのは実によく出来ている。もっといえば生命そのものが実に絶妙なシステムで出来ている。人は最も単純な単細胞アメーバでさえ作り出すことができない。でどんな生物も過去からの情報が無ければ決してこの世に生まれることは出来なかった。虫一匹でさえ連綿と続いたその先端にいる。



 ではこの遺伝子のシステムというのは全くの独創なんだろうか。前に「永遠の故郷」のところで書いた「フラクタルの理論」を思い出してほしい。これは自己相似性という話で、雪の結晶みたいなもので、どんどん拡大していってもまた縮小していっても同じ法則で成り立っているという話だ。



 そこから発想して、実は人というのか生命のこの遺伝子のシステムというのは宇宙の生成流転の成り立ちを真似ているのではないかということなんだな。けっして生命だけがこんな絶妙なシステムを作っているのはおかしい。その大元は多分この宇宙の星たちの一生の真似をしているだけなのではないか。だから反対にこの生命の不思議を解明することは宇宙を知ることでもあるわけだ。まぁそれが超新星爆発の話と上手くリンクして益々その根拠を確かにした。



 で、もう一つは、こうやって意思をもった人類を発生せしめた本当の理由は、実はこういったことを考えて欲しかった。誰がといえば「おおいなるもの」がだ。このおおいなる宇宙の話を実は密かに考えて誰かに発表して欲しかったのじゃないだろうか。出なければ人が発生した理由が上手く説明できない。で、たぶんその考えは失敗だったんだな。



 これで終わりか?まだわからん。



 



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宇宙の話 - 2009.06.11(ポケットの窓から)






 

はる 2914

 星の最後は超新星爆発してその成分を宇宙に撒き散らす、今地球上にある一部の元素もそうやって他の天体からやってきたものもあるらしい。



 人の人生に意味があるのか?ということを考えていて、さて我々ひとり一人は単にDNAの運び屋に過ぎないのではないか、もっといえばあらゆる生物は一つの「源」のバリエーションにすぎないのではないかと思い至った。でその「源」あらゆる手段を使って少しでも自らの分身を遠くに運ぼうとしているのだが、我々人類を作ったのにはそれなりの理由があるはずだと考えた。



 普通もし、単にDNAを遠くまで運ぶだけと考えたなら、こうやって意思ある生物を作ったのは間違いだ。我々人類はそういった意味では遠いところに運ぶ邪魔をしている。作為、意思、思考そのものが「源」の考えとは反対のことで、より遠くへ運ぶというだけならば人類を誕生させたのは間違いだった。



 それでも尚且つ、人類を誕生させたのには「おおいなる源」の意思だったとするなら、その意味は何だろう。少し前に考えたようにDNAを電脳に移し変えて宇宙に発信するというものなかなか面白いはっそうだけれど、たぶんそれは違うだろうな。そんなことをしなくともちゃんと情報は伝わるようにはなっているのだろう。もしそのためだとしたら、それはあまりにも危険すぎるだろう。



 最初に戻るのだけれど、この地球の物質には他の天体からやって来た元素も含まれているといったことを考えると、一つの星の滅亡は次の星の誕生に関わっている。この話は何だか我々生物の運命と似ている。



 眠くなった。続きは又。



 



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裸婦クロッキー6/7-4 - 2009.06.10(裸婦クロッキー)






 

 
 Tさんへのメール

 まぁそうですね。あえて芸術である必要はないかもしれませんね。芸術家という職業はありません。作画家とか似顔絵描きとかイラストレーターなどという商売画家は職業ですけれど、芸術家という職業はないように思いますね。

 

 作詞家という仕事はありますが、詩人という職業はありません。芸術家も詩人も自分でいう言葉ではなく、人様が表して「あいつは詩人だから、芸術家だから」というふうに使いますね、良くも悪くも。

 

 仕事でありながら、職業でないそんなあやふやなところのいます。売るために絵を描いていますが、売っているのは私自身の生き方、生き様なんですね。傲慢ですが。だから人様に恥ずかしいような生き方は出来ませんし、常に前に進みたい修行の過程だと考えています。

 

 どちらかと言えば、ストイックな行者とか僧にあこがれます。だから私の絵はそんなすがた、かたちをしています。それでいいように思います。といことで、また




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裸婦クロッキー6/7-3 - 2009.06.09(裸婦クロッキー)






 

 はる 2912

 全盲で聴覚もない東大の先生がテレビに出ていた。印象に残った言葉。「生きていることに意味があるのか?」「絶望+意味=苦悩」



 昨日、我々のDNAの元はどこかの天体からやって来たのではないか?と書いて思い出したのが、超新星爆発のこと。私のHPのbbsのところにリンクしておいたけれど、これを読むと私が言ったことも満更ほら話ではないな。



 この宇宙のほかの天体に知的生物が我々と同じ時間に存在する可能性はほとんどない。またもしいたとしてもその彼らと交信できる可能性はもっと少ないね。なぜなら光の速度で何年もかかる遠方にいる相手とまともに話が出来るとも思われない。まぁそのことは御伽噺だとしても、我々の体の構成要素がそういった超新星爆発の結果宇宙から飛散してきたものだということらしい。

  

 眠いので又明日。



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裸婦クロッキー6/7-2 - 2009.06.08(裸婦クロッキー)





 

  まったくの素人の発想で書くので間違いはご愛嬌。



 遺伝子的にはサルや他の動物と人はさして違いはないらしい。ほんの最後の数列が変わることで、類人猿になったりサルになったり、はたまた蟻やハトにになったりする。これは全く不思議な手品をみているような気がする。そういえば今先端の科学ではどんなものにでもなれる細胞があるそうだ。それを使えばやがては耳や目が不自由になっても自分の細胞で新しいものに替えることが可能になるかもしれない。



 そんなことを聞くと、ふと考えついたことがある。例えばこの世にあるありとあらゆる生物は、実は一つの親遺伝子から出来ていて、色んな生き物もその親遺伝子の変形したバリエーションに過ぎないのではないだろうか。



 その親遺伝子が何ゆえにこの地上に現れたかということは計り知れないのだけれど、思考するサルをこしらえたのにはそれなりの理由があるのではないかな。でなければ親遺伝子にとって我々人類は邪魔者でしかないわけだからね。



 遠からず生物学的な生命は存続が危ういと感じた親遺伝子は、人類に電気的な頭脳コンピュータを作り出させて全てを人工的な電脳空間に移し変えることで生き延びようとしているのではないか、そうすることが少なくともDNAとして生物に運ばせるよりはるかに効率よく遠くまで遺伝子を運ぶことができると考えた。



 地球上に生物として残せなかったとしても、例えばその情報を凄い頑丈な集積回路として宇宙空間にばら撒くとか、素粒子そのものが遺伝子情報になって他の天体にその遺伝子の種を届けるとかすることが可能になったとすると面白いことが考えられる。



 ここのところが重要な秘密なんだけれど、実は人類のDNAの親はこうやって他の天体から届けられたものではないだろうか。どこかの天体で平和に暮らしていた親遺伝子君はやがてその天体の終焉を予測する。で滅んでしまう前に素粒子に自分たちの遺伝子情報を載せて宇宙空間に放出した。そのDNAのかけらが原始の地球にたどり着いて今まで生き延びてきたというわけだ。



 それと同じ事がまた何十年後かにこの地球上で起こる。そうだな、カビやキノコが胞子を空中に放出するように、当ても無く多量に素粒子の遺伝子を放出する場面を空想する。これは多分正解だろう。どう思う?



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裸婦クロッキー6/7-1 - 2009.06.07(裸婦クロッキー)






 

はる 2910



 サルやその他霊長類がどれだけ自我があるのか、あったのか推測するしかないのだけれど、「ことば」が無ければものを考えることは不可能なように思うな。



 文字が無い未開の土地に行ってもそこの原住民は言葉を話しているわけで、そう考える言葉のない人類というのはいないのかもしれないな。



 原始的な言葉の最初というのは自己と他者を分けることから始まったように思う。数学的にいうなら二進法だな。あるかないか、是か非か、いいか悪いか、私かそうでないか・・。



 多分原始的な遺伝子も二進法だったのではないかな。遺伝子も随分と解明されて今では何種類かの塩基の組み合わせということが分かっているのだけれど、言葉も何種類かの基本的な音の組み合わせであると考えれば言葉は遺伝子だというのも満更間違っていないのではないかな。 



 話が展開しないので、話題を変えましょう。



 今日はクロッキーでした。これはいつもの我々のグループが主催する会ではなくて県の文化協会の主催です。まぁなんだっていいわけで、無料でこういったチャンスがあるならそれに越したことはない。大いにたくさんの参加者があって結構盛況でした。



 風景写生などをやっていても感じることなんだけれど、実際にものに対峙して描写するというのは案外本能に近いものかもしれないね。鉛筆を持てば何か落書きしたくなるわけで、ものを見ればそれをそっくりと写したくなるというのは心情的にはよく分かるな。



 この話題も面白くない。また今度。



 



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6/6ちょっと忙しい - 2009.06.06(今日のアトリエ)





 

 はる 2909

 今日は忙しかった。



 人の一生など簡単なものだ。訳なく過ぎてしまう。過ぎてしまえばはやいものだ。例えもう一生あるとしても代わり映えのしない一生になるだろう。私という人間が変わらない限り変化もない。



 我々ひとり一人はDNAの乗り物に過ぎない。どう生き様が彼らの知ったことではない。善人もいれば、何故こんな人間がこの世に存在したのかという極悪非道の人間もいる。善人だけ、必要な人間だけこの世に存在するとすれば、人類などすぐに滅びてしまったのではないかな。面白いことに善がそこそこあるように、悪も適度に必要だということだ。



 細胞は日々新しくなってゆくわけだから、ほぼ永久に生き長らえて行くように思うのだけれど、どれだけなのか分からないのだけれど個々の細胞には寿命が決められていて、ある程度永らえたら再生できないようにプログラムされている。DNA君は古くなった乗り物を捨ててさっさと新しい快適な物へと乗り換えてゆく。



 この地球上にとんでもなくバラエティに富んだ生物が存在するというのも、実はありとあらゆる場合を想定してDNA君が死に絶えてしまわないようによく考えられたシステムのように思う。一度途絶えてしまったDNAは多分二度とは復活できない。



 個々の我々に存在の意味や意義ははっきりいってない。トータルとして少しでも遠いところにバトンを渡すそれだけのことだ。



 DNA君の大きな間違いは人に考える脳を生じさせてしまったことだ。これは多分予想外のことだったのではないかな。この頭脳をもったことで、DNA以外の遺伝子(言葉)を人は持ってしまった。DNAは思考しない。考えることがない。それに比べて頭脳は迷う、悩んで、ゆらぐ。生物学的な遺伝子と作為的な我々の意思がどこかで対立して、両立できないとこに不幸があるように思うな。

 

 まぁ、それもこれも神の配剤だといわれればそうかもしれないけれどね。



 



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今日は雨 - 2009.06.05(ポケットの窓から)







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ラフマニノフ・ボカリーズ - 2009.06.04(ポケットの窓から)




 ラフマニノフ・ボカリーズ

キャサリン・バトル

 

 日曜の夜遅くこれがラジオから流れてくると何故か泣けてくる。そんなラジオ番組があったような気がするな。明治チョコレートが提供していた。学生の頃は深夜放送をよく聴いていた。ところが日曜の夜は深夜放送がなかったから余計に寂しさが身にしみた。そんなことを思い出す。



 ラフマニノフはロシアのクラッシック界の巨人だけれど、こんな美しいセンチメンタルな小品も描いている。

  



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パネル作り - 2009.06.03(今日のアトリエ)






 

 今年の夏から来年の春にかけて個展が3つある。これが多いか少ないか作家によるのだろうけれど、私にとってはこれが限界だな。特に来年の頭にある個展は銀座のデパートの前回と同じでかい会場が計画されていて、この時期にあの箱でやるのはけっこうプレッシャーがかかる。本来それほど大衆的受けする絵柄ではないので、大入り満員は期待できないな、まぁ淡々と今まで通り自分の仕事を見せてゆくしかない。それでだめなら仕方ない。



 私の作品はキャンバスに描かれたものではない。よく誤解されるのだが、油彩画ではないのだ。日本画のようにパネルに綿布や麻布を直接水張りしたものを使う。これが又数が多いので、けっこうな作業ではあるのだな。やる時には一度に50枚ぐらいの水張りをする。



 この間、阿修羅像が乾漆造だというのを読んで調べてみる。漆という自然素材を使ってはいるけれど、その上に麻布を何枚も貼りこんで、さらに木の粉やオガぐずを漆に混ぜて形を整える。これって今のミクスメメディアではないかと思った。



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これさえあれば大丈夫 - 2009.06.02(ポケットの窓から)






MSK

はる 2905

 「心の拠り所3」

 今日もまた徒然に、結論はありません。あしからず。



 「幽霊の正体みたり枯れ尾花」この歌の意味はけっこう真相をついている。幽霊に限らず、お化け、霊、怨念など、こういった類のものは人の作り出した幻にすぎない。「怖い、こわい」と想う心がそういった幻影を生み出すわけだ。



 自分の鬱気質や強迫観念症がどこから来たのか、たぶんに遺伝的なものがあるのだろうけれど、だから仕方ないと考えるのではなく、表面的なものではない深層のところまで降りて意識下に持ってくればコントロールが可能になるように思う。というのかそういったことに興味がある。



 「医者が必要な者が医者になる」という伝でいけば、私には絵が必要だったのか?どうも「絵」ということになるとそうでもないきがするんだな。どちらかと言えばこうやってノートやパソコンに向かって心の中を探りながら文章を書いている方が向いているような気もする。こういうのを何というのかなぁ。私の絵のタイトルで言えば「思索家」だけれど、だからといってこれが文学として鑑賞にたえるものかといえば、全くの×だ。くだらないぼやきみたいなものだ。



 ただ何かしら具体的な「心の拠り所」がほしかった。それは「ことば」でもよかったし、「もの」でもよかった。音楽や文学や絵画でもよかった。何かしら変わらない真実とか真理とか理のようなものが欲しかったんだな。無我夢中で手探りでやって来たけれど、それが今の絵の形になってきたわけで、そういった意味では「絵が必要なものが絵描きになる」というのは意外にあたっているかなと思う。



 恐怖というのは想像のなせるわざだ。想像力のあるものだけがそれにおびえるのだ。具体的に脅かされたり襲われたりしたわけではない。多分その恐怖の種は自分の作り出した幻影なんだ。



 ではその幻影の正体は何かということだな。で話は元に戻ってくる。古今東西、人は安住の地というのをいつも求めている。実際にはこの地上にはエデンの園のような安住の地は存在しない。母親の胎内から滑り落ちた段階から、イバラの道が待っているのだ。けれど少しでも自分にとって居心地がいい環境に居たいと思うのは本能に近いものだろう。



 いつしかその居心地のいい環境が破られて着の身着のまま放り出されるのではないか、楽園を追放されるのではないかというのが潜在的な恐怖の源だ。実際はそんな楽園も安住の地も幻に過ぎないのだな。 



 またまた迷路に入ってしまいました。ではでは。



 



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取りとめもない話 - 2009.06.01(今日のアトリエ)






 

はる 2904

 この間の心の拠り所の続きかな。もう少し考えてみたい。徒然に書くので結論のでる話ではない。



 人はというのか万物はと言っていいかな。我々のような意志をもったものも、また自然や生命をもたない無機物でさえ、ある一定の方向性を持っている。それは物事は一番安定したところに向かうということだろうかね。



 命があることは、ある意味凄く不安定な状態にある。ちょっとしたことで傷ついたり、また病気になったりしてその命そのものは消えてしまう。消えてなくなってまた無機的な状態に戻ってゆく。それがまだ知りえる形では一番安定している状態だからだ。



 時空を短縮したり伸ばしたりを考えに入れれば、物質そのものもそんなに安定したものではない。前に話したように宇宙は猛烈なスピードで膨張しているように見えるわけだから、他の星から見えれば我々も光のスピードでこの宇宙ー空間をぶっ飛んでいることになる。最終的には素粒子になってまさに宇宙の塵となってばら撒かれることになるだろう。千の風どころの話ではない。



 そうは言っても、生命をもったものの第一の使命は「①自己の個体を維持することであり②自己の遺伝子を残す」ことにある。この世に雌雄が存在するのはそういったことを踏まえて、出来るだけ柔らかに変化しながら、自分の遺伝子を残してゆけるからにしぎない。強いものが残るのではない、変化できるものが生き残るという大きな法則があるからだ。それもまた不安定なゆらぎの中で微妙にバランスを取りならが存在している。そんなところがはかなくて美しい。



 そろそろ本題に入ってゆこう。やってはいけないとか、なってはいけないとか、こうなったらどうしようと意識することは、こうありたいとか、こうなりたいと願望することとほとんど変わらない強い力だ。負の力(オーラー)が強い分天秤にかければこちらの方が勝つだろうな。



 人は人間になる前に(自己の意識が芽生える)かなり多くの禁止事項学習する。あれはいけない、これはだめだ、それもこれもだめだめだめ。言葉にはされなくても物心ついた頃はそういった柵の中に閉じ込められている。多分意識はされないかもしれないけどね。あまりこれはいい、こうしよう、と誉められておだてられて育つことはないのだな。親とか家庭と社会とか組織とかいうものはそういったものだろう。私の家はそういった意味ではかなり放任主義ではあったのだけれど、だからこそ反対に目に見えない大いなる力で説き伏せられているような妙な圧迫感があった。



 不安とか心配の大元は自分の心の中にある。それは天が落ちてきたらどうしよう、明日のパンがなくなったらどうしよう、こうなったらどうしよう、おろおろするだろうか、恥をかかないだろうか、そんなところから出てきているように思う。なんとも暇な話だ。



 とりとめもない話の展開になってきた。今日はここまでかな。

 

 



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画家・榎並和春です。HPはあそびべのHARU・ここだけの美術館

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