Andrea Bocelli- Con te Partiro - 2009.05.31(you tube)
・・横文字に随分と間違いがあったようで、家人に注意されました。お詫びして訂正します。しかし気にしていると書けなくなるので、これからも間違っても許してくださいな・・・
日本人は随分と昔からイタリアの歌が好きだった。我々が小さかった頃訳もわからずイタリアのサンレモには世界的に有名な音楽祭があって、日本からザ・ピーナツや伊藤ゆかりが参加したなどということを聞いて、サンレモがどこにあるのかさえ知らないのに彼女たちは大したものだと感心したりしていた。私が子供の頃だったからもう4、50年も前の話だ。
ところがこの音楽祭が日本でいえば紅白歌合戦のように毎年未だに続いていて、その音楽祭のCD]も発売されている。日本でいえば札幌音楽祭みたいなもので、一地方の冠をつけてイベントをやるというのはもう随分と昔から行われていることなんだな。
美術で言えば、ベネチア・ビエンナーレ「現代美術の祭典」はもう100年の歴史が有る。我々はすぐに効果が出ることしかしないからすぐに行き詰まってしまう。この間の給付金なんかもそうだけれど、今すぐ効果が出るカンフル剤のようなものは、その時は元気になるけれど、すぐ又前よりも悪くなる。息の長い支援みたいなものが本当は一番必要なんだろうな。
ところで、この「コンテパルテーロ」はオペラなのかカンツーネなのかよく分からないのだけれど、最初に聴いたのはどこだったろうか。このお兄さんはかなり濃い顔をしている盲目の天才テナーだ。なかなかハンサムだな。段々に盛り上がって行進曲風になってくるところからがいいぞ。最後歌い上げるところはパバロッティーの歌声を思い出させる。「あんたと一緒に行く」ってなことだろうかね。何度聴いても感動的だ。聴いてみてくれ。
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裸婦クロッキー5/24-4 - 2009.05.30(裸婦クロッキー)
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心の拠り所 - 2009.05.29(ポケットの窓から)
「そのひとが最も関心があることを
その人はやろうとする。
医者が必要な人が医者になり
教育が必要な人が教育者をめざす」
ということが書かれていた。なるほどなぁ・・そういうことか。自転車にまだよくなれていなくてよたよたと走っていた頃にこんなことは無かったか?向こうに障害物が見える。そちらに行ってはいけないと思えばおもうほど吸い寄せられるようにそれに向かってしまう。やってはいけない、なってはいけない、と意識すればするほどやってしまう。これって何なんだろうか。不安や心配事は結局自分の中にある観念に縛られているに過ぎないのだな。
私のこの憂鬱な気質がどこから来ているのかと考えると、親や兄弟との関係に行き着く。五人兄弟の末っ子というのは非常に無責任な立場にいる。ほとんど何にも期待されないし、何か責任あることを任されることもない。反対にある一定のルールさえ守っていればそこそこに保護される立場である。それゆえに立場を守るというのか、分をわきまえるというのか、でしゃばった事はしないという非常に保守的な態度を自然に身に付ける。
それゆえに、私の不安や心配事の原点はそういった保護された、安住の場を失うのではないか?という不安ではないかと思う。どっちつかずのあやふやな立場を快く思うのもそんな日和見的な保身から出てきているように思う。
長じてこんなでたらめな生活になってしまったのだけれど、多分子供頃からなってはいけない、やってはいけない生活をいつのまにかしてしまっているのだな。その不安から逃れたいために絵を描いているのかもしれないな。
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たねあかし - 2009.05.28(写真)

バーミヤンの壁画

敦煌の壁画

ロシアイコン1(13C)ギリシャ・アトス山の修道士による

ロシアイコン2(板絵)

ロシアイコン3

ジョット「鳥に説教」アッシジのフレスコ画
はる 2900
何と切りのいいカウントになりましたね。3000の大台ももうすぐです。少しずつ一日一日積み重ねてゆく。このことの意味は大きいですね。往々にして何とか盛り返そうと一日で一週間分など書こうとするともうだめです。こういった日々のメモの意味が無くなってしまうのですな。たった一言でいい。何か残すことです。それが続けるコツです。
表現というのはそうやって日々何事かを刻みこんでゆくことの中から生まれてくるように思う。絵を描く事でもいいのだけれど、デッサンやスケッチみたいなものは運動みたいなもので、何も考えないでやってもあまり意味が無いように思うな。運動能力はつくかもしれないけれどね。心を耕すというのかな、思索するというのか、茫茫と考えることも必要ですな。一気にやってもだめなんです。継続することに意味がある。
矛盾するようだけれど、クロッキーなどをやっていて思うことは、これは運動とよく似ている。ずっとやっていないと忘れるというのか、確かに能力が落ちる。楽器なんかもそうだけれど、昔盛んに練習していた時は簡単に弾けたものが、しばらく弾かないと全く忘れていることに愕然とする。で、また少し練習すると感覚は戻ってくるのだけれど、しばらくやると又飽きてきてやらなくなってしまう。そんなことの繰り返しだ。
まぁ頭を練るというのと腕を鍛えるというのと両方必要ということかな・・。ついついサボってしまうので、偉そうなことはいえませんが。
閑話休題
前から何度かさらした画像もあるけれど、まぁ観る人がみれば私の絵のソースがどこから来ているのか分かると思う。どんな作家も全くオリジナルということはありえなくて、どこからか自分のお気に入りの作品を心のどこかに溜め込んでいる。それが具体的に誰だということはできないかもしれなけれど、確かにあるんだな。それをはっきり意識する、潜在意識に有るものを意識下に呼び戻す必要がある。
この間の村松さんのメルマガに書いてあったことなんだけれど、例えば作家としてどういう人が有望か?てなことがあった。よくやるのが例えば村上春樹のような文章を書く人はたくさんいる。大事なことは「・・・のような人」はいらないということなんだな。今流行っている作家を真似しても寿命は短い。
真似するなら最も古いものからもってくることだ。そこにはオリジナルなもの、変わらないもの、またどこにでも有る普遍的な宝物が隠れている。
そんなことが書かれていて、うんうんとうなずいた。そこのところが大事だな。
私がこうやって種明かしをしてもいっこうにかまわないのは、そこから何を感じ何を選び取るのかは人それぞれで、それがまた作家そのものだからだろう。真似するならどうぞ御随意に・・。
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before & after「ひみつのことば」 - 2009.05.27(ポケットの窓から)
地塗りが終わって、布や土や絵の具を何度か重ねた状態。まだ何を描くのか決まっていない。しかしそうは言いながら、ぼんやりと敦煌の莫高窟やバーミヤンの壁画などの仏や菩薩、もう少し西に出かけてキリスト教のイコンやフレスコ画などがいいなぁと想っている。人が動物から「にんげん」になって、空いてしまった心の内側を埋めるには、どうしても「おおいなるもの」の存在が欠かせない。それがアラーの神なのかイスラムの神なのか古代ギリシャの神々なのか、仏陀や八百万の神なのか知らない。何かそんなものが出てこないか待ち構えている。

「ひみつのことば」F30
で、ゆっくりと現れたのが、こんな人だった。雷が鳴り出したのでここで一先ず終了。
再開。まぁ途中で泊り込みの仕事があったりしたけれど、ほぼ一ヶ月作品を観ていたことになる。色んなシーンが出てきたり引っ込んだり。人物も10人は出てきた。どれも今の私にはピンと来るものでは無かった。それでも諦めないでからかっていると、突然というのか、偶然と言うのか、形が具体的に見えてくるときが有る。往々にしてあまりに強いイメージは説明画になってすぐに飽きが来る。そんなことを描きたかったのかと自問する。
まぁそんなところかな。次にタイトルを考える。出来るだけ絵の説明から離れる。離れるのだけれど、それしかないというタイトルが必ず一つは世の中に存在すると信じる。それを見つけるのが作家の仕事でもあるのだ。「私の絵は護符とかイコンのようなもの」ということをどこかで書いた。その言葉が頭に残っていた。それを言葉で言えば何と言うのだろうと考えた。「おまじない」これさえ唱えれば「安心」するというような「秘密の言葉」があればいいなぁ、、などと想ったのだな。そんなところからこのタイトルととなった。
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裸婦クロッキー5/24-3 - 2009.05.26(裸婦クロッキー)
「スラムドック・ミリオネラー」を観た。期待はしていなかったが、つまらない映画だった。私に面白さがわからないだけなのかもしれないけれど、昨年度のアカデミー賞がこれだったとはどうしても思えない。テーマというのか何が言いたいのか、インドの混沌とか貧困とか運命とかそんなことが言いたかったのかな。
そう言えばここではおなじみの
義さんの息子さんが映画監督メジャーデビューしました。この夏公開予定だそうです。ちょっとここでリンクしておきますので、観に行けたら是非お願いします。
映画『美代子阿佐ヶ谷気分』公式サイト
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裸婦クロッキー5/24-2 - 2009.05.25(裸婦クロッキー)
裸婦ばかりでは飽きる。時々顔の描写を試みる。顔は面白いけれど、一番難物かもしれん。
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裸婦クロッキー5/24-1 - 2009.05.24(裸婦クロッキー)
今日は久しぶりのクロッキーだった。モデルにはわるいけれど、胴長寸胴のスタイルは非常に描き易い体型だった。一番描づらいのはファッションモデルのような体型だ。観るのにはきれいだけれど、美しいものではない。そういう意味で今日のモデルはいいモデルだった。ごめん。
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枯葉剤と除草剤 - 2009.05.23(ポケットの窓から)
昨日かな何気に新聞を読んでいたら気になる記事が目についた。こういったものも普段自分が気にしていなければ素通りしてしまうのだが、たまたまというのか今気になっていることと関係があったりすると文字が飛び込んでくるわけだ。普段は見ていても観えず、聞いても聴こえずということだな。
かの国の除草剤の話。もともと除草剤はベトナム戦争の悪魔の忘れ形見なんだけれど、当時のベトコンのジャングルでのゲリラ戦に往生していた某軍がなんとかジャングルを裸にしたい、それにはジャングルを枯らしてしまえと世に言う「枯葉剤」を飛行機からジャングルに散布した。その後の話は色々あるな。それが元で人間に限らず、奇形の動植物が天から降って沸いたように発生した。それにも関わらずかの国は謝りもしなかった。鬼畜とはだれのことだろう。
今日の本題はそれではない。その後、枯葉剤は除草剤と名前を変えてどこのホームセンターでも売られている。もちろん何倍も薄められて毒性は枯葉剤の比ではないだろうけれど、それでも何度も何度も繰り返して使えばどうなんだろうか。だれがそのことを知っているのか責任はとれるのか?疑問に思う。またまた横道にそれた。
で、新聞の話にもどる。遺伝仕組み替えで除草剤に強い植物を作って、実際に今アメリカの農業はそういった植物を農業生産物として作っているそうだ。そういったことならかたちは違うけれど、遺伝子組み替えで芽が出ないようにした馬鈴薯とか虫のつかない大豆とかは聞いたことが有る。
除草剤に強い遺伝し組替え植物が何故必要かといえば、そういった畑に除草剤を撒けば雑草だけが枯れて必要な植物だけが残るということになる。なるほど、そうかと思うだろう。頭いい。
ところがどっこい、敵もさるものひっかくもの、除草剤に耐性をもった植物が出てくるそうだ。そりゃそうだろう。ダーウィンを持ち出すまでも無く、進化とは強いものが生き残るわけではない、弱くていつも変化していそういったものが生き残るのだ。
今回のインフルエンザ騒ぎでも感じたことなんだけれど、ウィルスなどというものは何か他の細胞を媒体として常に変化して、形を変えて生き残って我々を攻撃してくる。そりゃそうだ。彼らにとっては生死をかけた生き残り戦略なのだから、半端なものではない。人類はそうやっていままでも生き残って来たわけで、ウィルスとの戦いは今に始まったことではない。まぁもっと冷静にといいたい。
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キュウリだよ - 2009.05.23(ポケットの窓から)
唯一登録しているメルマガがある。村松恒平さんの「秘伝」というやつ。これはほぼ気まぐれに一ヶ月に一度くらいしか配信されてこないけれど、毎回内容の濃いことがかかれている。何度か銀座の個展でお会いしたことも有るのだが、この人とのめぐり合いもネットを通じてであったなぁ。
彼の文章は簡単な言葉で書かれているけれど、ずばずばと心のどこかに入り込んでくる。編集者であったことから主に小説や文学一般について書かれていることがおおいのだけれど、そっくり絵画とか芸術と置き換えてもすんなり腑に落ちる言葉もある。
最近きた文章の中に「今の日本は今はやっている事象に全員が集中する」という個所がある。これは小説のジャンルについての質問に答えたものなんだけれど、今回のインフルエンザ騒ぎでも同じことが言えないかね。全員がマスクして通勤通学している写真などを見ると、この国のまじめさというのか均一性というのか、何でも皆と同じでない時と気がすまない、そんな国民性が良くも悪くも感じられて情けないなと思う。まだまだ一人の人間として独立した人格というのか哲学、信仰みたいなものが無いんだな。
だからたぶんまた、上手く世論をまとめられて戦争になったり、誰かをつるし上げたり、いじめたりするのだろう。どこかの国のように「私はわたし、あなたはあなた」というふうにはなかなかならないのだ。人のうわさとか動向そんなものばかりを気にしている。もっと自尊独立しなければ、芸術を楽しむという気風も生まれにくいだろうな。
眠いのでおかしな文章だけど、そのままアップします。いつもか?
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想えば通ず - 2009.05.21(ポケットの窓から)
はる 2893
「想えば通ず」ということが時々ある。それがいつもあれば私は天才になれたかもしれないのだが、たまにそこそこだからそこそこでしかない。いや、ひょっとすると私の想いはこんなものだったのかもしれないな。
人はみな「こうなればいい」「こうありたい」と想うかたちがあるだろう。そう想うだけでだれでもできるのだが、それにむかって努力しつづけることは難しい。色んな障害や困難が待ち構えてはいるのだけれど、それでも尚やりつづけていると少なくとも一歩ずつそれに近づいてゆく。諦めさえしなければね。
この七月に個展をやらせてもらう
山口画廊との縁も不思議なものだ。もともとどうやってつながったのかよくは憶えていないのだけれど、とにかく私が面白いと想う作家を扱っている画廊というので気にはなっていた。でそういったことをブログか掲示板で紹介したのがきっかけだったように思う。で、直接オーナーが訪ねて来てくれてとんとん拍子に個展が決まった。こんなことってあるんだな。きっかけは何でもいい、あぁこんなところで個展が出来たらいいなと想うそんなことが大事じゃないかな。
千葉の方には知り合いがいませんが、機会があれば観てやって下さい。
■
2009年 7/15(水)~8/3(月) 第48回・榎並和春個展・千葉タイトル
「いつかみたところ3」山口画廊
千葉市中央区春日 2-6-7
春日マンション 102
Tel.&Fax. 043-248-1560
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借りているチェロ - 2009.05.20(ポケットの窓から)
学校がある日は一日学校にいることになるので、楽器を持っていくことにしている。昼間の授業と夜の授業の間はけっこう時間があるために、昼寝して過ごすことが多いのだが、時々楽器に触れる。大してというのか、ほとんど進歩が無いのでチェロをやっていますと言うのが恥ずかしいくらいのものだが、まぁこれも一生続けていこうかなとは思っている。キャリアだけは長いのだよ。しかし、弦楽器は難しいなぁ、上手な人が弾けばただの音階、スケールだけでも美しい音色がする。私が弾けば普通のの音階だ。
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さいわいびと - 2009.05.19(ポケットの窓から)

さいわいびと
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イコンとか護符みたいなもの - 2009.05.18(今日のアトリエ)

内職が始まった
いつのまにかこんな制作風景になった。アトリエに据え置きの大きなイーゼルもあったのだが今は部屋の片隅で埃をかぶっている。特に水性の絵の具を使うようになってパネルを立てて描く事が少なくなった。日本画の作家は畳の上で画面を寝かせて描くのが普通のようだが、私の方法もややそれに近い。
何故絵を描くのか?そこのところがよく分からない。絵描きになりたいと思って始めたのだけれど、今の私は絵描きなのかどうか、確かに物は作ってはいるけれど、何か具体的に物を描写することはない。私にとっては大事なもの、心の拠り所みたいなものだとは思うのだけれど、いや物そのものがというより描いている、作っているというそのことが、私にとっては慰めになっているように思うのだけれど、それが人様に必要なものかどうかわからないな。
行者や修行僧が修行の一環として護符とかイコンを描いているのを見たことがあるけれど、あんなのに近いかもしれん。あわよくば人様にも良かれと思うのだ。
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グラン・トリノ - 2009.05.17(ポケットの窓から)
はる 2889
クリント・イーストウッドのグラントリノを観た。あまり先入観もなく観たために意外に楽しめた。まぁ傑作だというほどの映画ではなかったけれど、DVD化されれたら家で観ればいいだろう。
しかし、彼の作品は他はローハイドとかマカロニウエスタンなど初期の頃の作品しか観ていないけれど、息の長い俳優だな。若い頃はニヒルな二枚目の役で「夕陽のガンマン」の頃などちょっと流れ者の武士のようで日本人にも受けていたな。
人は歳を食う。誰もが避けられないことなんだけれど、出来うるなら年取っても恥ずかしくない生き様をしたいものだ。俳優など特に自分をさらす職業だから、その人がどういった人生を歩んできたか如実に出てくる。まぁ面白いといえばおもしろい。
「最悪でも死ぬだけ」というのはどうだろう。死ぬってことはいずれやってくる現実だからね、縁起でもないと言わないで考えてみようか。考え方によればそう悪いことじゃないように思うんだな。別にそれを礼賛するつもりはないのだけれど、極悪人も守銭奴も善人もまた全てのことが許されてニュートラルな立場になれるというのは救いでもある。何もかもが平等にきれいさっぱり無くなってしまうのだからね。それもまたいいかと思うわけだ。
この時期にいうのは凄く不謹慎かもしれないけれど、例えばインフルエンザが流行り始めている。みんながこぞってマスクを買い求める。ワクチンを人数分用意しないと不安にかられている。パニックになって潔癖症になっている。それは用心に越したことはないのだけれど、自分が、私だけはというのは凄く醜いなぁ。個体の維持と種族保存いうのは生命の本能だけれど「うろたえない」という哲学というのか生き方、ダンディズムも必要じゃないかと思うんだ。「最悪でも死ぬだけ」だろう。借金を背負う訳でもないし、人様に後ろ指を指されるわけでもない。多少ご迷惑をかけるかもしれないけれどね。
ちょっとそんなふうに思った。まぁじたばたするとおもうけれど。
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泣きたい? - 2009.05.16(you tube)
マルテの手記の「一行の詩のためには」の一説。「・・追憶が僕らの血となり、目となり、表情隣、名前のわからぬものとなり、もはや僕ら自身と区別することが出来なくなって、初めてふとした偶然に、一編の詩の最初の言葉は、それらの思い出の真中にぽっかりうまれるのだ」
待つことは大切ですね。
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ただ待っている。 - 2009.05.15(ポケットの窓から)
無為、無作為になろうとしても、まぁ凡人には無理な話だ。人がものを考えるひとになった時点で無為ということはありえない。例えば農業にしても単一の作物だけが繁茂するということは自然界にはありえないことで、そこには何かしらの作為がはたらいているわけだ。
天然とか自然というけれど、人が修行して近づけるのは有為自然が限界で、全くの天然、無為自然な状態というのは人間といえるのかどうか、そんな人間がそばにいれば周りにとっても迷惑なだけじゃないだろうかね。芸術家というのは多少天然のボケでも許されるところがあるけれど、それでも限界はあるだろうな。あちらの世界に行きっぱなしの人は芸術家とは言えない気がする。普通の人がそこそこの努力をしてあちらとこちらに自由に行き来できるようになるから尊いのじゃないかね。
絵を描くという行為そのものはめちゃくちゃに作為的な行為だ。無意識に夢遊病のように自動筆記できるといいのかもしれないが、それもまた表現とはいえない気がするな。あくまでも作者は「意識」する。意識はするのだけれど、もう一方でそれを打ち消しているわけだ。
現れてくるのを待ち構えている。また明日だな。
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今日のアトリエ - 2009.05.14(今日のアトリエ)
といいながら、わがアトリエを眺めると確かに雑木林の混沌のようだ。狭いものだから物は段々と上に重ねあげられて、一つの壁になっている。奥にあるダンボール箱にはボロ布が色に分けて入っている。これはボロ布というのか、絵の具というのか私にとって画材ではある。この雑然とした混沌にもそれなりのルールがある。ただ単に無秩序に物が置かれているわけではない。「無意識」ではない。ここのところが微妙だな。
その一定のルールがその人の「好み」とか「嗜好」と微妙に関係する。全く「無意識」というのは自然ではあるけれど創造物ではない。できるなら無意識にあるがままに生きたいとは思うのだけれど、そこはそれ凡人だからどこか意識してしてしまう訳だ。
何だか分からんようになった。まただな。
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裏庭 - 2009.05.13(ポケットの窓から)
午後の一時裏庭に日が通る。ここに来た当事あったコデマリは何時の間にか影をひそめて、反対に私たちが植えた青かえでや花桃や豊後うめなどが勢いを増した。大きな金木犀は二階の屋根より大きくなって隣の樋を詰まらせているようだ。今年は何とか少しは剪定したけれど、いつまでこんなことができるのだろうか。それにしてもこんな裏庭でも、春になるといっせいに芽吹いて、毎年五月の新緑の頃は一番美しい。
ほとんど手入れもしないので、まるで雑木林のようなありさまだ。これから夏になるとやぶ蚊の温床になる。隣近所のはなつまみだろうか。しかし、私はこの混沌とした雑草も含めた雑木林が好きなんだ。何だかどこにでもあるようなしゃれた洋風の庭とか、盆栽のような松や楓が絵のように取り澄ましたような日本庭園など面白くない。消毒も水撒きも施肥もしないので、自然淘汰されていつのまにか消えてしまう木も有る。下草が枯れてやがては自然の堆肥になってゆく。。ときどき繁茂しすぎると剪定する程度。私はただそうなるように見ているだけ。これって私の絵の描き方と似ている。
庭木もやっぱりその住人を現している。そのことに気づいている人は少ないだろうな。洋服や靴などには気を使うけれど庭の体裁には気配りしないのはおかしいな。絵を描くのと全く同じことだと思うんだ。絵だけ特別おしゃれな絵を描いても実生活がおしゃれじゃなきゃそれは嘘だろう。色んな顔つきをしているけれど、それはまったくあなた自身であり、私自身でもある。どうでもいいならどうでもいい庭になる、その人の好みや嗜好がそのまま出てくるのです。とても興味深くありませんか?
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カザルス・鳥の歌 - 2009.05.13(you tube)
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ニューシネマ・パラダイス - 2009.05.12(you tube)
こんなことが出来るんだ。さっそく好きだった映画音楽を貼ってみた。これは何度聞いてもいい音楽だね。映画のシーンが思い出されて胸が熱くなる。何度でも泣けてくる映画だ。
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国展最終日 - 2009.05.11(ポケットの窓から)

F君きみはここにいる。
はる 2883
実は昨日から東京にいる。今日は国展の最終日で色々もろもろの片付け、そして打ち上げとなる。カタログのスタッフは8人でかかっている。一時のことではあるがそれなりに一致団結してことにあたる。最盛期には何泊か泊り込みでやる、それゆえ何かしらの連帯感、仲間意識というのが芽生えて、まぁいっとき学生時代のような面白さがある。
いままであまりそんな風にカタログなどを見たことはないのだけれど、実際はこういったスタッフが陰で働いていたわけで、こうやって自分がやってみて初めて分かることも多いな。
絵描きなどという仕事は、ほとんど自分だけの事だけを考えている自己中な人間で、組織で徒党を組んでやることは不得意な連中なのだが、学生時代や社会生活の中で身に付けておかなくてはならない、徒党を組んでやる楽しさみたいなものを、私などは還暦近くなって初めて知った感じがする。しかし、やっぱり疲れるなぁ・・。何度もやりたくはない。
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5/10母の日 - 2009.05.10(ポケットの窓から)
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隣の畑の様子 - 2009.05.09(ポケットの窓から)

隣の畑の様子
何と言うことはないものだけれど、自分が植えたものと言うのは気になるものだ。大して世話を焼くわけでもないのだけれど、種をまいたものは発芽して、やがては大きく茎や葉っぱを伸ばしていつのまにかそれらしいカタチになってゆく。
お袋は実家が農家だった割にはお百姓仕事を好まなかった。当時の農家の仕事の過酷さを知っているから、今更お百姓の真似事などしたくなかったのかもしれない。それでも裏庭に小さな畑を作っていたこともあった。きゅうりやトマトイチゴなど季節の野菜をその枝から直接もいで食った覚えがある。時々小さなイチゴを見つけて敷き藁代わりに草を敷いたことなどを思い出す。
あれからほとんど本格的な畑などしたことはないのだけれど、そんな古い記憶が土を触っているとよみがえってくる。自分にもそんな一面があるんだと今ごろ気が付いた。新しい発見かもしれないな。
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今日のアトリエ5/8 - 2009.05.08(今日のアトリエ)
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血糖値 - 2009.05.07(ポケットの窓から)
はる 2879
(主治医の話)
健康な人でも血糖値が150を超えると自然にオーバーフローで糖が出てきてしまう。普通はそうならないようにインシュリンが出て正常範囲を保つようにコントロールするのだが、その制御が利かなくなって、いつも血糖値が150を超えてしまうのが糖尿病という厄介な病気である。
食べたものは一度胃でゆっくり消化される。胃は消化だけではなく、腸に行く前のストックの効用もあるわけで、一度に吸収がおこらないようにコントロールされている。特に糖は一番最初に吸収されてまぁ疲れた身体を回復させたりするわけだ。ところが、胃を摘出した場合、食べた物が直接腸に入って吸収される。とどうなるかといえば、血糖値がいきなり150を超えてしまう。で結果的に糖が出てしまうということになる。
病気ではないのだが、無自覚にこれを長く続けているとインシュリンのコントロールが出来なくなって結果的には擬似的な糖尿病になるらしい。胃を摘出した人が注意するべき事柄の一つである。
無計画に、無自覚に、無制限に糖分を摂取することを控えなければならないようだ。まぁいずれにしろ気をつけた方がいい年齢では有る。
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私の絵は絵ではない - 2009.05.06(ポケットの窓から)
これは、コラージュをしているところです。インド綿がほとんでですが、自然素材のプリント地を適当に画面に貼り付けてゆきます。まぁいいかげんといえばいいかげんなんです。何が出てくるのか、何描くのかも決めていない。この後水性の絵の具をたらし込んでほとんどプリント模様は見えなくなってしむのですが、どこかでちらちらと見えるのが何かしらのイメージを呼ぶわけです。
アクリルのエマルジョン樹脂というのはかなり強固な合成樹脂で、木工用のボンドに近い接着力をもつ。こうやって木材と布を交互に張り合わせてゆくと、人が作った造形物としては鉄などの金属などより強固なものが出来るのではないかと思っている。例えば天然の樹脂といえば太古から漆の樹脂とか膠なども天然の樹脂の範疇にはいるだろう。こういった漆器などは長い間土の中に入っていてもほぼそのままの状態で出土したりする。鉄などはさびてぼろぼろになるのに比べてはるかに強固だということになる。
こうやって布や土や絵の具を幾度もなく張り合わせて何かしらの創造物を作ってゆくと、確かにここにある変わらない手触り、肌触りみたいなものが、何となく心地いい。そういった中から私が描くのではない、見つけた形がイメージとして具体的になってくればいいのかなと思っている。
私の絵は描かれたものではない。私の絵は絵ではない。
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銀座の画廊 - 2009.05.05(ポケットの窓から)
はる 2877
銀座のギャラリーを探さなくてはならない。これがなかなか問題だとは思っている。若い頃、そう30代で銀座で個展をやろうと決めた頃は、体力もあって自分なりに履歴や作品集を持って片っ端からたずねて歩いたおぼえがある。今はもうそんな体力は無い。
むろんその頃は企画になる(画廊のお眼鏡にかなう)とは考えてはいなかったので、お金さえ出せばどこだって出来た。ただこれも問題が多い。銀座には貸し画廊はやたらと多いけれど、安かろう悪かろうではないけれど、無名の作家が名も無い貸し画廊でやっても誰も来てはくれないのだな。
反対にこちら側が画廊の履歴というのか、これまでにやった作家のメンバーを見て、その中で全部は企画ではないだろうけれど、将来的にその画廊の企画作家になりえるだろうか?ということを考えてゆかねばならない。まぁこれはあくまでも作家として食べてゆこうかと考えた場合だけれどね。
作家は自分の作品をとことん大事にする。まぁ当然だけれど、それが商品として流通するかと言えばほとんどの場合、値があってないようなものなんだな。ここのところがまことに微妙だ。客観的な値段などないからね。画廊というのはそういったある種の幻を売っているところなんだな。だから普通の商売とはちょっと違う。
オーナーは自分がこれだと思った作家に眼をつける。そして企画して何年かかけて世の中に認めさせてゆく。まぁそれほど大げさなものでなくても、その作家付のコレクターを作ってゆけばいいわけだ。知ってる人は知っているというので充分だ。そういったものだろう、絵画というものは。どこかの雑誌ではないけれどカタログを作って販売するものではない。
画廊も商売でやっているわけだから、お互いに持ちつ持たれつの信頼関係が築けるかどうか、はっきり言えば画廊に儲けさせなければ相手も本気にはならないのだな。そこのところを勘違いすると長くは付き合えない。
長く付き合える画廊を探さなくては。
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バッハは宇宙の音楽 - 2009.05.04(ポケットの窓から)
はる 2876
バッハは宇宙の音楽だな。胎児が聞く母親の心音に近いのかもしれないな。今日はFMでバッハの特集をやっていたけれど、ジャズ風にアレンジしてもバッハの真髄は消えない。五百年の時間を一気に旅できる。いい時間を過ごした。
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忌野清志郎が亡くなった。 - 2009.05.03(ポケットの窓から)
忌野清志郎が亡くなった。個人的にはそれほど思い入れもないのだけれど、歌唄いとしてはいつも大衆の側にいて、その姿勢には共感するところがあった。芸能というのは所詮ひかれ者の怨み節のようなところがあってね。体制側からのお墨付きや奨励を受けたものは面白くも可笑しくも無い。まして保護されたものなどいつかは消えてしまう運命にある。
50代の後半ということで自分と同じ世代であり、彼らが出てきた頃も良く知っているので何となく親近感がある。高田渡などもそうだけど、一時代を築いた彼らもそろそろあちらの世界に旅立つ奴も出てきたな。
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