忍者版ブログ初めての投稿です。以下は寂しいので過去のコメントを転載しときます。
はる 2687
イタリアに行く前と帰国後に何が変わったか?とよく言われる。どこか学校に入って絵を勉強したわけではない。大体絵の道具はスケッチに必要な携帯用の水彩道具しか持ってゆかなかった。
せっかく外国に滞在しているのに学校に行って時間を取られるのはもったいない。考え方のちがいだけれどね。色々と見てまわる事、上手いものをたらふく食うこと、それで出来たらスケッチする事。自分に課したのはそれくらいだ。後は夫婦で旅行ばかりしていた。まぁちょっと長い休暇みたいなものか。
行く前からひょっとすると油絵は描かなくなるかもしれないという予感があった。なぜなら画面の中に他の材料を持ち込みたくても油彩の場合、紙のコラージュぐらいが限界だったからだ。それからその頃に興味を持っていた作家が有元利夫でテンペラとかフレスコなど油彩以前の画材に興味をもっていたからだ。
日本人である私が何故西欧の伝統である油彩画を描くのかという疑問が滞在中にどんどん大きくなってきて、帰ったら水性(ミクストメディア)に挑戦しようそればかり考えていた。
、 はる 2683
聖書の逸話には詳しくはないのだけれど、時々なるほどなぁと感心することがある。絵の中に何かしらの物語が欲しいと思った時、どこかできいた聖書の話を自分なりにアレンジして絵にすることがある。
それはあくまでも私の感じた聖書の話であって、もっといえばキリスト教という特定の教義の話でもない。仏教や道教、それから日本の土着の道祖神信仰とか、眉唾ものの陰陽師や占い師の教義が入っているかもしれない。それはそれで私の作り話だから面白いのじゃないか。
日本は考え方によれば、シルクロードの東の最果て国であり、ありとあらゆる文明の流れ着く、ごった煮文化の国ということも出来る。いいか悪いかは別にして、これほど柔軟な発想といろんな国のいいところを吸収できるアメーバーのような国は他にないようなきがするな。
それは一神教のイスラムやキリスト教とは大きく異なり、八百万の神がいて、争うことなく上手く住み分けているそんなところから来ているようにも思う。アラーの神のように生きるためには何が何でも自説を通そうとする、「争いの神」とは明らかに違う。
まぁだからというわけでもないのだけれど、色んな物語を自分風にアレンジできる風土というのは反対に和風ということができないかな。
タイトルの意味は私のBBSをご覧下さい。
はる 2682
街のギャラリーなどでよく見かけるのが、綺麗な花やどこかで見たような西洋のお城だったり、若い綺麗なご婦人を描いた絵だ。絵を商品だとするならば、まぁ売れる絵がもっともいい商品ということになるのだろう。
需要と供給の関係でいえば、そこで売られている商品が一番求められている商品であるわけだから、まぁ多くの人が絵画に何を求めているのかということが分かる。
専門書店でない普通の街の本屋などでは、一番良く売れるベストセラー物がやはり店頭に並ぶ訳で、後は雑誌とかコミックが一番売れるのだろう。コンビニなどは売れないものはさっさと消えてしまう訳だから、今の商売では一番商品管理が徹底している業種ではないだろうか。だからあれはお店ではなく、親会社のただの出先機関だという人もいる。
需要があるからそれにこたえようとする作家がいるわけで、まぁそれでなんとか生活できる絵描きがいるとすれば、まぁ満更悪いとも言えない。
こんなことを書きたくて書き始めたわけじゃない。
絵は個性的でなければいけない、と思っている人が多いでしょうな。だから大きな団体展などを見ればよく分かるんだけれど、みんながみんな「個性的な私」というのを主張している。
個性的でない人間はちょっとでも他と違いを見せるために人と違った格好をしてみたり、派手な言動で人の注目を惹いたりする。若い人は特に自分というのがまだ良く分かっていないから、そうやって表面的な違いを「個性」と勘違いしている場合が多い。
よくよく考えてみると、そうやって無理やり演出された「個性」というものはどこかに無理があるわけで、一生他と違うと言う事を主張し続けなくてはならにことになってしまう。それが本当に自分から出たものならそれもいいかもしれないが、段々に辛くなるような気がするな。
ブログなどもそうだけれど、個性的な人目を引くネタを探して書いているようではいずれネタはつきてしまう。そんなブログは長続きしないようにおもうな。こういったどうでもいいようなことでも、書いていればそのうち自分の中から自然に書きたいものがでてくるわけで、探してでてくるわけではない。
他と張り合うことを意識した個性などという物は偽物だ。人などどうでもいいのだな。自分自身であること、自分を知ることこれが全てだ。無理に個性的である必要はない。だれも私にはなれないのだから。
、 借りている倉庫
我が家は狭いので、今まで描いた絵は違う場所に倉庫を借りて保管している。これはその一部です。分量的にはこの5倍はあります。小さく見えますが、手前の方は130号のパネルですから、壁のようにでかいものです。おおっぴらには言えないので内緒にしてますが、大家さんの好意で貸してもらっているのです。ありがたいことです。いずれは出て行かなくてはならないのですが、今は出来るだけ考えないようにしています。
この場所はビルの三階にあたるので、光の具合がとても素晴らしく、さながら大きなスタジオという感じです。というわけで、ここにいる間に昔の作品の写真を撮っておくことにした。昨日から少し整理を始めたんだけれど、なにしろ学生の頃からの作品もなんでもかんでも取ってあるので、けっこうな量だ。これからもどんどん作品は増えて行くわけだから、適当なところで処分する必要があるだろうな。
卒業制作がトータルナンバー5で始まっている。今、1100番台で小品を含んだ総数だから、当然全てがここにあるわけではない。大きい作品は150点ぐらいかな。キャンバスの頃の作品ははがして何枚かまとめて釘つけしてあるので、下のほうの作品は見ることが出来ない。体力のまだ残っている今の内に少なくとも代表作の撮影をしておきたい。
写真として残ってはいる。それにWEB美術館のギャラリーのなかに資料として一応みることはできるのだけれど、実際の作品はこのあといつまでも残して置く訳にはいかないだろう。いずれは処分しなければならない。その時のためにも代表作は自分で選んでおきたい。
昨日セレクトを始めて、大体30点ほどを選んだ。学生の頃の習作を含んだしぼりにしぼった30点だ。今年の新作を含めて個展までに小さな冊子にでもできればいいかなと思っている。
撮影してくれたM氏に感謝。ありがとう。
、 はる 2675
長年なんの不都合もなく淡々とノルマをこなしているように見えた人が、実はとんでもない使い込みをしていたなどというのが、新聞種になったりする。何億などという金額の使い込みが、よくそこまでばれなかったのか、不思議に思うけれど、案外灯台下暗しで見過ごしてしまうのかもしれない。
官僚ばかりが悪いわけじゃないけれど、役人というのは仕事をしないなぁ。社会主義が色んなところで破綻してしまったのが、分かるような気がする。たとえば今も地方に行けばバブルの頃にぶったてた大きなホールがあるけれど、まともに使われている施設と言うのは少ないのじゃないか。
で、中に入ってるレストランなり喫茶店などを利用してみればいい。どこかの学校の文化祭の模擬店以下のサービスしか受けられない。どんよりしたやる気のない雰囲気。店を開いているというだけで給料がもらえるわけだから、お客など来ないほうがいいわけだ。
たとえば、事故米が必要量以上輸入されて消費されているというのが分かった時点でどこかおかしいとは思わなかったのか?工業用のりの生産だけでこれだけの事故米がどうして輸入されるのか、そこのところは考えなかったのかな。
年金の問題もほとんどあきれ果てた役人根性だ。わが町にも水道料金を何年にもわたって徴収しなかった役人がいたけれど、そりゃそのまま仕事しないで給料もらえりゃ放って置くわな。
まぁ自分だって、偉そうなことは言えない。そんな立場になれば同じような事をするかもしれない。あれが悪い、これが悪い、とやっていると事の本質を見失ってしまう。なんだろうな、こんなことと似ていないか。
これをやれ!といってやらされる仕事というのはむやみと疲れる。疲れるもんだから、人の目を盗んで出来るだけサボろうとする。サボることに自分の能力を使う。人には色んな能力があるんだけれど、一番空しいのはそのことに能力を使う事だ。
反対に自らやる気になった仕事というのは最大限に自分の能力を使う。出来るなら人というのはそうやって生きてゆきたいものだ。
最初は小さな違いだと思う。反対にこうやれ!ああやれ!と言われた方が効率はいいんだ。目的が見えやすいし、ハッキリしている。けれど、そんなものは人間の能力は簡単にクリアーしてしまうのだ。そうなると極端に退屈する。そうすると、サボる、仕事をしないことに能力を使うということになるのだな。
まぁ本質的に創造的でない管理的な仕事というのはこういったことに陥りやすい気がするなぁ。そういった仕事でもいかに創造的な仕事に変えてゆくかというのがとても大事なことだ。
ちょっと違うけれど、教師の仕事もそんなもんだ。私は絵を教えようなどとは思っていない。絵など好きな奴が好きに描けばいいのだ。どんな奴でも持っている、ささやかなやる気に火をつけること。後は自然に燃えてくれるのを待つ。それだけでいいのだ。
、 いつも行く「ゴリラ」のマスター
俳優の緒形拳さんが亡くなった。別に知り合いでもないので身近な死というわけでもないのだが、何故かじんわりと心に来るものがあるなぁ。まぁいずれは人は死んで行く存在だから、仕方ないことなんだけれど、生き方が潔くてかっこよすぎ。
選択肢として入院治療して少しばかり長生きするというのと、積極的な治療はしないで仕事をまっとうするというのがあったようだ。入院治療してしまうと仕事はもうほとんど期待できない。それに復帰してもまわりはそういった目で見るわけで、俳優としては死んでしまう。
で、彼は最後まで俳優の仕事を優先した生き方を選んだ訳だ。先日最後のドラマをみたけれど、結構痛々しくて見てられないな。それも息子が癌を知って生き方を考えるというテーマのドラマだから、なんともはや私小説を見るようで臨場感がある。作者は知っていたのかなと勘ぐってしまうな。
いい役者でした。合掌
、 はる 2672
「一本の線9」
これもまた徒然に書いて行きます。
何処かのメルマガに「表現と技術」といったタイトルでコラムが載っていた。いつも私も考えているようなことが書かれていたので、参考になった。
私が描いている絵とデッサンに共通性があるのかといえば、ほとんどない。デッサンをして下書きをして絵の構想を練るといった描き方をしていないということもあるけれど、リアルな再現描写的な絵を描きたいと思わないからだ。
綺麗な風景や人物をそっくりそのまま描いたとしても、写真より上手く描ける技術はないし、まぁもし仮にめちゃくちゃリアルに物が描ける技術があったとしても、機械と張り合って勝ったとしてもあまり意味もない。
画家として他と競って行く場合、「上手い」というのは一番もろい持ち駒だと思う。「上手い」奴というのはいくらでもいる。それこそ星の数ほどいる。他と比べた場合、そこのところで優劣を競い合うのは大学の入試までだろう。
再現描写的な技術というのは大体一年か二年で習得できる。無論程度の差はあるのだけれど、絵を描くのが好きであればそこそこ描けるようになる。
問題はそこからだな、大体がそこで絵を描くモチベーションを失ってしまうんだな。
絵は下手くそな方が長続きするし面白い。下手くそというのはどこかに欠陥があるわけだ。その欠けているぶぶんというのが、その人の大事な「個性」になりうるんだな。だから大いに下手くそな方が、多くの宝物を(まだ光っていないけれど)持っているということになる。
絵を描くというのは描く事で「自分を探っている」ことだ。なぜ絵に惹かれるのか、こんな風景に魅力を感じるのか、それを絵を描くという事で探りだしている過程だな。まぁこれは絵だけじゃない。「表現」そのものがそういったことの繰り返しで深まって行くのだな。
では、基礎的な描写やデッサンは必要ないか?といえばそうではない。私の場合描写の技術というのはほとんど役には立っていない。そこそこの技術しか持ち合わせていない。けれどそこから得た「ほんものを見る目」「ものを見るものさし」は他の方法ではなかなか得られないものだ。
眠いので続きは又だな。
Author:あそびべのはる
画家・榎並和春です。HPはあそびべのHARU・ここだけの美術館