写メ
はる 2598
個展楽日
今日は最終日。ところが昨日の続きで天気が不安定な様子。時々雨が降ると予報ではいっていた。
朝のテレビ小説なるものを久しぶりに見た。健康そうなヒロインがいつものようにでてくる。役者というのも面白そうな仕事だな。
表現ということを考えると、いつも同じことに思い至る。たとえば「幸福」といった課題を与えられたとしよう。その場合、その人間がどういった幸福感を持っているかということが問われる。
一通りのありふれた表現ならだれでも考えられるけれど、できるだけオリジナルな「幸福観」の表現を求められる。人に伝えようと考えた場合、どうすれば解ってもらえるのか、そんなことを具体的に考えなければならない。
そういったときに役者なら今まで生きてきた人生観みたいなものが自然に出てくるわけで、裸に近い生身の自分というのが自然に出てくるのだろう。
とそこまで考えると、あぁここでも同じ事が出てきた。表現するということは恥かき行為なんだ。
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さて、 これで今年の神戸は無事終了しました。暑い中でかけていただいて本当に有難う御座いました。今度関西では、来年の二月に梅田の阪急デパートでお会いしましょう。それではまた。
写メ 1、下から順番に午前中の天気
2、午後二時半ごろ、雨が降り始めた
3、そして二時半ごろのお向かいの有名なパンやさん(夕方の雰囲気)
はる 2597
個展5日目
今日は午後二時ごろから真っ暗になって雷がなりヒョウが降ってきた。どえらい天変地異がおきそうな感じ。まもなく熱帯のようなスコール。近くで雷が落ちて電車も止まったようだ。
無論こうなってしまえばお客さんは期待できないわけで、画廊の中で好きなグールドのゴールドベルク協奏曲を聴いて過ごした。やぶれかぶれなところもあるあるけれど、まぁ嫌いではない。都会のど真ん中で日常ではない時間を過ごす。どんなところにもどんな時にも少しばかりの楽しみはある。
明日午後4時に終了です。
写メ
はる 2594
個展2日目
午前中は昨日の疲れが残っていて、体調が今ひとつだった。午後からは盛り返す。それにしたがってお客さんもわりと途切れなくやってきた。
せっかく個展を開いてもお客さんが来なければ全く無意味。くたびれもうけ。どうしても小さな会場だと作家とマンツーマンになるケースが多いので、気後れするようだ。
無論買ってもらいという気持ちは山ほどあるけれど、これは絶対に無理に勧めることはない。こんなに暑いさなか、見て貰えるだけで有難いわけで、そこのところははっきりしておきたい。
反対に作家と話をする、質問をする、いじめるぐらいの気持ちで来て欲しい。それが直接会場に来る面白さだと思う。
。是非見に来てください。ではでは。
写メ
はる 2591
個展前前日飾りつけ
今日は飾りつけ。いつもの相棒は熱を出して撃沈。私と画廊のオーナーとでぼちぼちとやる。今年で何度目かな、まぁもうかなり慣れているので、そう時間は食わない。
出来るだけ変化が付くように、尚且つトータルなイメージを壊したくない。絵の展示はけっこう難しいと思う。素人の展示はすぐに分る。明らかに何も考えられていない。
絵そのものも勿論大切なんだけれど、個展の場合会場の演出というのも大事な要素だと考える。いい絵も置かれた環境が悪ければへなちょこに見える。
キャプション(題名)をどこに貼り付けるのか、そんなことも大事だとおもうなぁ。しっかり読んでもらいたいと思うなら、読みやすい位置にはるべきだ。腰をかがめてしゃがみこんだ姿勢を強制するような位置は意図的なら別だけれど、普通はxだ。
高さは一応目線より少し下辺りが中心になるようにする。大人の女の人がみて見やすい高さがいいように思う。大体床下から135cmぐらいかな。あまり高いと安っぽくみえる。
照明も大事だな。私は全体的に薄暗いくらいのほうが好きだ。でスポットで部分的に絵を照らす。
絵がよければ小ざかしいことはしないほうがいいという考えもあるけれど。私は見せ方も含めて作品だと考えている。自分が持っているもの全て、あるものないもの全てが作品だ。出し惜しみはしないつもりだ。なんでもかんでも見てください。そう、これだけの人間です。
写メ
はる 2590
今年は東京まわりで神戸に行くことにした。時間的には少し遠回りになるのだけれど、便利という点では数倍うまみがある。
例の「のろいの身延線」で静岡経由でゆくとなると、本数が極端にすくなくなる。それに、ひかりとかこだましかここには止まらない。そして結局神戸には止まらない新大阪どまりだったりする。
少しの料金の差なら東京にでて「のぞみ」で一発で新神戸まで行ったほうが結局ははやかったりするのだな。それにやっぱり華のお江戸を経由して旅に出るのは楽しかったりする。
ローカルはローカルなりのひなびたよさはあるけれど、これから頑張って仕事をするという景気付けの気分にはならないなぁ・・。
明日は午後から搬入です。んじゃまた。
写メ
はる 2588
「存在の理由2」
前にもどこかで書いたけれど、私がここに存在するということとこの宇宙が存在するというとは同じ原理で成り立っている。物事は全て部分が全体の一部を表していて、その部分をみることで反対に全体を推測することができる。
何だか小難しいことを書いているようだが、ようするに私の中にこの宇宙の創生から消滅までのプログラムが気が付かないけれど記憶されているということなんだな。それを解き明かす事ができれば「我々はどこから来てどこにゆくのか?」という答えがはっきりとわかるように思う。
さて、細胞のなかの記憶装置としてDNAが今最重要課題で解き明かされようとしているけれど、もっとも重要なこの「宇宙のなぞ」の遺伝子は我々の脳細胞のなかにあるのではないかと考えている。
はっきりいって宇宙の広さと時間も我々の脳細胞のなかにあるのじゃないかと思っている。ただこれは単純な私の空想でしかないので公にすると笑われるでしょうね。しかし、近い将来この謎が解き明かされる時がくるように思う。
さて、それでいずれ消えてしまうであろう我々をどういった理由で誰がこの世に使わしたのかということだな。
写メ
はる 2585
だいたいね、生物がこうやって生きているということ自体が不自然というのか、異常な状態だ。エコだエコと叫びながら人がこうやって生きている事自体、環境に対して悪い訳で、究極的には生物などいない方が環境のためにはいいわけだ。
他の生物が何億年もかかって蓄積して二酸化炭素をここ百年ぐらいでばら撒いているのだから、どうやっても地球はおかしくなる。
それにしても宇宙全体から見れば何てこと無い訳で、例え人類が滅亡しようが、どうなろうが宇宙には何の変化も無い。相変わらずそのまま又何億年も存在するのだ。
生物というのは地球からみればカビや細菌みたいなもので、繁殖しすぎるとやがては自ら発生させた毒で消滅してゆく運命にある。今はその過渡期にあるように思うなぁ、寄生生物の運命と言うのはガンにしても同じようだけれど、母体と共存共栄している間は平和だけれど、やがては食い尽くして母体が死ぬと寄生生物も死ぬ。
いいたかったことはこんな事ではない。
偶然かもしれないけれど、地球上に生物が発生した。ゴミみたいな単細胞生物から始まって、何億年もかかってこうやって意志をもった人類が生まれたわけだ。
あらゆる生物が遺伝子の方舟として今現在を生きている。今ある命は次の命を生むただそれだけのためにあるわけだ。オスとメスがあって有性生殖するのは、クローン生物のように、一通りの遺伝子しか持ち合わせていなければ、もしもの時に全滅する可能性が高いからだ。色んなバージョンを作ることによって99%の生物が死んでも1%生き残れば再生が可能だからだ。これはまったくよく考えられたシステムだ。
パソコンのウィルスなんかもそうだけれど、例えばみんなが同じ機種で同じOSなら、誰かが考えた一種類のウィルスで全滅させることが可能なんだけれど、それがマックがあったり他のOSがあったり、ウィンドウズでもバージョンが違うために、全滅せずにすむわけだ。
そうやって今ある生物は過酷な環境の変化に対応して生き残ってきた。たぶんこれからも。例え極悪な環境になったとしてもそういった環境に対応した生物が生まれ変化して生き残って行くのだろう。
個々の「人生の意味」などそこには存在しない。あるのはただ次の世代にバトンをつなぐ、それだけの意味しかない。
けれどもと私は考える。本当にそれだけなのかなぁ。物事には必ず原因があって結果がある。何の理由もなく突然結果だけ現れると言うような事はないのだな。何かしらの意志が働いているのではないかと思うのは自然なことのように思う。
つづく
写メ
はる 2583
今日は神戸行きのチケットを買った。いよいよ個展が近い。個展前の作家の心境はどんなものか時々聞かれるけれど、私に関していえば楽しみなだけだ。大体展覧会が始まってしまえばもうどうしようも無い訳で、ただただお客さんが来るのを待つだけだ。
神戸を離れてもう35年もたつけれど、地元といえば神戸というイメージがある。正確にいえば神戸で生まれたわけではない。親父の仕事の関係で兵庫県内をあちこち転勤したらしい。生まれは淡路の洲本らしい。生まれてすぐに兵庫県の三田の方に引っ越した。私がうろ覚えで記憶があるのは、その後の三木の県の宿舎からだ。それでもまだ三歳にもなってなかったらしい。
その後神戸の垂水の方に引っ越した。幼稚園は垂水幼稚園。そこらあたりからのイメージは強烈に残っている。この間、たまたま東京の展覧会で同じ垂水幼稚園の卒園者と一緒になってビックリした。で、その後の事を聞いてまたビックリで同じ高校の先輩だった。考えてみれば不思議な事じゃないのだけれど、驚いたな。
こうやって思い出すと懐かしさがこみ上げてくる。楽しみだなぁ。
写メ
はる 2581
今日は暑かった。いよいよ夏になって来ましたね。
昨日洗濯機が壊れた。これだけ暑くなって洗濯できないのは困る。仕方が無ので例の家電の量販店に行く。こういった家電はどんどん新しくなって、見れば欲しくなるので必要以外に行かない事にしている。
洗濯機一つにしても全くピンキリで、何でこんなに値段が違うのか分からない。要は洗濯と脱水ができれば事足りるのじゃないか、あとは乾燥とか色々あるけれど、これだけエコだエコだといわれているご時世で、わざわざエネルギーをかける必要などない。
まぁこれは私の内なる声で大っぴらに声を出して発言したもではない。まぁ適当なところで手を打ってもらった。何とか無理を言って遅くても今日中に届けてもらうことにする。そういう訳で今日の予定は全てキャンセルとなった。
明日はこの間の公募展の授賞式。そのあと総会やら懇親会などがあって忙しい。
個展が近づいて来た。ニ三日前にDMを出したけれど、まだつかない人は手違いでもれてしまったのかもしれない。連絡いただければ送ります。ンじゃまた。
写メ
はる 2579
前に書いたことがある骨董やの親父が昨日亡くなった。20年も前から「もう死ぬ、もう死ぬ」と言ってた割には長生きしたと思うのだが、つい一ヶ月ほど前に偶然街で出会って夫婦で昼飯をご馳走になったのが最後になった。見かけは骨董屋の親父そのもので、慇懃で偏屈な親父だったけれど、ふところの深い魅力のある人だった。もう会えないと思うと、何だか少し寂しいねぇ・・。合掌
いつも思うのだけれど、こういった日記はなかなか難しい所がある。私は本名を晒しているので探ろうと思えば個人を特定できる。まぁ作家の宿命というのか、こういった媒体は広報活動の一種だと考えているので諦めてはいる。
けれど、わたしの家族とか周りの知り合いは預かりしらないことで、知らないうちに自分に関係したことが書かれているというのは嫌かもしれない。現に私のかみさんは自分のことは書かないでくれと釘を刺されている。だからまぁ、書くことは自分の事ばかりになってしまうのだが、それでもどこかで嫌な思いをしている人がいるかもしれない。
まぁ今のところそれによる弊害というのもないのだけれど、将来的にこれからもないという保障は無い。
私は表現者として言動には気をつけているつもりですが、まぁ気になった場合すぐに訂正しますので何かしらのコメントを下さいな。よろしく。
写メ
はる 2577
時々私のHPなどをみて見知らぬ人からコメントが来る。私自身、HPを立ち上げてからもうすぐ10年目にはいるけれど、ほとんど他の人の掲示板などにコメントを書いたことがない。
最初はメールアドレスも晒していたわけだから、毎日百も二百もメールがきたら返事を書くだけでも大変だなどと、幸せにも取り越し苦労していたけれど、ほとんど心配するほど書き込みはないものだ。
巷に何万も何百万もあるHPのなかでたまたま私のページにたどり着いて、なおかつメッセージを残してくれる奇特な人はどういった人なのか関心がある。
どういった経路で私のHPにたどり着いたかということも関心があるけれど、私自身が他のページに行く方法は検索エンジンからたどって行く場合が多いな。
私のページに少なくとも毎日一件以上の確率で「裸婦デッサン」で検索して訪問してくる。まぁ絵じゃない画像を期待して来る人もいるだろうけれど、純粋にクロッキーをみに来る人も多いだろうな。
まぁ何でここを見つけてくれてもよくて、できれば何度でも訪れてくれるリピーターになってくれるとありがたい。
一番訪問者が多いのはやっぱりブログで、ここはほぼ毎日更新されているのでその理由はわかる。意外にトップページが多いのは、まじめにトップページにリンクを貼ってくれているひとが多いんだなぁと推測する。
後はほぼどのページも4,5人だな。
バックナンバーは数が多すぎて読む気にならないのか、意外に少ない。ギャラリーに続いて私のページの目玉商品だと思うのだが、そう思っているのは私だけか。
写メ
はる 2576
人にものを教わった場合、どうしてもその師匠の癖と言うのかある種のかたよりが出てくるようにように思う。全く偏向しない教育などというものがありえるのかどうか分かりません。
勿論教える事がその師匠の押し売りになることが一番気をつけなくてはならないことなんだけれど、ややもするとやんわりと押し付けになっているのではないかと危惧するところもある。
理想をいえば生徒が持っている能力を最大限引き出すというのが師匠の役目であって、ほんの少しも似たところがあってはいけないと言う事になるのだろうかねぇ・・。
人は勿論全ての人が違う訳で、生きてきた環境も経験も全く異なるわけだから、同じように指導しても同じようには育たない。まぁそれがその人の個性ということになるのかな。
造形の原理みたいなものがあって、それはなかなか口では言えないものだ。色んな作家がいて、それぞれが独自の方法で自分なりの造形の原理を掴む。それは百人の作家がいれば百通りあるもので、千差万別、全くそれを探す事が作家になる道といってもいいかもしれない。
ここに一つの点を打つ事がこの場合必要だということは千の言葉を使っても充分には伝えられないだろう。そのことを確実に伝えられるのは実際にそこに一つの点を打つことでしか教えられない。
まぁ難しいねぇ・・。あくまでも必要最低限の点を打つ、そのことに教える事の醍醐味があるのかもしれないなぁ。
Author:あそびべのはる
画家・榎並和春です。HPはあそびべのHARU・ここだけの美術館