写メ
何だか分かりづらいシャメですみません。これは130号を床に置いてズタブクロやカーテンの布をボンドで貼りこんでいるところです。これをやりだすと狭いアトリエは足の踏み場もありません。真中に板を渡して中ほどのしごとをします。こうやってまた乾いたら壁土や絵の具をたらし込もうと思っている。
幾重にもいくえにも絵の具の層を重ねて,削ってはまた重ねて、そのうちに何処からか現れる「おおいなるもの」を待つことにする。
団体展に出品する大きな意味は年一度だけれど、売れるとか売れないとか関係なしに大きな作品が発表できるということだろう。売ることだけを考えれば100号以上の絵を描く必要など少ないのだな。私の場合一年の半分は大きな作品にかかわっている。まぁ大きいといっても130号が限界だけれどね。
でまぁ、団体展に出した作品を誰かが観ているのかといえば、どうなんだろうか。確かに地方も巡回する訳だから、そこそこ多くの人の目には触れるのだけれど、人様が大変感動してメッセージをくれるとか、何かそれで大きなチャンスが訪れるとか、そんなことはあまり期待できない。
じゃなぜ、瓦礫のような大きな作品を作っているのか?色々な理由はあるのだろうけれど、基本的にはそのことが楽しい、好きだということだろうな。毎回何かしらの新しい試みをして少しでも前に進みたいと思いながら作っている。それが評価されるのかどうか、少し様子見ているところがある。
団体展の作品は言ってみればあまり外には開かれていない。どちらかと言えば出品者が自分の今の仕事に位置を確認する、そのための機会ととらえた方が正しいかな。年一度のお祭りみたいなものだろう。
個展だけでそれができるならそれもいいのだけれど、どうしてもね人間流されるから、次第に甘くなってしまうんだな。もう一つはそういった同じ志を持った優れた若い作家に会えるということかな。なかなか一人でやっているとそういった機会は無い。
まぁそれでも、いずれは大きい作品も描けなくなるだろうからね、描けるうちは描いておこうと思うわけだ。
写メ 「故・竹田稔さんのアトリエ」
今日は前に70周年の記念画集をつくるために預かっていた故・竹田稔さんの作品を返しに伺った。竹田さんとは生前それほど親しかったわけではなかったけれど、個展には必ず来てくれて何かしらアドバイスをしてくれた。
美術館で学芸員として働いていた姿が印象に残ってはいるけれど、元々は母校の大先輩で中学校の美術の教員をながくやっていたようだ。人当たりもよくソフトで温厚な人柄で、その絵も竹田さんそのものという感じがしていた。
ところが,彼のアトリエを拝見してその混沌とした無頼ぶりにビックリした。 アトリエは天井が高くだるまストーブが置いてあって、遠い昔のピカソたちの集団アトリエ「洗濯舟」をほうふつさせる。普段見ない内側を見ることで、先生の絵に対する熱い情熱を感じた。いいアトリエだ。
写メ
はる 2293
絵を描いている学生のブログがあって,今のところ書き込みはしないけれど横から眺めている。
今話題になっているのは、美大をでても絵描きとしてやっていけない。残って絵を描きつづけているやつは100人に一人もいない。就職活動の一かんとして考えるなら、学校のカリキュラムとしてそういった業界の人をよんで講義して欲しいなんて事が書かれていた。
なんかねぇ、少し違うようなきがするな。反対に学生時代ぐらい売れるとか売れないとか関係なしに自分の思ったまま絵を描けばいいと思う。いずれどうやっても生活を考えなくてはならないのだからね。そこまでせこく売ることを考えなくてもいいのじゃないかな。
それに卒業生全員が絵描きになったら毎年凄い数の画家が誕生するわけで、絵など描かなくて生きてゆけるならそれはそれでいいのではないか、反対にその後の生活の中で美大で学んだことが、何らかの形で役に立つ時があるでしょう。
まぁ今の美大なんかは絵描きの専門学校とは考えずに,広く一般教養学科と考えたほうがいいように思うな。
いつも言うように絵描きというのは「絵を描くという生き方」なのであって、絵を売ることだけを考えるならイラストレーターとか漫画家とかアニメーターとか職人の手書き友禅と焼き物の絵付師とかのほうが向いているように思う。
まぁライバルは少ない方がいいのでどんどん辞めてもらってけっこうですよ。
写メ
はる 2289
パソコンのメモリー機能の進歩は全く物凄いものがある。まぁデジカメが登場してきたときも、その画素数の増加の度合いがあれよあれよという間であったけれど、まぁメモリー機能の充実はパソコンの大切な能力だからね。
私のpcにはCDを書き込む装置もなかった。それ故外付けの書き込み装置を別に買わなくてはならなかった。その当時記憶装置はフロッピーディスクが主流でやっとMDとかがでてきたころで、安価に大きな容量で記憶できるCDRは画期的なものだった。
CDは焼かなければならないので記憶装置としては面倒だったな。今使っているソフトはパケットマンというもので、これはCDをフロッピーのようにどんどん上書き保存できるので便利なんだけれど、互換性が無いために他のpcでは開かないという不自由さがある。
今日フラッシュメモリー機能の話を聞いてビックリした。今や巷ではこれが主流らしい。小さなステック状のメモリーに1GBの容量が入るらしい。
しかし残念なことに2000以上でないと対応していないらしい。パソコンも買わなければならんということか。
写メ
メッセージ下書き4
下書き4
「永遠のかけら」 榎並和春
毎年この時期になると個展のタイトルを考えている。さして代わりばえしないタイトルではあるけれど、一年間の活動報告でもあるので、付き合ってください。
最初、「顔の見える暮し」ということを考えていた。色々な物が雑多に生活の中に入ってきて、元々の由来がわからなくなってきたというのが、そもそもの始まりだった。
やがて、自分の絵のスタイルも何処からきたのか?ということから「オリジナル」の語源を考えた。「オリジナリティがある」とは、「人とは違っている」とか「独創的だ」というふうに理解されているけれど、元々の意味を考えると「オリジン」とは
「根源」だ。本来そのものが持っているものという意味ではなかろうか。
人との違いということばかりを気にしていたけれど、本当はありとあらゆるところにあるもの、 いつでも、どこにでも、だれにでもあるもの、そんなものを探すべきだと思った。これは新しい発見だった。
見えなかったものが見え、見過ごしていたことに気付く。やがて本来の自分と再会する、そこらあたりに人生の醍醐味がありそうだ。
さて、今年もそんなことを考えながら「永遠のかけら」を拾い集めてみました。楽しんでもらえると嬉しく思います。
榎並和春個展
~永遠のかけら~
2007 11/17(土)~11/25(日)11/21(水)休廊
甲府・ハーパーズ・ミル
甲府市東光寺町1346 電話055-233-3157
写メ
お役人さんに限ったことではないのかもしれないけれど、なかなか思うようにはいかない。例えば何かの催し物のパンフを作るということになったとする。デザイン屋さんが色々考えてベストな試作品を作って持っていったとしても、その係りの人が気に入らないとボツになる。
まぁこういった仕事はクライアントが全てで、その意見には全く逆らえないことになっている。しかし、その担当者がデザインのことの何ほどのことをしっているのか?そういった矛盾はいくらでもある。
学校なんかでもそうだが、何でも合議制で多数決できめる。それが一番民主的で破綻が無いように考えられている。が、はたしてそうなんだろうか。百人の無知が集まって考えたことよりも一人の専門家が考えた方が優れているということも多いのではないかな。餅は餅屋って言うじゃない。
しかし、県の文化祭のタイトル「美の饗宴・かぎりなく風林火山へ」て誰が考えたんだろう。
写メ
はる 2285
「ゆきつくところ」
流行り物には凄い力がある。誰かがこれがいいと言ったわけでもないのに、誰もが争って手に入れようとする。「かわいい~」というやつだ。けれど、流行り物には旬がある。
反対に変わらないもの、ずっとそこにあるものもある。そういったものは案外気付かないものだ。
オリジナルということを考えた。「オリジナリティがある」とは、「人とは違っている」とか「独創的だ」というふうに理解されている。
しかし「オリジン」といは「根源」だ。元々本来そのものが持っているものという意味ではないだろうか。いつでも、どこにでも、だれにでもあるもの、そんなものを見つけたい。
見えなかったものが見え、見過ごしていたことに気付く。本来の自分と再会する、そこらあたりに人生の醍醐味がありそうだ。
ゆきつくところはありふれた日々の暮しかな。
写メ
いつも美術館に向かう道筋に東南アジア系の木の雑貨を扱っているお店がある。気に入ったとしてももうほとんど我が家には置くスペースがないので見に行くこともまれなんだけれど、前から目をつけているベンチがあった。
このベンチはお店の外に花瓶や素焼きのポットを置く台になったりしていたもので、ほとんど雨ざらしになっている。もちろん売り物ではなく値段もついていなかった。
一見した所、もう本体の木の部分は朽ちて大きな穴があいている。それに別の足をくっつけた本当に素朴な椅子?さわってたたいて確かめないと、ボロボロとくずれてしまいそうなしろものだ。芯の部分はまだしっかりしていて、まだまだ実用に耐えうると判断した。
こういった椅子は現地では本当に生活の中で使っていたものかもしれないし、上の木だけどこから調達して足をくっつけたものかもしれない。
アフリカのドゴン族の椅子や生活雑貨,布など素晴らしいものがおおいけれど、まぁこういったものはもう骨董の部類にはいってしまっていて、なかなかいい値段がついている。
この椅子も値段が着いていないということは交渉次第でビックリするような話になる可能性があるので、まぁおそるおそる聞いてみた。まぁ私の考えてい範ちゅうだったので、交渉成立。手に入れてきたわけだ。うれし!
写メ
これは今のNTTの鉄塔。夕方にはカラスの乱舞する、不気味な塔です。
電電公社といわれて頃はほとんど進歩しなかった。あの黒電話機は何十年も変わらなかった。しかし民営化したらあっという間にカラフルになった。色んな機種も出たし、なにより携帯電話が世の中の主流になった。もし仮に民営化されていなければ随分と携帯は遅れたと思うな。
家電はもうほとんど意味ないかもしれんな。ネットにはいっているならまだ使ってるかもしれないけれど、そのうち半分はなくなるだろう。
半官半民の厚生年金会館のような法人の施設は今ほとんど機能していない。建物だけがやたら立派でね、中に入っているレストランや喫茶店のメニューをみればやる気のなさが現れている。何だろうな、接客に熱意ががないし、気に入ってまた来てもらおうという気持が無いからね。「お役所仕事」なんだな。
人のことは言えないけれどね、日本の政治家は政治屋でもないな。あれはいったい何者なんだ。登校拒否児童のような理由で辞めるなよな。そんなやつに「美しい日本」「教育改革」なんていって欲しくない。その場しのぎで教育を変えると百年の計を見まちがうぞ。ほんまいいかげんなやっちゃ。絵描きにも劣る。
写メ
はる 2280
作品というのは一点一点が違っていて当然で、同じ作者だからといって全ていいわけではない。当然駄作もあれば傑作もある。まぁあたりまえのことだけどね。
問題は、作家にしても見るがわにしても、はっきり言ってその作品が「いいかわるいか」すぐには分からないというところだな。
まぁ何年か床の間にでも飾ってもらって、ながめているうちに、「あぁこれはいいものだったわいなぁ・・」とわかってくるようなもので、ぱっとみて「これはいい」とはなかなか決められない。(本物というのは案外そんな直感に訴えるもののような気もするけれどね)
まぁ画家というのは作品を売っている商売だけれど、どちらかといえば「生き方」を見てもらっているようなところもあってね。作品だなんていってるけれど、綺麗で美しいものばかりではない。
と言い訳しておく。
写メ
もうすっかり秋の気配の雲ですね。どこかエルグレコのトレドの風景をほうふつさせます。まぁ実際はそんなに良くはないのだけれどね。日本は四季があって本当に色んな季節が感じられるからいいねぇ。ついこの間まで,熱帯のように暑い暑いと叫んでいたんだけれど、そらもう秋の虫がコロコロと鳴いている。
そですね、私も気分転換は下手くそです。はっきり言って気分転換は全く出来ないといっていいかと思います。だからまぁ、こうやって一つのことにこだわってやりつづけられるのかもしれません。
しかし、日常生活ではできるだけこだわりを捨てるように考えられないかと修行中です。どうでもいいことにあまりにもとらわれすぎて、全く本末転倒、てんやわんや、で頭の中がくしゃくしゃになります。どうにか、なんとか、考えない、捨て去る、いいこぶらない、できる顔をしない、その場で考える、ように修行しています。
この考えないというのがとても難しい。いつもこう最悪のストーリーを考えてしまう。でその考えに自ら不安になってくずれてしまうんだな。こういう悪循環を取り去りたい。
「入れるものが無い,両手でうける」という尾崎放哉の俳句はこの気持にぴったりとはまった。
写メ
はる 2277
例えばよく「感性」などという分からない言葉で絵の批評をしたりする。この感性を持ち出してしまえばどんな反論も空しくなるな。まぁ一般に「感性」とは単純に「好き嫌い」と受け止められている。
以下単に「好き嫌い」です。
一昨日花のお江戸で商業演劇「ドラクル」を観た。今が旬の海老蔵と宮沢リエのキャストだから、まぁどうやっても話題にはなると思うのだ。場内は凄い熱気で立ち見もあったから、大盛況だった。
かみさん孝行かな。まぁそんなに多くのお芝居を観たこともないので、上手い批評はできないけれどね、はっきりいって面白くなかった。
どうも最後まで物語にのめりこむことができなかったな。普通一箇所ぐらいグッグとくる泣かせどころがあるもんなんだけれど、すらすらと過ぎてしまって、そのまま終わってしまった。まぁカーテンコールもなんだか盛り上がりに欠けたね。
観客を芝居に引きずり込むことが出来なかったのは脚本のせいか,演出のせいか、俳優のせいか分かりませんけどね。
悪魔が神に祈り、その悪魔を愛した女の物語というのだけれどね、歌舞伎役者が時々顔を見せてね、十字をきるのだけれど、どうもうそっぽく感じてしまう。
いい所は無かったのか?といわれると、そう生の音楽はよかったな。カルテットなんだけれど、歌舞伎の音曲のように舞台上で演奏している。臨場感があってあれはなかなか良かった。他舞台の照明とか道具とかシンプルでいいと思ったんだけど。こんな周りを誉めたんじゃ怒られるな。すんません。
写メ
はる 2276
今日は一日家にいた。
地方の美術団体の事務局のお手伝いを頼まれる。パソコンが少しできるからということで、何やらかんやらと色々な資料が一つのCDに詰め込まれて手渡された。
まぁこういった事務的な仕事と言うのは今やパソコンがなくてはできなくなってしまった。一つのチラシをつくるのでさえ、パソコンがなくては出来なくなってしまった。少し前はガリ版でも刷っていたのだろうか。
昨日は東京にでていた。帰りの山の手線が誰かが線路に立ち入ったということで、15分ほどストップ。どんどんホームに人はあふれてくるし、帰りの電車の時刻はせまってくるし、暑いし、ややイライラとしてくる。
人が多いということはいろいろ楽しいこともあるけれど、人と人の間隔というのか、入ってきて欲しくない範囲まで他人が入り込んでくるので、それだけでややパニクッテくる。田舎に住んでいるとあれだけまじかに他人の体が迫ってくることはない。だんだん都会の雑踏が耐えられなくなってゆくようだ。
例えば上野で時間があったので予定に無かったインカ展をみた。誰も見ていないだろうと思って会場につくと、それでも約30分待ちだった。暑いさなかみんな文句も言わず黙って並んでいた。
会場に入ればこれまたデパートのバーゲンセールのごとくで、人の頭を見ず物を鑑賞することは不可能だった。こんなものは冷房の効いた会場で、ゆっくり鼻突き合わせて静に見たいものだ。何でこんな誰でも面白いとは思わないような物にも人は殺到してくるのだ。と腹立たしくなってさっさと会場をでてしまった。歳とってこらえ性もなくなった。
ということで、観劇の話は又今度。
写メ 「芳村和彦個展 」
2007 9/5~9/11
銀座・松屋F7美術画廊
はる 2275
昨日(実は今日は9日になっています)は東京にでて午前様で帰ってきました。まぁ色々見たり聞いたり・・。以下に書き綴っておきましょう。
上野の国立博物館で「インカ・マヤ・アステカ展」
銀座にまわって、松屋で「芳村和彦個展」
スルガ台画廊で国画の仲間のグループ展
ギャラリー惣「杉浦尚史展」
渋谷シアターコクーンで「ドラクル」の観劇
疲れましたが、まぁ気分転換にはなりました。
写メ
台風です。こちらは久しぶりの直撃のようす。富士山より東側を通るか、西側かそれによって大きく被害がちがう。
子供頃は台風が来て学校が臨時休校になるのが嬉しかったな。最近はそうでもないけれど、マスコミを含めて何処となくお祭り気分なのは、まぁ我々日本人にとっては年中行事みたいなものでね、神さんが決めたことだから、ジタバタしても始まらんという諦めもあるよな。被害が出ればそんなことも言ってられないのですがね。自分の身に降りかからなきゃ、不謹慎だけどお祭りみたいなもんだ。
昔はね、家族総出で窓に板を打ち付けたりしたもんだけれど、それも最近じゃ見かけんな。サッシになってしまったからね。窓ごと飛んでしまうなんてことがないのでしょう。
私の今の家にはまだ雨戸があってね。ほとんど使わないのだけれど、台風のときだけ雨戸を閉めるんだ。そうするとね。家の中はムッとするんだけれど、外の雨の音も小さくなって、何だかね、守られているという気になるんだな,不思議と。
さて、テレビニュースでも見ながらはやめに寝るか。
Author:あそびべのはる
画家・榎並和春です。HPはあそびべのHARU・ここだけの美術館