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はる 2267
今日で八月も終わり、明日からはもう九月になる。まぁ当たり前といえばあたりまえのことだけれど、夏も終わりだなぁ・・と感慨にふける。今年は暑かった。
今年の東京の個展は来年の一月にずれ込んで、当面は11月の地元での個展だけということになる。これがまぁ楽しみのひとつなんだけれど、今年は知り合いのジャズピアニストによるオープニングを企画している。
彼を知ったのはもう随分と前のことで、私はまだ大学生で彼は高校生だった。彼の親父さんが大学の哲学の講師をされていて、私は直接その講座をとった訳ではないのだが、たまたま版画の集中授業を聴講されていて一緒にワイワイと作品を作ったというのが、はじまりだった。
当時の私のアパートが先生の宿舎に近かったという関係で何回か呼ばれて食事をご馳走になったり、シュールリアリズム「カリガリ博士」とか「戦艦ポチョムキン」「アンダルシアの犬」などの難しい映画を観たりした。(そのころは、まだビデオなど普及していなくて、16mmフィルムの白黒映画だったように思う)
その後ご家族と共に、関西の大学に移られて年賀状のやり取りをするぐらいだった。
今年大阪の個展の時に会場に来てくれて何年かぶりにお会いした。ついこの間のように思っていたけれど、まぁもう30年も前の話でね、先生も大学を退官されてフリーに絵を描いたりしているということだった。
その時にオープニングの話になって、息子さんがジャズピアノのライブ活動をしているということを知ったんだな。もっとも本職はれっきとした大学の哲学の先生だから、血は争えないというのか親父さんと同じ道を歩んでいるんだな。
こちら地元のライブハウスでは結構ライブもやっているようで、親父さんの話ではどうやらそちらの方めんでやりたかったらしいということです。
ということで、楽しみにしています。当日はベースとのDUOセッションということで、ますます楽しみですね。
ライブは無料。先着30名ぐらいだと思います。まだ先の話ですが、予約の方待ってます。
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はる 2265
小品は難しい。おうおうにして大作のスモール版か、ありきたりの花や風景スケッチでお茶を濁してしまうことが多い。年に大作ニ三枚しか描かない作家にとって、小品とはその程度のものなんだろうけれど、本当は作家にとって小品こそ力量が問われるものだと思う。
まぁ有名な作家にとって、小品は芸能人のサインや身の回りの小物みたいなもので、コアなファンにとってはどれでも大切なしるしなんだろうけれど、本当は作家にとってはそれこそお客さんと地かに接する唯一の機会なんだな。それを逃してしまうと二度とチャンスはめぐってこないと思ったほうがいい。
一つの作品に如何に思いを込めるか。一つ一つが完結した世界を持っていなければならない。一つの作品は他の作品と同じであってはいけないわけで、ちょっと言葉は重いけれど、ある種身を切ってのせなければ人には伝わらないように思うな。そこのところを勘違いしている作家が多いように思う。
絵の流通はどうなっているのかと考えると、結構暗たんたるものがある。まぁこれは日本の住宅事情が昔の日本家屋みたいなものではなくなって、絵を飾るスペースというのが極端に少なくなってしまったというのが大きい。
もう少し広く一般の家庭で日常的に絵を飾ったりして需要がのびれば変わってくるかもしれないが、今のところその傾向はない。
だから絵が求められるのはごく限られたコレクターを相手にするしかないという、困った現状だ。けれどね、どんな時代であっても欲しいと思う人はいるもので、戦争に負けて時代がひっくり返ったような時期でもお宝を求める人はいたんだと思うな。
だから、今みたいな難しい時代に求められる作品こそ本物かなと言うふうに思う。
多分それは奇をてらったものではないだろうし、ごくありふれたどこにでもあるような「路傍の石」のようなものなんだろう。そんな作品を創ってゆきたい。
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はる 2263
(どうも日本語がおかしいけれど、面倒なのでそのままアップします。意味するところをくんでくださいな。)
ある人のブログを読んでいて、「他人とは形を変えた自分なんだ」というところに釘付けになった。
家庭内暴力なんかでもそうだけれど、親からうけた暴力は負の遺産としてやがては自分の子供に対してしまうというようなことがあるらしい。まぁありとあらゆることが自分の体験や経験のなかにその種が宿っているわけで、そう考える色んなことが恐ろしくなる。
例えば男女の淡い恋心なども、結局は相手の中に形を変えた自分、理想の異性といったものを見ているわけで、本当はありもしない幻に恋焦がれているということになる。
このブログなどを読むと、私という人間がそれなりの人物であるかのように錯覚するけれど、(まぁあまり悪いことは書かないのでね)当たり前だけれど、実際の私はもっと生々しい感情をもったいやらしい人間だ。
人の悪口や批判や妬みなどごく普通に口にするし、特にまともに誉めることが苦手で皮肉やいやみとなる。
今までは「人には厳しい,自分には甘い」と思っていたのだけれど、この鬱的な気性とか、いつも不安や心配などネガティブな感情に支配されるのは、結局の所そんな目で自分を見ているからなんだろうということに気がついた。
いいばかりの人間などいやしないのだけれど、心底ひとに優しいというのか、思いやれるようにならなければ、まぁまわりまわって自分にも優しくなれないのではないかな。少なくとも人を傷つけることは少なくなる気がする。
「情けはひとのためならず」
このことわざ「なまじ人に情けをかけるとその人のためにならん」というふうに勘違いしてませんか?本当の意味は「情けをかければ、やがてまわりまわって自分のためにもなるんだよ」という話。上の話と似てませんか?
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はる 2261
かつてmade in japanは「安物、偽物」のしるしだった。それがいつのまにか「信頼の置けるもの、高級なメカ」となったのは、戦後のお父さんたち世代の勲章だな。本当にこれは凄いブランドだと思うよ。
今中国製品が昔の日本製のような「安物、偽物、粗悪品」というイメージに晒されている。まぁ確かに色んなところでたたかれているから、まんざらデマや嘘ばかりではないとおもうけれど、人件費が西側諸国に比べて驚くほど安いから、日用品などありとあらゆるところにメイドインチャイナが出てくる。
来年オリンピックで世界デビューとなる。日本が東京オリンピックで世に出たのが1964年だったから、あれから30年以上たっている。高速道路や新幹線、東京が今の姿の元を作ったのはあの頃だ。
青年から大人になる、戦争に負けたけれど俺も一人前になったよと背伸びしている雰囲気があったな。そうやってにきび面して「世界の仲間」を意識すること事態が「田舎者」そのものなんだけれどね。
色んな弊害もあってね。工場地帯にいけばスモッグで空がどんより曇っていたし、町が嫌なにおいを出していたし、川や海はヘドロでメタンガスがぶくぶく発生していた。奇形の魚や鳥が問題になったりした時だ。
今の中国を見ているとかつての日本を見るようだな。違うのはかの国は社会主義国家で一党独裁のファシズムだということだ。批判を受け付ける土壌が無いのが怖いなぁ。
かの国が市場経済に国家戦略として参加してくると恐ろしいなぁ。市民というのか主権を持った国民というのがいないので上層部のやりたい放題だ。
まぁ虫のいい話ということを前提に話をすすめるのだけれど、このまま西側諸国と同じような発展をするとはとても思えないのだな。あまりにも国土が広すぎて国家として一つのまとまりに欠けるように思うからだ。
それから、これからのことを考えるとあれだけ多くの人間が、我々と同じように例えば電気、石油、車、など使い出したら,たちまち地球は壊れてしまうだろう。これまためちゃくちゃ虫のいい話で、どうしようもないのだけれどね。電気やガスなど使わない生活の方がいいんだよとはなかなか言えないけれど、これは本当なんだな。
まぁここのところがむちゃくちゃエゴで話を聞いてはくれないだろうけれど、最終的な暮らしのスタイルというのは、その風土からでて来たものがオリジナルで、それに根ざした生活というのが人にとっても環境にとっても一番幸せなんだよな。
大人、老荘思想の国だものそういったことに気付いて世界に先駆けて「脱化学文明・脱近代化・脱西欧の価値観」で完全な理想的な人類社会を築いてほしな。無理か。
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はる 2259
「幽霊の正体の姿見たり枯れ尾花」というけれど、怖いこわいと思う心が幽霊を作っているんだな。自分の中に全ての種が宿っている。そう考えるとなるほどなぁと思うことが多々ある。
私が絵を描きだしたのは、物を作るのが好きだったということも大きな要因だけれど、何かしら心の拠り所みたいなものが見つからないだろうかということが漠然とあった。
まぁ描きはじめた頃にそう具体的な目的が見えていたわけではないけれど、たった一つの言葉でも良かったし、物でも、まぁ宗教や流行のイデオロギーでもよかった。考えてみると非常に危ないところに立っていたことになる。
何か自分の存在を証明できる確かなものが欲しかった。たぶんみんなそうなんだろうけれど、私は人一倍その気持が強かったと思う。
不安とか心配とか恐怖心とか、まぁ結局は己のなかにあるものなんだけれど、そこのところの戦いが私に絵を描かせているんだとおもうね。
だから、何だって考え方だね。
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はる 2258
まぁこうやってこの歳まで何とか絵描きつづけていると、色んなことが見えてくる。
絵を描きはじめた頃に言われてずっしりとこたえたのは「絵なんか描いていると人生棒にふるよ」という言葉だ。取り返しがつかないといったような意味だろうかね。言った当人はほとんどおぼえていないだろうけれど、今から考えると同じくらいの歳の人間に何がわかるのだろうか。
今が人生棒にふってるのかどうか、まぁ相変わらず貧乏だという意味では勝ち組みではないでしょうね。取り返しがつかないという意味では,どんな人生でも後戻りはできない一発勝負、似たり寄ったりということかな。
まぁしかし、こんな風に生きたいなぁと思った半分ぐらいのことは出来ているだろうか。後の半分はこれからの楽しみということで取っておきましょう。
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はる 2257
夏休みもあと一週間になってしまいましたね。なんだかんだと結構忙しい日々でした。
それにしても今年は昼間は暑くて仕事になりませんでしたね。午後三時過ぎまで昼寝してました。なまけものと言えばこんなにナマケモノはいないかもしれません。
絵の方の仕事はまずまず出来てきたかな。まだもっと深めて行かなくてはならないけれど、まぁこれから涼しくなればもう少し仕事もすすむでしょう。
こうなってくると絵が好きで絵描きになったというのは嘘だな。漫画家とかイラストレーターのような職人的な絵を描く人の方が,純粋に絵を描くことが好きな人種というきがするねぇ。
絵さえ描いていれば幸せだったという風な子供時代だったという答えを期待しているのだろうけれど、私に限ってはそんなことない。結構活発でガキ大将ではなかったけれど、そこそこ楽しい子供時代をおくっていた。絵は他の教科に比べれば好きだったけれど、絵だけ特に上手かった訳でもない。
絵が好きで好きで大すきで、といった人が画家になれば幸せかというと、まぁ案外絵は描きつづけられないのじゃないかな。先にも言ったけれど、アニメーターとか漫画家とかイラストレーターみたいな仕事なら続けられるかもしれないけれど、今私などがやっている絵画とは少し違うように思う。
何処がどう違うのか上手くいえないけれど、書いてみようかな。
多分こう美大なんかの受験では目的が違うんだな。絵を描くことを使った競争といったところがあってね。そこにはまってしまうとそれだけしか見えなくなってしまうのだけれど、絵は本来競い合うものではない。
コンクールや公募でも同じなんだけれど、そういった何かのために絵を描いていると段々方向を見失ってしまう。
上手いとか人より描写力があるというのは勿論そういった時の大いなる武器になるんだけれど、間違うとそれだけに終わってしまう。受験が終わった段階で燃え尽きてしまうのだな。
多くのひとが絵を描かなくなってしまうのだけれど、物を描くということだけならモチベーションは長くは維持だけない。興味がなえてしまうのだな。
学生の頃セザンヌに影響されてそんなモチーフで何枚も絵を描いていた。描くことはそこそこ面白いのだけれど、そのことと「今自分がここにいる」ということをどう関係しているのか、今の私というのが全く表現できていないということにがく然とした。
自己表現というけれど、表現する自己というものがないのだな。そのことは誰も教えてくれない。例えば「これが好きだ」とか「いいとか悪い」とかそれさえも言えてないのではないか、そんなことに今さらながら気がついた。
稚拙ながら自分の言葉で「これが好きだ」「これがいい」と発信を始めた。絵を描くことは自分を探る道具だと,この頃やっと気がついた。
だから私は絵描きではないかもしれないな。申し訳ないけれど、だからまぁ、こんな風でよかったらお付き合いください。
まだ、書ききれてないなぁ。そのうち続きを書こうかな。
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はる 2256
例えばね、大漁旗やお祭りの山車を見ると新聞の大売出しのチラシを連想する。多分、極彩色は極楽浄土の色だったのかもしれないなぁ。
西欧から帰ってきて日本の空港のスタンドを見て週刊誌の表紙の色彩が日本に帰ってきたんだと納得した、という話を聞いたことがあるけれど、極彩色は人の願望でもある。
アジアの仏教寺院などを見ても,そこにあふれている色彩は極彩色のけばけばしい混沌だ。風化して時のいたずらで・わびだ・さびだと言い始めると人としてのパワーは落ちる。
我々はいつのまにかアジアの混沌から抜け出して、西欧人の真似が自分たちのものだと勘違いしてきたけれど、実際のところどうなんだろうか。
アフリカの原住民などの色彩などを見ると脳天を殴られたぐらいのショックをうける。西欧型の色彩のコントロールなど関係ないわけだから、色がはじけている、生きている。ああいった色彩というのは人の本能とか欲とかに直接結びついているようだな。どことなく力が湧いてくる。
西欧型の秩序というのは、キリスト教などの一神教の教えと呼応するように思うな。色使いも著しく制限される。まぁわれわれもいつの間にやらそういった色彩のコントロールが身についてしまったんだけれど、アジアの本筋は多神教で、何処にでも神がいて、こだわりの無い、もっと自由で混沌とした無秩序なものだ。
色に対してストイックになったのは大きな病気をしてからのように思う。
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はる 2252
街中が面白くない。いつも言ってることだけれど、土曜日の夕方7:00頃に人通りがまばらな繁華街など見たくはない。一体みんな何処へいってしまったんだろう。
例えば面白いことやろうとしても、それを面白いと思ってくれる人がいなければ意味ないわけで、時々そういった掛け声が上がって一部で盛り上がるんだけど、人の絶対数が少ないからやがては盛り下がってしまう。
行政の街中活性イベントに昔参加した時に気付いたことは、町の商店主の高齢化と二代目三代目の後継ぎ世代は街中には住んでいなくて、もうはやここで何かやろうという気力はなかった。無論やっても上手くはゆかないのか、鶏と卵みたいなものか。
この町に残ってここで何かやって行こうと思った場合、街中はもうあまりにも中心になるものが失われて魅力を演出するのが難しいように思うなぁ。
まぁあえてやろうとするなら、城跡を中心とした城下町を復活するようなことだろうけれど、無計画にマンションや高層ビルが建ち始めたので難しいかもしれない。どうしてあんなものがどんどん許可されてしまうのか理解に苦しむ。
駅ビルさえわたしは要らないと思っている。どのみち東京近郊の田舎町なんだから、東京と同じようなことをしても負けてしまうだろう。だから反対に田舎を売りにすればいいように思うけどなぁ。
駅の周りはみんな木を植えて百年かけて森にする。都会からの列車はゆっくりと森の中の駅舎に入って行く。それを考えただけでもわくわくするなぁ。
勝沼は魅力ある町だな。ぶどう、ワイン、温泉、丘、それだけでも何か出来そうな気がしてくる。案外これからはそういった小さい田舎町の方が可能性があるかもしれないな。手も入れやすい。
九州の湯布院のように、ゆっくり時間をかけてやればまだ面白くなるかもしれないな。
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はる 2251
さっきこの日記を書き始めたら物凄い雷で、アップせずそうそうに電源を落とした。昔借りていたパソコンが雷で死んでしまった経験があるのでね、ちょっとこわい。
その後久しぶりの豪雨で、容量を越えた樋から雨水が溢れ出して、廊下が水浸しになる。何やら少し雨漏りも始まったりで、てんやわんやでした。やっと雷も遠くにいったようです。
今年はね、色んなことがあったな。春先に鳥が軒下の隙間に巣を作った。まぁこれはいままでも何回もあることなので、大して気にもしていなかった。
ところがすずめと違ってかなり大きいくギャーギャーと鳴く可愛くない鳥で、まぁ巣立つまで仕方ないなぁと諦めていた。
ところが、何羽かいた一羽が夏になっても巣立たない。ニート鳥だということが判明した。親はせっせと餌を運ぶのだけれど、こいつは偉そうにギャーギャー鳴くだけでいっこうにでて行こうとしない。
鳥というのは自分の巣の中にはウンチをしない。上手い具合に巣の外にむけて発射する。というわけで巣の周りは鳥の糞と餌の食べかすで、やんわりと臭くなってきた。
まぁそれだけなら我慢できないことはない。がまんできないのはダニが発生したことだ。これはもう見逃せない。ちょうど巣から落ちてブロック塀の隙間にはいったことで、巣立ったと解釈。巣を撤去穴をふさいだ。
驚いたことに大きなゴミ袋いっぱいになるほどのわらくずや紐,草、など、天然物、人工物、ありとあらゆるものが絡まって巣を作っていた。これは現代美術だな。
「アサガオにつるべ取られてもらい水」じゃきれいだけれど、「鳥さんに軒貸しニートでダニ発生」
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はる 2249
今日からお盆休みのところが多く、この間の車の修理費を納めにいったらお休みだった。たまたま親父がいたので残金を手渡してきた。持っていたら何かにつかってしまうだろう。親父もそれがわかっているのか、またでいいよとは言わなかった。
近所の八百屋さんでこの時期になると藁で出来た巻物みたいなものを売り出す。多分ここだけの習慣だろうとおもうのだけれど、その上にキュウリや茄子でできた馬などのお供物を置いて祖先の霊をお迎えするという慣わしがあるようだ。
神戸の実家ではそういった習慣が無かったので、最初は不思議なものを見る気がした。ここらあたりは迎え火を家の門でたいている家も多い。
日本人は宗教がないとはよくいうけれど、外国の人がみればこれはある種宗教的な行事で、あと初詣とか子供が生まれればお宮参りとか、初節句とかなんやらかんやら、けっこうまめに行事をこなしている。
家を建てるときには地鎮祭をほとんどの家が行う。笹を切ってきて四角にしめ縄をはる(これは結界かな)。そのなかに砂が盛ってあって神主さんが御祓いをする。やったからどうだ、やらなかったらどうなるのか、それは何ともいえないのだけれど、人の心の問題かな。
何々教という宗教ではないけれど、人の心の中には何かしら人智を超えたものに対する恐れとかおののき、畏敬の念みたいなものがある。
多分これはどんな民族にも共通するものでしょうね。それが色んな民族でかたちを変えて・・教としてでてくるのでしょうね。
人間は弱いからねぇ。頭で考えてしまう。自分の寿命をしっているからね。百年は無理だろうと。で、死んだらどうなるのかなぁ・・というところから、お盆さんなんかが作られた。
さぁ、おおいなるものへ祈りましょうか。
写メ 「今日のアトリエ」
はる 2247
昼間は仕事にならないので映画を観に出かける。「オーシャンズ13」昼間のその時間にちょうどやっていたのがそれしかなかったので観た・・。まぁ好きなアルパチーノがでていたのではずれは無いと思ったんだけれど・・。わざわざ劇場で観る映画でもなかった。レンタルDVDで充分だな。
「荒野の用心棒」とか「黄金の七人」とか「スパイ大作戦」とか「007のシリーズ」なんかも同じ系列かな、黒澤明の「用心棒」をベースにしている。まぁそうやって考えると、黒澤の凄さというのがわかるねぇ。未だに大衆娯楽エンターテーメントの王道として古くはなっていないということだ。
内容にはほとんど意味がない、荒唐無稽な作り話だけれど、だからこそそういった中にも国民性というのが見え隠れする。
何かで読んだけれど、こうであったらいいなぁとか、そんなのもありかなと思うところにそれが生まれるらしい。まったく奇想天外,ありえない話というのはなかなか生まれないそうだ。
というのは例の「中国のダンボール肉まん事件」の話。本当か、やらせか実際の所は分からない。けれどねここが怖い所で、我々の中に「この国じゃこんなこともありそうだなぁ・・」というのがどこかにあるじゃない。そういった気持がこういった話に尾ひれがついて大きくなる。
そういったゴシップとかうわさ、デマは、人の心の中に巣くう「魔」みたいなもので、「負の連鎖」はやがては大きな恐怖になって、やられる前にやってしまえみたいなファッショなることが多い。まぁ世論なんていうのはまったくあてにはならない。
で、この映画のベースになっているのは賭博でね。アメリカに限らないのかもしれないけれど、いちおう博打が公認されている所がある。一が万にも億にもなるという博打は一方では人間の夢ではあるのだけれど、どこか儚いもろさを感じる。
「勝組み負け組み」というけれど、まぁバブル経済も博打みたいなところがある。どこかあやふやでつかみ所が無い。まぁアメリカさんにくっついて踊らされているところもあるのだけれど、どうやらここらあたりで、違うよという人がでてきてもいい気がするな。
この映画を観ながらそんなことを感じた。★★★☆☆
写メ 「真夏日」
はる 2245
このところまともに家にいて絵を描いている。しかし、自らすすんでこんなガラクタに囲まれて生きて行くとは思いもよらなかった。画家というより橋の下のホームレスに近いような気がする。
色んな材料を持ち込んでではウンウンうなってアイディアをしぼっているんだけれど、労多くして何もでてこない場合の方が多い。他の人からみればただの布切れだったり、泥水のあとだったりするのだが、ひょんなことからイメージが広がったりして、いい感じだなぁと一人合点したりする。そんな時は面白い。
いいか悪いか、全く紙一重であって、私の知らないところで何かがおきているのだろう。そんな時は楽しい。
家にいるのは好きなんだけれど、絵の前にいるのは好きではない。絵の前にいて筆を進めれば仕上がるというものでもない。基本的には、日常生活が大事なんじゃないかな。そんな中から生まれるものがほんものなんだろうと思う。
何だろうなぁ、結局理想は「晴耕雨読」のような生き方じゃないかな。絵を描くだけの生活ではなくてね、本を読んだり映画を観たり音楽を聴いたり奏でたり、料理を作ったり食ったり、雨の日は家にいて寝転んで本を読んで、晴れたら畑を耕す。絵なんてそんな中の一部だ。そんな生き方がいい。
写メ 「散歩道」
今日はたまたま見つけたオモロイ話を無断転載しときます。
漫才師の中田カウス・ボタンのボケのカウスの話。
*****
「お笑いタレントと芸人は全然違うんです。
タレントは趣味、芸人は道楽ですわ。
極道というてもええ。
道楽は家を潰してしまうし、
極道は道を究める代わりに
正道から外れてしまう。
いうたら悪いけど、
タレントなんか明日からなれるんです。
スポーツマンでもジャーナリストでも、
ちょっと可愛いだけのお嬢さんでも
バラエティ番組の隅っこに座るだけで
立派なタレントです。
せやけど芸人の促成栽培は絶対に無理ですわ。
かといって十年芸人やってますねんというて
認めていただけるもんでもなし、
芸人というのはむつかしいです」
「芸人であろうがタレントでと呼ばれようが、
僕らは世間様に己を晒して生きていくんです。
お客さんに観てもろて、
笑っていただいて銭を稼ぐしか手立てがない。
そういう生き方のルーツを辿れば
河原者に行き着きます。
しょせん、僕らは見世物小屋にいる
牛娘やろくろ首と一緒なんです」
「この世界に入ってくるというのは、
見世物になるという覚悟を決めるということ、
いわば結界の向こう側の住人になるということですよ。
ここは素人さんには立ち入ることのできない
異境なんです」
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この人はほんものですな。
Author:あそびべのはる
画家・榎並和春です。HPはあそびべのHARU・ここだけの美術館