写メ 「夕暮れ」
はる 2236
今日で七月も終わりです。夏は始まったばかりですが、はじまると終わりが見えるのですね。なにやら禅問答のようですが。
例えば子供の頃を思い出してほしいのですが、夏休みというのは楽しいのは最初の一週間、七月中だけなんですね。その後にまだ一ヶ月の休みがあるからなんですが、何となくうすら寂しいのです。特にお盆を超えると急速に夏の終わりが追いかけてくる気がします。
夏の終わりは、祭りの後の寂しさにいてますね。じゃ祭りなど止めりゃいいのだけれど、その時はそれはそれで楽しかったりするんですね。
夏祭りなどただ屋台があるだけなんだけれど、それでも浴衣着て出かけたりした。ちょっと小遣いもらって、つまらない駄菓子買ったり、お店をひやかしたり、そんなことが楽しかった。
人生も半ば過ぎるとはやいです。若い頃は終末など考えなかったな、当たり前だけど。でもまぁ、うすら寂しいけど、そう悲観的でもない。けっこうこうやって色々楽しかったことを思い出しては、にやにやしている。
今小品を描いている。で、結局はそんな今まで生きてきたことを絵にするしかない。いい絵を観てうらやましいなぁ・・、うまいなぁ・・どうやればこんな絵が描けるのか?などと感じ入るんだけれど、とことん突き詰めると、自分に無いものは描いても意味ないなぁという結論になる。
つまらないぼやきになってしまった。んじゃ又明日。
写メ 「今日のアトリエ」
はる 2234
ルッコラとバジル、今年はインゲンとキュウリとトマトをコンテナ栽培した。ルッコラは今第三陣目が食べごろになって来た。私ができる畑仕事などこんなものかもしれないが、毎朝ルッコラとバジルとトマトの新鮮なサラダが食べられるのは贅沢だなぁ。
植物はすごいと思う。あんな小さな種の中にどうしてあんなにビックリするぐらいの生命が隠れているのだろう。特につる性の植物はまるで目があるかのように相手に巻きついて自分を支える。一体誰が教えたのだ!
無機物をいくら集めても有機物は生まれない。ところが今までに一度だけ無から有が生まれたことがある。何を隠そう生命の発生だ。そこから何億年もかかってやっとここまで来た。けれどなぁ、人類ができたばっかりに地球は風前の灯火だ。
まぁ宇宙の時間からみれば、人類なんて消えても何でもないことだけれどね。その前もその後も悠久の時間が流れているだけだ。
さて、又明日。
写メ 「アフリカの仮面」
はる 2233
明日は選挙だ。こう見えて昔から特別な理由がないかぎり棄権したことが無い。当たり前といえば当たり前の話ですが、案外少ないのではないかな。
それにしても政治の意識と言うのが低い国民だと思うな。まぁ偉そうなことがいえたぎりではないのだけれど、例えばこうやって選挙運動のシステム一つをとってみても、旧態然としていて進歩が無い。選挙カーで候補者の氏名をがなりたてるだけだ。あれで何ほどのことが分かるのだろうか。
今のシステムをみていると、何が何でも数がなければ何も出来ないようになっている。もっとも政治というのはそういったものなのかな。日本の国会中継などをみていると、あれは茶番でしかない。質問事項も解答も本会議までには決まっていて、あとは本番でしくじらないようにつじつま合わせに始終している。
裸の王様という話があったけれど、誰が見てもあれではだめだと分かっているのに変えられない。変えようとしない。この国は潰れるだろうな。
それともう一つ。全体として日本人は真面目で勤勉だと思うんだな。与えられた仕事はわりときっちりこなす。そういった能力は秀でていると思う。けれど、それがいいほうに働いている場合はいいのだけれど、悪いようにはたらいてしまうと、融通のきかない、効率の悪い、お役所仕事となってしまう。
責任の所在というのがあやふやだ。みんな自分がかわいいもんだから、責任逃ればかりしている。自分の役の時にトラブルがおきないように,自分の経歴に傷がつかないようにそればかり願っている。何も無くて当たり前、何かトラブルがあったら、運が悪かったと諦めるか、誰かに責任を転嫁する。
銀行や保険屋や特殊法人なんかもそうだけれど、大きくなればなるほど小回りがきかなくて、無駄なことばかりやってるな。
問題が多すぎてどうすればいいのか?どこから手をつければいいのか?皆目見当がつかないのだけれど、一つだけと言うなら、ちゃんと言葉でもって説明できる、また人の話を聞ける人間を選ぶということだろうか。まぁさしあたって明日の選挙は誰に入れるかだな。魅力の有る候補者がいないのだけれどね。
写メ 「今日のアトリエ」
はる 2232
何だか、暑過ぎてものが考えられないのだ。アトリエにはエアコンがない。開放的な空間といえば聞こえがいいけれど、適当に壁を壊して一つの部屋にしたもので扉というものがない。故にエアコンがが効かないので、つけてないという三段論法になる。
しかし、午後からは西日が当たってとても快適な空間となる。もう昼寝するしか何も手につかない。で,それをいいことに風の通る廊下に座布団を枕にして,下らない剣豪小説を読むことにしている。と、いつのまにやらスースーと眠っている。
日本の夏の午後というのは昔からこういう生活ではなかったか。クーラーなんてあるから窓を閉め切って仕事をする羽目になる。で、電気代がかかるからそれを稼ぐためにまた働かなくてはならない。これが悪循環というものだ。
クーラーの替わりに打ち水をする。たまたま敷地の横を用水路が流れていて、夏の間途切れることなく水が流れている。これを利用させてもらっている。地熱を少しは下げているのではなかろうか。
明日も35度を越えるようだ。
写メ 「夢幻会展」
はる 2229
今さらデッサンでもないのだけれど、何か有効な本がないかと本屋さんをうろうろする。我々が学生だった頃、参考にしたのがアトリエという雑誌だった。色んな大学が責任編集していて、特に東京芸大の研究室が編集したものは、格調高くて絵を描くもののバイブルのような存在だった。
あとまぁその時に応じたタイムリーな特集が組まれていて、例えば古典画法が流行ればそれにそったシリーズが出たりした。あの有元さんが安井賞を取る前に、自らの技法を公表しているのには驚いた。むろん食い入るように読んで、まねをしたのは言うまでもない。
ところでデッサンの本だけれど、どれも昔と同じようなことが書かれていて進歩がない。まぁこういったものは何万冊の本を読んでもけっして上手くはならないのは当然なんだけれど、それでも何かしらのヒントが欲しい。
前にも書いたけれど、人間の目は物を二重に見ていて、それを頭の中で一つの画像に修正している。それゆえに写真などのすでに平面化されているものを見て描くデッサンと、実際のものを見て描くデッサンとは明らかに違いが有る。
西欧型のというのか、美大受験方のデッサンはこの二重に見える映像を如何に一つの画面に表現するかということに苦心する。まぁ何というのか見えないところまで描くというのか、優れたデッサンはそれこそもう一つの作品である。
デッサンの達人というのがいる。これは才能であり、努力ではそこそこカバーできたとしても、如何ともし難いものだ。本来絵描きというのはこの人たちの仕事であって、下手くそな絵描きなど無用の長物でしょう。
しかしまぁ、可笑しなもので上手い人は描かなくなるんだな。下手くそが何とか努力して続ける。見えないものを観ようとする、聞こえないものを聴こうとする。そんな所が面白いのだな。なんだか屁理屈だけど。上手い絵などちっとも面白くないんだな。ありがたいことに。
写メ 「県立文学館」
はる 2225
色んな人がこうやってブログなどで日記をオープンしている。少し前なら絶対に考えられなかったことだ。このことで何かが少しずつ変わってゆくのだろうな。
人前で話をするのが苦手だ。学校の非常勤教師という、まぁかりそめにもそんな仕事をしているにもかかわらず、人前でしゃべるのは上手くない。どこかで上手くしゃべろうという気があるからなのか、何年たってもうまくならない。
それでもまぁ生徒相手なら、15分くらいはしゃべることができるかな、だいぶなれてきたのかもしれない。もう25年もやってるからねぇ。人前で上手にしゃべるいことができる人がうらやましい。
反対に、まぁこうやって文章書いたり、絵を描いたりするほうが得意なのかもしれないなぁ。下らないおしゃべりは好きなんだけれどね。それとこれとはやっぱり違うようだ。
さて、今夜はこれで。又明日。
写メ 「今日のアトリエ」
はる 2224
「顔の見える生活 2」
ここも古い城下町だから、町名に当時の職業の名が残っている。例えば元紺屋町、鍛冶屋町、桶屋町、魚町などなど、しかしいつの間にやら中央・・丁目とか丸の内・・とかになっている。その方が新しい感じがするからだろうか。
全国初のカタカナの町名ができたのもこの町だったなぁ。それもまぁ住民投票かなんかで選んだとおもうのだけれど、多数決がいつも正しい選択をするとは限らないことを知るべきだ。
時代小説が好きでほとんどそんな暇つぶし小説しか読んでないのだけれど、江戸の町というのは、基本的に将軍様のおわす武人の統括する町だったけれど、本当の所はしたたかな町人たちがいきいきと生活している町だったようだ。
町の住人のほとんどが何らかの商人であり職人であった。当時あれだけの規模の消費型の大都市でありながら、大きな混乱もなくきれいに循環していたのは、まぁ衣食住のあらゆるものでリサイクルされていたのではないかな。まぁ実際に調べた訳でもないので間違っているかもしれないけれどね。
この間の中越沖地震で放射能漏れを起こした原発だけれど、あれはたまたまおおきな事故にならなかっただけで、ひょっとすると第二のチェルノブイニになる可能性も大いにあったわけだ。想定外なんていってるけれど、事故というのはいつも想定外で起きる。
政府の「安全宣言」なんてまったくあてにならないことは「年金問題」で立証済みのはず。基本的にリサイクルできない、コントロールできない、安全性の疑わしい「顔の見えない」材料は使うべきじゃないな。
またまた違う話に寄り道しそうになってきたので、元に戻そう。
まぁ例えばそういった職人が作ったものがいいということが分かったとしても、安くて便利な外国製品が簡単に手に入ればそちらを買ってしまうのは止められないよな。
職人の需要があるということは、あるものを修理しながら何年も使いまわしているということでね。結局は新しい物は売れないということで、そうなると経済は低迷するということになる。今の自由市場の世界ではありえないということだな。
だから、まぁ出きる事から始めるしかない。何だろう、大げさに言えば「人生」は日々の生活の積み重ねなんだな。その日々の生活を「手数を惜しまないで、ゆっくりかみしめて生きる」というようなことだろうかね。上手い言葉がみつからないのだけれどね。
出来合いのものをできるだけ止めて、あるものを、工夫して考えて知恵をしぼって生きる。そのことが面白いことだ、楽しいことだと、生きるということだということをもう一度提示することから始めなきゃならないかな。
一時的には経済は落ちるけれど、長い目で観ればそちらの方が「楽しい生き方」だということがわかれば、多くの人が納得できるのじゃないだろうか。甘いかな。
多分そこらあたりの話とアートというのは上手くリンクすると思うよ。アートというのは生き方だからね。
もう一度言おう。衣食住全てにおいて「作った人の顔の見える」生活を目指そう!
写メ「閉館」
はる 2222
おお記念すべきカウントになりましたな。
何だろうこの間から書かなければと思っていたことは。そう衣食住の話だ。
イタリアで一年遊んでいた時に、お世話になった家の隣に典型的なイタリアの田舎の大家族の方たちが住んでいた。日本でも昔は田舎に行けば三世帯家族が普通で、今のように親と子だけの家族なんて無かった。最近はもっと変で年寄りだけの家というのが当たり前になってしまった。これはやっぱり異常だな。
そこの爺さんが日ごろ言っていた言葉に「私は自分が作ったもの以外口にしない」というあった。当時へぇーそうなんだ、ぐらいにしか意識しなかったのだけれど、今から考えるとなかなか示唆にとんだ言葉だ。
我々は貪欲だ。日本では世界中のありとあらゆる食べ物が食べられる。それも本場以上に美味しい。人類の歴史が始まって以来、これほど節操の無い民族は未だかつていなかったのではないか。どんな王様や貴族よりも気ままで贅沢だ。まぁそうやって日本人は色んな文化を吸収してきたんだといえば、確かにそうなんだけれどね。
食べることだけではない。ありとあらゆる事や物が同じように日常の中で融合している。その結果何が起こっているかといえば、全てが個性の無い画一的なコンビニ・ファミレス化現象を起こしている。何でもあるけど何も無いという不思議な人間が出来上がりつつある。
誰が料理したのかなど関係ないし、問えるものでもない。だれがつくったものなど全くわからない。いやその方が効率よく便利なことは確かなことだ。より安く大量に、何を使ったかは問わない、似たような色やかたちや味や匂いがあればそれでいい。簡単かんたんポンポンチン。はい出来上がり。
何を食べてきたか?ということはその人を作ってきた大きな要素になる。気候や風土,習慣がその人を作ってきたように、食べ物がその人を作ってきたことは確かなことだろう。今我々はそのアイデンティティーを失い始めているのではないかな。
だからハングリーに戻れと言う話ではない。よくだから回顧的に昔に戻れ!などと言う人がいるけれど、もう昔には戻れないのだ。ハングリーに次ぐ新しい価値観がほしいのだ。指針になる言葉が欲しいのだ。
建築の話はよく分かる。基本的にはそこの場所で手に入れることができる一番安価で安全で丈夫な材料が選ばれる。けっして外国から直輸入して誇ってみても木に竹はつなげないのだな。それは生活全般にいえてね、そろそろ本物の暮らしを目指すべきかなと思う。
「自分で作ったものしか口にしない」ということは無理だけれど、「作った人の顔が見える」それは材料でも、料理人でも職人でもアーチストでも、そんな生活をこれから目指すべきじゃないかな。
そんなことを思った。
写メ 「美術館コンサート」
はる 2220
今日は会場当番で台風の影響で雨を心配しながら出かけていった。幸い心配するほどでもなく午後からは日差しも戻ってきた。明日は台風一過で夏の太陽がギラギラと暑いでしょうな。
明日はこの会の70周年記念レセプションが華々しく行われる。これにも当然出席しなければならないわけで、そういえば50回記念のパーティーにも出た記憶がある。あの時はまだ誘っていただいた大学の恩師が存命で,何か声をかけられたおぼえがあるのだが、詳細は忘れてしまった。はるか昔々の話だ・・。
当番の食事をいただきながら色々と四方山話をする。団体展に出品してくる若い作家が少ない・・。この先どうなって行くのだろう、という何となくの不安がやっぱりここにも有る。まぁこれは今日本全体が抱えている漠然とした不安なんだろうな。ここだけの話ではない。
声を大きく勧誘するようなメリットといってもない。今じゃ・・会の会員といった肩書きなど、窮屈な思いをするくらいならいらないや、と思っている若い人もおおいだろうな。
けどまぁ、団体に属していなければ絶対に知り合えないような仲間と知り合ってゆくというのも、なかなか面白いかなと思っている。ここをベースに生きて行くならそれもまた一つの方法でしょう。
閑話休題
どう生きても何にも問題がないということは絶対にない。上手くゆけばその上手くいったことが反対に魔を呼ぶということがよくある。「禍福はあざなえる縄の如し」とはよくいったものだ。
そうはいってもことここに至ってもはや取り返しのつかないほど腐敗がすすんでいるだなぁとは「年金問題」だ。このことは年金だけの話ではないだろう。信頼していた日本のシステムそのものが壊れているという証しだろうな。役人は仕事をしないというのは常識にはなっていたけれど、こんな風になってしまっていたなんて。
まぁこんなところでぼやいてみても誰も読みゃしないのだけれどね。
「衣食住」のことを書こうと思っていたんだけれど、その話はまた今度だな。んじゃ。
写メ 「木村二郎の椅子」 実際の生活スペースで使われています。
木村二郎さんっご存知ですか?知る人ぞ知る家具のデザイナーです。天才ともいわれています。もっとも名前が出たのは古材のリメイクオリジナル家具ですが、その他に画廊のオーナーであったり、建築の設計をしたり、映像作家もどきの活動をのこしたり、色々やっていたようです。アマチュアなんですが、玄人をうならせる才能をもっていた人でした。
色んなメディアに取り上げられてこれからと言う時に、さっさとこの世から去っていきました。
八ヶ岳のふもとにギャラリートラックスという小さな画廊をひらいていて、そこもお寺が経営していた幼稚園を借り受けてやっていたようです。何度か訪れたことがありますが、なかなか牧歌的なスペースで画廊というよりペンションみたいな感じだったな。
今日は実際に使われているお宅に伺って写真を撮らせてもらいました。古材の肌触りがいいでしょう。
写メ 「蚊取り線香」
はる 2216
地方の団体でも70年を越える団体は少ないのじゃないかな。会員の数も色々な分野合わせて130人ぐらいいる。毎年公募展を開催することは勿論のこと、会員展や各種の講習会も企画実行しているまぁ、非営利の文化団体といえるかな。
学生の頃に出品し始めて84年に会員になったから、もう20年を越えた。今回も記念画集も含めていろんな記念事業が催されるけれど、いままで後ろについて手伝っていればよかった立場が、段々に中心になって働かなくてはならない年周りになって来た。まぁそれが結構ゆううつの種だ。
絵描きの仲間でもそういったボス的な役回りが好きな人もいるけれど、多くの人は自分の世界を中心に表現しているマニアック(自閉症的)な人たちだ。できればそういったことに関わりをもちたくないのだが、でもまぁこういった団体を動かして行くにはそういった力も必要なのかもしれない。
画家というのは個人商店で本来はそういった組合から独立しているものなんだけれど、こういった地方に住んでいる以上、郷に入れば郷に従えで、そういったボランティア活動、文化的な啓蒙活動も含めて画家という仕事かなとも思う。絵さえ売れればいいというものでもないだろう。
まぁ自分の作家活動に負担にならない程度にお手伝いしてゆこうとは思っている。
写メ 「自家菜園」
何ともポップな色ですね。上からルッコラに青しそにバジルです。
はる 2214
昨日の話の続きになるかな。「人生いたるところに青山あり」まぁ何となく「青山」といえば、「綺麗な美しい山並み」を想像して、「成功のパターンは一つじゃない、色々あってもいじゃないか」というふうにとれるけれど、まぁそれも間違いじゃないけれど、本当の意味は微妙に違う。
そんなことはよくあることだけれど、案外前者の意味で通っているいる場合が多いね。
良くあるのが「そで触れ合うもたしょうの縁」というやつ。「たしょう」を「多少」と考えて、ほんの少しの縁かいな?と普通考えるのだけれどね。本当はもっとひにくれていて、「他生の縁」だってさ。輪廻転生のはなしでね。今生(現世)と対応した他生(前世)の話。三輪さんじゃないけど、どこか前世で縁があったんじゃないか?という話さ。なんだか奥が深くて恐ろしい・・。んじゃまた明日。
写メ 「夜の庭」
はる 2213
一日の訪問者はそれほど多くない。というのかとても少ない。まぁ自分の覚書みたいなものなので、それはそれでいいと思っている。
検索項目でどんな言葉で訪問したのか分かる。ニ三日前に「新任教師、クラス運営」といった言葉で来てくれた人がいた。多分新任の教師がクラス運営に困って訪ねてくれたように、かってに解釈した。
一学期も終わるこの時期、自分のクラス運営の結果が出てくるところだ。私にも経験がある。初めて持ったクラスはこの時期、迷走状態になってしまった。
まぁはっきり言って当然というのか、上手くゆく方がおかしい。だれもクラスの運営など教えてくれなかったし、いきなり40人の親になれと言われても無理な話。多かれ少なかれ火を噴くのは見えている。
自信の喪失。真面目な貴方は益々自分を責めることになる。まぁ今は何を言ってもむなしく聞こえるだろうな。もともと気分転換の下手な貴方は、そのことばかりを考えて一日暮しているのだろう?
色んなベテランの先生から話を聞くこともいいかもしれない。けれど答えは一つしかない。腹をくくることだ。それが生きて行くということだ。適性を得るには多分最低3年はかかる。今苦労している経験が必ず生きてくる。
それでだめなら、辞めたらいい。体こわすよりいい。新聞配達でもビル掃除でも何をやっても生きていける。
ちなみにこの「青山」とは墓場のことだよ。「何処で死んでも同じだ、がんばれよ」といった意味。
Author:あそびべのはる
画家・榎並和春です。HPはあそびべのHARU・ここだけの美術館