写メ 「今日のアトリエ」
学校は定期テストで私の仕事はキャンセルになる。無論無給休暇であるからして、喜ぶべきことではないのですが、なぜか嬉しい。
何も特別なことがない日は「今日のアトリエ」としてアトリエ風景をシャメすることにする。それからもう一つの原則は、シャメは出来るだけその場で送ることにする。編集が面倒だということもあるけれど、出来るだけ臨場感があった方が面白いかなとおもってね。
はる 2164
どこからきたのか 3
物として有ると認識しやすいのは「つるつる」しているか、「ざらざら」しているかのどちらかだと思う。
例えば焼き物で言えば、磁器やガラスのように表面がつるつるしている方が高級感がある。織物でも絹があれほどまで世界中でもてはやされるのは、絹の持っている自然な光沢のなせるわざだ。
この光を含んでいるものに憧れるというのは、人類共通の性質のように思える。貴金属からはじまって、高級な工芸品や生活雑器に至るまで、「ぴかぴか、つるつる」は人を夢中にさせるようだ。
子供の頃の話に戻れば、土の丸い玉をピカピカに磨いて光らせることに夢中になったおぼえがありませんか?しかし、あれは何であれほど光るのだろうか?未だに理由がよくわからない。
油絵を描き始めた頃、がっかりしたことがある。描いている時はあれだけヌレヌレと濡れ色なのに、乾くとガサガサのつや消しの状態になっていまうことだ。我々の油彩のイメージはセピア色のニスに覆われたガラス絵のような感じなんだな。
・・・・ちょっと横道にそれる・・・・
油彩画が日本に入ってきた時、当初は「ヤニ派」といわれるオーソドックスな油彩画の手法が教えられていた。まぁこれは最初はセピア色の絵の具をテレピンなどの乾性油でといてデッサンをする、その上に樹脂をたっぷり含んだ亜麻仁油などで固有の色を乗せるといった、油彩画の伝統的な手法だった。この方法で最後にニスをひけば、光沢の有る油彩画が出来上がる。
ところが当時留学した黒田清輝などが学んだのが、オーソドックスな油彩画の手法ではなく、当時西欧で流行していた印象派「紫派」の手法だったんだな。それを日本のアカデミーとした所に間違いがあった。
まぁそれは長い西欧の歴史をふまえて考える必要があるのだけれどね。
産業革命などがあって、今まで力があった王侯貴族が、台頭した市民階級に取って代わられたんだな。今までのようなパトロンと芸術家という関係が維持できなくなってきた。
芸術家というのは哀れな存在でね。偉そうなこと言っても誰かに養ってもらわなければ、食べて行けなかったわけだ。ダビンチやミケランジェロなどの天才でもしかりだ。
で、市民階級が力を持ってくると、そういった人達にも分かる絵が必要になってくる。今までは例えばパトロンが教会だったり貴族だったりすると、それに応じた絵を描かされていたわけだけれど、そんな必要がなくなってくる。
それから、これも大きい理由だとおもうのだけれど、芸術家という存在が職人として絵を描く人という枠から離れてきたということだろうな。
で、そういった市民階級の人達が、開放されたアーチストを支持した。
・・・・・・・・・・・
疲れたので、続きはまた。
写メ 「今日のアトリエ」
パネルに綿布をはる作業の開始。既成のパネルに木工用ボンドで綿布を包み込むように張り込む。名作のここが第一段階。何も考えないこういった作業もけっこう好きだ。絵はキャンバスに描くという既成概念を取り払うと、色々な可能性が広がる。さて何が出てくるのか楽しみだ。
はる 2163
どこからきたのか 2
私の家はよく言えば質実剛健の家風で、親父は地方の公務員からそのワンマンな実力をかわれて最後は助役まで勤めた。退職後は小さな土建屋の親父のようなことをやっていたが、根っからの役人が商売をやって上手く行くはずが無い。
当時、学生だった私になんとかその会社を継がせたいという気でいたようだ。これも親父が亡くなった後で知ったことだけれど、その話も上の兄貴たちに断られて、順番に下りてきたお下がりだったようだ。何処まで行っても弟はお下がりがおりてくる。
そんなこともあって、私は最初の大学を卒業後、京都の焼き物やに弟子入りすることにした。焼き物をやりたかったのか?と問われると困るのだけれど、兎に角親父の影響から逃れたかったというのが本音かな。不謹慎だけれどね。二年ほどで卒業した。
話は子供の頃に戻って、そういった文化的な雰囲気から程遠いような生活環境の中で、唯一趣味的な香りがしたのが、お袋が絵を描いていたということだった。
といっても趣味に毛が生えた程度で、どこかに出品するとか、個展をやるとかといったレベルではなかったのだけれどね。まぁそれでもそれが無かったら私は今頃絵は描いてなかっただろうから、ここらあたりに縁があったのだろうか。
油絵に始めてであったのは、近所の日曜学校のカードだった。小さなカルタぐらいの聖母子像だったけれど、写真のように美しいカードに夢中になった。思いではセピア色のなかに沈んでいるのだけれど、賛美歌とか聖書の物語とかクリスマスの街の大きな教会にいったこととか、震えるほどの感動をおぼえた。
もう一つは兄貴たちの影響かな。今考えると勉強部屋に大きなユトリロの白い建物のポスターが貼られていた。はっきりおぼえているのはセザンヌのゆがんだようなカップのえと、安井曽太郎のこれまたゆがんだろうなチャイニーズドレスをきた女の人の絵だった。
なぜかセザンヌは凄いということを教えられた。当時中学生だった兄貴も多分よく理解していなかっただろう。
さて、子供の頃の工作少年と聖母子像、焼き物の肌合いにセザンヌのデフォルメとユトリロの白を混ぜてあわせると段々に私の絵に近づいて来ませんか。もう少し考えてみたい。
写メ 「今日のアトリエ」
はる 2162
私の絵はどこから来ているのだろうか?まとまっていないので思いつくまま書いてみよう。
小学校の頃、大きくなりすぎた学校は二つに分かれることになった。一つは昔からの古い学区と、もう一つは我々の住んでいる新しい学区だった。まだ団地という呼び方も珍しく、コンクリートのブロックのような建物が、にわかに整地された丘の上に並び出したころだ。
ちょうど東京オリンピックが開催された年で、聖火のマラソンを国道までみんなで見に行ったおぼえがある。
私達家族は分譲されたいっかくに安普請の家を建てたのだが、それでも早い方で、まだいたるところが売れ残っていてペンペン草がはえていた。
道路はまだまだ舗装さてていなくて、雨が降るとぬかるんで大きな水溜りを作っていた。
特に絵を描く事が好きだったわけではない。物を作ったり考えたりすることは好きだったけれどね。まぁ今の絵の半分ぐらいはこのあたりの工作少年から来ているように思う。
今でいうミクストメディアみたいなことは当時の工作の一つの方法だった。例えば厚紙だけでは強度に問題がある場合、布をのり付けすれば強くなるということを経験上知っていたし、木と布と紙はとても相性がいいことも知っていた。
絵は上手くなかったけれど、なぜか自信があった。これは小学生の頃からだな。同級生に短い鉛筆をくるくる回して鉄人28号やアトムをひょいひょい描ける奴がいた。羨ましくはあったけれど、あれは「純粋な絵」ではないと一人合点して済ましていた。
油絵のような木を描きたいと思った。これは多分お袋の影響だけれど、点描で生の絵の具をのせていけば、油絵のような絵が描けると思い込んで実行していた。これはかなりおそくまでやっていたきがする。ゴッホの糸杉の影響かもしれないな。
何だかまとまらないけれど、ここまで。
「ビーナス誕生」2007 F100
はる 2161
学生の頃、花や風景を印象派風に描いて一応満足していた。そうしか描けなかったのだけれどね。まぁそこそこ描けたとしよう。しかし、例えどんなに上手くかけたとしても実際の花より美しくは描けないわけだ。いや、私は実物より美しく描く事ができるというならば、まぁそれはそれでいいでしょう。
が、私なんかがいくら頑張ったところで、たかが知れている。これが芸術なの?画家という職業があったとして、こんなものを売って生活できるのか?どうも自分が今やっていることはとんでもない思い違いをしているのではないか。何がどう違うのかよく理解できなかった。
ここから先はだれも教えてくれない。もっとも表現は教えられることでもないのだけれどねぇ。それでも日本の美術教育は上手く描くことばかり教えていないかな。
例えば雨がそれから降る。あぁ久しぶりのお湿りだな・・嫌だな・・てなことが、頭の中をよぎる。まぁ文章にすればそれだけの、何でもないことなんだけれど、そういったことを絵にしてもいいんだというのか、それが表現なんだ自分なんだと気付いたのは、絵を描き始めて随分とたってからだ。これもまた目からうろこだな。
山口薫とか香月泰男とか脇田和など自分の好きな作家はみんなそんな風身近な自分を唄っている。芸術でなくてもいい。自分なりのささやかな歌を唄いたいと思ったよ。
写メ 「定期検診」
はる 2160
午前中○○のDr・Tのクリニックに出かける。Dr・Tとは例の入院騒ぎのときにお世話になったお医者さんで、二年ほど前に地元で開業された。
総合病院のドクターは辞めて開業する場合が多い。まぁそこらあたりの理由はよく分からないのですが、入院施設のある大きな総合病院はやたらと忙しいし、責任も大きいようだ。
患者にとっても、総合病院か個人病院かどちらを選ぶのか、迷う所だな。
何と言っても色々な科のある総合病院は検査一つにしても連携していて、まだ症状が安定していない場合は都合がいい。いざと言う場合、入院施設があるのは安心できるだろう。短所としてはやたらと時間がかかるわりには診察がなおざりだったりするな。それはもう、個人病院の付き合いとは違う。
どちらを選択するのかTPOで考えるべきでしょうね。
Dr・Tは内視鏡手術の権威ということで総合病院にいる時からきこえていて、まぁそういったことで胃とか大腸の内視鏡検査に特化したクリニックにしたようだ。
大体二年に一度ぐらい大腸の検査をしているのですが、まぁあまり楽しい検査でもないし好き好んでやる人はいないだろうねぇ。いつもは注腸というバリュームを腸に注入してレントゲンで撮影するという検査にしているのだけれど、本当は内視鏡検査の方がいいに決まっている。直接みていざという場合はついでに切除できるわけだからね。
七年前の入院騒ぎの時に、一応体全体、頭のMRIから大腸の中まで徹底して調べるわけで、その時にDr・Tに小さなポリープを取ってもらったという経緯がある。
もっともDr・Tは最初の病気の「告知者」だったわけで、少なからず私にとっては深い因縁のあるお医者さんということになる。夫婦ともども落ち込んでいた時に慰められたおぼえがあるわけで、まぁこの記憶は忘れることはないだろう。
今日は懸案事項の大腸の内視鏡検査の予約と胃の手術あとの検査をした。鼻から内視鏡を入れるという検査は始めてだった。楽だ、楽だとはきいていたので、簡単に考えていたのだけれど、結構つらいものだったね。結果はOKだったのでよかったのですが。
ということで何だかお疲れの一日でした。
写メ 「ビーナス誕生」部分
はる 2159
今日は久々の雨でした。
教室の生徒さんたちが今回(会員推挙)のことを記念してお祝いの食事会を企画してくれた。最近はお祝い事など縁遠くなって久しく味わっていなかったので、楽しくて嬉しい会だった。まぁこれが最後だという気もするので、甘えさせてもらいました。ありがとうございました。
正直いって子供たちと違って大人に教えるのはなかなか難しいところもある。とにかく人生経験においては私なんかより多くのことを経験されているわけだから、偉そうに私が何か言ってもむなしく、やたらと恥ずかしく感じることも多いな。
教えることは教わることだともよく言われることなんだけれど、今一度初心にかえってわかりやすく噛み砕いているようなところがある。普通ならもう、考えてもいないようなことや、常識として言葉にしてこなかったことを、どうやると伝えることができるのかと考えている。
まぁそうやってフィードバックしながら、あぁそういうことだったんだと改めて確認して教わっている自分がいる。人生何事においても無駄にならないように出来ているんだな。
ということで、ありがとうございました。
写メ 「ビーナス誕生 F100」
はる 2158
もう五月も終わりだな、はやいものだ。
今日もめいっぱい忙しかったな。というのは朝五時半から町内の有価物の収集という当番がありまして、新聞紙やダンボール、アルミ缶とかビンとかを仕分けてトラックに乗せるんですな。この間の運動会もそうですが、地域で暮らすって言うことはそういうことなんだな。
この四月末から五月にかけていつもそうなんだけれど、今年は新しい美術館に引っ越したということもあって、何度も東京まで出掛けた。忙しかったなぁ・・。来年はもっと仕事がまわって来るそうだから、ちょっと恐ろしい。
東京というところは、本当に特殊な街だな。展覧会をやるとなれば、全国からそれだけのために集まってくるから、そのパワーたるや凄いものだ。普通に考えてそんな場所、日本全国探しても無いものね。
それがもちろんアートだけではなく、放送やマスコミ、ビジネスや経済、政治などありとあらゆるものが、ごじゃまぜに存在するからね。エキサイティングになるはずだ。
私などはただの通過する街だったり、旅行者に過ぎないから、無責任な傍観者でいられるけれど、そこで働いて戦っている人は消耗するだろうねぇ。面白いだろうけれど・・。
私にはもうちょっとシンドイな。
写メ 「夕暮れの散歩」
はる 2155
百年ぐらい前のセザンヌが生きていた頃なら、風景を描いてね、画面全体が一つの秩序で出来ている・・などとほざいて適当にゆがめてチョンチョンちょんで一丁あがりでよかったんだ。
今頃そんなこと悠長にやっててもだれも感心してくれない。展覧会なんかを観るとね、さぁもう何でもござれのビックリ箱状態でね、誰がどれだけ人より目立つか!といった競争で、とても尋常じゃいられない。
学生の頃、まぁ真面目にセザンヌから始めて、徐々に現代美術の階段を登って来たんだけれど、まぁはっきりいってそういったスタイルでは今の美術は理解できないだろうな。
で、まぁはっきりいってそういった現代美術は相手にしないことことにした。無論相手からも無視されているのだけれどね。裸の王様みたいなもので、実際あれらが本物と思っている人の本当のところが知りたい。
本物といえば、昨日「情熱大陸」かな、ジャズピアニストの「上原ひとみ」をやっていた。普段の彼女はそこらあたりにいる普通の女の子なんだけれど、いったんピアノの前に座って弾き出すと顔つきが変わる。
これがまた、凄くいいのだな。若いときの山下洋輔みたいな感じでね、立って髪振り乱して夜叉のごとく、弾きまくるのだな。巫女というのは字のごとく「女」なんだな、神からのメッセージを伝えるのはやっぱり「女」じゃなきゃあかんのか?なんて思った。一瞬羨ましく思ったね。
彼女が言ってた言葉「私はピアノと一体になっている」そうなんだな、考えちゃいかんのだ。考えてるとまだ作り事に過ぎない。丸まま、そっくりそのまま「わたし」がごろりと出てくればいいのだけれどねぇ。それで自分だけが酔うのじゃなくて、人様にも入ってきてもらうというのか、そこがプロなんだな。
ニューヨークのライブの様子をやっていたけれど、即興の醍醐味というのかな、一瞬一瞬これ全てぎりぎりの選択でね。あっちにいこうか、こっちにしようか、あっちにいけば天国が見えるかとおもっていったら、何も見えなかった、というふうなこと言ってた。
あぁいった即興芸術と一緒にはできないのだけれど、どうなるか分からないというぎりぎりの所にいて、色んな状況や感覚を自分の味方にして物を作って行きたい。本物をね。
写メ 「網戸の張替え」
はる 2153
午前中パラパラと雨が降った。昨日樋の工作を始めたのだけれど、実はサイズを間違って買って来てしまったのだ。それも切断してから気がつくという二重のドジを踏んでしまった。
私は準備周到にみえて、実際はこういったドジが多い。何だって一度で上手く行くことはない。必ず二度か三度、同じ手間を食うことになる。
今日は仕方ないので、もう一度ホームセンターに出かけて、同じサイズの樋を買ってくる。上手い具合に天気もよくなって来たのはいいのだけれど、反対にトタン屋根の上は灼熱の地獄だ。帽子をかぶって脱水症状にならないよう、水分を補給しながらゆっくりとやる。
受けの部分は古いブリキのものをそのまま使うことにする。これもなかなかよく出来ている。ハンダが取れてしまったので、油性のパテを使って補修する。このパテは前の雨漏りの時に使ったものが、まだ残っていた。なかなか上手くいったと思う。
午後は網戸の張替えをする。疲れた。
写メ 「散歩の途中」
はる 2152
この間から雨が降るとポタポタと屋根のトタンをたたく音がするので、気になって確かめると、なんと樋がこの間の突風ではずれてしまっていた。
樋にも歴史があって、昔はブリキ屋さんというのかなぁ、そういった職人さんがいて、今で言うオーダーメーイドでその場で作っていた。大きな半田ごてを一斗缶に突っ込んでヤニを塗ってジュージューいわせて綺麗に止めてしまう。これがなかなか面白くてねぇ、飽きずにながめていた。ああいう職人さんは今もういないだろうね。
我が家の樋はそういった年代ものでね。数年前の大雪が降った時にメキメキと音を立てて壊れてしまった。もう腐食も進んでボロボロだったけれど、何とかつなぎ合わせて使っていたのだけれど、いよいよもう換え時かなぁ。
ということで、破れた網戸もあるので、その他色々買いにホームセンター行く。
今の樋は簡単な塩ビのジョイントでね、素人でも簡単につないで行くことができる。ホームセンターに行けば色んなものが売られている。けれど、まぁ出来るだけあるものを使って工夫するというのが面白いわけだ。
しかし、まぁここは宝の山だな。一時間ぐらいは簡単に時間をつぶせる。あぁあれも欲しい、これもあったらなぁと、切りがない。かみさんが、デパートの地下に行くとなかなか帰ってこないのと似ているかな・・。
というわけで、梅雨に向かって、いろいろ修理をやらなくてはならない。
写メ 「今日のアトリエ」
はる 2151
中学生や高校生の頃、担任の先生から「服装の乱れは、心の乱れ」などとよく言われた。まぁご多分に漏れずけっこう反発を感じたものだ。「人を外見だけで判断するのか?」なんてね。いっちょまえに抵抗したもんだ。
けれど、まぁ今頃になってそんなことの意味が分かったりする。中学生に分かる分けないよなぁ・・。
人は外見で判断される。なぜならその外見をチョイスしたのは紛れも無い自分だからだ。少し前にこんなことをかいた「人が今まで生きてきたということは一瞬ごとに何らかの選択をしてたということだ。その無数の『何に」によって今の私は作られている」
自分というのは取りも直さず、その無数の選択の集合体ということなんだな。目に見えない心は、あらゆる時のあらゆる場所で出ている。
趣味的な嗜好など、その本人が一番表現されていることに当時の自分が分かろうはずもないのだけれど。
で、ブログやHPのトップページのデザインというのか、印象がとても大事だというようなことが書かれていた。というのはそのページのデザインがブログ全体の性格やクォリティーが端的に現れているからだというのだ。
ガシャガシャとまとまらない顔つきのトップのページは中身もガシャガシャとまとまらない傾向がある。
「服装の乱れは、こころの乱れ」であるわけだ。
写メ 「夕暮れ」
覚書
90 F100「若い音楽家」 初出品
91 F130「平均律」
92 F130「方舟」?
93 F130「牧歌」 新人賞
94 F130「人懐い月冷し」
95 S100「ガード下のホームレス」?
96 S100「祈りのかたち96」 奨励賞
97 S100「聖なる丘」
98 S100「こたえてください98」
99 S100「みちをきく」
00 S100「いのりのかたち00」 準会員推挙
01 F130「かぜをきく」
02 F130[まれびと」
03 F130「麒麟」
04 F130[こたえてください04」
05 F130「おおいなるもの05」
06 F130「かぜのおとづれ」
07 F130「おおいなるもの07」 会員推挙
写メ 「つわぶき」
画家の義 さんが国展の感想を書いてくれたので転載します。
***略***
先週行きそびれていた、国展、お友達の国画会の榎並和春さんの絵とご対面.先日もご紹介の通り、このたびはるさん、新会員に推挙された記念の展覧会だ。会場ではるさんの絵と出会うと何故か安心する。今回の絵は内面的な魂を画面に押し込めたようでもあり、その静かで、熱い思いが素朴な牧神的なエナジーとなって、コチラに呼びかけてくる。
国画の方もベテランはさすが充実して、迫力満点!春陽会ではそこそこ時間がなく一回限りの鑑賞、ソレも30分ばかりの、、、、..であったが、、。今回はじっくり観た.よそ様の団体展ではあるが、、。団体展の面白さは、様々な表現がそれなりに会の、性格的なものとなってでてきて、それが面白い。春陽はややモダンでシャイなところもあり、国画は、無骨さや、底光りするエネルギーがあるような印象で、、コレは適当な私の感想できにしないでほしいが、、、。その辺も会の個性なのだろうね.長年いっしょにやって行く中で育まれた伝統なのだろう、、。
**以下略**
はる 2148
若い頃は公募展やコンクールで一発当てて名前を売ってやろうという野心がそれなりにあった。名もなく、貧しく、美しくないけれど、若いということはそういったことなんだな。
みんな一直線上にいて、混沌とした中で、ウズウズしながら虎視眈々と狙っている。無欲とは対極の中にいる。十束一からけでいるわけだから、そこを抜け出すには、何とかチャンスをものにするしか方法がなかった。各種のコンクールは武者修行にはおあつらえ向きに思えた。
最高の安井賞は50歳未満という年齢制限つきであった。ところがこのコンクールは招待制で公募されていない。各団体展の会員になって推薦してもらうか、誰か評論家に推薦してもらうしかないんだな。ほとんど諦めていた。
チャンスは一度だけあった。1991年だから16年ほど前のことだ。1997年にこのコンクールが終わってしまうので、本当に降ってわいたような最後のチャンスだった。
結果は落選してしまった。
幸運の女神は前髪しかない、気付いた時には残り香もない。私にはもうチャンスは無いと、ひどく落ち込んだものだ。
今考える実力もなかったんだけれど、あそこで認められない方がよかったのかなとおもっていっる。
もうコンクールは卒業してしまった。それ程若くは無いし、何よりも他と競い合って勝ちたいというモチベーションがなくなった。入選して喜ぶよりも落選して傷つく方をおそれる。
どんな世界でもコンクールはある。有象無象の多くの輩から傑出した人物なり作品を選び出す方法として、今考えられる一番有効な手段だからだ。
コンクールは多くの優れたスターを作り出す。けれども全てのスターが輝き続けるものではない。過酷なもので、真の実力はそこから10年後に問われる。
写メ 「今日のアトリエ」
はる 2147
隣の大きな敷地の家が整地されて7,8区画の分譲地になって売りに出されたことは前にも書いた。
私の住んでいる町は古い町内会があって、第○組という言い方をする。回覧版がまわってきたり、有価物の収集や運動会や文化祭なんかも、この組の単位で集まって開催する大きな行事の一つである。
この地方に住んで初めてこういった組という組織が未だに生きていることに驚いた。あと同じ仲間うちの会という意味の『無尽」というのも結構盛んだ。まぁそれはそれでいいんだけれどね。
困ったことは、私の組でもそうなんだけれど、高齢化という日本社会の縮図がここにもはっきり現れていて、若い人がほとんどいない。もっと端的にいえば、年寄りばかりで子供が全くいないという寂しい異常な状態が続いている。
町内会の子供倶楽部や運動会やお祭りは子供の姿が見えないで、大人や年寄りばかりが目立つといった、これまた凄く寂しい光景なんだな。
ところが隣の分譲地に家が建ち、新しい住人が引越してき始めてくると、なんとこれが同じような年頃のガキがわんさかと湧いてきた。
我々のガキの頃を考えてみると、これまた団塊の世代で隣近所は汚いガキばかりがとぐろをまいて日々ワァーワァー駆け巡っていたわけでね、ガキが集まってボール遊びなどに興じている姿を見ていると、何だか懐かしい気分になる。
しかし、静に死んだような町が活気づいてくるのは嬉しいことなんだけれど、いや、ガキはガキでまた五月蝿いもんだなぁ・・。エッ、おいあっちであそべ!!くそガキ。
Author:あそびべのはる
画家・榎並和春です。HPはあそびべのHARU・ここだけの美術館