写メ 「あの頃 2」
はる 2135
あの頃2
第一回の個展は物珍しさもあって、親や親戚一同、友達やらがこぞってやってくる。まぁ銀座という場所の力は大きい。お祝いやら頑張れよと言った意味で何点か売れて経費も出てとんとん。まぁ最初はこんなもので良しとしよう。
時代はバブルの頃で、景気のいい話が行き交っていた。画廊のオーナーの鼻息も荒かった。夕方になると銀座の路地は黒塗りの高級車でいっぱいになっていた。美しく着飾ったママさんたちが、しゃなりしゃなりと職場に向かって歩いていた。
ちょうど年末商戦のクリスマスの頃で、サンタの格好をしたサンドイッチマンや寄付を求める社会鍋のコーナーでは金管楽器のアンサンブルが「聖者の行進」を奏でていた。四丁目の交差点を上から眺めながら、楽しいような悲しいような感傷的な気持でいた。
一回目の個展はまずまずの滑り出しだった。けれどほとんど知り合いしか来ないような展覧会を何回やっていても、ほとんど意味が無いわけで、銀座でやったという自己満足でしかない。それから個展だけだと大きな作品を描く必要がないわけで、そこらあたりも考えてみる必要があった。
何年かそこで個展をやったけれど、なれてくるにしたがって最初ほど面白くなくなってくる。第一は絵の分かる人にもっと観てもらいたいと強く思うようになった。今さらのことだけれどね。
街中の画廊というのは、確かに何人かのコレクターや評論家などは観に来てくれる。けれど、なんだろうなぁ、絵を描く仲間がやっぱり欲しかったんだな。
そこでアルバイトをしていた女性がたまたま国画に出品しているということから、もう一度団体展に出品してみようかな、という気になった。国画会なら相手に不足は無い。何回か出品して入選すればそれでいいや、と軽く考えて出し始めた。
当時同じように銀座で個展をやっていたのが、今は独立の中堅どころのKさんやNさんで、あれよあれよという間に安井賞や有名なコンクールで受賞してスターになってしまった。すごいなぁ~と思うだけで、他人事でしかなかった。
またあの頃はコンクールが盛んで、色んなところで冠のついた公募展が行われていた。代表的なところでは、上野の森大賞展、セントラル美術館大賞展、ジャパン大賞展、林武大賞展、伊藤廉賞展、そう、これらはみんな当時私も出品したコンクールである。
中でも隔年開催されたセントラル美術館が主催したコンクールは大変な激戦で入選の確率は一割以下だった。このコンクールを足がかりにメジャーになった作家も多い。
とても不思議なんだけれど、時代を代表する作家と鳴り物入りで宣伝された作家たちも、時代と共に色あせてかすんで来る。大騒ぎしたわりにはほとんど跡形も無く消えてしまった作家も多い。兵どもが夢の後、そんな感じだなぁ・・。
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明日は国画の飾りつけ、明後日はと授賞式とオープニングパーティいうわけでお泊りです。というわけで、更新はシャメだけになるかもしれません。
写メ 「愛宕山」
はる 2133
昨日は遅く帰ってきました。新しい美術館になって初めて公募展・春陽会展も観てきました。まぁ会場が新しく綺麗になったという感じはありましたが、大きな違いは感じませんでしたね。
今日事務局から正式に会員推挙の連絡があった。私は会の仕事で昨日会場にいたので、昨日のうちに知っていたのだけれど、電話で今日連絡受けたほうが感動的だったかな・・。
90年に初出品。その時は会員になるなどと大それた気持は無く、ただただ好きな作家と同じ壁面に飾ってもらえるということだけで嬉しかった。
会員になりたいと思ったのはついニ三年まえからで、それまでは淡々とただ続けてきただけだ。(かみさんの
話では、もう何年もまから会員になりたいとほざいていたらしい、嘘ばっかり書くなと抗議を受けたので修正しておきます)毎年春には国画、秋には個展と一年のサイクルがほぼ決まっていた。まぁそういうスタイルがよかったのかもしれない。
まぁこれからも変わらずに自分のやり方で続けられればいいかなと思っている。これからも、よろしくお願いします。
写メ 「今日のアトリエ」
はる 2129
一日出稼ぎ仕事。
一生懸命筆を動かす姿を見て、まぁそこそこ滑り出しは成功したかなと思う。ここのところを失敗すると、これからの一年が疲れることになる。
「うるさい!」「静かにしろ!」というより「みみをすまして」という方が効果的だ。ところが、ここのところの使い分けが難しい。この方法はある程度信頼関係ができてこないと上手くはいかないのだな。どんな場合でも使える手ではない。
人は何かしら学びたいという欲求がある。でその裏には成果として誉められたいというのがある。その二つをあわせて「俺もなかなかやるじゃんの力」という。そこのところを上手く使うのが教えるものの技術ということになるのかな。
強制された仕事というのはある程度までは有効なんだけれど、飽きてくることも意外にはやい。それを大きな力でもって押さえつけても色んなところで破綻してくる。
教師というのは生徒の内なる力、やる気に火をつける仕事なんだな、生徒の心が全く湿っていない限り、辛抱強く付き合っていけばやがては少しずつ火がついてくる。あとは放っておいても勝手に燃えてくれる。
教師がいかに生徒を手なずけるか、まぁそれも教師によって十人十色色々な方法があるだろう。どんな手を使ってもOKなんだけれど、どうやって「俺もなかなかやるじゃんの力」に火をつけるのか、それを見つけるのに私は25年かかった。
写メ 「新美術館」
はる 2128
昨日の疲れが一日残っていて、一日ぼーっとしていた。
しかし、東京は世界の都市のなかで、一番未来都市のイメージに近い街として選ばれたらしいけれど、確かに地下鉄など交通網一つとってみても便利なことはなはだしい。
今回大江戸線なるもの乗ったけれど、この地下鉄は普通の地下鉄の三倍も深いところを走っているような感じ。エスカレータでどんどんもぐって行くから、昔の炭鉱もこんな感じではなかったか?などと思う。
わが町にいればほとんどどこに行くにも車に乗って出かけるから、歩くことがまぁ意識して散歩にでも出なければない。反対に東京にいれば結構歩くんだな。それだけでも疲れるよ。
でもまぁ、刺激的ではある。
写メ 「搬入の様子」
新美術館行ってきました。といってもほとんど内部を見る時間はなくて、昼食時にちょっと外に出たぐらいでした。どうしてもねぇ、あの有名な外観をシャメしたかったので、それだけでした。
思っていたほど大きくはなかったな。自分の中じゃもっと大きなイメージがあったのでね。京都駅の方がでかくて、異様かもね。
外観は草間弥生のかぼちゃのようだった。きっと誰かがパンプキンって言うと思うよ。「硝子のパンプキン」いい名だ。
というわけで、春陽展見れませんでした。すんません。
*新宿からの行き方は
山の手線で次の代々木まで行って、そこから地下鉄・大江戸線で六本木まで行くのがベストかな。30分もかかりません。
写メ 「今日のアトリエ」
はる 2125
少し考えをまとめるので付き合って下さいな。
まずこれから
はる 1926(蔵出し)
「 ・・・・・・・・・・・・略・
人は自分の持ってる資質みたいなものから、なかなか抜けきらなくて、根本的には全ての思考や発想はそこから出てくる。
例えば、腕力に自信のある教師は大体においてその力でもって生徒を手なずけようとする。本人も周りも知ってか知らずかそれを期待している風なところがある。
人を統率する、まとめる、といったある種の能力はそういった力のある、暴力的、封建的な人間の方が適しているところがある。
騙されやすいのはそういった腕力でまとめられた集団と言うのは、力関係で均衡が保たれているわけだから、見えないところで小さな力のないものを虐げているというとところが必ずある。一見平穏で秩序正しく見えるからしまつが悪い。
生徒はけっして教育されたのではなく、恐怖政治のように順応させられただけなんだな。だからそういった重石が取れたら元の木阿弥になってしまう。勘違いするのはそういった教師がいい先生だ、指導力があるとされるところだな。
・・略・・
少し話がとぶけれど、ガンジーが物凄く腕力に自信のあるにんげんであったなら、多分彼の思想は出てこなかったと思う。自分が持って生まれた資質でもって戦えるとしたら、たぶんこれしかないと思ったところから出てきたのじゃないかな」
*****引用ここまで
法というのは強い人間が弱い人間を統率するためにできたものではなく、私が理想として考えるに、一番弱い人間が、それでも何とか最低生きて行けるよう定めたのが法ではなかろうか。
60年前に戦争に負けて国力は最低な所まで落ちた。自信も誇りも皆失って今日一日生きて行くの難しいような時代だった。その時に多くの人々が思ったことは「もう戦争は嫌だ」「戦いたくない」という心からの願いだったはずだ。
人から与えられた法だからという言い分がある、けれどはたしてそうだろうか?その時に多くの人は涙を流して賛成したはずだ。国民の大多数の人が、心から望んだ法が人から押し付けられたものといえるかどうか。
それを言うなら、議会制民主主義そのものも欧米の政党政治機構を真似したものだ。この国にはもともとなかった。この際だれが作ったかは問題ではないだろう。
ここからが大事な所、あの時は異常な状態だった、国力が最低に落ち込んで多くの人は食うや食わずの飢餓状態だったからと言うかもしれない。うん、だからこそそういった一番弱い時に決めたことが最低のルールじゃなかろうか。
今、多少なりとも国が富んできて力をつけてきた。こうやって強い国になった時に「強いもののルール」で法を変えてはいけないのではないかな。変えることで見えなくなってしまう事の方が怖い気がする。
それはまるで腕力のある教師が手っ取り早く生徒を統制しようとするのと同じことではないか。強いものが「強いものの論理」でルールを作ることを「右翼化」という、弱いものが、次第にしいたげられて、生きて行きにくくなる。
長崎の市長が銃弾に倒れた。三十何人もの学生がたった一人の暴力にあっけなく殺されてしまった。多分暴力というものはこういったものなんだろう。有無を言わせない、根こそぎ奪ってしまうものなんだろう。チンケナ理想主義など跡形も無く蹴散らしてしまうものなんだろう。
戦わない民族は多分生き残れない。多くの歴史がそれを証明している。それでもあえてガンジーのように「非暴力非服従」をうたって、誇り高く戦うのがカッコいいように思うのだ。どうだろか?
写メ 「命日」
はる 2123
彼は大学の後輩で、卒業してからは養護学校で教員をやりながら絵を描いていた。結婚して家族で上海の日本人学校に赴任していた。まぁ幸せで楽しそうな年賀状が毎年来ていた。
来年帰国できるだろうというその年の春に帰らぬ人となった。三十代の後半だったろう。あまりにもはやい人生だった。後には奥さんと二人の息子が残された。
彼の葬儀の日は2000年の四月二十一日だった。なぜおぼえているかといえば、私の手術の日と同じだからだ。だから当然彼の葬儀には参列していない。彼は逝って私は残った。
彼はその中にいた。授業が終わってもじもじと一遍の手紙を持ってきた。その手紙は彼の母親からで、それには今日は彼の命日であること、彼が息子であることが書かれていた。
写メ 「玄関の桜」
はる 2120
昨日は一ヶ月ぶりにチェロのレッスンに出かける。音楽は一人でやっていてもけっこう楽しいけれど、合奏になると二倍も三倍も面白い。特に下手くそは上手にあわせてもらうと、なんだか凄く上手くなったように聴こえるから不思議だ。
そうだよな。例えばモーツァルトの名曲といわれるものでも、当時のパトロンの王侯貴族が練習や合奏の楽しみのために、彼に作曲させたものなんだからね。音楽は最高の道楽かもしれないね。
絵を描くことはたった一人の作業で、これは文章を書くとか、物を作る、アイデアを寝る、ものを考える、といったことと共通する、まぁ半分苦痛の楽しさと言えるかな。
音楽はこれとは全く違う種類の楽しさだな。まぁ素人がちょこっとかじったぐらいじゃ何ともくちはばったいけれどね。
作曲となったら違うのかもしれないけれど、ものを作ることは溜め込むかんじ、それに反して音楽は吐き出す感じに近いか。だから演奏家は楽天的な人が多いのじゃないだろうか?誤解があるかもしれないけれど。ストレス発散にはいいように思うね、どうだろうか。
写メ 「今日の桜」
はる 2119
この間誕生日を迎えて55歳になった。まったくいつのまにやらという感じだ。
そういえば、ちょうど30歳になったときに「絵を描いて生きて行こう」と決めた。と言えばかっこいいけれど、本当の所は真っ当な仕事が勤めきれなかったというのが当たっている。
多くの人は誤解するけれど、絵を描くことを選択したのではなくて、反対にそれしか残っていなかったというのが真実だ。あれもこれも何でも出来るなら、あえて絵を描くことなどしなくてもいいと思う。
あくまでこれは実業ではなくて虚業ではないかと少しばかり後ろめたい所がある。
ある人が流行っていた有名なギャラリーをやめた。そのお店は雑誌なんかでもよく取り上げられていて、注目されていた。都会のど真ん中にありながら、お店の中は土間になっていて、カベはもちろん土カベだった。
その場に置けば、大体のものが一ランクよく見えた。骨董屋やギャラリーといったものはそういったもので、ある意味人を欺いて商売していると、我慢できなかったらしい。
で今は廃業して田舎に田圃を借りて百姓を始めた。物凄く、真っ当な思考だと思うけれど、多分私にはそこまで覚悟ができない。
絵を描いて生きて行くなど、まぼろしだ。実態の無い虚業なんだ。そんなほんの少し後ろめたい気持を持って生きて行くのでちょうどトントンだ。
裸婦クロッキー 8・・・何点か、クリックすれば大きくなります。
はる 2118
昨年まで一緒にやっていた春陽会(東京の団体展)が今年から日程が変わって先にオープンすることになった。新しい美術館ということで、私たちもどういう風になるのか、見当もつかない。
ここでお馴染みの義さんと桃さんがこの先行の団体展で入選をはたした、おめでとうございました。こういったネットの仲間が大きくチャレンジしてゆくのはとても刺激になるし、陰ながら応援したくなります。
自分が出品してもいないのに、HPの入選情報が気になってチェックに何回も訪ねました。お二人とも途中経過を少し見せてもらっていたので、何か他人事ではない気がしているんですね。こういったのもブログの面白いところかもしれませんね。
はっきり言って本人のつぎによくしっているのが、ネットの仲間かもしれませんね。怖いといえばこわいかも・・。
こういった団体展も賛否両論ですがね、まぁ同じ志をもった優れた仲間にめぐり合うというチャンスは大きいですね。全国にそりゃたくさんいますから。それが一年に一度、集まってくるのですから、手間隙もお金もかけて、気合を入れて出品してくるわけですから、生半可じゃ消えてしまいますよね。
ただね、絵は人と競うばかりじゃないんだよというのを忘れなければ、そういった機会があってもいいように思う。
取り急ぎ、おめでとう!
裸婦クロッキー 5
はる 2117
今年は神戸の個展がないので、比較的にゆったりと夏まで過ごせそうだ。しかし、ないとなると少し寂しいのは貧乏性ってやつかな。
私は準備は先先にやるほうだ。この気質が上手く働けば手回しがいいということになるのだが、反対に働くと不安神経症になる。
個展など、大体自分の中では一ヶ月前に終わってしまっている。実際のイベントはただの抜け殻のようだ。これもよくない。切羽詰った臨場感が薄くなる。
先の先まで読んで準備してしまうというのは、いいように見えてその実融通がきかない、遊びが無い、余裕が無い・・などなど、意外に負の要素が多いのだな。もっとその場の成り行きに任せてしまえば、もっと楽にやって行けるのにといつも思う。
でもまぁ、この不安神経症的な気質は、我々兄弟や親族に共通する気質なようだから、もうあきらめるしかないだろうな。反対に考えれば、このメランコリックな憂鬱な気質があるから絵を描く、文章を書くようにも思う。何でも裏腹だ。
Author:あそびべのはる
画家・榎並和春です。HPはあそびべのHARU・ここだけの美術館