あそびべのHARU・ここだけの日々
画家・榎並和春

2007/03/31 - 2007.03.31(日記)
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写メ

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2007/03/31 - 2007.03.31(日記)
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写メ

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2007/03/31 - 2007.03.31(日記)
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写メ

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2007/03/30「明石大橋」 - 2007.03.30(日記)
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写メ 「明石大橋」

 今日は親父の墓参りと義理の兄さんのお墓参り。その帰りに昔住んでいた家の近くまでドライブ。上の写真はこの前のキムタク主演の「華麗なる一族」でも撮影で使われた舞子ヴィラからみた明石大橋だ。


 今では世界一長い橋として有名なこの建造物も、私にとってはなじみのうすいものだ。しかしなんと美しい姿なんだろうか!


 明日はいよいよ有馬温泉に湯治に出かけます。残念なことに桜はまだ早いそうだ。東京は満開なのにね。それではまた。



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2007/03/30 - 2007.03.30(日記)
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写メ

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2007/03/29 - 2007.03.29(日記)
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写メ 「レディー」

 今日は入院中のお袋の見舞い。91歳になる母上は腕の骨を骨折して入院中。凄いことに目下体重は27キロしかない。まるで断食中の修行僧のようにやせこけているが、いたって健康で意識ははっきりしていている。骨折した利き腕ではない左手で日記をつけている。何事かを記録、表現してゆこうという姿は修羅の如し、頭がさがる。


 自らの老いの姿を重ねる。



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2007/03/28 - 2007.03.28(日記)
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写メ 「京都・イノダコーヒー」

 今日は朝五時におきて身延線から静岡に出て新幹線で京都まで、約五時間のたびでした。京都駅で神戸の姉さんと合流、昼食の後京都の東のはずれ醍醐寺の桜を見に出かけた。タクシーの運ちゃんの話だと、まだ開花してないよという話で、がっくりしていたんだけれど、はっきりしたことは気にしていないおっさんには桜も見えないということだな。


 醍醐寺の桜は日本画家の土牛の桜が有名だけれど、こいつを見ておきたかった。はっきいえば、土牛の桜のほうがいいと思った。すんません。


 後は姉さんたちと別れて、私は一人で街中を散策。町屋がいいなぁ・・。いずれ京都に住みたい。近いうちに必ず実現するぞ!



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2007/03/28 - 2007.03.28(日記)
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写メ

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2007/03/28 - 2007.03.28(日記)
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写メ醍醐あたり

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2007/03/28 - 2007.03.28(日記)
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写メ2 醍醐寺

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2007/03/28 - 2007.03.28(日記)
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写メ1 京都 醍醐寺

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明日から小さな旅にでます。 - 2007.03.27(ポケットの窓から)
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写メ 「今日のアトリエ」

はる 2103
 そうそう、明日からまた少し留守にします。というのは前にも書いたけれど兄貴の還暦祝いということで、今回は兵庫県の有馬温泉に一泊しようという計画です。まぁ桜も見頃だろうしちょっと楽しみにしてます。

 まぁそういったことも兼ねていつもは個展でバタバタとしてますので、今回はすこしゆっくりと羽根を伸ばしてきます。

 ということで、更新がシャメだけになるかもしれませんが、出来るだけ臨場感のあるところをアップしたいと思っています。更新されない場合はあしからず。


*ご連絡はコメント欄にお願いします。携帯でチェックできます。便利だなぁ・・。



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よく見るためには目をつぶれ - 2007.03.26(ポケットの窓から)
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写メ 「今日の桜3」

はる 2102
 文章を書くことは随分前から習慣にはなっていた。ことによると絵を描くより駄文を書いているほうがすきかもしれないな。ただ好きであるというのと上手いというのは同じではないので、そこのところ勘違いしないで欲しい。

 だらだらと自分の考えたことを文章化しながらまとめて行くというやり方は、その当時からかわらない習慣だ。ただこういったブログになって大きく違うのは、今までと違って誰かが読むということを意識しているところかな、そこのところが決定的に違う訳だ。

 人が読む。ということを前提に書くということは、これはなかなか表現力を養うのではないかと思う。なぜなら、前日の話の続きになるのだけれど、話をまとめるとか、何を言いたいのか簡単にするとか、分かりやすくとか、また読んでもらうためにはある程度継続するということも必要だし、そこそこ飽きさせない努力というのも必要だ。

 絵描きは絵を描くことで思索して行けばいい、それが絵描きの本来の姿だと言われればその通りで、私のやり方は間違っているかもしれない。しかし、確かに言えることはこの思考の仕方と絵を作って行く、描いて行く仕方とはよく似ている。私は目に見えるものを描いている訳ではない、見えたものを色や形にしているだけだ。

 ゴーギャンの言葉に「よく見るためには目をつぶれ」というのがある。まぁこれもどこかで読んだ話だから、間違っているかもしれない。適当にとばしてもらってけっこうです。



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水ぬるむ - 2007.03.25(ポケットの窓から)
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写メ 「水ぬるむ」

はる 2101

 あるブログを読んでいたら、ブログは表現者の修行の場だというようなことが書かれていた。まずメッセージを明確にすること、継続すること、驚きと感動、飽きさせない工夫、読者が何を望んでいるのかを知ること・・などなど。

 まぁこういった毎日更新して行くブログという表現手段はいまだかつてなかった訳だから、これが将来どいういった風に進化して行くのか、影響を与えるのかだれも分からない。

 こうやって続けていくことで、何か変わった?ただ言えることは書く事で、自分が今考えていることが明確になった。人にどうやって自分の考えていることを伝えるのか、そんなことを考えるようになった。これはまぁ大きな収穫ではないかな。

 人は起きている時間の八割はしっかり意識して生きてはいない。例えば本を読むとか、映画を観るとかしていたとしても、ほとんどはただ流されているだけだ。まぁ全て意識して生きていたとしたら疲れてしまうだろう。

 考えているといったところで、案外思考は堂々巡りで同じと頃を言ったり来たりしている場合が多い。図示化すれば言葉の断片が浮遊している混沌とした状態かな。文章にするということはそれをはっきりとした意識でまとめる作業だと思う。


 私の仕事の大きなテーマが「美は美しいと思った自分との再会だ」という話をどこかで書いたことがあるけれど、再会して今度はそれを人に伝えようとした時に表現となるわけで、ただ美しいと思っただけではまだ表現には至っていない。


 文章にするという作業ははっきり表現すると意識する訳で、その客観性がとても大事な作業のように思えるのだ。どうだろうか?
 



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シダレザクラ - 2007.03.24(ポケットの窓から)
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写メ 「しだれざくら」

はる 2100
 おぉ、切りのいいナンバーになった。

 志賀の原発の30年前の事故が問題になっているけれど、まぁもっと大きな事故が知らないだけで起きているのではないかな、実際は。

 あの「バケツの臨界事故」で有名になった東海村の臨界事故も、結局はよく知らないスタッフが引き起こした、ありえない未熟な事故として一件落着してしまったけれど、そうかなぁ・・これは根本的な構造のミスだと思うぞ。

 大きな組織というものは管理する者と現場とはおおきな隔たりがある。現場の人間というのは全体が見えにくい。その日その日をいかに楽に暮して行くかということが重要課題でね。出来るだけ手を抜こうとそればかり考えている。

 管理者といえば聴こえはいいけれど、この人達は一種のエリートでね、現場の仕事のことより自分の出世のこと以外に興味はない。だから最も恐れるのが、期間中に事故や事件が起きて経歴に傷がつくことなんだな。

 そんなのが集まって原発などという危ない機械を動かしているのだから、怖いなぁ・・。だから、これはこれからもありうる事件なんだよ。というのか無くならない。


 人間は間違いをおかす動物だということだな。原発は間違いの無い安全な道具だと宣伝するのは間違っている。誤った認識を広める。もし、原発がどうしてもひつようであるなら、絶対安全であると宣伝するより、本当は扱い方によっては相当危険な道具だから、事故が起きた時はこういう手順で対処する、こうしたら出来るだけ被害が拡散せずにすみます。 といった方法を明確に広報すべきだな。責任者をつるし上げて謝ったところで何の解決にもならない。又同じ事の繰り返しだよ。大きな事故が起きなければいいけれどな。



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今日の桜2 - 2007.03.23(ポケットの窓から)
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写メ 「今日の桜2」

 近所の公園の桜を定点撮影していこうとしていたのに、今日観たらその枝が折られて消えていた。おい、誰も知らないと思って、私には証拠写真があるんだぞ。ということで、他の近くの桜を撮影することにした。もうすぐ開花しますね。


はる 2099
 オリジンの話4
 ところで、同じような言葉で最近よく耳にするのが、「ユビキタスubiquitous」「時空自在」と訳すそうだけれど、まるで孫悟空のようなイメージがあるな。

 これも元はラテン語の(ubique いつでも、どこでも)という言葉からでているそうだ。

 ところで、英語のユビキタスの意味には「神の遍在」という、意味があるらしい。もともと西欧のキリスト教などをみると、基本的には唯一神で他の神は一切認めないという結構厳しい掟がある社会なんだけれど、その神は唯一でありながら何処にでもいるという離れ技をやってのける。

 誰かが言っていたけれど、砂漠の民のような厳しい環境の元では生き残って行くには、そういった激しい排他的な掟(神)が必要であって、我々のような湿潤な生物が生息するに適した八百万神の生息する、アジアモンスーン気候に棲んでいるような人には到底理解できないてなことをきいた。

 そうやって考えると、偏在のありようも西欧型の唯一神的な分裂型の「いつでも、どこでも、だれにでも」よりも、元々我々が持っているアジアモンスーン型の八百万的な「いつでも、どこでも、だれにでも」の方が、我々には分かりやすいね。

 ところで、オリジン(源)の話をしていたら、いつのまにか神の話になっている。そう、結局一つ元にもどって考えるということを繰り返して、もうこれ以上戻れないというところは「これ」なんだ
な。

 「これ」の実態は分からない。見えないしつかめない、けれど確実に「そこに、ここに、どこにでも」存在するものなんだろう。「これ」は誰にでも理解できて、分かりやすくて、またあることが普通で、安心できるものなんだ。

 時々「これ」を掴んだと思うときがあるのだけれど、意識するとすぐにまた元の木阿弥だ。

 ボケてきてあちらの世界とこちらの世界を行ったり来たり出来るようになって、初めて「これ」がつかめるのかな。まぁそう考えるとボケるのも悪くないかな。



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定期検診 - 2007.03.22(ポケットの窓から)
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写メ 待合室」

 今日は年に一度の大きな定期検診。全身のをくまなくCT撮影によって輪切にする。最近の医療はどんどん進んで、何年か前は一度に全身のCT撮影はできなかった。それだけ放射線の影響が懸念されていたのだろう。ところが新しい機械になって効率がよくなったのか、一日で全身の撮影が可能になった。値段もその分安くなったのだ。患者にとってはありがたいことだ。


 放射線の技師は患者にさわることができない。それゆえに注射する時には看護婦さんかお医者さんを呼ぶことになっている。まぁ当然なのかもしれないが、その分業のされ方が、いかにもお役所的で効率が悪いなと感じる。


 それに大体そうやって注射だけにやってくるお医者さんは不機嫌だ。毎日多くの患者さんに当たっているから、事務的になるのはしかたないけれど、いかにもなおざりな感じがして嫌だな。医者もサービス業じゃないかな。


 午後からは主治医の診断。いつもそうだけれど、検診の結果を聞くのはいやなものだ。当然OKだとは思っているのだけれど、もしかして・・という不安はいつもあるわけで、微妙な心理状態だ。朝から飯も食ってないしね。


 七年目も無事通過でした。おめでとうございました。



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レトロな和洋建築 - 2007.03.21(ポケットの窓から)
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写メ「藤村式建築・こうふ展会場」

はる 2098
 オリジンの話3

 この(unique ユニーク)と(universal 普遍的)の話は、結構本質的な事柄ではないだろうか。

 どういうことかと言えば、まぁ普通に考えて(only one ただ一つの)ということは、掛け替えのない唯一のもの、そんじょそこらに同じ物があってはならない、ただ一つのもの、貴重なもの、という意味が込められているね。まぁだからこそそれが(ユニーク)個性的ということになるわけだ。

 (ナンバーワンよりオンリーワン)の歌詞に含まれている意味も、だから貴方は掛け替えのない大切な人なんだよという、多分そういったことが唄われていると思うんだな。

 ところで、もう一方の(universal 普遍的)の意味は、私は随分と考え違いしていたところがある。言葉の音として(不変的 変わらないもの 一定した)というふうに理解していた。

 絵を描くことは自分の個性をのばすことだ、いかに人と違うユニークな存在であるかそのことを確認する、そのことが一番大切なことだというふうに考えていた。独創性、オリジナリティが作家の生命線だと考えていた。

 しかし、ただ一人の存在であることは当たり前のことなんだな。他と違うことを競うことが最も大切なテーマである仕事など大した仕事ではないのではないか。

 自分のスタイルを作って喜んでいても、そんなものはいずれは真似されるかただの流行で終わってしまう。すぐにもっと目新しい作品に取って代わられてしまう。AのものをBにした程度の違いで個性だユニークだと主張するのもおかしなものだ。本質的に違いはない。

 ところで、普遍とは(すべてのものにあてはまること。すべてのものに共通していること)

 全く正反対のことなんだな。自分にしかないただ一つのものを探して、小さな違いをあげつらって喜んでいたんだけれど、そうではない、みんなに共通の何か、どこにでもある何かを見つけるんだよと言われた気がした。

 これは目からうろこだな。自分の進むべき方向を教えられた気がした。


 つづく



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無音花畑 - 2007.03.20(ポケットの窓から)
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写メ 現代美術「こうふ展」     「無音花畑」 丸山純子

2007 3/10~3/25

10:00~17:00

甲府市藤村記念館(武田神社内)

連絡先・甲府市教育委員会 055-223-7324


はる 2097
 オリジナルの話。とりとめもなく・・。

 originalは形容詞だから、名詞でいうとオリジン(origin)ということになる。

 中国には想像上の動物というのが結構たくさんいて、有名な所では竜や鳳凰なんかもそうだな。前に麒麟をモチーフに絵を描いた時に気付いたんだけれど、麒麟も実際には存在しない動物だ。

 まぁ不思議なことに鳳凰は西欧に行けば不死鳥フェニックスとなる、ここらあたりはどこがオリジナルなんだろうか。

 で、想像上の動物というのは考えてみれば、そのときの人間の理想や希望を表しているわけで、ただの絵空事だから無意味なことだとは言えないんだな。

 じゃあ、麒麟というのはどういった思いが込められているのかと調べてみた。

以下(はる 654から蔵出し)

 麒麟は物凄く頭のいい動物とされている。もちろんこれは人が作り出した想像上の動物であるから何とでもいえるわけだけれど、反対に考えてみれば、だからこそ人間の理想、願望というのがよく表現されているといえるのじゃないかと思う。
 麒麟は絶対に人を傷つけないとされている。その角は他を傷つけないために丸く肉付いている。一説によると蟻さえも踏まないように注意して歩くとか。これはいってみれば徹底的な「非暴力」、理想的な「平和主義」といえるのじゃないか。

 もう一つの特徴は麒麟が現れる時は理想的な哲学者、政治家が出てくるときで、この前に出現したのは孔子が生まれたときだとされている。孔子の母は麒麟の足跡を踏んだ時に彼をはらんだとか。馬鹿な大統領の言いなりになってないで、今まさに真の指導者の出現を待つということを考えれば、これも一つのメッセージになるのかもしれない。

 「反戦」「非戦」そんな思いが多少なりとも乗せられるといいなぁと思う。
・・・・・・・・・・・・

 とまぁ、こんな意味がこめられていたんだなぁ。ところで、きりんというのは、一角なんだな。一角獣ということでここでも西欧のユニコーンと関係してくるから面白い。

 ところで、このユニコーン(unicorn)というのは一つの名詞だと思っていたんだけれど、ユニ(uni)+コーン(corn)なんだな。ユニというのはなんとラテン語で一を表す、でコーンは(角)なんだそのままじゃないか!と思うなかれ。

 で(only one)のラテン語は(unicus ウーニカス)、ここからが面白い。この(uni)は(unique ユニーク)(universal 普遍的)とつながってゆく。

 ということは、オンリーワンの元の意味をたどってゆくと、ただ一つのものは個性的であるし、普遍的でもあるということになる。

 でさらにこの普遍的という意味を調べてみると、
 1.すべてのものにあてはまること。すべてのものに共通していること。
 2.宇宙や存在の全体にかかわっていること。

 結局言いたい事は、全ての源(オリジン)はすべからく自分のなかにあり、でそれは宇宙や存在の全体にかかわっていることでもある、ということなんだな。

 とりとめもない話で、すんません。まだまだつづく。



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画集の撮影 - 2007.03.19(ポケットの窓から)
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写メ 「撮影スタジオ」

はる 2096
 今日は一日地元の美術協会の70周年記念画集の撮影に付き合う。こういった団体も70年を数えると、創立会員はもはやだれもいない。10年ごとの物故者もかなりの数になる。

 今回の仕事は画集の編集委員ということで、物故作家の家族に会って画集に載せる作品や顔写真を預かったり、経歴を聞いたり、撮影に付き合ったりと、まぁ微力ながらお手伝いした。

 まぁそういったこともあって、残された作品のことを考えることも多かったな。いずれ自分の番が来ることでもあるわけだし、やたらと作品を残しておくのも迷惑だなと思った。自分の意志のあるうちに整理、処分しておく必要があるだろう。

 閑話休題

 車の調子が悪くなった。最初に異常に気付いたのは音からだった。かすかだけれど小さなモーター音がした。ちょうどクーラーをつけたときのような音だ。それでいつもの修理やサンにみてもらったんだけど、まぁ今の状態だけではまだなんとも判断できない、経過観察ということで、そのまま帰ってきた。

 次にヒーターがきかなくなった。クーラーがきかないというのは聞いた事があるけれど暖房が効かない車はない、どんなボロイ車でもヒーターだけはきくのだ。

 そしてついに水温が異常を示した。オーバーヒートだ。これで明らかな症状がでたわけで、何らかの修理が必要だということだな。



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今日のアトリエ - 2007.03.18(ポケットの窓から)
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写メ  今日のアトリエ

はる 2095
 「ナンバーワンよりオンリーワン」という歌があったけれど、何かにつけて、オンリーワンのオリジナリティが問題にされる。この間のW氏の盗作問題もそうだけれど、表現活動に関わっているとどうしてもその問題に行きつく。

 オリジナルという意味は普通、「独創の」とか「唯一の」という意味で使われることが多いけれど、本来の意味はどういうものだったのだろうか。

 本当は全くの独創というのはありえなくてね、例えばどこかの孤島にでもいて、全く情報が入らない状態ならいざしらず(いやそれでも言葉でもって考えているということ自体、何かしら文化的に影響を受けているということだろう)こういった情報化社会に生きていれば、自然と色んなものに影響される。どこまでが独創といえるのだろうか?

 問題が起こった場合、考える方法は一つではないけれど、有効な手段として、一つ前に戻って考えるということがある。どういうことかといえば、上手くいえないかもしれないけれど、やってみよう。

 例えば「あそびべ」という言葉がある。何処でその言葉にめぐり合ったのか、定かにはおぼえていないのだけれど、白川静さんの本を読んでいて、「遊」という言葉の源泉にふれたことが、きっかけの一つであった。彼の解説は驚きに満ちていた。

 詳しいことはHPのアバウトのところにリンクしてある「伊藤さん」の解説を読んで下さいな。簡単に言えば「遊」という字の象形的な意味は、人が旗を持って歩いているかたちだというのだな。

 何故、旗など持っているのかといえば、古代の人にとって自分たちの住んでいる所以外は異郷の地であって、魔物が住んでいると考えられていた。故にそこから離れることは何かしら身を守るご神体に代わる守護神的な「旗」が必要だったのだ。

 また「あそぶ」とは神がかって「忘我」の状態をいうらしい。そういわれてみれば、真剣に遊んでいる時は「私」はない。「・・あそばせ」という言葉には本来そういった意味があるらしい。

 とか、自分の仕事の本来のかたちはどういったものなんだろうか?と考えていると、絵描きとか役者とか芸人やテキヤとか香具師、宗教家とか山師、医者みたいなものは本来一所に住んでなくて各地を放浪してその土地で何かしらの仕事をして暮していた。

 昔は多くの人は土地に縛られて暮していたわけだから、情報も限られていて、案外そういった流れ者は優遇されていたし、ありがたがられる存在だったりした。まれに来る人、客人(まろうど)まれびとという言葉もここらあたりで知った。

 また、職能てきには古代からそういった音楽とか舞とか謡曲を担当する職人たちが存在して「遊部」といわれていたらしい。などなど、そうやってどんどん後ろに戻って考えて行く。そしてどうやらそれ以上戻れなくなったところが「源泉」=オリジナルというのではなかろうか。


 では絵を描く人にとってオリジナルとは何か?考えてみたい。

 つづく



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まだまだつぼみ - 2007.03.17(ポケットの窓から)
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写メ 「まだつぼみ」

はる 2094
 午後から約半年振りに散髪に出かける。何故か昔っから髪を切るのが嫌いだった。何故かなぁ・・、面倒だ、邪魔くさい、拘束されるのが嫌だ・・。薄くなったとはいえ、半年も放っておけばボワボワになってくる。時々ホームレスのおっさんとすれちがうと、相手は気にしてないようだけれど、私はそこそこ気になるなぁ。

 我々の若い頃はヒッピーが大流行でね。猫も杓子もロンゲでジーンズのすそを引きずって歩いていた。何だろうかね、アメリカさんの真似かもしれないけれど、世界的なブームだったことは確かだな。

 今はやりのマクロビューテックというのかな、自然食、無農薬、自給自足、共同生活、ソローの「森の生活」とか、そこらあたりから東洋の思想、道教とかそんなものにも興味を持ったりした。結局流行り廃りはあっても、時代はそんなことの繰り返しかな。あまり進歩はない。

 私は「しごと」ということに引っかかっていた。今の若者がニートとかワーキングプアなどと言われているけれど、30年もまえからそんな生活だ。「就職しないで生きる」ということにある種の誇りを持ってきた。いいんじゃないかな、そうやって生きていけるならそれでも。

 「就職する」というのと「散髪する」というのが同意語だったときがあるんだな。今はわりに自由だけれどね。散髪するのが嫌いなのはそんなところから引きずっているのかな。



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桜が咲いた - 2007.03.16(ポケットの窓から)
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写メ 「桜が咲いた」

はる 2093
 地域の公民館で月に二回、数人の生徒をみている。これは前にどこかで書いたかな。生徒は私より全て年上なので、誰が生徒か先生かぁ~という感じだ。

 教えることは教わることというけれど、忘れていたことに気付かされることが多い。例えば初心者から一歩進んで公募展用の作品を描こうと思ったときに、何を考えていたのだろうか?とか、絵を描く事で何を表現したかったのか?とか。とっくの昔に解決していたと思っていた事をあらためて考えさせられることが多い。

 こういった場で地域の活動をしているグループにも良く会うのだけれど、短歌や俳句といった趣味の世界や、手話や点字などのボランティア活動にしてもほとんどが女性だ。私の参加している裸婦のクロッキー会にしても七割が女性かな。まぁ男性は仕事があるからとは思うのだけれど、退職してから急にそういった活動に参加しても遅いように思うなぁ・・。

 前にも書いたけれど、いらない物を人にあげるというのはありがた迷惑な場合が多い。本人は親切のつもりでもね。それと同じように「時間があったら・・する」というのはやらないというのと同じなんだな。

 人に物をあげるなら自分にとって身を切るようなものを上げなければ意味ない。それと同じように時間も生きた時間をワザワザ使って活動するからボランティアすることに意味があるのだろう。地域の活動にしても、趣味にしても、今の大事な時間を使うから生きた意味がある。

 男性諸君が段々にしょぼくれてつまらなくなって行くとすれば多分そういった時間の使い方をしているからじゃないか。自分を含めて。



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ラフクロッキー5 - 2007.03.15(ポケットの窓から)
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写メ 「クロッキー5」

はる 2092
 午後から来年度の仕事の契約のための書類を学校に届に出かける。履歴書の写真がいるということなので、駅の構内にある簡単な証明書の自動写真機の世話になる。結構便利なものだ。

 こういった手続きももう25年も続けている訳で、免許書の写しとか履歴書なんかは昨年と同じじゃ無いか?健康診断書は昨年のものを流用というわけにはいかないけれどね。それに何だか雇ってやるから持って来いみたいな微妙な圧力を感じて嫌なんだな。何もあんたに雇ってもらってるわけじゃないのに・・と思う。



 さて、今日も一日終わってしまった。又明日。



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裸婦クロッキー4 - 2007.03.14(ポケットの窓から)
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写メ 「裸婦クロッキー4」

 アメブロのスタッフから質問状の回答がありました。まぁその前に自力で解決していたのですがね、まぁいいでしょう。一応誠意があるということでここに書いておきます。ありがとう。


 ブログといえば有名人のブログというコーナーがありまして、そこを覗いたら何とまぁ綺麗な女性のプロフィールがずらりと並んでおりました。有名人といいながら私は誰一人として知りませんでしたけれど・・。


 で、ブロガーというのは女性が主流なんですかね。いやそれより昔は男尊女卑なんていって、男であるだけで何やら優遇されていた時代がありましたけれど、今はまさに反対に若い女性であるというのが売りになっている感じがしますな。芸能や芸術にかぎらず、今活躍している、もしくは活躍するだろうと期待されている人は女性が多い。


 まぁ身近の若い人を見ていても今は女性が活き活き活動してますね。ここ10年はますますそういった女の時代になるようなきがします。顧みて男性はしょぼくれて保守的で面白くないですね。決定的に差をつけられた感じですね。まぁ同じ男性としては情けないなぁ、頑張れとエールを送りたい。


 反対にこれから若い、とか女性というだけにあぐらをかいていると、またいずれ逆転するのだろうけれど、私が生きているうちにそんな時代がくるのだろうかね。んじゃ



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裸婦クロッキー3 - 2007.03.13(ポケットの窓から)

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 ラフクロッキー3
はる 2090
 どうしょうか、自分では決められなくて初めて人に相談したりしていたことの結論が今日出た。

 来年の一月の銀座の松屋デパートでの個展だ。(詳しくはまた載せます。という訳で今年のギャラリー惣の個展は一回休みです)今年の阪急デパートに続いて、いよいよデパートで売り出すということになる。

 まぁ一度始めてしまって今さら何を寝言言ってるのか?と思われるかもしれないけれど、正直いって、いままで裏方で細々やっていた人間が大きな舞台に引っ張り出されたような気恥ずかしさを感じる。これもそのうちに慣れるのだろうか。

 言えることは小さな会場で細々とやるということに行き詰まりを感じていたことは確かだ。お客さんは徐々に増えてきてはいたけれど、前にも書いたけれど私の作品はマニアックな絵ではない。

 小さな会場でごく一部のマニアックなファンに見せてゆくという絵でないことにははやくから気付いていた。20年やってきて、だからどうすればいいのかということは分からなかったのだけれどね・・まぁそれでも、生きて行ければいいかと思っていた。

 例えばどういった人達に受け入れられたいのだろうか。

 極々普通の日常生活を送っている市井の人たちに、あぁこんな時もあったなぁ・・とか、そんな時もあったね・・と、日々折々の瞬間に、慰められたり、怒ったり、悲しんだり・・そんな時の心の糧になれば嬉しいし、心の拠り所になればもっとうれしい。

 間違っていなければ通俗的であることは恥ずかしいことではないと思っている。広く多くの人に受け入れられることは普遍性があるということ、本物である可能性があることではないかな。出来たらそんな絵を描きたいと思っている。

 私の絵のそういった可能性を見つけてくれたのがHさんで、今回の企画も彼の持ってきた話だ。広く一般の不特定多数の人に観てもらうというには、デパートいう場は都合のいい所ではある。今までも人生の色んな時にキーになる出来事や人に出会ってきた。そういった流に身を任せるというのも私の一つの生き方ではないかな。

 この選択がどういう結果を生んで行くのか、どう展開して行くのか、一緒に楽しんでもらえればこのweb日記にも多少の意味があるだろう。



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裸婦クロッキー2 - 2007.03.12(日記)

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裸婦クロッキー2


 携帯からの投稿が何故か突然出来なくなっていた。私の方から何か設定を変えたおぼえはないのだけれど、こういったサービスというのは案外に不安定なものだ。アメブロの方に質問状を出したのだけど、返事はこれもあまり期待できないな。


 ということで、もう一度設定しなおしたら、理由はまったくわからないけれど復活したようだ。まぁ結果オーライということで。


・・・・・・・・・・・・・・・・


 <わたしを信じる者は、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。>(ヨハネによる福音書)・・らしい。飯野さんありがとうございました。



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裸婦クロッキー1 - 2007.03.11(日記)

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裸婦クロッキー1

はる 2088
 今日は朝から裸婦クロッキーに出かけた。ということで疲れましたね。

 なんだろうなぁ、クロッキーみたいな簡単なしごとにこそ、絵を描く本来の楽しさがあるように思う。何回もやっているくせに一回一回違ううんだな、これが。他人が見れば同じにみえるかもしれないけれど、出来がいい時と悪い時というのがハッキリとあるんだ。

 それもあるけれど、未だに技術的にああしてやろうとか、こうしてやろうとか工夫している自分がいる。上手くなりたい?という自分がいるんだな。まぁ上手くないから飽きないのかもね。これは多分一生終わりがないという気がしている。

・・・・・・・・・
 「現代美術」という言い方もおかしいのだけれど、例えば絵画が単に色のついた板だという点に立ち返って、じゃ色は絵の具でなくてもいい、板はキャンバスでなくてもいい、ということで色んな他の画材を使うようになった。まぁここらあたりまでは心情的に同じラインにいる。

 ところが、もっと進んでというのか後退してというのか、物を作るのではなく、考えることそのものが即芸術だということになって、例のデシャンの便器をそのまま(泉というタイトルで)出品したということになると、もう何だか分からなくなってくる。これもまぁある種の(見立て・価値の転換)と言われればそうかなとは思うのだけれどね。

 「現代美術」ということになると、今は設置芸術(インスタレーション)みたいなものが主流だな。まぁここらあたりの最前線になると、私もよく理解できていない、というのか心情的には分からないといった方が近いかな。

 どういうかたちであれ、私は(ものをつくる)というところから離れられないような気がしている。もっというなら、わたしのやろうとしていることは形を変えた(いのりのかたち)であって、何が何でも自己表現という意識は薄いな、まして芸術だとも思っていない。

 自力、他力どちらでもいいけれど、ほんの一瞬にでも「おおいなるものの意識」にふれることができたらいいなとただそれだけのことだ。



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望月カン子個展 - 2007.03.10(日記)

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 「望月カン子個展・光」

    テラコッタ

2007.3/10~3/18 3/7休廊

画廊・イノセント

甲府市丸の内2-12-3

055-222-4402


シャメの投稿はx 手作業でアップ。


 人の道具をただで借りていて文句をいえた義理ではないのだけれど、こういったブログというのはあなた任せなところがあって信用できない。明日からこのサービースを止めますといわれれば、はいそうですかと引き下がるしかない。


 このシャメの機能もニ三日前は問題なく利用していたんだけれど、突然使えなくなった。ただただ待つしかないのだろうか?


 まぁそれにしても色々な機能がつきすぎているのではないだろうか、だからすぐにトラブルがおきる。他と大した違いはないのだけれど、何かしら新しいことをやらなければ利用者が減ってしまうからかな。


 我がままだけれど、私は基本的な機能さえあればそれでいいわけで、できるだけシンプルな方がいい。最低限ブログの記事がかけて、シャメで画像が添付できればそれでいいのだよ。他は要りません。はやく何とかして下さい。お願いします。



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シャメがうまくいかない。 - 2007.03.09(日記)
 どうも、シャメがアップされないようだ。そのうちにまたなおるだろう。故に今日は写真なし。

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画家・榎並和春です。HPはあそびべのHARU・ここだけの美術館

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