20 サルデニア旅行の巻 2
朝起きるとシャワーを浴びて食事に出かける。食堂は半地下にあってテラスの方から南国の様な日差しが朝から眩しい。バイキング方式の朝食を軽くとる。後はさっそく海の方へくりだす。ホテルの名前の入ったパラソルが砂浜にまるでキノコの様に群生している。日差しがあまりにも強く三十分も我慢できない、ヨーロッパのひとたちはこのじりじり焼ける太陽が好きで平気で肌を焼く。気儘に泳いだり肌を焼いたり本を読んだりで午前中は終わり。昼食はかなりハードなイタリアン料理のフルコース、ボーイさんなんかもよく教育されていて気持ちがよい。午後はそれぞれの部屋に帰って昼寝をする、夕方テニスの真似事をしたりプールで泳いだり。夜になるとこれがけっこう涼しくなる、夕食がすめば後は広場で大騒ぎ、大体がみんな揃ってのダンスで終わる。これが延々毎日繰り返されるのだ。こういった施設がサルデニアには幾つもあって、みんなてんでにバカンスを楽しむことができる様になっている。習慣の違いもあるけれど、バカンスの過ごし方はイタリア人の方が数倍うまい。二三日海や山に行っても疲れるだけだ。
十日ほどこのホテルに居て、同じ島の中に住むマリアの姉さんカテリーナの家にお世話になることになった。ちょうど島の反対側東部の町オリスターノの近くマルビューという町だ。利夫さんたちとホテルで別れて、ここから島を横断する電車の旅となる。ヌオーロというサルデニアの内陸部を代表する山岳都市までホテルの車で送ってもらう。かなりのスピードで軽快にぶっ飛ばしていくが少々乱暴な運転で怖くなった。途中の風景も岩山ばかり、すれちがう車もほとんどなく、どんどん山奥に入って行くようで不安になった。運転手は陽気なおじさんだったが。山の上の砦の様な町がヌオーロだ。ここで切符を買おうとするが全く通じず、駅長さんが出てきて大騒ぎしてやっとマルビューまでの切符を購入そこから一両編成のおもちゃの様な電車に乗ってトロトロと山を下って行く。ほとんどケーブルカーの雰囲気だ。駅には利夫さんが迎えに来てくれていて無事カテリーナの家に着いたのだった。
翌日カテリーナと彼女の旦那さんが畑に果物を取りに行くと言うのでついて行く、ぽつぽつと実ったオレンジ色の実を取ってくれた、なんとサボテンの実だった。見かけはわるいがけっこう甘く何故かなつかしい味がした。過保護に育てられたどこかの国の果物よりもずっとうまい気がした。午後からマリアの両親に挨拶に行くことになって車で出かける。車で二時間ほど内陸部に入る。その風景はいまだにはっきりと焼きついている。見渡す限りの地平線にほとんど木らしいものがなく広大な荒れ地が続く。こんな寂しくなるような風景をいままで見たことがない。両親にあってお礼言っての帰り、振り返ると真っ赤な夕陽がオリーブの古木に引っ掛かっていた。
19 サルデニア旅行の巻 1 (9月)
イタリア人たちは六月になればそわそわする。この夏のバカンスをどこでどうやって過ごすのか。一年をこのバカンスのために働くと行っても過言でない。八月に入れば早々に海に山に出かける。それも一週間から長い人たちは一ヵ月ゆっくり休む、それも観光地ではなく人のこないような所へ行き、なにもしないで過ごす。これがイタリア流バカンスだ キムラ家もこのところ毎年サルデニア島に二十日間ぐらい出かける。サルデニア島は元々マリアの実家のある島でイタリア半島のむこう脛あたりに浮かぶ、シチリア島に次ぐおおきさの島である。スペイン語なまりのイタリア語を話す人々が住み、文化的にはスペインに近いようだ。島の北の地方はサンゴ礁の続く高級リゾート地でヨーロッパの富豪たちの別荘やホテルがある、もちろんそんな所には縁がなくてぐっと庶民的なバンガローを探す。利夫さんが「バンガローに行こう」と言うので、浜辺の海の家みたいな物を想像して食事付きだというけれど、それもいいかとOKしておいた。
利夫さんたちは子供もいるので車で出かける、それがまったく信じがたい様な大荷物、今年は生まれたばかりのハナコちゃんもいるので、よけいに荷物が増えて非難民さながらの、動く家状態だった。私たちは電車で先に出かけて、ローマから北八十Kmほどのところにあるチヴィタヴェッキア港で落ち合い、フェリーに乗って島に渡という計画。夜の十時半出航ということで、十時に港で待つが、これがなかなか大変なことだった。港に着くと物凄い数の車で、おまけにみんなバカンスに行くので気分はハイの状態、キャンピングカーを牽引する車や、日本じゃとても許可されないだろうはみ出すほどのボートを乗せて亀がひっくりかえった様な車、てんでに何か叫びながらゆっくりと船に吸い込まれていく軌跡的に落ち合えて、無事船上の人になったのだった。
早朝サルデニア島のオルビア港に着く、ホテルの車が迎えに来てくれていて、そこからオロセイまで一時間ほど、途中の風景はいままでのイタリアの緑豊か芳醇なものとは打って変わって、紺碧の海と真っ青な空と赤茶けた岩山であり過酷な風土が想像された。ホテルに着く、海の家のバンガローを想像していた私は、そのあまりの違いに自分のイメージの貧しさを恥じた。綺麗なタイルでかざられたアーチを抜けるとそこは自由なアラビアンな世界だった。百ほどの部屋が十棟ぐらいに分かれ、それぞれ中庭に向かって開いている一つの部屋は十畳ほどの寝室と六畳ほどのリビングとシャワーが付いている。部屋の前にはテラスがあってそこで本を読んだり昼寝をしたり自由なスペースだ。中庭には大きなプールがあって一日中子供たちが遊んでいる。又ここにはステージがあって昼間は子供たち相手のアトラクション、夜はそれはそれは陽気なエンターテイメントのショーが夜中まである。松林を抜けるとそこはプライベートビーチで抜ける様な空と海が我が物となる。これだけの施設がとんでもない費用で利用できる。いい国だ、イタリアは。
17 ヴェネチィア パドヴァ シエナ 小旅行の巻 4
カンポ広場は大きな貝殻のような恰好をしている。広場といっても競馬ができるのだからその広さが想像できるだろう。イタリア人は演劇好きだ、それも歌劇(オペラ)だ。よく言われるようにオペラは総合芸術で、音楽、演劇、美術、照明、衣装、そして演出と、どれ一つ欠けても成立しない、すべてが渾然と一体となって一つの物を作りあげる。これは一朝一夕にできることではなくて、ながい伝統と訓練を必要とし、そしてその根底にはイタリアと言う国民性がある。それは、そういった芸術を愛し育てて行こう、楽しもうという意識があることで、特に選ばれた人々だけが楽しむのではなく、普通の市井の人々にもその意識が強い。これはとても大切なことだ、だからこそいまだにイタリアは多くの人々にとって魅力のある国でいられるのだ。カンポ広場の貝殻状の蝶番の部分に立つと、「これは舞台装置だ」と思う。背後にあるのはこの町の象徴プッブリコ宮殿市庁舎、背景とすればこれほど立派な物は望めない。周りはぐるりと建物に囲まれて、音響効果もよさそそうだ、それによくある野外劇場のように、すべての中心がこの一点にむかって微妙に傾むいていて、観客の目を嫌でも引きつける様になっている。特に劇場ではなく日常空間にこういったスペースを持つ国民は、やはり意識が変わって来ると思われる。観光客は買い物や観光に疲れると、三々五々この広場にやって来る。私たちもこのテラスでカプチーノを注文する。
シエナは絵画史に於いても重要な場所で、シエナ派と言われる多くの画家を輩出した。ドゥッチオ、シモーネ・マルティーニ、ロレンツェッティ、の名前は絵画ファンでなくとも聞いたことがあると思う。ただイタリアの場合、あまりにも数が多いため、どれが本当に大切な作品なのか混乱してしまう、やはりかなり美術史なりを勉強して行ったほうがいいだろう。反省。
夜にプッブリコ宮殿のホールでコンサートがあると言うので出かけた。残念なことに前日ならばシモーネ・マルティーニの壁画の前で聴けたそうだが、今日は小さなホールだった。昼間この市庁舎にあるマンジャの塔(102m)の一番上まで登ってかなり疲れていたので眠ってしまわないか心配だったが、ここの音楽学校の色々な国の学生たちの指揮で変化があって面白く、充分楽しめた。特に日本人の学生の指揮があり、妙に日本が懐かしくなっていただけに、身びいきか良くおもえた。話は変わるがマンジャの塔と言うのは可笑しな名前で「マンジャーレ」が「食べる」、カピトーネで食事の時よく利夫さんが「マンジャ、マンジャ」と言っていたのを思い出した。「食べろの塔」かと思って調べてみると、「マンジャ」とは人の名前だったそうだ。レオナルド・ダ・ビンチがビンチ村のレオナルドだとすると、ひょっとするとマンジャおじさんは物凄い大食漢だったのかもしれない。
16 ヴェネチィア パドヴァ シエナ 小旅行の巻 3
パドヴァからフィレンツェまで鉄道、フィレンツェでシエナ行きのバスに乗る。バスのターミナルが分からず荷物をもってうろうろする。こんな時旅の疲れとスムースにいかない苛立ちからいつもケンカになる。悪いのは大体、私の方だが。
きれいに舗装された道を軽快に走って行く、途中の小さな村をどんどん通過して、一時間ということだったが、もう少しかかったように思う。バスはシエナの城門の外に着く。帰りのバスの時間と場所を聞いて、みんなと同じ方向に歩きだす。
シエナは絵を描く者にとって馴染みの深いひびきだ。シエナ色、バァーント・シエナ色レンガのような色だけれどもう少し赤みがある、この町の色だ。小さな幾つかの丘の上にあるこの町は、フィレンツェと並び称されるほどの力があった。シンボル的なマンジャの塔もどこかフィレンツェのヴェキオ宮殿の塔ににている。ただフィレンツェの様に交通の便がよくないので、どこか取り残された中世の古都というイメージがあり、大きくない分好ましい。
イタリアは古来からの都市国家の集合体で、日本などの様な中央集権国家と少し違ってかなり地方色が強い。イタリアでサッカーが盛んなのは、ある意味でそういった郷土愛と無関係ではない。シエナの歴史は他の歴史書に譲として、とにかくこのトスカーナ地方の有力な城下町で、フィレンツェやローマはあまりにも有名で、その分観光地化されすぎていて不満を持つ人も、必ず満足する魅力有る町だと思う。
石畳の上を道に沿って歩いて行くと、右手にゆるやかにカーブする。道の両側はレストランや小さなお店が並ぶ、その店の屋根越しに、ドゥオーモの尖塔が見える。私たちのホテルはこの聖堂の近くなので、みんなと同じ道を行くのではなく、脇道にそれる。谷底に落ちる様な急な坂道を下ると、反対に上り坂になった。なんのことはない、結局前の道と合流したのだ。人とは違う寄り道をする、くたびれ損の私たちの人生そのものだ。しかし途中に地元の人達で賑わううまそうなトラットリア(食堂)を見つける、そこで食べたスパゲティ・プリマベラ(冷たいトマトソースのスパゲティ)はとてもおいしく滞在中何回か食べに出かけた。人生悪いことばかりではない。
この旅で沢山のホテルに宿泊したけれど、ローマのホテル・ロカルノとシエナのホテル・ドゥオーモ、ローテンブルクのホテル・ハンブルグは一生忘れないだろう。このホテルの良さは立地条件の素晴らしさだ、名前の通りドゥオーモの近く、カンポ広場まで歩いて五分ぐらい、この町の住人になったような気になれる。
荷を下ろして、さっそく町の探索にでかける。ゆるい下り坂を歩いて行くと音楽学校の校舎が右手に見える、ときどき練習の音が聞こえる。こんな環境で好きな音楽を勉強できるのは羨ましいかぎりだ。
13 日常生活の巻 3
カーサ キムラの家は彼らが来るまではほとんど倉庫だった。婆さんが一人で住んでいたそうだが、亡くなってからはだれも住んでいなかった。利夫さんたちはローマに住んでいてどこか適当な田舎家を探していてこの家を見つけた。一階は大きな家畜小屋で二階に住めるようにはなっていたそうだけれど。バスもトイレももちろん水道もなかった二万坪の土地とこの家がついて、日本ではとても考えられないような価格で購入、その後一階をリビングに改装、大きな暖炉を部屋の真ん中の壁にどんと据え、キッチンを増築、二階を三部屋とバスルームに分け、水道を引いて、トイレの浄化槽を埋め込み、外壁を昔のオリジナルの壁にして、外回りの整理、庭に芝をはって、etcそれだけでも一冊の本になるほどの手を入れて現在に至そうだ。それ故彼らは自分たちの家に大変な愛着を持っていて例えばリビングの床には、シエナのカンポ広場のレンガを焼いたと同じ工房の職人を使っている、とかリビングの柱は隣のジュゼッペ爺さんが若いころ山から切り出してきたものを使っていて、自分が丸太にしたのだ。とか自慢げに話していた。
家づくりの思想がかなり違う。いいものを自分たちで選んで、ゆっくりじっくり楽しみながら、家を作っていく。お金はかかるけど、小綺麗で破調も少なく、とにかく直ぐにというのが魅力で出来合いのものを使って貴方任せで家を作るのと、お金はないけどゆっくり自分が参加しながら家を作っていくのと何方が豊かなのか。二十年経った時、本物は益々磨きがかかり重厚さをまして行き、反対ににせものは壊して建て替えるしかない。残るのは多量のゴミだけという悲しい結果になる。大量生産、大量消費、大量塵芥という悪循環を何処かで転換していかなければ、明るい未来はないと心底思った。
西欧の若者たちはよく旅行する。ウィーンからの帰りに夜行列車に乗った事は前に書いた。寝台車で一緒になったのはオーストリアの医学部の学生だと言っていた。ボロのバックパッカーで旅慣れている感じだった。若い時はみんな貧乏で体力だけはあるので安い寝台車でホテル代を浮かして旅をする。年を取るとやはりその体力をカバーするだけのお金が必要で少しリッチな旅をする。ユーロパスで一等車に乗れば、そんな老人夫婦ばかりだ ローマの空港で沢山のブランド品の紙袋を持ってわいわい騒いでいる集団にあった。日本人の女性ばかりの団体で、最近の日本人はものおじしなくてよいなぁと思っていると、突然みんな例のウンコ座りをして話だした。お金があるから高級ブランド品を買うそれはまぁいいとしても、一見して小綺麗なカッコウをした娘たちがどうして国際空港の真ん中であの座り方をするのか。格式、様式、スタイルそういったことを一番大切にする国で貴族御用達のブランド品を買って、どうしてカッコよくスマートに振る舞えないのか。物だけ買ってそれで一流になったように思うのはまちがいだ。いっそそれならイタリアの見栄っ張りの性格までも買って来い。
12 日常生活の巻 2
昼食に二時間はかける、だいたいパスタから始まって、肉料理か魚料理、サラダかチーズ、最後はエスプレッソで締める。もちろん、いつも自家制のワインが側にある。私自身ほとんどアルコールが飲めないので匂いを愉しむ程度。奈良漬けでも酔ってしまう、イタリアに来てワインが飲めないなんて、もったいないと利夫さんによく言われた。しかたない、こればっかりは体質だから、諦めた。
午後は昼寝の時間、大体どこの店も閉まってしまう、街にでても人通りが途絶える。元来が怠け者の私はこの習慣だけは直ぐに身についた。シェスタはなかなかいいものである午後の活動は四時過ぎから、誤解のない様に言っておくが、マリアは朝五時には起きて仕事している。
カーサ キムラには駄犬のロビンと駄猫のシロのほかに、鶏が十数羽、鳩が二種類、一方は鑑賞用、もう一方は食用だ。イタリア人にとって御馳走である鳩の丸焼きも、私たちには今一つ食欲のわいてくる物ではなかった。日本人にとってパスタやリゾット、最近ではピザなどは馴染み深く、むしろさすがに本場なにを食べても、例外なく美味しい。ビザも本当に色々な種類があり、生地の部分も厚い物、ごく薄い物とあってそれぞれの店の特徴となっているようだ。パリパリになった生地とトロトロのチーズのミスマッチが口の中で混ざりあっておいしい。特に秋口のキノコのシーズンはきのこ好きの私には応えられなかった。
隣のジュゼッペ爺さんの家は典型的なイタリアの農家で毎日食べるパンはもちろんピザも自分の家の石窯で焼く、生ハム、チーズ、サラミほとんどすべて自家製である。自分たちで作った物を自分たちで食べるということに、彼らは自信と誇りを持っている。「おれが他で作った物を食べると思うか」と爺さんはよく言っていた。農業が企業のように利潤を追求しだすとこれほど割りの合わない職業はない。爺さんの家ではよく夕食を御馳走になった。イールダ婆さんはなんの偏見もなく我々を迎え入れてくれ、何かと気を使ってもらった。日本に帰る時には「いつ帰ってくるのか」と何回も聞かれて困った。イノシシの肉はもちろんウサギやキジ、これはもちろん爺さんが山で猟をしてくるのだが、「カズハル 今日のは何の肉かわかるか」と言われて、まぁ普通の肉ではないと思ったが、想像もつかず、それがヤマアラシのにくだと聞いて吐きそうになったのを懐かしく思い出した。ジュゼッペ爺さんとイールダ婆さんは結婚五十周年を何年か前に済ませたばかりで、それでも今だに毎日キスを五十回もするのだと自慢していた。かってにして下さい。
夕方はロビンと散歩に出かける。夕暮れ時のカピトーネの風景はとても言葉では表現出来ない美しさだ。茜色の空がだんだんに群青に変わり、ブドウやオリーブの木が闇に沈む頃、夕食になる。
11 日常生活の巻 1
ほとんど一ヵ月に一度旅に出る。元来旅が好きかと問われれば、けっしてそうではなく日本に居るときは出無精で用がなければ家にいたい方だ。仕事がら家に居ることの方が多いのだけれど。この旅にでるにつけて自分の中で決めたことがある。それは多くの事を見る事だ、できるだけ多くの小さな旅にでること。そしてスケッチすること、後は楽しんでこようこれだけだ。油絵を描きはじめて二十五年ほどになるがこれほど永く、油絵の匂いを嗅がなかったことはない。特に最近は描きたいから描くのか、展覧会があるから描くのか分からなくなって来ていた時だけに、一息つくのもいい機会だと思った。
旅に出ていない時は、午前中はチンクエチェントに乗って近くの風景のスケッチに出かける。時にはサンドイッチを作ってもらって少し遠くまででかけた。一年近くになると、めぼしい所はほとんど絵にした。絵を描きはじめた頃、よく自転車に乗って油絵の道具を担いで風景スケッチに出かけたものだが、この頃はアトリエ制作が多くなり、ほとんど実際の風景を見て描くということがなくなっていた。イメージを脹らませ、まだだれも見たことがないものを創りだす。それはそれで面白いことだったのだが、どうしても自分の中だけで繰り返していると自家中毒に似て麻痺してくるところがあり、最近はややマンネリになってきたかなと思われた。自己模倣を繰り返す、これが一番こわい。
日本にいれば色々な情報が入り乱れて入ってくる、新聞、テレビ、ラジオ、雑誌、いいか悪いか別問題としても、かなり影響される。そういった情報から全く切り離されて、裸の自分と向き合い、なにも考えずに、ただ美しい風景と対峙して筆を動かしていると、絵を描きはじめた頃の感激が戻って、絵を描くことが好きだったのだと改めて感じた。
特に自由に使える車が出来てからは、ほとんど毎日ナルニの街やカピトーネの丘を描きに出かけた。石畳の階段に座って街の風景を描いていると、何故か猫や犬が集まって来た同類の物を感じたのか、不思議な物を感じたのか聞いてみたこともないのだが。街にはもちろん日本人などいないし観光客もいない、東洋人自身が珍しい。わたしがその日何処で絵を描いていたか、家に帰るとマリアが知っていると言うことが良くあった。だれかが見かけて彼女に連絡したのだろう。目立つ存在であることは嫌なことも多い。最初町中を一人で歩くのが嫌だった。日本にいる外人が視線を感じて嫌だというのを聞いたことがあるが、全く嫌なものでおもわず早足で歩いてしまう、それもしだいに慣れてはくるのだが。 街角で絵を描いていると、昼時になると街の古い鐘が何処からとなく聞こえて来る、昼食にご主人がスクータで帰って来る、ラジオからはテノールの歌声、それにあわせて誰かが口ずさむ、隣の家では大声で夫婦喧嘩、猫がミヤーと鳴く。急いでかたずけて家路につく、途中の下町で今日のパン半切れと新聞を買うことを忘れないようにと、マリアからの伝言。午前中はそれで終わる。
10 車が手に入るの巻 (7月)
前にも書いたが田舎暮らしには車が必需品だ。ちょっと下町までの買い物も車がなければ人の手を煩わさなければならない。かといって新車を買うほどの余裕もない。中古車の具合のいいものを、下町の利夫さん御用達の修理工マルコに頼んであったのだが、なかなかいいでものがなかった。イタリアの場合、日本の様な車検制度がなく、乗れるだけ乗ってそれでお終い、修理不良でトラブルがあったとしても、それはすべて自分の責任で自分が悪い、自己管理これが原則だ。それ故具合のいい中古車というものがあまりない。
ある日マルコから電話でいいでものがあったと連絡がはいる、さっそく利夫さんと下町まで行く。走行距離やメカニックの方も問題ない、試乗もしてみたが素人目には分かろうはずもなく、これで良し。さて契約ということになって、マルコが業者に連絡、なんか難
しそうな顔している。さてはなにか問題が、私が外国人ゆえ日本大使館へ行って戸籍謄本を伊訳してもらい私本人である証明が必要とのこと。さもありなんと思い、住民表から謄本、すべての書類は用意してある。なにがあるかわからないのが外国生活、パスポートさえあればとにかく日本までは帰れるのだけれど。それさえ取られるかもしれない。住民表謄本、写真は是非必要だ。
というわけでローマの日本大使館へ行く、テロを警戒しているのだろうけれど、大使館は物々しい警戒で緊張する。受付で用件を言ったのだけれどうまく伝わらない、なんとか日本語の通じる人と連絡がとれ、一つの関門を通過。ガシャと大きな大きな音をたてて鍵が開く、中に入って又扉があったが今度は簡単に通過、中に優しそうな日本語を話すおじさんがいて一安心、用件を話すと明日できるから来いと言う。田舎から出てきているのでなんとか今日中にと押し問答。やっとのことでそれならば、今日の夕方と言うことになった。
言われた書類も提出しこれで準備万端、あとは車を待つだけとなったが、なかなか連絡がこない、業を煮やしてこちらから電話すると、やっぱり色々な理由で車は買えないらしい。なんとと言うことか、それなら最初からそう言えよな、とみんなで怒ったのだったがだめなものはしかたない諦めるしかない。マリアが心配して「なんとかなる、それがイタリアだ」となぐさめてくれた。
ローマの洋子姉さんが新しい車を買った。日産のマーチ、信じがたい色々な事があって納期が随分と遅くなったのだが。そのためにいままで乗っていた、フィアットのウノがマリアにまわってきて、マリアの乗っていたチンクエチェントが私にまわってきた。やったァ、時々この車を運転していたし、こんな車に乗りたいなと思っていたので大喜び。ただこの車一度火を吹いたことのある、すぐれもの。雨がふれば傘が必要かもしれぬ、底抜けけれどとにかく下町までは行ける、やっほー。
9 初めての国外旅行の巻 4
オーストリアの古都ザルツブルグに行きたいと思ったのは、モーツアルトの生地であるということが大きな理由だ。最近は聴く音楽もだんだんバッハからグレゴリオチャント、どちらかといえば、絵画と同様にプリミティブな自然な音楽が、一番楽に聴けて今の私には快いのだが。天才モーツアルトの流れるような旋律は、例外でオーストリアに行くなら是非、彼の生地を見てみたいと思った。
ホテルからとことこ小さな商店街を下って行く、こう言った商店のウィンドディスプレイは、はるかにラテン系の民族の方がうまい、ゲルマン民族は質実剛健で味気ない。ザルツブルグ城でコンサートがあると言うので、軽い食事をとってお城に向かう。ザルツブルグのどこからでも見えるこの中世の城は、小高い丘の上にあってケーブルで登る。
このお城からの眺めは、たぶんモーツアルトもながめただろう。ザルツァッハ川を挟んで広がる旧市街の街並を眺め、コンサート会場である「領主の間」に向かう。九百年以上経っているこのお城の中は、狭い階段が迷路のように続き、ドラキュラの館もさもありなんと思われた。広間はかなり広く、厚い板敷きで歩けばギシギシと床鳴りがした。舞台の背後は小さな窓があり、開け放たれた窓から、早い夏の今日最後の光が、舞台上の譜面台を浮かび上がらせていた。この広間自身が一つの楽器でどんな最新のコンサートホールを持って来てもたちうち出来ないだろう。夕闇迫るこの古城で聴いたモーツアルトはこの旅の収穫の一つだ。
オーストリアの首都ウィーンで是非見たかったのは、十九世紀末の美術集団分離派のクリムトやシーレはもちろんだけれど、絵画ではなく異端の画家兼建築家のフンデルト・ワッサーの家である。バルセロナのガウディーほど有名ではないけれど、植物を連想する有機的な形は共通点がある。しかし彼の場合かなりアバンギャルドで初めて見るとギョッとする。探すのに苦労したが、ちょうど開催していた彫刻家のマリノ・マリーニのデッサン展もみることができ、旅の疲れも出てきたところだったので一日目は早々にホテルに帰る 次の日は街の探索に出る。ホテルから地下鉄に乗って旧市街地へ。このところ旅もだいぶ慣れてホテルさえ決めてしまえば、後は街の地図と交通マップさえあれば何処でもいける。先ず異様なタマネギ頭のような分離派展示館へ、クリムトの壁画が少々、がっかり。旧市街はさすがにハプスブルグ家、いままで訪れたどの街よりも豪華で絢爛だ。博物館や大学、王宮、劇場、オペラ座にゴシックの大寺院、有名な高級ブティックやカフェ、大道芸人たちが楽しげな音楽を奏で、道行く人々もどこか優雅で暇人風。山の手線の内側ぐらいの地域にこれだけのものが凝縮すれば、文化は爛熟しやがて頽廃的な耽美主義が台頭してくるのは必然だろう。そんな独特な雰囲気のあるウィーンの街を後に、歩き疲れた二人はローマ行きの夜行列車に飛び乗ったのだった。
6 初めての国外旅行の巻 1(七月)
だいたい三ヵ月に一度、国外旅行にでることにした。国外と言っても前にも書いたように、ヨーロッパの場合簡単に行ける、海をはさんだ海外のイメージとはだいぶ違う気がする。最初に選んだのは、フランスまで飛行機で飛んでその後、国際列車に乗り換えてドイツの黒い森をみながらロマンチック街道をバス使って南下、ローテンブルクからミュンヘン、そしてモーツアルトの生地ザルツブルクを経て憧れの音楽の都ウィーンへ、そして夜行列車でローマへと帰って来る。と簡単に書いたが、これが約十日の日程だからかなりの強行軍といえる。自分たちですべての事を決めて行くことは、楽しい事ではあるが言葉の問題も含めて大変なことだった。
まずパリまでの飛行機をどうするか。ローマの町を歩くと多くの旅行会社があることに気づく。私たちの場合チケットは片道でいい訳で、そういった条件で格安のチケットを探す。安いにはそれなりのリスクがあるわけで、ただ安いだけで選ぶのは間違っている。たとえば週に二回しか便がない場合、もし欠航した時すべての計画がだめになる可能性がある。又極端に朝が早かったり夜遅い場合、ホテルを別にとる必要が出てきて、かえって高くなることもある。色々考えてクウェート航空のチケットを購入、日本で少し高い食事した程度の出費で済んだ。
鉄道のチケットはどうするか、外国で鉄道の切符を買うのはとても大変だと分かっていたので、ユーロパスを買うことにした。短期間に多くの国を回る場合、それぞれの国で切符を買うのはロスが大きい。その点このユーロパスは一度で済むので都合が良い。しかも各国の列車の一等に乗れる。少し高いがリッチな気分で鉄道の旅をするのも悪くない。
何回かローマの駅の窓口に行ってみたが、これがまたわからない。長い行列の後ろに着いて順番を待つ、やっと自分の番が来て、おじさんにパスのことを伝えようとすると、今日はストで明日来いと言う。何ということだ。マンマミーア。何事も気長にやることだ。次の日、ローマに住む利夫さんの姉さんに、ご足労願ってなんとかユーロパスを手に入れる。洋子姉さんもパリへ行くそうだ。パリで逢う約束をして、ローマでうまいケーキとカフェを御馳走になる。何となくカッコいい話になってきた。これでパリまでは行けそうだ。ところで、一時バブルの頃、老後は海外でというのが流行って、多くの人がハワイとかに移住し、最近になって夢破れて帰国する人がいると聞くが、利夫さんのご両親はその十年も前にイタリアに移住し、もうすっかりイタリアの社会に溶け込んで悠々自適の生活を愉しんでいた。最近は年に一度は日本に帰国しているようだが、一週間もいるとローマに帰りたくなるそうだ。夢みたいな話だが本当のことで、日本のいいところも、悪いところも外にでて初めて気づくものだと改めて思った。
そんな訳で、期待に胸ふくらませて、ローマ・ダビンチ空港を旅立ったのだった。
5 マリアの出産の巻 (6月)
言い忘れたのだが マリアは妊娠八ケ月だった。それを聞いたのが、孝志さんと空港で初めて逢って、高速でカーサ キムラに行く途中のドライブインでコーヒーを飲んでいる時だった。たまげた、臨月の妊婦の居る家庭に、我々のような外国人が、のこのこ出かけてホームステイして大丈夫なのだろうか。孝志さんは日本人だからなんとか意思の疎通はできるけれど、マリアは片言の日本語だと言うし、肝心の利夫さんは、添乗員の仕事上、出かけると一週間は家をあけると言うし、まだ三才のタロー君もいる。こりゃ困った。しかしもう引き返す訳にはいかない。今から考えると、子供のいない我々夫婦にとって、この赤ちゃんの誕生は、自分たちのことの様に嬉しかったのだが、その時は只々驚いた。
マリアは働き者で、我々の心配をもろともせず、自分で車を運転して、どんどん用事を済ませていった。入院する前日まで働いていた、これには頭が下がる。イタリアン魂かもしれない。マリアの実家のあるサルデニアからお姉さんのカテリーナと姪のエレナが手伝いにきた。
イタリア人は日本人以上に身内を大切にする。なにかあったらすぐに親族郎党集合する。だれかの誕生日、だれそれの結婚何周年、それにクリスマスや学校行事、又色々な国の友達が始終、休みの度に遊びにやって来る。この色々な国の友達という感覚は、なかなか日本人には理解できない。特にヨーロッパは国と国がつながっているため、例えば旅に出ても国境を越えたと言う感覚なしに済んでしまうことがよくある。特に最近は、通貨統合とか、経済的にヨーロッパは一つのあらわれか、パスポートさえ見ないことが多い。と言う訳でキムラ家には、いろんな国の友達が来てパーティになる。英語、ドイツ語にイタリア語に日本語まぁその賑やかなこと。お喋りが美徳の国だけある。
所変われば品変わると言う諺があるが、東洋と西洋では考え方が、全く逆の場合が結構有る。例えば、このお喋りにしても、西洋では、基本的に自分と他人とは違うと言うことから始まっている。だからとにかく人とは話をする、対話する事からすべてが始まる。だから話をしないのはバカか何か良からぬことを考えている輩ととられる。反対に日本などの場合、「あうん」の呼吸などと言って、喋らない方が美徳であったりする。最近日本が国際化していろんな所で問題を起こしているのも、この自分の事を多くは語らないと言う習慣が災いしているように思う。自分のこと自国のことを人に伝える教育がこれから是非必要だと考えられるが、今の日本の教育は反対のことばかりしている、受験、受験で知識ばかりの人間が増えて、本当に必要な人間としての教育をしていないように思うのは私だけだろうか。
みんな集まって、わいわいやっているうちに、利夫さんとマリアの待望の女の子、ハナコちゃんが誕生したのだった。おめでとう。
2 美人は三日で飽きるの巻
時差ぼけと、極度の緊張で、よく眠られず、早朝に目が覚めた。薄ぼんやり、明けていく空の下、初めて見るカピトーネ村の風景は一生忘れる事はない。薄黄緑の牧草と、オリーブの苔むした緑と、ブドウ畑がなだらかに続く丘の起伏の上に、美しい階調をつくって続いている。
点在する白い塊は、よく見ると羊たちの群れで、ゆっくりと移動している。レンガ色の瓦屋根と、白い壁、糸杉とポプラ、すべてそこにあるのが自然でうまくレイアウトされている。風景がこれほど美しいものだったのかと、しばし呆然と眺めていた。 イタリアに暮らしてみて思うことは、彼らはなにが美しいのか、もっといえば、なにが人生にとって大切なのかを、どんな田舎のおじさんでも、心得ていると言うことだ。昔の日本にはあったのだけれど、悲しいかな現代の日本には無くなってしまったものが、イタリアの田舎にはある。
カーサ キムラは、広大な土地に、フドウやオリーブを植え、野菜なども自給自足する田舎暮らし、ただやっぱりどこかお洒落だ。
お洒落といえば、イタリア人はとことんお洒落だ。ローマなどのバールのボーイさんなどをみればよくわかるが、とにかくカッコいい、彼らの伊達男ぶりには頭が下がる。内容もさることながら、見栄え、外見のカッコよさに命賭けているようなところがある。
いい意味の見栄っ張り、言葉をかえれば、ダンディズムこれが生きているように思う。本音と建前とよく言うが、現代の日本では、本音ばかりが大切にされて大義名分がおろそかにさされているように思う。「武士は食わねどたか楊枝」これって立派なダンディズムだと思うがいかがなものか。
私たちの住んでいた村から、車で十分ぐらいの所に、ナルニという少し大きな古い町があり、イタリアのほとんどの町がそうであるように、小高い丘の上に、城壁をめぐらし、その中に石作りの建物や噴水、石畳を作り、未だ中世そのものの雰囲気を醸しだしている。
毎年五月にそこで、日本で言う、時代祭りがあり、初めて見るその光景には、鳥肌がたつほど興奮した。舞台設定は充分でこれほど効果的な大道具はないだろう。照明の当て方や衣装デザインのセンスは、こんな田舎町のお祭りでさえ、脱帽する。
そのなかの古いフランチェスコ派の教会で聴いたグレゴリオ聖歌のアカペラはかけひきなしに、素晴らしいものだった。半年後にこの町で、個展ができるなどとは、夢にも思っていなかった。
なんだかんだと、一ヵ月近くなにもしないでこの村にいた。美人は三日で飽きる、の例えどうり、ハネムーンはそう長くは続かない。最初に音を上げたのは、かみさんの方で、確かに、風景は美しい、空気はうまい、けれど、日々の生活は、退屈で、やっぱり日本に居るときと同じように、掃除や洗濯、食事の準備があるわけで、夢のようなことばかりではない。なんとかして車を、手に入れる必要がある。動く自由を確保しなければ、このまま一年終わってしまう、欲の出てきた二人だった。
1 旅立ちの巻 (4月)
と言う訳で、夫婦揃って約一年間、イタリアの小さな田舎町(カピトーネ村)に滞在す る事になった。うそからでた誠、瓢箪からこま、藪からぼう、きっかけは単に「行けたらいいね」ぐらいの夢だった。それがいつのまにか「行きたいね」となり「行くのだ」となった。考えてみれば、私の人生は、いつも「だといいね」から始まる。絵描きになったのもイタリアで個展ができたのも、この虫のいい夢から始まる。
さて西まわりに回るならばどの都市に滞在しても一年間ならば有効という、誠に都合のいい航空チケットを手に入れて、成田空港を、大いなる期待と不安を抱えて旅立ったのだった。ヨーロッパは、二十年も前の学生時代に一度、貧乏旅行したとはいえ、西も東も分からないのは当然として、今度は女房づれだし、昔のように、若くもない。ましてローマはどんな観光案内を読んでも、要注意の悪名高き都市である。鬼が出るか蛇が出るか、でたとこ勝負の流れ旅、でこぼこコンビの夫婦旅が始まったのだった。
アムステルダムに着いたのは、お昼すぎ、そこで延々とローマ行きの飛行機を待つ。格安チケットには、この待つと言うことが必要不可欠だ。振り返って考えてみると、この旅で得た教訓の一つかもしれない。ローマに着いたのは、夜中の十一時頃、さてさてお迎えが来ているだろうか、ここが人生の分かれ道、待つこと十分、これが一時間にも2時間にも感じられましたが、無事利夫さんとめぐり逢ったのだった。
利夫さんは、ヨーロッパに来て、二十年近く、今ではイタリア人の嫁さんマリアと愛児タロー君の良きパパで、添乗員を生業にしている。しかしこの時点では、逢ったこともなければ、喋ったこともない、どんな人物か、知る由もない。一種の賭で、この旅のいいも悪いも、あなたしだい、私にはこう言った開き直りがあって、今のところ、これが功を奏している。
カピトーネ村はローマから東北方向へ百Kmほどの地図にも載らないような、小さな村で、地理的にいえば、ローマとアッシジの中間点になる。ローマのダビンチ空港を出発して高速道路をぶっ飛ばしてカピトーネ村に着いたのは、真夜中の1時をとうに過ぎていただんだんと明かりが少なくなり、寂しくなって行き、その村に着いた頃には、明かりなど全くなかった。辺りは真っ暗、はるかかなたに、星のように瞬く明かりがあるだけ、利夫さんは色々説明してくれるのだが、なんせ周りが真っ暗なので、なにも分からない、ぽつんと燈った明かりの下に行けば、カーサ、キムラがそこにあった。
私たちの部屋は、全く独立した家で、広い庭の片隅に建っている。家の中はベットと机と洋服ダンス、それとバスルームのみの可愛い家です。全く知らなかったのですが、この家は、私たちが使うのが初めてで、新築だった。これはついてるこの旅は、旨くいくという予感がしたのだった。
Author:あそびべのはる
画家・榎並和春です。HPはあそびべのHARU・ここだけの美術館